第一章 Ms.ライトの幻灯館 其の三、

 第一章 Ms.ライトの幻灯館マジック・ランタン・ミュージアム


 其の三、


 ウィリアムがロンドンの幻灯館でライトの特別ショーを観ていた時、遥か彼方にあるヨークシャーの『霊媒の水晶宮』では、ホープが『噴水広場』のベンチに一人座って、噴水が映し出すこの世のものとは思えない舞踏会の映像を楽しんでいた。


 場所は、ロンドンはウェスト・エンドにある、貴族のお屋敷の一軒、所有者は、無論、ホープである。


『霊媒の水晶宮』に引きこもっている彼がロンドンのタウン・ハウスを訪れる事はなかったが、主人が不在である町屋敷の広間では、今まさに、豪華絢爛な舞踏会が開かれていた。


 霊媒だけが入会を許される、『水晶球の透視者クラブ』主催の舞踏会が、ただの舞踏会である訳がない。


〈鬼火〉とよく似た〈水晶球の幽霊〉が奏者を務める楽団の演奏に合わせて、無数のドレスだけが宙を舞っていた。


 社交界で未婚の女性が着るような裳裾の長い純白のドレス、既婚女性に相応しいレースの飾りやチュールと花飾りを付けたモヘアのドレス、巨大な尻尾のようなそれを臀部につけたバッスル、地面に引きずるぐらい丈が長く、襞がたくさん付いたぴったりとしたスカートなどなど、目も文な意匠が施されたドレス、それだけがひらひらと舞い踊っていた。


「Ms.ケイト、今回のドレスも素晴らしい出来じゃないか」


 ホープはロンドンにあるタウン・ハウスの壁際に佇んだ労働者階級と思しき女性に、〈水晶球の幽霊〉を通して話しかけた。


「スクライアー会長にそう言って頂けるなんて、光栄です」


『ケイト』と呼ばれた女性は、〈水晶球の幽霊〉に向かって深々と一礼した。


 再び顔を上げた彼女の眼球は病的と言うよりも、まるで悪魔のそれのように黒ずんでいた。


 ライトが言う、〈邪視を持つ者〉なのだ。


「君の舞踏会は、正規メンバーからも好評だよ。このまま行けば、昇格する日も近いだろう」


 ホープからはケイトの事も舞踏会の様子もはっきり見えているが、ケイトから見ると〈水晶球の幽霊〉の向こうには何も映っていない。


「はい、ありがとうございます!」


 だがケイトは、ホープ——スクライアーから、正規メンバーの昇格について触れられると、嬉しそうに言った。


 たった今、嬉しそうにしているところからも判る通り、彼女は『水晶球の透視者クラブ』の準メンバーとして活動し、いずれ正規メンバーに昇格する事を望んでいる。


「スクライアー会長、マダム・タッソーの蝋人形館が移転したのはご存知ですか?」


 ケイトは、だから、今日のお披露目まで温めていた話を振った。


「マダム・タッソーの蝋人形館はお気に入りだよ。彼女が霊媒だったら、クラブのメンバーに誘いたいぐらいだ」


 見世物小屋が大好きな、スクライアーらしい答えだった。


「実は最近、マダム・タッソーの蝋人形館の跡地で、新しい見世物小屋が始まったんですよ。『Ms.ライトの幻灯館』、という見世物なんですけど」


 ケイトはスクライアーの興味を引こうと、とっておきの情報を披露した。


「初耳だ。一人で〈水晶球の幽霊〉を使って街を眺めているだけでは判らないものだな、ありがとう、Ms.ケイト」


「とんでもない!」


 ケイトはいい反応をもらう事ができたので、満足そうに言った。


「『幻灯館』と言うからには、『幽霊ショー』かな。『幽霊ショー』なら、別のところで観た事があるが……」


「普段の公演はよくある『幽霊ショー』らしいんですけど、それとは別に、不思議な力を使って、ある種のお客を相手に、特別ショーを開いているという噂が」


「何だ、霊媒か?」


「こればっかりは行ってみない事には判りません。よかったら、ご一緒にいかがですか?」


「そうだね、楽しみにしているよ」


 ケイトはスクライアーと出かける約束を取りつけ、胸が躍る思いだった。


 もちろん、彼に恋心を抱いている訳ではなかった。


『クラブ』における準メンバーのれっきとした活動の一環で、準メンバーは正規メンバーが興味を覚えるような霊媒に関わる娯楽を見つけ出し、お互いに霊媒として見識を深める為に現地に赴く。


 正規メンバーが興味を覚えなければ一緒に出かける事はないし、正規メンバーが興味を覚えるような娯楽を見つけ出す事ができない準メンバーは昇格には程遠い、という訳である。


 ケイトがスクライアーと出会ってからまだ三年と経っていないが、そろそろ昇格に漕ぎ着けたいところである。


 それではケイトは、いつ、どこで、スクライアーと出会ったのだろうか?


 話は数年前に遡る——彼女は裕福な商売人の家に一人娘として生まれ、何不自由のない暮らしをしていた。


 だがある日、父親は破産し、妻や娘のケイトを残して、自殺した。


 母親も困窮の果てに病死し、この世にたった一人取り残されたケイトは、自分で働いて生活していく為に、お針子にならざるを得なかった。


 この頃、女性の就職先は限られていて、ケイトの頭に思い浮かんだのも、家庭教師か、お針子ぐらいのものだった。


 彼女は自分が得意な針仕事ならと思ったのだが、お針子の仕事は想像以上に過酷なものだった。

 特に、五月と言えば、『社交季節・シーズン』である。


 それまで田舎に引っ込んでいた貴族がこぞってロンドンを訪れ、毎晩のようにパーティをし、ダンスを楽しむ時期だ。


 当然、紳士はタキシードにワイシャツ、淑女はドレスと下着が必要になる。


 お針子にとって、一番、忙しい時期であり、ロンドン中のお針子が、寝る間も惜しんで、タキシードを作り、ドレスを縫った。


 ケイトも昼夜問わず働いたが、そこまでしても、賃金は雀の涙ほど。


 社交界の人間は上流階級の流行や舞踏会の開催予定ばかり気にして、自分達の衣服を作るお針子の事を気にかける者などいない。


 ケイトは小さな店から始め、見習い期間が終わると、大きな店に勤め先を変えたが、どこに行っても、待遇は変わらなかった。


 就業時間は『社交の季節』なら朝の六時から夜の十二時まで、急ぎの注文が入れば、十八時間、働き続ける事もある。


 食事をする時間もろくになければ、仕事中に居眠りをすれば見張りに起こされるから、時々、顔を洗って、無理矢理、目を覚まさなくてはならない。


 工場内にある、薄暗くて狭い部屋に鮨詰めにされ、ずっと椅子に座り続け、前屈みの姿勢で縫い物をする。


 日に日に指先は荒れ、視力は落ち、背骨は変形し、肺も悪くなるが、それでも、生活の為に縫い続けるしかなく、生活する為に働いているはずが、命を削っていた。


 結局、工場勤めのお針子の収入だけでは暮らしていく事ができず、自宅に帰っても働いた。


 ケイトは僅かな遺産で買ったぼろ家で仕立て屋を開いたのである。


 いくらか時間はかけても一部の顧客を相手に仕立てのよいドレスを縫い、それなりの価格で売り生活の足しにした。


 帰宅したらすぐに蝋燭の明かりを頼りに、眉間に皺を寄せて、充血した目で、ドレスを縫い始める。


 周囲を見回しても、室内にあるのは家具と食器が少しばかりと、商売道具である裁縫道具だけ。


 彼女も昔は同じぐらい綺麗なドレスを着ていたものだったが、今は見る影もない。


 見窄らしい格好に、落ち窪んだ寝不足の目、干からびて骨張った指で、ドレスを一針一針、縫い続ける。

 大きくため息をつき針を動かす手を止めた。


 窓の向こう、だんだん空は白み始め、壁に掛けた古びた時計は、すでに午前三時半を指している。


 夜が明けるまで縫い物を続け、ほんの少し寝た後、また工場にお針子の仕事をしに行った。


 ——ケイトはその夜、近所のジン酒場で憂さを晴らす事にした。


 彼女は酒場の喧騒には加わらずカウンターの片隅で静かにグラスを傾け、アルコールの向こうに過去を見ていた。


 いくら懐かしく思ったとしても二度と戻れない両親が健在だったあの頃の生活、お金に不自由する事のなかった豊かな暮らし。


 ああ!

 かわいい姉妹を持つ方達!

 ああ!

 母や妻のある方達!

 貴方方がボロにするのは肌着ではなく、人という名の生き物です!

 一針、二針、また一針!


 脳裏に甦ったのは、昔、流行ったお針子の歌だった。


 酒場にやって来てまで仕事から逃がれる事ができない自分に苦笑し、もう一杯煽った。


 次に思い浮かんだのは、最新の流行を取り入れたドレスを身に纏い、華やかな舞踏会で羨望の眼差しを向けられている、自分自身の姿だった。


 ただの埒もない想像だったが、お酒の力を借りているせいか、我ながらよくできたドレスだと思った。


 本当にあんな素敵なドレスを縫う事ができたら、さぞや高く売れる事だろう。


 いや、仕事などどうでもいい。


 もし、あんな素敵なドレスを身に纏う事ができたら、きっとこんな取り憑かれたように仕事の事ばかり考えている自分などではなく、若い頃と同じような活き活きとした自分に戻る事ができるに違いない。


 ケイトは、夜明けを迎えようかという頃、ふらふらになって店を出た。


 その途中、通りかかった共同住宅の玄関先で、警察官と住民らしき男が、緊迫した様子で話している場面に出くわした。


 どうやら、殺人事件が起きたらしく、青ざめた顔をした住民らしき男は、第一発見者のようである。

 ケイトは立ち止まり、彼らの様子をしばし眺めていたが、観察していたのは、彼らの動向ではなかった。


 なぜかその時初めて、普通の人間には見る事ができない、青白い炎——〈鬼火〉が見えたのである。

 最初は警官が使っている、『牡牛ブルズ・アイ』——角灯の灯りかと思ったが、違う。


 ケイトの目に止まったそれは、宙空からふわふわと漂い姿を現したからである。


 その力はお針子の厳しい生活の中で心身ともに蝕まれ、死の淵に近付いた結果、発現したのかも知れない。


 或いは過去の自分に戻りたいという強い念を抱き続けた結果、他人の怨念さえも感じ取る事ができるようになったのかも知れない。


 何にしろケイトは殺人事件の現場で右往左往する警察官と第一発見者らしき男を横目に、共同住宅の中から漂ってきた犠牲者のものだろう、〈鬼火〉をじっと見つめていた。


 ケイトは〈鬼火〉を見て、これはきっと、人の魂というものに違いない、と思った。


 巷では自称、霊媒が交霊会を行い、上流階級の間でも、晩餐会の余興として企画される事があると聞く。


 ——私にもそういう力が備わっていたんだ!


 ケイトが目を凝らすと青白い炎は形を変え、四十代の娼婦らしき女の姿がぼんやりと浮かび上がってきたではないか。


 ——ああ、こんなはずじゃなかったのに……。


 彼女は死して尚、願っている事があるらしい。


 ——ああ、いつまでも美しく、綺麗なままでいたかった。


 ケイトは、すでにこの世にはいないはずの彼女の想いを、はっきりと感じた。


 ——いつまでも美しく、綺麗に、綺麗に、綺麗に……!


 ケイトは目の前をふわふわと漂っていた〈鬼火〉に、気がつくと手を伸ばし、何者かに殺された四十絡みの哀れな女が残した想いを、しっかり掴んでいた。


 その後、すぐさま自宅に戻り、それこそ憑かれたようにして、たった一晩で、一着のドレスを縫った。


 一心不乱になって完成させたドレスは、この世のものとは思えない美しさだった。


 まるで酒場で痛飲した時に思い描いた、あの煌びやかなドレスそのものだった。


 意気揚々と得意先の貴族に売り込みに行くと、今までとは比べ物にならないぐらい、高値で売れた。


 だが、それから何度、挑戦してみても、同じドレスは作れなかった。


 ——もう一度、あの時、思い浮かんだような、素敵なドレスを作りたい!


 もう一度? もう一度だけでいいのか?


 ——これから先もずっと、ああいうドレスを作り続けたい!


 そうすればまた、以前と同じ生活に、いや、それ以上に、何不自由のない生活に戻る事ができる!


 ——その為には、どうすればいい?


 もう一度、あの時と、同じ事をすればいい。


 ケイトは意を決した。


 あのドレスはきっと、娼婦の残した想いが、私の手に宿って縫わせたに違いない。


 今度は私の手で娼婦の命を奪い、娼婦がこの世に残す想い、怨念を手に入れよう。


 ——一八八八年、八月三十一日、ホワイトチャペル。


 その夜、ケイトは仕事道具が一式入った木箱の中から裁ち鋏を取り出し、懐に忍ばせ、貧民街に獲物を探しに出向いた。


 この日の明け方、後に『切り裂きジャック事件』と呼ばれる娼婦を狙った連続殺人事件の最初の犠牲者が、通りかかった警察官によって発見される。


 世間では、目撃者はいないという話だったが、遠いヨークシャー地方に、ロンドンのイースト・エンドで起きた殺人事件の一部始終を目撃している者がいた。


 ホープだ。


 ロンドンに放った〈水晶球の幽霊〉を通して、彼だけが、『切り裂きジャック』の、いや、ケイトの殺人を、偶然、目撃していた。


 場所はホワイトチャペル・ロードの厩舎跡の前、犠牲者は四十代の娼婦。


 ケイトの裁ち鋏は彼女の喉元を切り裂き、腹部を切り刻み、性器にまで突き入れられていた。


 一週間経った九月八日、次の犠牲者も四十代の娼婦で、犯行現場は、貸間長屋の雑草が生えた空き地。


 前回同様、裁ち鋏で相手の喉を切り裂き、腸を引きずり出し、子宮と膣の上部、膀胱も、三分の二、切り取った。


 第三の殺人は、九月三十日、あるクラブ・ハウスの近くで行われた。


 ケイトは娼婦の首を一閃し、四十五分後に、また別の場所で、もう一人の娼婦を血の海に沈めたのだ。


 十一月九日は今までとは違ってまだ若い二十五歳の娼婦を、彼女の自室で時間をかけて執拗なまでに切り刻んだ。


 その日に限って若く美しい女を狙ってしまったので、美しさに執着する怨念を手に入れる為に、拷問のような殺し方を選んだのかも知れない。


 ホープはこの日、〈水晶球の幽霊〉を使ってケイトの自宅を訪れ、〝スクライアー〟を名乗り、彼女の事を、『水晶球の透視者クラブ』の準メンバーに誘った。


「——私が主宰する『クラブ』の設立目的は、霊媒同士の社交を通して、霊能力について見識を深める事なんだが、君さえよければ、これから準メンバーとして、その力を存分に使って——例えばそうだな、霊媒ならではの舞踏会を開いてもらいたいんだよ」


 ケイトは娼婦を惨殺して、帰宅したところに、いきなりそんな事を言われて、最初は唖然としていた。


「他にも霊媒ならではの娯楽に関する情報も探してもらえると嬉しいね。君の活動に、私を含めた正規メンバーが満足すれば、君もいずれは正規メンバーに昇格し、クラブ・ハウスの利用が許可される事になる」


 ケイトはスクライアーの誘いに、一も二もなく頷いていた。


『クラブ』の噂は耳にしていたし、正規メンバーに昇格すれば、クラブ・ハウス、『霊媒の水晶宮』を利用する事ができる。


 そうすればまた、何不自由のない生活をする事ができる!


 それがケイトとスクライアーとの初めての出会いであり、今も、『切り裂きジャック』の、ケイトの凶行は続いていた。


 ある日、突然、ロンドンのどこかで、娼婦が一人、煙のように消える。


 そして、行方不明扱いとなり、日々の忙しさの中で、いつしか人々の記憶から忘れ去られる。


 犯行現場は誰にも目撃される事なく、何一つ証拠も残らない。


 なぜ、そんな芸当が可能なのか?


 ケイトは、スクライアーから鼠をはじめとした小動物を殺め、〈残留思念〉を憑依させ、〈獣憑き〉となる術を教わっていた。


〈獣憑き〉になった者は、燃えるように赤い目と、黒々とした毛並みをした、狼男のような姿になる。


 その姿はイギリス各地に伝わる、仔牛ぐらいある大きな犬のような姿をした怪物、『黒妖犬ブラック・ドッグ』に、よく似ていた。


〈獣憑き〉は常人離れした身体能力を有し、娼婦を一瞬にして下水道に攫い、凶器に鋭い爪と牙を用いて、惨殺した屍体を骨ごとばりばりと平らげてしまい、証拠は何も残さない。


 当然、ケイトが人の姿を取って歩いている時、彼女が『切り裂きジャック』だとは誰も思わなかった。


 夕方、とびっきりのお洒落をして、スクライアーの中継役を務める〈水晶球の幽霊〉を一体引き連れ、『Ms.ライトの幻灯館』を訪れた。


「いらっしゃいませ。お客様は一名様ですか」


 受付でもぎりをしていたのは、歳の頃なら二十代前半ぐらい、透き通ったように綺麗な目をした女性だった。


「入場券は当日券のみです。料金はお一人様、一シリングとなっております」


 女性はにこやかに言った。


「一枚、ちょうだい」


 ケイトは入場券を購入し、幻灯館の中に入っていった。


「……今の女の人」


 幻灯館のもぎりの女性——ライトは、はっきりと見た。


 今の女性客が着ていた仕立てのよいドレスに感心した訳ではない。


 入場券を買った女性の眼球は、悪魔のそれのように黒ずんでいた。


 ——間違いないわ。


 ライトは確信した——〈邪視を持つ者〉、だ。

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