第二章 パブ・常若の国亭 其の一、

 第二章 パブ・常若ティル・ナ・ノーグ


 其の一、


『霊媒の水晶宮』は闇に沈んでいたが、『噴水広場』はガス灯に照らされ、青々とした輝きにぼんやりと浮かび上がっていた。


 噴水の真ん前に置かれたベンチに楽しそうな顔をして腰掛けているのは、他の誰でもない、ホープだ。


「Ms.ライト、口だけじゃないな」


 ホープは噴水に映し出された光景を見て、感心したように独りごちた。


『クラブ』のメンバー、ケイトが『心霊写真銃』に撃たれ、まるで煙のように消えた事には何の感慨もないようである。


 ——〈第二の目を持つ者〉と〈邪視を持つ者〉、か。


 ホープはライトが言っていた、聞き慣れない言葉を思い出した。


〈第二の目を持つ者〉と〈邪視を持つ者〉についてよく知る為にも、彼女の事をもっと知る必要がある。


「〈水晶球の幽霊〉、No.……」


 ホープが一言発したのが合図だったように、噴水の映像は、ライトと『子ども部屋のボギー』だけとなった幻灯館の地下室から、どこかのパブらしき賑やかな場所に切り替わった。


「こんばんは、Mr.メリック」


 ホープは幻灯館の〈水晶球の幽霊〉とは別の幽霊を通して、歳の頃なら三十代半ばぐらいだろうか、パブの主人と思しき男性に話しかけた。


 ——スクライアー会長? ちょっとお待ちを。


『メリック』と呼ばれた男は誰かに見られてはまずいと、店内の片隅に移動した。


「早速だが、君にいい知らせがある。正規メンバー昇格についての話だ」


 ——はいはい!


 メリックはいよいよ来たかという嬉しそうな顔になる。


「今回はパブの地下で格闘試合を開いてもらいたい訳じゃなく、『クラブ』の誘いを断った見世物小屋の興行師を捕まえてもらいたいんだ。連中はベーカー街で『Ms.ライトの幻灯館』という見世物小屋をやっていて、言うまでもなく霊能力を活かした見世物もある。幻灯館の館長は、ライトという女だが、荒事は得意だ。だから君に白羽の矢が立った」


 ——うちも荒事専門みたいなところがありますからねえ!


 フレデリック・メリック——表向きはパブを経営しているが、地下では秘密の賭博場を開いている、『クラブ』の準メンバーである。


「彼女の周りにも煙草の煙で相手を金縛りにさせる女や〈獣憑き〉らしき者がいる。いくら君でも油断すればただじゃ済まないだろう。手段は問わない、殴り込みに行ってもいいから捕まえてくれ」


 ——要はお灸を据えて、とっ捕まえればいいんですな。お任せて下さい!


 メリックは〈獣憑き〉の力を持つ霊媒を集め『霊媒格闘技ミディアム・ファイト』を主催しており、彼自身、霊媒格闘家ミディアム・ファイターだった。


「期待しているよ。あれを捕まえてくれたら君は晴れて正規メンバーとして認められるからね」


 ——はい! 『妖精フェアリー・レヴェル』が終わったらすぐにやらせてもらいます!


 メリックは客商売をやっている者らしく気持ちよく返事をしたが、彼の目は悪魔のそれのように黒ずんでいた。


 ウィリアムは『簡易宿泊所』に寝泊まりし朝からベッドに仰向けになり、薄汚れた地下の〈鬼火〉が漂う天井を見て考え事をしていた。


 ——霊媒としてどう生きていくべきか?


 ライトの特別ショーを観てからというもの、今まで以上に自分の将来に悩んでいた。


 メアリーの交霊会の助手はいい稼ぎだったがいつまで続けていていいものか。


 今は他人の道端に落ちた食べ残しを拾って飢えを凌ぐ必要はないし、『簡易宿泊所』には未だにお世話になっているが、『浮浪者臨時収容所』を探し求めて歩き回ったり、公園で寝て過ごす必要はなかった。


 だが、将来に対する漠然とした不安は消えず……


 ——それに、Ms.ライトのあの話は……〈第二の目を持つ者〉と〈邪視を持つ者〉の話は、本当の事なんだろうか?


 Ms.ライトの特別ショーをインチキ霊媒の詐欺だと思う反面、あれは本当の事だったのではないかという思いも拭えない。


 とは言え、その辺に漂う〈鬼火〉が見える程度の霊能力しか持っていないウィリアムには、〈第二の目を持つ者〉と〈邪視を持つ者〉などと言われても、真偽を確かめる術はなかった。


 わざわざもう一度、幻灯館に行く気もない。


 ウィリアムはこれ以上、考えても仕方ない、気分転換しようと、『簡易宿泊所』を出て喫茶店に行く事にした。


 ロンドンはいつものように人々でごった返していた。


 これだけ人がいると、たまたま立ち寄った幻灯館にライトがいたように、本物の霊媒は、意外と身近にいるのかも知れないと感じる。


「ウィル! ウィルじゃないか!?」


 元気な声で話しかけてきたのは、女性に好かれそうな甘い顔に、立派な体格をした青年だった。


「ジョージ? 久しぶりだね」


 ウィリアムは思いもしなかった再会に面食らった。


 甘い顔の男は、ジョージ・スティーブンソン——以前、『浮浪者臨時収容所』で知り合った同じ霊媒である、収容所仲間だ。


 最近は彼の姿を見ていなかったし、収容所を利用しなくなった今となっては、尚更だった。


「ウィルは今、何をしているんだ? まだ職は見つからないのか?」


 ジョージは懐かしそうに言った。


「そういうジョージは何をしているんだよ」


 ウィリアムはしばらく前からジョージが収容所に姿を見せなくなった事情を聞いた。


「俺は今、『霊媒格闘技』をやっているよ。知っているか?」


 ジョージは鍛え抜かれた太い腕を見せつけるようにして、ウィリアムに言った。


『霊媒格闘技』——聞いた事もなかった。


「聞いた事はないけど……もしかして、〈獣憑き〉になってやり合っているのか?」


 ウィリアムはライトが言っていた本当か嘘か判らない霊媒の知識を思い出して、胡散臭そうに聞いた。


「お前それ、どこで知ったんだ?」


 ジョージは不思議そうな顔をした。


「何をだ?」


「〈獣憑き〉の事だよ。お前、『霊媒格闘技』の事は知らないくせに、〈獣憑き〉にはなれるのか?」

「いや、ただちょっと聞いた事があるだけで……って言うか、本当にそんな事ができるのか?」


「うーん、店に行って話さないか? 一杯ぐらい奢ってやるよ」


 ジョージは腰を落ち着けて話したいと思ったらしく、ウィリアムを近くの店に誘った。


「いいけど、自分の分ぐらい出せるよ。最近は俺も稼ぎがあるんだ」


 ウィリアムがジョージに連れていかれたのは、何の変哲もない一軒のパブ——『常若ティル国亭・ナ・ノーグ』だった。


『常若の国亭』の入り口は二ヶ所、一方の扉には『プライベート・バー』、もう一方の扉には『パブリック・バー』と記されていた。


 ウィリアム達が扉を押し開いて入って行ったのは、『パブリック・バー』の方である。


 同じ建物にありながら『プライベート・バー』と『パブリック・バー』は、それぞれ客層も内装も違う。


『プライベート・バー』は労働者階級より上の階級が利用するバーで、『パブリック・バー』より調度品も高級なら同じ品を注文しても高くついた。


『プライベート・バー』の床には柔らかな絨毯が敷かれ、上物のテーブルと椅子だけでなく、ソファも置かれ、『パプリック・バー』とは壁で仕切られているから、お客が交わる事もない。


 ウィリアム達が入って行った『パブリック・バー』は彼ら労働者が利用するバーであり、店の中には昼間から飲んだくれているお客がいた。


 基本的には立ち飲みだがじっくり飲みたいお客や軽く食事をするお客の為に、『プライベート・バー』とは比べるべくもないが、粗末なテーブルと椅子が用意されていた。


 板敷きの床におが屑が敷かれているのは、ジョッキから溢れた水分を吸い取らせ、箒で掃き掃除をする為である。


「この店の地下じゃ夜な夜な〈獣憑き〉が集まって、〝霊媒いじめ〟に参加しているんだ」


 ジョージは店員と顔馴染みらしく視線だけで挨拶を交わし、店内の一番奥、カウンターの横に酒樽が置かれ、周囲から死角となっている場所に歩いていく。


 酒樽の陰に隠れていたのは地下に続く階段で、ジョージは当たり前のように下りていった。


「〝動物いじめ〟みたいなものか?」


 ウィリアムは薄暗い階段を下りながら、ジョージの背中に訊ねた。

〝動物いじめ〟——いわゆる、『血生臭ブラッドいスポーツ』である。


「観れば判る」


 ジョージが言った通りだった。


 薄暗い階段を下りて狭い通路を行くと、パブの地下で何が行われているのか、一目見ただけで判った。


「これは……」


 ウィリアムの目に飛び込んできたのは石造りのすり鉢状の闘技場で、身長優に二メートル近い真っ黒な毛並みをした狼男を思わせる化け物が、足元を駆け回る何十匹という鼠を千切っては投げ千切っては投げ、血みどろの殺戮を繰り広げていた。


「ここじゃ〝動物いじめ〟ならぬ〝霊媒いじめ〟をしているんだ」


 ジョージは観客席から闘技場を見やり、自慢げに言った。


〝霊媒いじめ〟は霊媒格闘家が〈獣憑き〉となり、一匹、或いは複数の動物を相手にし、倒すのに何分かかるのか賭けるのだという。


 霊媒格闘家の人間離れした派手な戦いが人気だったが、お客を満足させる為には相手を倒すのにかかる時間は短すぎてもいけないし長すぎてもいけなかった。


「昼間はこんな風に、鼠相手に鍛錬しているんだ。公開練習だから無料で見学できる。今、闘技場に立っているのは、〝怪力のオグマ〟だ。観客席じゃなく、闘技場で見学しているのは、全員、霊媒格闘家さ」


 ウィリアムはジョージの説明を聞いている間も、〈獣憑き〉となった〝怪力のオグマ〟が鼠の群れと戦っているのを興味深そうに見ていた。


 いくら鼠とは言え獣である事に変わりはないし、何より数が多く、〝怪力のオグマ〟が何匹返り討ちにしようが、次々と襲いかかってくる。


 ウィリアムは初めて見る〝霊媒いじめ〟の一進一退の攻防に、興奮を覚えていた。


「よう、〝赤肌のコンラ〟! お隣に連れているのは、どなたかな!?」


 ウィリアム達に声をかけてきたのは、歳の頃なら三十代ぐらいの明るい調子の男だった。


「メリックさん、こいつは俺の知り合いで、ウィリアムって言います。ウィリアム、こちらは店長の、フレデリック・メリックさん」


「……!?」


 ウィリアムはメリックの顔を見て、我が目を疑った。


 なぜなら、メリックの眼球は真っ黒に染まっていたからである。


(——貴方が〈邪視を持つ者〉にならない事を祈っていますわ)


 ウィリアムの脳裏に甦ったのは、先日訪れた、幻灯館の主人、Ms.ライトの言葉だった。


「うん? どうした、ウィル?」


 ジョージは怪訝そうな顔をした。


「……あの人、目が……」


 ウィリアムはジョージにだけ聞こえる小さな声で言った。


「ここにいる霊媒は練習を重ねるにつれて、みんな眼球がああなっていくんだ。メリックさんに言わせると、あれは霊媒格闘家として上達している証拠らしい」


 ジョージは特に気にする風もなく、黒ずんだ目について説明した。


「本当なのかよ、その話」


「嘘を吐いてどうするんだよ。現に下っ端の俺以外は、みんなああいう目だよ。最初は見慣れないかも知れないが、そのうち慣れるさ」


「〝赤肌のコンラ〟っていうのは?」


 ウィリアムは気を取り直すように質問した。


「〝赤肌のコンラ〟は俺のリング・ネームだよ——メリックさん、こいつは今日からうちに登録する事になった期待の若手選手ですよ」


 ジョージは突然、勝手な事を言い出した。


「なんだって? どういう事だ?」


 ウィリアムは当然の如く慌てた。


「今、言った通りさ。何か稼ぎがあるみたいな事を言っているが、どうせ暇なんだろう?」


「本当に俺は、今はちゃんと働いて——」


「そうかそうか、そいつは嬉しいなあ! うちはまだまだ選手が足りなくてね、お前さんみたいな若いのが登録してくれれば選手層も厚くなるってもんだ!」


 ジョージもメリックも、ウィリアムの話を聞く気がなかった。


「でも、俺には格闘技の経験だってないですし……」


「霊媒格闘技って言っても、みんながみんな、格闘技の経験がある訳じゃない。素人のウィルだって、動物霊に身を任せれば、今すぐにでも戦えるよ。初心者には打ってつけの鼠相手の〝霊媒いじめ〟だってあるんだし、最初っから虎や熊を相手にしろなんて無茶な事は言われないから安心しろよ」


 ジョージは簡単に言った。


「虎や熊までいるのか……」


 ウィリアムは一層、不安を覚えた。


「ウィリアムって言ったか」


 メリックは改まった調子で言った。


「は、はい」


 ウィリアムは畏まった。


「お前さんも霊媒なんだろう、せっかく他の奴にはない才能を持っているんだから、試合に出ないのは損っていうもんだよ。ここで戦って勝てば、まとまった金が手に入るし、有名になれる可能性もある。この世の中、金と名声さえあれば、何だって手に入るんだからな!」


 メリックはご機嫌な様子でウィリアムに参加を勧めた。


「この店はその筋じゃ有名どころだ。目玉は年に三回、四ヶ月に一回開かれる、霊媒同士が戦う『妖精の宴』——この店が普段から盛り上がれば、『妖精の宴』のチャンピオンの名前は、ロンドン中に知れ渡る事になる。ウィルも俺と一緒に、参加してみないか?」


 ジョージは野心に満ちていた。


「……判ったよ」


 ウィリアムは少し考えてから、観念したように言った。


 ——いつまでもインチキ交霊会を手伝っているよりは、霊能力の使い方を覚えた方がいいだろう。


「いい心意気だ!」


 ジョージは満足そうに言った。


「おい、誰か新入りの相手をしてやってくれ!」


 メリックは、早速、ウィリアムに稽古をつけるつもりらしかった。


「も、もうですか?」


 ウィリアムはたじろいた。


「早いところ〈獣憑き〉になる方法を覚えてもらわなきゃ話にならないからな。一人で練習したり質問なんかするより、実際にやった方が早いもんだ」


「店長、稽古なら俺がつけてやるよ!」


 威勢よく名乗りを上げたのは、ついさっきまで鼠と戦いを繰り広げていた、〝怪力のオグマ〟だった。


「任せたぞ、オグマ」


「来いよ、新入り!」


〝怪力のオグマ〟は、メリックから練習相手になるのを許可されると、ウィリアムを挑発した。


「…………」


 ウィリアムは不安げにジョージの顔を見たが、ジョージが満面に笑みを浮かべていたので、何か諦めたように、闘技場の入場口に向かう。


「ほらよ、新入り、そいつを握り潰すなり踏み潰すなりして殺せ。その後、〈残留思念〉を憑依させて、自分が殺した鼠の恨み辛み憎しみに身を任せろ」


〝怪力のオグマ〟は、生き残っていた鼠を一匹、ウィリアムに投げて寄越した。


「ウィル、落ち着いてやれば大丈夫だぞ、ただの練習試合なんだからな!」


 ジョージはウィリアムの緊張を解そうと励ますように言った。


「…………」


 ウィリアムは軽く深呼吸した後、鼠を握り潰し、精神を集中した。


 すると、たった今、命を奪った鼠の怨念が憑依したのか、胸中に強い殺意が芽生えてきた。


 ——殺してやる!


 誰を?


 ——誰でもいい、皆殺しだ!


 あいつら、あれで人間として生きているつもりなら、全員、試しに殺してやる。


 ——殺して死ぬかどうか確かめてやる!


 どうせ、死ぬ事でしか生きている事を証明できないような連中だ。


 ——殺して、食べてしまえ!


 逃げるのなら、捕まえて食い殺してやろう。


 ——ほら、ちょうどいい獲物が目の前にいるじゃないか!


「殺してやる!」


 ウィリアムは一瞬にして眼球が真っ黒に染まり、伝承にある『黒妖犬』を思わせる、漆黒の毛並みに覆われた獣人の姿に変わり果てた。


 ウィリアムは〈獣憑き〉になり、〝怪力のオグマ〟に飛びかかった。


「ウィル、その意気だ!」


 ジョージはウィリアムが〈獣憑き〉となった姿を見て、大喜びした。


「オグマ、油断するなよ!」


 メリックは〝怪力のオグマ〟に注意を促した。


「ストリート・ファイトの経験もない小僧が!」


〝怪力のオグマ〟はウィリアムを軽くいなすと、巨体を活かしてタックルを仕掛けた。


「!?」


 ウィリアムはタックルをまともに受けて、体格が一回り小さく、体重差も如何ともし難く、思いっきり後方に吹き飛んだ。


「あいつ使えると思いますか?」


 ジョージはメリックに訊ねた。


「まだ何とも言えないな。これから毎日、うちに来てどうなるかだな」


 メリックは今のところ〝怪力のオグマ〟に弄ばれていいところがないウィリアムを、値踏みするように見て言った。


「そこまで! ——なかなかいい筋をしているじゃないか。どうだ、今日から鼠相手の〝霊媒いじめ〟をやってみるか?」


 メリックは頃合いを見て試合を止めると、ウィリアムに経験を積ませる為に、鼠相手の〝霊媒いじめ〟を勧めた。


 ウィリアムはその晩から『常若の国亭』のウェイターとして働き、〝霊媒いじめ〟に参加する事にした。


 それからしばらく経ったある日の夕方、


「どうだ、ウィル。少しは慣れたか?」


 ウィリアムが『常若の国亭』に向かって歩いていると、ジョージが話しかけてきた。


「お陰様で、何とか頑張っているよ」


 ウィリアムは笑顔で言った。


 いつになったら霊媒格闘家として一人前になれるのか判らなかったが、メアリーのところでインチキ交霊会を手伝い、小銭稼ぎをしているよりはいいと思っていた。


「これからは〝霊媒いじめ〟一本でやって、早いところお客さんが呼べる霊媒格闘家になりたいよ」

 ウィリアムはすでにメアリーには今までお世話になったお礼と、別の就職口が決まった事を伝えていた。


「なあ、ウィル。昔、本当にどうにもならない時、一緒に救貧院に入った時の事を覚えているか?」


 ジョージはふと、改まった顔をして言った。


「ああ、覚えているとも。最悪だったからな」


 ウィリアムは思い出すのも嫌だというような顔である。


 救貧院は何らかの理由で自立した生活が営めない者を収容する施設で、失業者、浮浪者、老若男女、様々な人間が入所していた。


「俺から誘っておいてなんだが、『常若の国亭』も下っ端のうちは生活は楽じゃない。でも、辛い時、苦しい時、俺は救貧院にいた時の事を思い出すんだよ」


 ウィリアムはジョージの話を聞き、こくりと頷いた。


「自立できない人間を収容し、仕事と報酬を与えていると言えば聞こえはいいが、最初っから救貧院に入りたがる奴なんかいやしない」


 ジョージの言う通り、夫婦や親子は引き離され、幼い子どもも、すぐに離乳させられるようなところである。


 他にも、規則に従わない者、罵詈雑言を口にする者、汚い格好をしている者、働かない者には、厳しい罰則が設けられていた。


 一番、軽い罰でも、二日間、拘束衣を着る事だったから、いくら生活に困窮していたとしても、自分から入りたがるような人間はあまりいなかった。


「みんな路上で浮浪者として生活する方がまだましだと思っているが、結局、止むに止まれぬ事情やら何やらで犯罪を犯したりして送り込まれる事になる」


 ウィリアムは黙って、ジョージの話を聞いていた。


「入所したら素っ裸にされて煙で燻され、全員一緒に風呂の中で殺菌消毒だ。その後は、風呂と髭剃りは週一回だけ、飯を食べている時は口をきいちゃいけないし、面会者からの差し入れはもちろん、お金も受け取っちゃいけない。外出なんか許される訳もない」


 救貧院の収容者に課される仕事は囚人のそれと変わらず、まいはだ紡ぎや砕石作業を行い、高齢者の場合は薪割りや掃除をした。


「おまけに、男も女も同じ髪型に、同じ制服。隠れて食料を溜め込む奴がいるからと、個人のロッカーも用意してもらえない」


 食事はいつも同じ献立で、チーズを乗せたパンと、薄いオートミールに、僅かばかりの肉がつくだけ。


 後は週三回、プディングかじゃが芋が追加されるぐらいだった。


「料理人の腕も最低なんもんだから、元々、大した事ない食事が、尚更、食べられたもんじゃなくなる。その上、監視員が食い物をくすねる事も珍しくない——そんな生活に戻りたいか?」


 ジョージは憎々しげに言った。


「莫迦言え、戻りたい訳があるか。誰があんなところに」


「俺もだよ。あんなクソみたいな施設には二度と戻りたくないね……娑婆には、幸せにしなきゃいけない人もいるしな」


 ジョージはぽつりと呟くように言った。


「おい、誰か結婚相手でもいるのか?」


 ウィリアムが驚いたように訊ねると、ジョージはふっと笑った。


「今日は三ヶ月に一度のバトルロイヤルの日だ。景気付けに観に行こうぜ!」


 ジョージは気恥ずかしそうに、話を逸らすように言った。


 ウィリアム達が『常若の国亭』に着き、秘密の階段から地下に下りると、ちょうど、メイン・イベントであるバトルロイヤル、『妖精の宴』が始まった。


『妖精の宴』は、年四回、三ヶ月に一回、霊媒格闘家同士が戦う大会である。


〝霊媒いじめ〟で、観客からどれぐらい人気を得たのか、三ヶ月ごとに評価され、上位八人が参加する、バトルロイヤルだった。


 一回目と二回目の優勝者同士が九ヶ月後の『妖精の宴』で対戦し、勝った方が十二ヶ月後の『妖精の宴』でチャンピオンと戦う事ができる。


「皆さん、お待ちかねー! 今宵、本年度第二回目の『妖精の宴』、バトルロイヤルを始めたいと思います!」


 すり鉢状の円形闘技場の真ん中に立った司会者が、試合が待ちきれない様子の観客を、更に煽った。


「それでは、各選手の入場です! 皆さん、盛大な拍手でお迎え下さい! 〝銀の腕のヌアザ〟! 〝長腕のルー〟! 〝魔眼のバロール〟! 〝不死身のゴブニュ〟! 〝怪力のオグマ〟! 〝誇りのミディール〟! 〝赤牛のドゥン・クールニャ〟! 〝白角のフィンヴェナフ〟!」


 司会者が選手の名前を大声で呼ぶ度にすでに〈獣憑き〉の姿となった選手が入場し、各々、己の肉体美を誇示したり派手で奇抜な動きをして観客を楽しませた。


 選手達の外見は、リング・ネームの由来になっただろう細部こそ異なっていたが、全員、燃えるように赤い目と漆黒の毛並みを持つ、狼男のような姿だった。


「オグマの奴、勝てると思うか?」


 ウィリアムは初めて戦った霊媒格闘家、〝怪力のオグマ〟が、他の選手達を相手にどこまでやれるのか気になった。


 他の選手達の中には、身長二メートル近い〝怪力のオグマ〟よりも頭一つ分、上背がある者、大柄な体格をした者が何人かいた。


「どうかな、ただこの中じゃ〝銀の腕のヌアザ〟と〝長腕のルー〟が優勝候補だと言われている」


「あの二人が?」


 ウィリアムは驚きを禁じ得なかった。


 と言うのも、〝銀の腕のヌアザ〟と〝長腕のルー〟は自分と同じとまでは言わないが、決して体格に恵まれている方ではなかったからである。


「これがただの人間同士の戦いなら体重差は重要だが、こと霊媒格闘家同士となるとな」


「俺はオグマに体重差で吹き飛ばされたけどな。本職の霊媒格闘家同士の戦いはどんなものなんだ?」


「観ていれば判るさ」


 まず、〝魔眼のバロール〟が血走った目付きで雄叫びを上げた。


 次に、『魔眼』とあだ名される殺気に満ちた視線か、それとも雄叫びのせいか、対戦相手達の動きが止まった瞬間を見逃さず、突進をかけた。


〝魔眼のバロール〟の体当たりを無防備なところに受けて、〝怪力のオグマ〟、〝誇りのミディール〟、〝不死身のゴブニュ〟が吹き飛んだ。


〝魔眼のバロール〟は更に突進したが、〝銀の腕のヌアザ〟と〝長腕のルー〟は素早く避け、〝赤牛のドゥン・クールニャ〟と〝白角のフィンヴェナフ〟は互いに協力して迎え撃った。


〝魔眼のバロール〟は〝赤牛のドゥン・クールニャ〟と〝白角のフィンヴェナフ〟に逆に突き飛ばされた。


 それが合図だったように、あちこちで戦いが始まった。


〝怪力のオグマ〟はよろよろと立ち上がった瞬間、いち早く立ち上がった〝誇りのミディール〟に背中から噛み付かれたが呻き声一つ上げず、〝誇りのミディール〟を簡単に引き剥がし力任せに投げ飛ばした。


 間髪入れず〝赤牛のドゥン・クールニャ〟と〝白角のフィンヴェナフ〟が襲いかかってきたが、その名の通りの怪力で赤子の手を捻るようにあしらう。


「つ、強い」


 ウィリアムは感嘆の声を漏らした。


「〝怪力のオグマ〟——リング・ネームは伊達じゃない、その名の通りの怪力だ」


「とんでもない莫迦力だな」


 ウィリアムは再び、試合の行く末に注目した。


〝怪力のオグマ〟は〝不死身のゴブニュ〟と力比べを始め、じりじりと追い詰めていた。


〝怪力のオグマ〟から視線を移すと、〝銀の腕のヌアザ〟と〝長腕のルー〟はいつの間にか相打ちして果てていた。


 かと思えば、彼らから少し離れたところで、〝魔眼のバロール〟が立ち上がり、なんとか立ち上がろうしていた〝誇りのミディール〟の首筋に噛み付く。


〝誇りのミディール〟の分厚い毛皮は、何度も同じ場所に噛み付かれた事で真っ赤な血が滲み、終いには、〝誇りのミディール〟は、呻き声を上げて倒れた。


〝魔眼のバロール〟は〝赤牛のドゥン・クールニャ〟にも噛み付こうとしたが、〝赤牛のドゥン・クールニャ〟は〝白角のフィンヴェナフ〟を盾にして正面から押し返した。


〝魔眼のバロール〟は躊躇いもせず〝白角のフィンヴェナフ〟の喉元に食らい付き、〝白角のフィンヴェナフ〟は血反吐を吐いて気絶した。


〝赤牛のドゥン・クールニャ〟は〝魔眼のバロール〟を、気絶した〝白角のフィンヴェナフ〟ごと闘技場の壁際に押し付けた。


 観客はますます、歓声を上げた。


〝赤牛のドゥン・クールニャ〟によって、〝魔眼のバロール〟も、〝白角のフィンヴェナフ〟も、窒息するぐらい壁に押し付けられ、ついに力尽きたのか、ぴくりとも動かなくなった。


「〝怪力のオグマ〟と、〝赤牛のドゥン・クールニャ〟が残った!」


 ウィリアムは興奮し、大きな声を出した。


〝怪力のオグマ〟は〝不死身のゴブニュ〟にのど輪を決めて、気絶させると、〝赤牛のドゥン・クールニャ〟と対峙した。


「〝赤牛のドゥン・クールニャ〟も腕っ節は強いが、〝怪力のオグマ〟ほどじゃない——決まりだな」


 ジョージが予想した通り、〝赤牛のドゥン・クールニャ〟は〝怪力のオグマ〟から拳を一発もらい、呆気なく崩れ落ちるように倒れた。


〝赤牛のドゥン・クールニャ〟は打ち所が悪かったのか、しばらく経っても立ち上がってこなかった。


「勝者、〝怪力のオグマ〟!」


 司会者が闘技場に立っている唯一の選手、〝怪力のオグマ〟の片腕を上げて、彼の勝利を宣言した。


 その途端、会場には、地鳴りのような歓声が響いた。


「これで〝怪力のオグマ〟は三ヶ月後、もう一度試合に勝てば、今年最後の『妖精の宴』で、〝クランの猛犬〟と戦う事になる」


「〝クランの猛犬〟? 強いのか、そいつは?」


「強いなんてもんじゃないさ。『妖精の宴』無敗のチャンピオン、〝クランの猛犬〟——メリックさんのリング・ネームだよ」


「まさか……あの人が」


「驚いたか」


「あ、ああ……それに、霊媒格闘家同士の試合ってえげつないんだな」


「おいおい、今更、怖気付いたのか」


「そりゃあそうだろう、この前まで素人だったんだから」


「あっはっは、さっきまでのやる気はどこに行ったんだよ。そんなんじゃいつまで経っても、お客さんを呼べる霊媒格闘家にはなれないぞ」


「ジョージは怖くないのか?」


「怖いさ、怖くない訳がない。試合は怖いし、下積み生活は辛いよ」


「じゃあ何だって、こんな危険な『霊媒格闘技』なんかを? 二度と救貧院には戻りたくないからか?」


「言っただろう? 俺には幸せにしなきゃいけない人がいるってよ。俺はその人にもう一度会う為に、有名になりたいんだよ」


 ジョージはパブの帰り際に、ぽつりぽつりと話し始めた。


 ジョージはウィリアムと救貧院で知り合う前、ロンドンでとある貴族の夫人に雇われ、馬車の御者をしていたという。


 正規の御者が病気で休んだ為に急遽雇われた代理である。


 夫人からは一目見るなり気に入られたらしいが、本当に夫人の心を射止める事になるのは、ある夜、野党に襲われた時だった。


 ジョージは野党が無理矢理、道を塞ぎ、馬車を止め、脅し文句を言ってきても、怖がる事なく、馬車から下りて、あっという間に返り討ちにした。


 夫人はジョージの命懸けの行動に感激して瞳を潤ませて抱きつき、どちらからともなく、気付いたら熱い口付けを交わしていた。


 二人の関係は『社交の季節』が終わり、領地のカントリー・ハウスに戻ってからも続いたが、ある日、突然、夫の知るところとなった。


 ジョージは当然、御者を首になり、仕方なしに彼女と別れ、ロンドンに戻ってからは浮浪者となって施設を転々とした後、ウィリアムと知り合ったのだという。


「ウィルと知り合ってからも定職に就けないまま、ロンドンを彷徨っていた俺は、運よくメリックさんに拾われたんだよ。その後は、ウィルもご存知の通りさ」


「あの人は、いったい、何者なんだ? 鼠や犬ぐらいならまあいいとして、虎や熊まで用意できる上に、自分自身も霊媒格闘家のチャンピオンだなんて」


「……ただの商売人には思えない。ウィリアムは霊媒だけが入会できるっていう『クラブ』の噂を聞いた事はあるか?」


「どこぞの貴族様が設立したっていう『クラブ』の噂だろう? クラブ・ハウスは貴族様の領地にあってその辺一帯には霊力が満ちているから、霊媒は霊能力を利用して何不自由なく過ごしているっていう」


「本当のところは判らんが、俺達、パブの従業員の間じゃ、メリックさんは『クラブ』のメンバーなんじゃないかって噂があるんだよ」


「まさか……」


「実は俺も、噂の真偽が気になってな。思い切って一度、本人に聞いてみた事があるんだ」


「向こうはなんて言ったんだ?」


「——それについて知りたければ、『妖精の宴』で俺に勝ってみろ、だとよ……ウィリアム、俺は必ず有名になって、いつか全て手に入れてやる。だから、ちゃんと見ていてくれよ!」


 ジョージは茶目っ気たっぷりに言ったが、ウィリアムは一瞬、彼の眼球が真っ黒に染まっているように見えて、何か言い知れない不安を覚えた。

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