第一章 私家庭園『劉家花園』 其の二、②
第一章 私家庭園『劉家花園』
其の二、②
『弄堂』は、『路地』、『横丁』という意味で、中間層から下層階級の人間が住む、集合住宅である。
滬涜によくあるのは『石庫門』と呼ばれる石造りの門を出入り口として周囲を高い壁に囲われ、赤煉瓦と木材で造られた二階建ての住宅が長屋のように連なる、『石庫門式里弄住宅』だった。
子驥がイワンを連れて潜った石の門には、『五福里』の文字が刻まれていた。
弄堂の出入り口となる石の門には、棟数によって少ないものから順に、弄、里、坊、村、と刻まれる。
弄なら数棟、里なら十余棟、坊なら数十棟、村なら百棟ほどだろうか。
順に、路地、隣近所、一区画、村、といったところである。
「『五福里』は、五棟の里弄が五列、弄堂としてはそんなに大きい方じゃないですが、どの店もおいしいですよ」
石畳の路地、総弄が縦に伸び、総弄から支弄が分かれ、袋小路になっている。
各里弄は総弄と支弄で繋がり、総弄は住民全体が交流する場として、支弄は近所付き合いの場として機能していた。
出入り口付近には、お湯屋、『老虎灶』があり、主人と思しき赤黒い肌をした肩幅の広い男が、竈門に薪を焚べて沸かしたお湯を、お客が持参したやかんや魔法瓶にせっせと移していた。
「——劉老板、今から夕飯かい?」
子驥に気付いた『老虎灶』の主人が声をかけてきた。
「ああ、今日も忙しそうだね、解珍老板」
子驥は『老虎灶』の主人と顔見知りらしく、気さくに返事をした。
弄堂には新旧あり、旧式の場合、設備が貧弱で、ガス設備がなく、洋風炉という石油のコンロがあるだけなので、炊事もろくにできなかった。
お風呂も設置されていないので、弄堂の出入り口には、大体、『老虎灶』が併設されている。
『老虎灶』は毎日、朝五時から夜十時まで営業、炊事や入浴に使うお湯を売ったり、茶館としても商いをしていた。
解珍のお湯屋にもやかんや魔法瓶を抱えた住人達が並び、お湯を買っていた。
「そっちの〝
『羅宋阿大』とは『ロシアの兄ちゃん』という意味であり、つまり、イワンの事である。
「夕飯をご馳走しようと思ってね」
「〝楽園案内人〟が紹介してくれるお店なら間違いないな。今度また、
解珍は愛想よく笑った。
「顔見知りですか?」
イワンは先を行く子驥の背中に聞いた。
「はい、解珍老板のところは茶館もやっていて、泊まる事もできるんで、なかなか便利ですよ」
「今夜、『老虎灶』に泊まるのもいいですけど、どうせお金を払うなら劉老板に支払って桃源郷に案内してもらいたいもんですけどね」
イワンは冗談のような口振りだったが、偽らざる本心だった。
『老虎灶』のテーブル席は人力車夫や埠頭苦力といった労働者で埋まり、皆、お茶を楽しんでいた。
『五福里』の住人でなければ経済的に余裕があればこのまま『老虎灶』に泊まるのだろうが、寝室などという立派なものはなく、テーブル席を借りて寝るだけである。
朝になったらまた、薄給の上にきつい仕事に行かなければならない。
(——ここじゃないどこかに行きたい……桃源郷に……)
イワンは何度目か、胸の内で思った。
両側に里弄が並んだ総弄には、あちらの世帯、こちらの世帯の玄関先にもテーブルと椅子が用意され、住人と思しき人々が寛いでいた。
ちょうど、夕飯時という事もあり、家族揃ってご飯を食べている者もいた。
はたまた、将棋や囲碁、麻雀に興じている連中もいれば、長椅子に横になって休んでいる老人もいる。
本来、住宅として建設された里弄を、店舗として使い、点心、果物、野菜売り、雑貨屋、新聞販売、廃品回収、靴磨き、自転車修理、針仕事といった店が軒を連ね、どこもお客で賑わっていた。
「スミノフ先生は申国に来てもう長いんですか?」
子驥は生活感溢れる路地を歩きながら、ふと聞いてきた。
「かれこれ、七、八年は経ちますかね」
イワンは、一九二二年、十二月、クリスマスで賑わう滬涜の街に、難民船に乗ってやって来たのだ。
「もう滬涜には慣れましたか? 滬涜では、ご飯とおかずを食べるちゃんとした食事が昼と夜の二回、点心は、朝食の早点、おやつの午点、夜食の晩点と、一日三回、食べるのはご存知ですか?」
子驥は滬徳の食生活の基礎的な事について、イワンに聞いた。
「職業柄、長年、申国人の雇い主と一緒に行動をしていたので、それぐらいは……でも、申国料理にはあまり詳しくないですよ」
「点心と言うと粉で作った皮に餡が包まれたものを想像するかも知れませんが、これが結構、色々あるんですよ。甘いものもあれば、しょっぱいのもあるし、温かい点心、冷たい点心もあります。意外かも知れませんが、お粥や果物も点心ですね」
子驥は途中で立ち止まり、どんな屋台があるのか確かめるように見た。
「屋台は時間帯によっても色々で、今の時間、夜九時頃には、
硬麺餑々とは、小麦粉を硬く練って焼いたパンの事で、硬麺餑々の売り子は独特の呼び声で、『インメン』を低く、『ボォボォ』を高く、大きな声を出して言う。
「夜点は酒の肴にもってこいですよ。羊頭肉、燻肝、醤肘子、驢尾」
子驥は肉料理専門の屋台で、一個一個、料理名を紹介した。
「今夜、お勧めするのはこのお店ですね」
子驥は看板に『五福里菜館』と記された小綺麗な店舗にイワンの事を案内すると、早速、中に入った。
「——劉老板! いらっしゃい! 空いているお席へどうぞ!」
気持ちよく迎えてくれたのは、少しふっくらとした明るい女性だった。
「こんばんは、滬徳蟹と一緒に老酒をお願いします」
子驥は常連らしく迷わず注文した。
「はいよ!」
老板娘は元気に返事をして、奥に引っ込んだ。
「スミノフ先生、お酒は?」
子驥は席に着くと、イワンに確かめた。
「お願いします」
イワンはこくりと頷いた。
「滬涜蟹と老酒の相性はばっちりですよ」
老酒——紹興酒には、花雕、純銅、大花雕、小花雕、竹葉青、京荘、陳々などなどあり、最上のものは、花雕とされる。
花雕は紅茶のように赤い、芳醇な香りがするお酒だ。
「老酒は壺の中に密閉保存された、二十年ものじゃないといけません。滬涜蟹は食べた事はありますか?」
「いやあ、食べた事はないですね、名前も初めて聞きました」
「滬涜蟹は中秋を過ぎた辺りから初冬までの一定期間しか食べられません。滬涜に来て滬涜蟹を食べないのは、はっきり言って損だと思いますよ。今夜は楽しみましょう」
滬徳蟹の旬は短く、十二月を過ぎれば出回らなくなる、つまり、二ヶ月間しか食べられないのである。
「外国の人も一度食べたら病みつきになると思いますよ。スミノフ先生も、『蟹、蟹!』って、売り子の呼び声を聞いた事はあるんじゃないですかね。申国人にとっては、秋の風物詩ですよ」
「お待たせしました。劉老板、どちらになさいますか?」
老板娘が細い荒縄で縛りつけた滬徳蟹を、大皿いっぱいに載せて持ってきた。
「今日もいいのが揃ってますね! スミノフ先生、滬涜蟹は大きくて肉がついた奴が上物なんですよ、この辺にしますか?」
子驥は何匹も重なっている滬徳蟹の中から、これはと思ったものを選んで手に取った。
「私は初めてなので、劉老板が選んだものならなんでも」
イワンは子驥の目利きにお任せする事にした。
「それじゃ、これでお願いします。滬徳蟹は雄と雌で味も違うし、どちらもおいしいですけど、雌が持っている赤い卵が好きな人もいますね」
子驥は滬徳蟹を指定すると、雄と雌の違いについて説明を始めた。
「甲羅を裏返した時、お腹の真ん中に釣り鐘型の線が入っているのが雄です。料理の仕方は簡単、よく洗ってからお水が入った釜に入れて——」
「……劉老板、滬徳蟹の食べ方は、また今度、ご教授願ってもいいですか。俺が今日、聞きたいのは、弟子入りさせてもらえるのかどうか。それによかったら劉老板の昔話も聞いてみたい、神仙修行をしていた時の事や、桃源郷の手掛かりを知っているのなら、是非」
イワンは目の前の滬徳蟹の調理の方法より、子驥が弟子入りされてくれるのかどうか、その辺の話を聞かせてもらいたかった。
「——私の生まれは北京なんですけど、物心ついた時には母親は不治の病に冒されてましてね」
子驥は気分を害した風もなく、イワンの要望に応えた。
「劉家は代々、商売をしていたんですが、父親は母親の病を治そうと八方手を尽くしているうちに神仙思想に取り憑かれ、いつの間にか〝小神仙〟になっていました。あちこち出かけては怪しげな薬売りや漢方医から万病に効くと言われる〈金丹〉を買い漁って、そのうち自分でも〈金丹〉の原料となる金石草木を買い集めて、自作を始めたんですよ」
「〈金丹〉って言うと、〝虎〟が万病に効くだの若返りに効果があるだのって売りつけようとして来る、あれですか?」
「ええ、神仙修行の方法は人によって違うんですけど、基本的には、方術、特に煉丹術について学びます。煉丹術は不老不死の仙人になれる秘薬、〈金丹〉を作る術で、さっき屋敷に侵入してきた連中が使っていたのは、〈金丹〉の出来損ない、偽丹です。父親は〈金丹〉を完成させて、家族みんなで『羽化登仙』しようと一生懸命になっていたんですよ。その間、まだ幼かった私は一人っきりで、まあ、使用人に世話してもらっていたので生活には困りませんでしたけど、母親は床に伏せていたし、随分、寂しい思いをしましたよ。なんで自分がここにいるのか、生きている実感がなくてね」
子驥の父親は妻の死期が近い事を受け入れる事ができず、いつも〈金丹〉や〈金丹〉の原料を探してどこかに出かけているか、たまに家にいても部屋に篭もって煉丹術に没頭し、家族のそばにいなかった。
母親も自分が病気になった事で夫や息子に迷惑をかけて申し訳ないと、なぜこんな事になってしまったのかと嘆き悲しむばかりだった。
子驥は幼い頃から両親とろくに過ごす事はなく、子どもながらに、この世の辛さ、厳しさに、すっかり嫌気が差していた。
「結局、〈金丹〉は完成したんですか?」
「いいえ……私が十七歳の時、父親は自分自身が薬の被験者になって中毒死しましたよ。母親も間もなく後を追うようにして病気で亡くなって、この世にたった一人取り残された私は人生に虚しさを感じて使用人にも暇を出す事にして、広い屋敷で一人っきりで過ごしていたんですけど、一年が経った時には父親と同じように『羽化登仙』を志し、父親の残した丹房と資料を使って煉丹術に明け暮れてましたね」
「それで、あんな力を?」
「最初は自分には仙人の素質があるのかも知れないなんて自惚れていたんですけどね、肝心の〈金丹〉がなかなか完成しない。一人でやっていく事にだんだん限界を感じて、滬涜には〝小神仙〟の集まりがあると聞いて参加する事にしたんですよ」
「それが〈仙骨幇〉?」
「そうです。と言っても、私が入ってから、二、三年で解散しましたけどね。けれどその後も『羽化登仙』を諦める事ができなかった私は、世に言う桃源郷に行く事にしたんですよ。曰く、湖南省、武陵の漁師は、川に沿って漁をしているうちに、桃の林の向こうにある、不思議な土地に辿り着いた。そこは竹や桑が生い茂る豊かな土地で、男女が笑顔で田んぼを耕し、鶏や犬の声も聞こえた……」
子驥は桃源郷の伝説を語り出した——漁師が土地の人間を捕まえて聞いてみると、彼らは秦の時代の人間で、戦乱を避けてこの地に辿り着いたのだという。
それ以来、世の中とはずっと隔絶して生きてきたので、今がいつの時代なのか判らないという。
漁師は不思議な土地から家に戻った後、自分が見聞きした事を人々に話したが、もう二度と、桃源郷には辿り着けなかった。
「私も旅の途中で病気になって……結局、ここじゃないどこかになんて思いながら、寝たきりになってしまったんですよ」
子驥は心なしか寂しげな顔をして、昔を懐かしむように言った。
「最初は本当に悔しかったし、それこそ、この世に嫌気が差したものですよ。『羽化登仙』への憧れからほとんど怨念を込めて〈山河社稷図〉を描いたりもしましたが、病に冒された身体ではろくに動く事すらできない。だから、病気を治す為には何でもしました。どんなまずい漢方も我慢して飲んで、ちょっとでも調子がいい日は神仙修行に打ち込んで、そうしたら少しずつ、快方に向かっていったんですよ」
子驥は昨日の事のように、嬉しそうに言った。
「そしてある朝、温かいお茶を飲んでいる時に、体調が本調子に戻ってきたのを感じて、案外、この世もいいもんだなと思ったんですよ。毎日、病気と向き合って、色々試して治しただけですけど、何だか自分が生きている実感ってやつが湧いて来たんです。一つの事をやり遂げた、充実感というか」
子驥は反応を窺うように、イワンの事を見た。
「その時、こう思ったんですよ。もしかしたら、今までの自分はこの世が嫌だというよりも、自分自身から逃げていただけだったんじゃないか、って。だから、何事にも満足する事なく、ここじゃないどこかに行きたがっていたのかも知れないと。それならわざわざ桃源郷に行かなくても、病気に対して向き合った時と同じように、自分が誰なのか、ここがどこなのか知って、やるべき事をやっていれば幸せになれるんじゃないかって」
子驥はイワンの向こうに、自分の見た真実があるかのように、じっと見つめた。
「劉老板のやるべき事っていうのは?」
イワンは不満げな様子だった。
「別にそんなに大袈裟なものじゃないですよ。こんな風にスミノフ先生と一緒に飲み食いしたり、人として当たり前の事を一つ一つ積み重ねていく事が大事なんじゃないかなと」
子驥は滬徳蟹を味わい、酒を煽った。
「おいしいものを食べたり飲んだりするには健康を維持する必要があるし、健康を維持する為には食生活にも気を付けて運動をした方がいいだろうし、お金がなければ自由に飲み食いできないから真面目に働いた方がいいし——やりたい事をやる為にやるべき事を果たす——口にしてみれば当たり前の事ですけど、そうすれば人生を楽しく幸せに過ごす事ができるんじゃないかと気付いてからは、この世が桃源郷みたいなものですよ」
子驥は皿の上に山盛りになっている滬涜蟹の一匹に手を伸ばし、イワンに手渡した。
「………」
イワンは大振りの蟹を素手で掴むと、豪快にむしゃぶりついた。
滬徳蟹を食べる時は手掴みで殻や甲羅を割り、酢醤油につけて食べるのが一番手っ取り早い。
「どうです、おいしいでしょう?」
子驥は食べ終わった殻をテーブルの上に次々置いて得意げに言った。
「確かに、こいつはうまい」
滬涜蟹は脂が乗って舌触りもよく、こってりとしていた。
「……ここじゃないどこかに行ったとしても、自分から逃げる事はできない。どこに行こうが、自分は自分。だから、自分についてよく知る必要がある。自分はいったい、何者なのか、ここがどこなのか、本当に自分がやりたい、やらなければいけない事は何なのか?」
子驥はそれこそ、まるで自分に言い聞かせるように言った。
「自分が変われば、世界も変わる。醜いのはこの世じゃなく、そう思う自分の心という訳です。ずっと同じ場所にいたとしても、何の葛藤も成長もなく、嫌々過ごしていたんじゃ、人間が腐っていくだけでしょうけど」
「……確かに嫌々過ごしていたんじゃ、人間が腐っていくだけだ。だから俺は、不老不死の仙人になって、桃源郷に行きたいんですよ」
イワンは子驥の言う事が受け入れられない様子だった。
「私は結局、本当の仙人にはなれなかった。なぜだと思いますか?」
子驥は改まって聞いた。
「それはその、修業が足りなかったとか、やり方が違うとか、色々、理由はあるんじゃないですかね」
イワンは困ったように言った。
「人間はいつか必ず死ぬ、それが自然の摂理だからですよ」
子驥は宣告するように言った。
「そんな——」
イワンは唖然とした。
「でも、この国の歴史は長いし、本当に仙人になった人だっているんじゃないですか!? その証拠に、色んな言い伝えだって残っているじゃないですか!!」
イワンは子驥の事を非難するような勢いだった。
「確かにこの国には不思議な力を持った人間がいるのは事実だし、不老長寿を手に入れた人間を見た事もある。どこからどう見ても老人には見えないのに、百歳、二百歳という人間をね。それだけでも仙人だと言っていいのかも知れないですが、やっぱり不老不死じゃないんですよ。いつか必ず、人間は死ぬ。所詮、言い伝えは、言い伝えでしかないという事ですよ」
子驥はイワンを諭すように言った。
「さっき言ったように気持ち次第で世界はいくらでも変わる。病気が治って生まれ故郷の北京に戻った時、屋敷は荒れ果てていましたが、庭には季節の花が咲いていました。その花は、母親が病に倒れた時、父親が縁起を担いで庭に植えたものでした。菊の花ですよ」
子驥は朗らかな顔をしていた。
「あの頃は父親も〝小神仙〟じゃなかったし、母親も精神的には不安定じゃなかった。私は父親から、毎日、『八卦掌』を教えてもらっていたし、母親も自分の髪に季節の花簪をつけたり、部屋には花瓶を用意して花を挿し、調子がいい時にはご飯も作ってくれた。思い返せば、父親にもいいところはあったし、母親も優しかった……ただ、自分が忘れていたというだけ。それに気付いた時、全ては自分の考え方、気持ち次第なんだと思い知ったんですよ」
子驥は微苦笑を浮かべた。
「…………」
イワンは心を閉ざしたように口を噤んでいた。
——どんなに辛く悲しい事があったとしても、それに囚われちゃいけない。
胸の内には、シベリアの雪原が広がっていた。
——それがこの世の全てだなんて思い込んじゃ駄目なんですよ。
イワンはシベリアの雪原で、必死の形相で馬橇を走らせていた。
——私は両親に先立たれましたが、幸せな頃はあったし、未来まで失った訳じゃない。
雪原にぽつんと建った丸太小屋で、変わり果てた妻と向き合っていた。
——今となっては屋敷に訪れる者はいないがこれから先も何人も立ち寄らないと決まった訳じゃない。
「私は自分が変われば世界も変わるのだという事に気付いて、心機一転、生まれ故郷である北京の屋敷を売り払って、滬徳の屋敷に戻った。そして、屋敷の庭いっぱいに花が咲いている事を想像して、現実のものにしようと思った。四季折々の草花を植えて毎日手入れをして、美しい庭を作り上げたんです。季節ごとに、花が咲く度、自然と人が集まってきて、彼らと話をしているうちに少しずつ親しくなって、生活にも張りが出てきた。ちょっとした親切心からお客さんの仕事や住居の世話なんかしているうちに、みんなから〝楽園案内人〟なんて呼ばれるようになって——スミノフ先生、滬涜蟹は気に入ってもらえました?」
「……ええ、まあ」
「滬涜蟹は海水と河の水が合流する揚子江の河口で獲れるものが、一番おいしいと言われているんですよ。河口には色んなものが流れ込み、滬涜蟹の栄養になるからと。最高においしいのは、戦争や飢饉、疫病があった年の滬涜蟹だって話もあります」
「戦争に、飢饉?」
滬徳蟹の味を最高のものにするのが、人の戦い争い、死だとは……
「そういう年には大勢の人間が死んで、蟹にとってはいい餌になるからだと言われていますね。スミノフ先生、私はたぶん、人生も同じじゃないかと思うんですよ——死があるからこそ、生がある……どうでしょう、私はスミノフ先生に滬涜について色々と知ってもらいたいと思っているんですが。桃源郷に行くには、それからでも遅くはないかと」
子驥はイワンが持つ杯に酒を注いだ。
「滬涜について色々と知ってもらいたいって、またどこかに連れて行ってもらえるって事ですか?」
イワンはきょとんとしていた。
「スミノフ先生さえよければ、滬涜案内人見習いとして、うちに住み込みで働くというのはどうですか。そうすればきっと、この街のよさも判ってもらえるんじゃないかなと?」
子驥はイワンの事を滬徳案内人見習いとして雇ってまで、桃源郷に行くのを諦めさせたいらしい。
「俺が? 滬徳案内人見習い?」
イワンは子驥の提案を聞いて、唖然とした。
この世に嫌気が差して桃源郷に行こうとしていた自分が、滬涜案内人見習いとして働く事になろうとは。
だが、目の前にいるのは〝楽園案内人〟とまで言われる、劉子驥である。
〝申国四千年の神秘〟、方術、気功を身に付け、一度は桃源郷を目指して旅した男、だ。
「判りました——こちらこそ、お願いします」
イワンは少し考え、子驥の誘いを受け入れた。
なぜか?
(——滬徳案内人見習いだろうが何だろうが、劉老板と一緒にいれば仙人になれるかも知れない)
イワンはそう考えて、子驥に雇ってもらう事を希望したのである。
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