第一章 Ms.ライトの幻灯館 其の一、

 第一章 Ms.ライトの幻灯館マジック・ランタン・ミュージアム


 其の一、


 青いガス灯が闇を照らす時刻になっても、ロンドンの街のあちこちで馬車が走っていた。


 イースト・エンド——不潔を極め、すぐに感染症が流行する東部の貧民街。


 少年が一人、遠くに辻馬車の音が聞きながら、破れかけの帽子を被った薄汚い格好で、とぼとぼと歩いていた。


 去年、ホワイトチャペルで娼婦を狙った猟奇的な連続殺人事件が起こり、未だに犯人は捕まっていなかったが、霧の都、ロンドンは相変わらずだった。


『シティ』と呼ばれる旧市街地を中心にした西側、ウェスト・エンドには富裕層が、東側、イースト・エンドには貧困層が住んでいた。


 少年は幽霊のように彷徨い続けていたが、その目には虚空に漂う青白い炎のようなもの、〈鬼火〉が見えていた。


 あちらにふわふわと揺蕩っているかと思えば、こちらで幾何学的な動きをしている光景に出くわし、まるでこの世のものとは思えない、〈鬼火〉漂うもう一つのロンドンである。


 暗闇に蠢く青白い炎は海を泳ぐ魚の影にも見えて、ここは海底に沈んだ大都市のようにも感じられた。


 少年の名は、ウィリアム・フィールディング——年齢、十七歳、ご覧の通りの浮浪者である。


 ウィリアムは、今日も一日中、イースト・エンドを歩き回っていた。


 昼間は市場に行って、ごみの中から、腐った芋や豆、野菜や果物を漁っていた。


 午後、陽が落ちてからは、野宿をしてはいけないという法律の為に、一晩中、歩き回っていた。


 もし、夜の公園や街中でベンチを見つけて寝ようと思っても、『牡牛ブルズ・アイ』と呼ばれる角灯を携えた警官がどこかからやって来て、野良犬のように追い払われてしまうからである。


 やがて辻馬車の走る音ではなく、荷馬車のそれが聞こえてくる頃、陽が昇り、朝がやって来た。


 教会の鐘の音とともに、ごみ集め人夫が姿を現し、煙突掃除夫や、古着売り、野菜売り、果物売りに牛乳売りの呼び声が聞こえ、だんだんと街中が騒がしくなってきた。


 ウィリアムは疲れた身体を休める為に、一番近くにある公園に向かった。


 忍び返しがついた鉄柵に囲まれた公園の中に入ると、散歩道の両側に備え付けられたベンチに、自分と同じような薄汚い格好をした人々が身体を丸めて眠っていた。


 お互いに頭を寄せて寝ている若い男女、赤ちゃんを傍らに寝かせもたれ合っている夫婦、うつらうつらと居眠りしている年配の男達、針と糸を使ってぼろ布を繕っている中年女もいた。


 若い女性の中には、周囲の男達に色目を使っている者もいる。


 浮浪者の女性には、二、三ペンス、或いは、古いパン一個で、身体を売る者がいると聞いた事がある。


 が、ウィリアムはお金もなければ、パンも持っていなかったし、そもそも、女を買う気などなかった。


 ただ、一刻も早く、眠りたかった。


 運よく空きを見つけて腰掛けると、死んだように眠りについた。


 ウィリアムは眠っている間も起きている時と同じように夢は見なかった。


 ふと目覚めると、再び歩き出し、大通りに出て、俯きがちに行き、時々、腰を屈めては何かを拾って口に入れたていたが、煙草の吸い殻を拾って吸っている訳ではない——オレンジの皮、林檎の皮、葡萄のへたを拾って食べていた。


 ウィリアムのような浮浪者は道を歩いている時、何か落ちていないか足元を見ているのが当たり前で、豆粒のようなパン屑や、黒くなった林檎の芯も食べたし、季の種は中の仁まで食べた。


 一日の予定も、大体、決まっていて、昼間はめぼしい公園の長椅子でひたすら眠り、起きたら、今度は『浮浪者臨時収容所スパイク』や『無料給食所ペッグ』に何時間も並んで、お世話になる。


 もちろん、職を見つけて働きたいという気持ちも持っていたが、生憎、仕事を探している暇がなかった。


 昼間から職探しに行けば、公園で寝る事ができなくなるし、『浮浪者臨時収容所』に並んで食べ物にありつく事もできなくなる。


 それでなくても、『浮浪者臨時収容所』には定員があり、何時間並んでも、入れない時があるのだ。


 ウィリアムは今日こそ公園のベンチではなくベッドに横になって休もうと、午後から『浮浪者臨時収容所』に並ぶ事にした。


『浮浪者臨時収容所』は救貧院の敷地内に併設された、高い塀に囲まれ鉄の門扉に閉ざされた煉瓦造りの建物で、鉄格子が嵌められた小さな窓が並び、刑務所のような雰囲気が漂っていた。


 夕方から並び始めてもすぐに定員に達し入所できないので、ちょうど今頃の時間帯、午後二時、三時頃から並ぶのだが、すでに鉄の門の前には、汚らしい格好をした老若男女が何十人も並んでいた。


 六時頃になり、ようやく長蛇の列が動き始め、入ってすぐの中庭にある事務所で、役人から、氏名、年齢、職業、出生地、所持金、貧窮の度合い、前夜の宿泊場所を聞かれ、帳簿に記された後、収容所に案内された。


 収容所内では男女に分かれ、一度に六人ずつ身体検査が行われ、所持金がないか煙草を持ち込んでいないか調べられたが、どちらも持っていなかったので、そのまま浴室に行くように言われた。


 例え小銭だろうと、所持金があれば収容所には入れないし、煙草は持っていれば没収される。


 内装は殺風景な石造りで廊下の両側には今夜泊まる事になる小部屋が幾つも並び、あとは浴室と共同便所があるぐらいで、共同便所からは独特の匂いがした。


 浴室には先客が何十人もいて、狭苦しい上、水の入れ替えなどしないから、汚らしい事この上なく、これまた悪臭がした。


 ウィリアムは他の連中と押し合いへし合いなんとか体を洗って、順番待ちの末にやっと浴槽に浸かり、風呂から出た後は見知らぬ人間と二人一組になって、今晩、当てがわれた小部屋に行き、収容所の職員が夕食を運んで来るのを待った。


 小部屋は刑務所の独房のように、調度品もなく、まともな寝床もなく、薄っぺらい毛布が二枚、置いてあるだけだった。


 職員が持ってきた夕食のパンは石のように固く、どんなに噛んで水を飲んでも、飲み込むのに苦労した。


 お粗末な夕食が終われば、毛布を被って寝るだけである。


 ウィリアムも同室者もお互いに存在していないかのように振る舞い、一言も言葉を交わさずに眠りについた。


 朝の五時半になると、収容所の職員が、一部屋一部屋、点呼しにやって来て、昨日の夕食と同じ献立が配られた。


 収容所では一晩休んだ分だけ、翌朝、働かされる事になる。


 例えば小部屋に閉じ込められ、まいはだを四ポンド、或いは、千ポンドから千二百ポンドの石材を割る。


 六十歳を過ぎていれば石材を割る事は免除され、代わりに掃除をする。


 昼食は八オンスのパン、一オンス半のチーズ、水が配給され、昼食を食べ終わったら、残った作業に取りかかり、昨日と同じ夕食を食べて、六時には就寝し、翌朝、仕事が終われば、収容所から出ていく。


 一回の利用につき二泊するのが決まりで、同じ施設を続けて利用する事は禁止され、今度、収容所を利用する時は、十マイル以上離れた、別の施設を探さなければならない。


 ウィリアムは収容所に二泊し宿泊した分だけ働いて出所すると、またどこかの公園を探して歩き始めた。


 ウィリアムの目には、雑踏に漂う青白い炎——〈鬼火〉が映っていた。


 ウィリアムは子どもの頃から『幽霊が見える』と言っては両親を困らせ、周りからは嘘つき呼ばわりされてきた。


 いくら科学者に幽霊の存在や心霊現象が事実だと認められても、世の中にはインチキ霊媒が溢れ悪質な詐欺が流行っていたから、十歳を過ぎても幽霊が見えるなどという息子に対して、両親は辟易していた。


 いや、疎ましく思っていたと言ってもいい。


 当のウィリアム自身も、この力が何なのか、どう使えばいいのか判らず、困っていた。


 その辺によくいる霊媒なら、大体、交霊会を催し、参加者から参加費をもらって生活している。

 交霊会で主に行われるのは、『テーブル・トーキング』である。


『テーブル・トーキング』は参加者が一本足のテーブルを囲んで座り、お互いに手を繋いだり、テーブルの淵に手を構えて指先が触れるぐらいにして、参加者の質問に対して幽霊が答えテーブルを揺らすのを待つ、交霊会の定番である。


 だが、子どもだったウィリアムの目から見ても、『テーブル・トーキング』はインチキにしか見えなかった。


 では、霊媒は詐欺師なのか?


 それとも?


 ——霊媒とは何か? 霊能力はどう使えばいいのか?


 ウィリアムは常々、疑問に思い、答えを知りたいと思っていた——そんな時だった、科学者に認められた霊媒、〝霊媒の王者〟、ダニエル・ダングラス・ホームの名を知ったのは。


 ホームはその辺にいるインチキ霊媒とは違い、仕掛けが施しやすくバレにくいとされる薄暗い場所での交霊会は開催せず、いつも明るい場所で交霊を実施しているという。


 更に言えば、ホームが起こす心霊現象は、他の霊媒のそれを軽々と超えていた——物が一人でに動く、誰もいないはずなのに、どこかから囁きが聞こえる、目には見えない鳥が、頭の上で羽ばたく音がする、窓が閉まっているにも関わらず、蝋燭の灯りが揺らめいて消える、幽霊の手が人に触れて、煙のように消える。


 果ては空中浮遊までやってみせるというのだから、驚きだ。


 だが、ホームが他の霊媒と最も違うところ、それは交霊会を無料で行なっていた、という点だろう。


 ホームの交霊会は、金銭を目的としていなかったのである。


『私はこのような力に恵まれています。皆さんがうちに訪ねて来て下さるのなら、いつでも喜んでこの力をお見せしましょう。私は、もっと、この力の事を皆さんに知ってもらいたいのです。それが正当な実験なら、私はどんな実験にも応じたいと思っています』


 ホームはよく、周囲にそう言っていたという。


 ウィリアムがホームの事を知った時、残念ながら彼はすでに亡くなっていたが、ウィリアムは憧れのような感情を抱き、それが消える事はなかった。


 ウィリアムも霊媒だったが、その辺に漂う〈鬼火〉を見る事ぐらいしかできなかったし、ましてや、ホームのように霊能力を使って他人と友好的な関係を築く事などできなかったからである。


 ウィリアムは霊媒である自分を認めようとしない両親や周囲に嫌気が差して、一年ほど前、家を飛び出した。


 最初は工場勤めでもして生活する事ができたらと考えていたが、牛乳配達や新聞配達ぐらいしか経験がないウィリアムにまともな働き口がある訳もなく、どこに行っても雇ってもらえなかった。


 かと言って、霊能力もたかが知れているから交霊会もできない。


 気付いた時には『浮浪者臨時収容所』を渡り歩き、それこそロンドンの街を幽霊のように彷徨っていた。


 収容所で知り合った人間にも自分と同じ霊媒が何人かいたが、彼らもほんの僅かな霊能力しかなく、今の境遇から抜け出せずにいた。


 ウィリアムは今日も、伝承にある、〈鬼火〉に誘われ沼地で溺れ死ぬ愚か者のように、貧民街を行く。


 ロンドンは人口過密で、人、人、人で溢れ返り、あそこに浮浪者が幽霊のように彷徨い歩き、こちらに取り憑く男を探して亡霊のように佇む娼婦がいた。


 貧民街のぼろぼろに崩れかけた平家の玄関先には、垢まみれで靴も履いていない子ども達が屯して、平屋の汚れた窓からは煤に塗れた寝台や、シルクやサテンで着飾った娼婦の姿が見えた。


 娼婦には大人だけでなく、子どもの姿も目についた。


 石畳の道端には排泄物が山となり、ごみの山には女達が群がり、何でもいいから使えそうなものを探していた。


 角を曲がるとふいに煌びやかな建物が現れ、楽しげな喧騒が聞こえてきた。


 ロンドンの貧民街ならどこにでもある、『ジン酒場』である。


 外観こそあたかも豪華な宮殿のようだったが、お客に出すのは何の事はない、安酒のジンだった。


 店内では、船乗り、石炭運搬人、ごみ集め人夫、職業はもちろん、年齢も幅広い男女が、ジンを飲み、ご機嫌な様子でダンスをしていた。


 イースト・エンドの酒場にはウェスト・エンドの社交場のように厳しい規律はない。


 どこの誰だろうと皆等しく歓迎され、入店するのに紹介者も証明書も必要なければ、服装にも決まりはない。


 ほら、その証拠に、ジン酒場には、人間だけでなく、〈鬼火〉までふわふわと入っていくではないか。


 ウィリアムは今の自分にはお似合いの場所のような気がして、〈鬼火〉が酒場に入っていく光景を、しばし立ち止まって見ていた。


「——あんた、〈鬼火〉が見えるの?」


 ふいに背後から声をかけられ、振り向いたそこに立っていたのは、年齢はさして変わらないだろうが、大人びた雰囲気を漂わせ、派手なサテンのドレスを身に纏った少女だった。


「あ、ああ」


 ウィリアムは少し気圧されたように返事をした。


「うふふ、私も霊媒よ。その辺の偽物じゃなく、本物のね。よかったら、一緒にやらない?」


 ウィリアムと視線の高さが近いのは、踵の高い靴を履いているせいもあるだろう。


「そいつは嬉しいけど、持ち合わせがなくてね」


 ウィリアムは肩を竦めた。


「今日はおめでたい日だし、同じ霊媒のよしみで奢ってあげてもいいわよ!」


 少女は笑顔で気前がいい事を言った。


「本当か、でも何がおめでたいんだ?」


 ウィリアムは今日が何の日なのか、見当も付かなかった。


「聞いて驚かないでよ? 私、ミュージック・ホールに合格したのよ!」


 少女はとても嬉しそうに言った。


「そいつは凄いな、ミュージック・ホールで何をするんだ?」


 ウィリアムは素直に感心した。


 ミュージック・ホールというのは、劇場とパブの中間のような施設で、飲み食いしながら様々な出し物を楽しめる、労働者階級向けの娯楽施設だった。


 人気者になればお金が稼げるから、彼女が喜ぶのも尤もである。


「決まっているじゃない、交霊会よ!」


 少女は胸を張って言った。


「交霊会、か。おめでとう」


 ウィリアムは軽く拍手をして、少女の合格をお祝いした。


「ありがとう。私がミュージック・ホールで交霊会をする時は、ちゃんとお代を払ってちょうだいね」


 少女は冗談めかして言った。


「是非、交霊会には参加させてもらいたいけど、お恥ずかしい事に、一文無しなんだ。いくら探しても仕事は見つからないし、しばらくは行けそうにないよ」


 ウィリアムは肩を落として言った。


「あんた、交霊会を開いた事は?」


 少女は不思議そうに聞いた。


「一度もないよ、参加した事もない。興味はあるからいつか観てみたいんだけどね、なにせ先立つものがなくて」


「——決めた! 勉強の為にも、是非、私の交霊会を観て行ってちょうだいな!」


 少女は突然、いい事を思い付いたと言わんばかりだった。


「勉強だって? 何の事?」


「仕事! ないんでしょう? 助手よ! 助手の勉強っ! ミュージック・ホールで私の交霊会を手伝ってちょうだいな、助手がいなくて困っていたのよ!」


「あ! ちょっと!?」


 ウィリアムの返事も聞かずに、少女はぐいっと手を引っ張って、ジン酒場に入っていった。


「大将、今日もよろしくね!」


 少女はカウンターに立っていた中年の親父に、勝手知ったるように、元気よく挨拶をした。


「よう、メアリー、早速、お客を捕まえてきたのか?」


 大将はカウンターの奥から、気心が知れているように返事をした。


「ええ。ジンを二杯、お願い。それとフィッシュ&チップスを一つ」


「毎度あり!」


 大将はあっという間にジンを二杯用意して、メアリーに手渡した。


「改めて自己紹介しましょうか?」


 メアリーは木製の小さなテーブルに向かい合わせに座り、ウィリアムに言った。


「私は、メアリー、よろしくね! 見ての通り、このパブに出入りさせてもらって交霊会の営業をしている、職業霊媒よ。交霊会のお客がいない時は給仕もやっているけど、今晩、最初のお客さんはあんたって訳ね。あんたのお名前は?」


「ウィリアム・フィールディング……でも、俺は霊媒って言っても——」


「まあまあ、いいからいいから。じゃあ、ウィル、早速だけど、私と手を繋いでくれる?」


 ウィリアムは言われた通り手を繋いだ。


「それじゃ交霊会について説明するわね。交霊会は参加者数人で薄暗い室内でテーブルを囲んで、霊媒を介して死者と意志の疎通を図る会合の事よ。参加者は、テーブルに手を置くか、お隣さん同士で手を結ぶの。その後は賛美歌を歌ったりお祈りしたり瞑想したりと色々ね、霊が現れたら霊媒が霊に代わって話したり自動書記をするのよ」


「幽霊は明るいところを嫌うから薄暗くないといけないって聞いた事があるかも知れない。でも、ミュージック・ホールみたいな広いところで、どんな風にやるつもりなんだ?」


 まさか大舞台にもこんな小さなテーブルを用意して、ほんの数人の参加者と手を繋ぐつもりだろうか。


「ミュージック・ホールでやる時はキャビネットを準備するつもりよ。とりあえず続けるわよ——さあ、お待ちかね! かの有名な霊媒、フローレンス・クックに勝るとも劣らない、ベーカー街の霊媒、メアリー・シャワーズが、今からフィールディング氏の前に、幽霊を呼び出してみせますわ!」


 メアリーが大袈裟な口ぶりでウィリアムの期待を煽り始め、突然、風船が割れるような音が何度もした。


「!?」


 ウィリアムは目を丸くした。


「『騒霊現象』です」


 メアリーは得意げな顔をして言った。


「私の呼びかけに答えてこの場に来てくれたのなら、テーブルを揺らして下さい」


 メアリーが幽霊に話しかけると、テーブルが一人でにかたかたと揺れた。


「お判り頂けたかしら? この場に幽霊がいる事を!」


 メアリーは満足そうに言って、懐から一枚の紙とペンを取り出した。


「私は後ろを向いていますから、お客様はこの紙に何か一つ書いて下さい。絵を描いても、字を書いても構いません。書き終わったら封筒に入れて、私に下さい。私は封筒の中身を見る事なく、幽霊の目を借りて何が書かれているのか当ててみせますから」


 メアリーは紙とペンを手渡し、ウィリアムに背を向けた。


「…………」


 ウィリアムは少し考えてから、


『ジョン・フィールディング』


 と、父親の名前を書き記した。


 ウィリアムは父親の氏名を書いた紙を封筒に入れた後、念の為に色々な角度から封筒を確かめたが、透かして見る事はできなかった。


「紙に書きました」


 ウィリアムは向き直ったメアリーに、緊張した面持ちで封筒を手渡した。


「ありがとう……『ジョン・フィールディング』? 貴方のご家族かしら?」


 果たして、メアリーは封筒を受け取ってから何が書かれているのか知ったのか、受け取る前から知っていたのか、瞬時に答えを当てた。


「!?」


 ウィリアムは絶句した。


 なぜ?


 どうして判ったのか?


 同じ霊媒でも、まさか、ここまで霊能力に違いがあるとは。


 どうやって彼女は『騒霊現象』を起こし、封筒に入れられた紙に何が書かれているのか当てたのだろう?


 本当に幽霊の力を借りたのだとしても、店内を浮遊している〈鬼火〉には変わったところはなかった。


「パブが閉店したら、早速、交霊会の練習をしましょうか。私が手取り足取り、教えてあげるわ!」


 メアリーは微笑みを浮かべて言った。


 ウィリアムはその晩から、一週間後に控えているというミュージック・ホールの出番に向けて、パブが閉店した後、メアリーと交霊会の予行演習を繰り返した。


 当日もまた言われるまま、彼女が出演するというミュージック・ホール、『アザー・ワールド劇場』に赴いた。


 ウィリアムは自分達の出番がやって来るまで、メアリーと一緒に舞台の端で見学していた。


 幕が上がり、最初に登場したのは、男二人組の漫才師で、観客の反応は上々、会場は笑い声で包まれた。


 二番目に登場したのは厚化粧をした一人の女で、彼女は有名な歌手の物真似を芸としていた。


 三番目は風景画の早書きをする絵師、四番目は歌とダンス、五番目は軽業師の離れ業と来て、いよいよ、メアリーの出番が来た。


 一般に行われている交霊会と同様、極力照明を落とした薄暗い舞台には、大人が一人入れるぐらいの衣装箪笥のようなキャビネットが用意されていた。


 ウィリアムがキャビネットのカーテンを開けると、椅子が一個用意されており、メアリーがちょこんと座った。


 ウィリアムは観客の中から適当に何人か選んで縄を手渡し、メアリーを椅子にぐるぐる巻きにさせた。


 ウィリアムはメアリーが身動き一つできなくなった事を観客に示し、彼女の膝の上に木製の輪っかを乗せてカーテンを閉めた。


 すぐにカーテンを開けると、身動きできないはずのメアリーの首には、なぜか輪っかがかかっていた。


 観客は不思議そうな声を上げ、驚きを露わにした。


 ウィリアムは次にメアリーの膝の上にギターを置いてカーテンを閉めたが、彼女はやはり身動ぎ一つできないはずなのに、カーテンの向こうからギターの音色が聞こえてきたではないか。


 ウィリアムがカーテンを開けると、メアリーの膝の上には、ギターがちゃんと置かれていた。


 今度はギターを取り上げ、代わりにハーモニカを置いてカーテンを閉めた。


 これまたメアリーは縄で縛られ動けないはずなのに、ハーモニカの音色が聞こえてきた。


 観客はどよめき、拍手が巻き起こった。


 ウィリアムは頃合いを見計らい、メアリーの膝の上にナイフを置き、カーテンを閉めた。


 メアリーは一拍置いて、カーテンの中から、自由の身となって出てきて、観客からは、惜しみのない拍手が送られ、交霊会は終了した。


 メアリーは満足そうな笑みを浮かべていたが、ウィリアムは硬い顔をしていた。


 なぜなら、これは霊媒による交霊会などではなかったから。


 奇術師のそれと変わらないただの手品である。


 メアリーの披露した全てに、仕掛けがあった——例えばメアリーには、縄抜けの心得がある。


 だからこそ瞬時に木製の輪っかを首にかけたり、縄を抜けて楽器の演奏をしたり、ナイフで縄を切る事ができたのだ。


 以前、バーで行った『テーブル・トーキング』も、何の事はない、『騒霊現象』は、彼女が関節を鳴らしただけだったし、テーブルがかたかたと揺れたのも、彼女の震えがテーブルに伝わっただけである。


 封筒に入れられた紙に何が書かれているのか知るには、相手の注意を逸らしている間に、アルコールを含ませた海綿体で紙を濡らして、透かして読めばいい。


 その辺は巷に溢れ返っている、自称、霊媒も似たようなものである。


 それ故、自称、霊媒は、種や仕掛けを機能させる為にも、交霊会の会場として、薄暗い場所を好む。


 当の自称、霊媒はやれ精神が集中できるからとか、幽霊は暗闇を好むからとか言っているが、仕掛けが準備しやすいから、だ。


 だが、メアリーが今日、元々持っている僅かな霊能力も使うつもりがない事は、初めて彼女と出会ったその日、交霊会の予行演習をしていた時から、判っていた事だった。


 では、なぜ、〝霊媒の王者〟とまで呼ばれた本物の霊媒、ダニエル・ダングラス・ホームに憧れながら、ウィリアムは彼女の助手を引き受けたのか?


 とりあえず一度は交霊会を経験してみようと考えた事と、彼女からとある噂を聞き興味を覚えた事が理由だった。


 ウィリアムは初日の交霊会が大成功に終わった夜、メアリーに連れられいつものジン酒場で打ち上げをしていた。


「今日はありがとう。あんたのおかげで大成功よ!」


 メアリーはご機嫌で、ウィリアムと乾杯をした。


「おめでとう。俺もいい経験をさせてもらったよ」 


 ウィリアムも笑顔で返し、ジンを煽った。


「まだまだよ、お互いもっと頑張りましょう。私には夢があるのよ。貴方、霊媒のクックって知ってる?」


「クルックス博士が幽霊の存在を確認する時、実験に参加した霊媒だろう。有名だもんな」


「クルックス博士に本物の霊媒だって認められて、彼女は一躍、有名になったわ。その後、彼女がどうなったのか知ってるかしら?」


「いいや。俺はどちらかと言えば、ダニエル・ダングラス・ホームの方に興味があるからね」


「労働者階級の霊媒クックは博士の被験者となった事で一躍有名になって、めでたく中流階級の旦那様を射止めて、貧困から抜け出したのよ! 私もこの世界から抜け出すわよ! 霊媒はそんじょそこらの人間とは違う、選ばれし者なんだから!」


 メアリーは自分は、もっと上を目指すと言わんばかりだった。


「これから劇場でもっともっと人気を上げて、いつか必ず『クラブ』に入ってやるんだから!」


 メアリーは練習中から、ある『クラブ』について話していた。


「それが、メアリーの夢なんだ。でも本当にあるのかな、そんな『クラブ』」


 ウィリアムは半信半疑だった。


 メアリーが言うにはロンドンの霊媒達の間で、こんな噂がまことしやかに囁かれているという。


 数年前、どこぞの貴族が、霊媒なら誰でも入会できる、『クラブ』を設立したと。


 主宰者の貴族自身も霊媒で、クラブ・ハウスは彼の領地にあり、その辺り一帯には霊力が満ち溢れ、霊媒は霊能力を利用し、何不自由なく過ごしているという。


 とは言え、噂を知る者の誰一人、肝心の主宰者である貴族の名前も、クラブ・ハウスの所在地がどこにあるのかも知らなかった。


「それを確かめる為にも、頑張らなくっちゃね!」


 メアリーは景気付けにジンを煽った。


 実際、『クラブ』の噂を信じ、こんな風に考える者達がいた。


 普通、『クラブ』に入会する為には、メンバーの推薦と承諾が必要である。


 ならば、自分がいかに優れた霊媒か周囲に示せば、いずれは、『クラブ』の推薦者が目の前に現われるのではないか?


 そう考えた者は、我こそはとますます交霊会を催し、或いは、科学者の実験に協力し、自分の霊能力を周囲に誇示しようとした。


 メアリーもその一人だったし、ウィリアムも噂の真偽を確かめたいと思ったからこそ、彼女の交霊会の助手を務める事にしたのである。


「メアリーは『クラブ』に入る事以外に、何か夢みたいなものはあるの?」


 ウィリアムは将来について悩んでいたので、一番身近にいる、同じ霊媒であるメアリーに聞いてみた。


「まず、『クラブ』に入らない事には、新しく何かをする気は起きないわねえ。『クラブ』に入ったら、お金持ちのいい男を見つけて、幸せに暮らすわ」


 メアリーは固く決意しているように、真面目な顔をして言った。


「俺も『クラブ』に入ったら、幸せになれるのかなあ」


 ウィリアムは今の生活から抜け出したいと思って、メアリーの交霊会を手伝ったが、やはり、インチキをするのには抵抗があった。


 正直、生活できるだけのお金があればよかったから、メアリーほど『クラブ』に入りたいとは思わない。


「…………」


 ウィリアムは酔いが回ったのか、〈鬼火〉がバーの宙空を海月のように漂っているのを、ジンを片手に呆然と眺めていた。

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