第一章 私家庭園『劉家花園』 其の三、①
第一章 私家庭園『劉家花園』
其の三、①
イワンは昨晩、約束した通り、朝の七時に『劉家花園』に行くと、すでに子驥が待っていた。
「おはようございます。とりあえず朝ご飯を食べに行きましょうか」
子驥は早速、『五福里』に向かった。
「申国人のボディガードをしていたのならご存知かも知れませんが、申国人の朝ご飯は、外食するか、屋台で買ったものを家で食べるかのどちらかです」
『五福里』の路地には屋台が並び、どこの屋台も店先に置かれた小さなテーブル席はお客で埋まっていた。
「朝ご飯の定番は、
あちらの屋台の大鍋からは湯気が立ち上り食欲を誘ういい匂いがし、こちらの屋台の鉄板からは何か肉を焼いているお腹を刺激するいい音が聞こえてきた。
「私のお勧めはあれです」
子驥が見つめる先に一軒の屋台があり、大鍋の中で捻ったパンのようなものが何本も揚げられていた。
「油条です」
子驥は、油条——小麦粉を発酵させた生地を細長くし、二本重ねて捻り、油で揚げた点心が好きらしく、舌舐めずりをしそうな勢いだった。
「油条はお粥に浸して食べてもおいしいし、おにぎりの中に入れて食べてもよし、焼餅に挟んで食べてもよしです。もちろん、そのまま食べてもおいしいですよ。味は薄塩、食感は軽くてサクサクしてます。私は焼餅に目玉焼きと一緒に挟んで食べるのが好きなんですけど、スミノフ先生はどうします?」
「うーん」
「ロシア人はパンが主食なんでしょう? 焼餅に肉と野菜を挟んで食べてもおいしいですよ」
子驥は焼餅に油条と目玉焼きを挟んだものを、イワンは勧められるままに甘辛く炒めた豚肉のそぼろと野菜を挟んだものを頼んだ。
「確かにおいしい」
ちょうどサンドウィッチのような感覚だった。
「そいつはよかった。お湯ぐらいならただで飲めますよ」
子驥は縁が欠けた湯呑みでお湯を飲み、焼餅を胃に流し込んだ。
「腹拵えも済んだ事だし戻りましょうか。今日は初日だし、基本的な仕事の手順を教えましょう。それが終わったら、滬涜の街を一通り案内しますよ」
子驥は初日とあって、張り切っているようだった。
「はい」
イワンは本当のところ滬徳案内人になるつもりなどなかったので、あまり乗り気ではなかった。
二人は『劉家花園』に戻り、食後の運動がてら庭園を見て回った。
やがて、滬涜案内屋『優游涵泳』の開店時間が迫ってきた。
「うちの店は朝九時開店、予約のお客さんもいます。相手の名前と用件を確認して帳簿と照らし合わせて、本人かどうか確認して下さい。依頼によっては、下調べや関係各所の調整、手続きが必要な場合もあります。今日は予約のお客さんはいませんね」
子驥は奥にある受付にイワンを招き入れて、分厚い帳簿を見せつつ説明した。
「事務所にお客さんが来たらお席に案内して、お茶とお茶請けを出す。小樊がいれば、手伝ってくれる事もありますね。早速、案内を体験してもらおうかな——こんにちは、いらっしゃいませ。お客さんは滬涜の観光が目的でしたね」
イワンを向かいの席に座らせると、イワンをお客に見立てて滬徳案内を始めた。
「は、はい。お願いします」
「滬涜案内人のご利用は初めてですか」
「そうですね」
「では、必要な手続きに関してご説明しますね。まず最初に、所定の申し込み用紙に、依頼内容を記入して頂きます。それが終わったら、簡単な聞き取り調査をさせてもらって、事前の手続きは終了です。早ければその場で案内させてもらいますし、準備が必要な場合には、また後日、連絡させて頂きます。観光が目的ですか——こんなところに行きたいとか、どこか行きたいところがあれば気軽に言って下さい」
子驥は愛想よく言った。
「どこか行きたところと言われれば、やっぱり桃源郷ですかね」
イワンは相変わらずだった。
「お客さん、私が案内できるのは滬徳だけですよ。こちらにどうぞ」
子驥は笑って席を立つと、『劉家花園』の外に向かう。
子驥について行くと『劉家花園』の前の通りに、体格のいい人力車夫が黄包車と一緒に待っていた。
黄包車——日本から伝わった人力車で、停車しているのは二人乗りだった。
「当社自慢の疲れ知らずの人力車夫です。彼が曳いてくれる黄包車に乗って、まずは共同租界を回りましょう」
子驥はイワンを黄包車に先に乗車させ、隣に座った。
「出してくれ」
子驥が出発を促すと人力車夫は黄包車を曳き、颯爽と走り出す——最初の行く先は、滬徳租界最大の商店街、南京路だった。
「ご覧下さい! 金楼銀楼が集まり、『三大公司』があるこの南京路こそ、国の光り! この辺りは、アメリカ、ニューヨークの摩天楼を行く気分でしょう?」
『三大公司』は、一九一七年、南京路に開業した『先施公司』、翌年、一九一八年に開業した『永安公司』、一九二六年に開業した『新新公司』、三つの有名百貨店の事である。
「『国の光り』って言うのは?」
イワンは『三大公司』については知っていたが、『国の光り』というのは何の事なのだろうと思った。
「スミノフ先生は、『観光』という言葉の由来はご存知ですか?」
「知らないですね」
「『観光』という言葉は、申国の古典『易経』にある、『六四 観国之光 利用賓于王』から来ているんですよ。『六四 国の光を観る 王に賓たるに用いるに利ろし』。色々解釈はありますが、その国の光り、つまり、いいところを観て見聞を広げれば、王様に仕える時に、役に立ちますよという事です」
「そういう事なら俺が見たいのは、やっぱり桃源郷ですね」
イワンは目の前に広がる南京路よりも、まだ見ぬ桃源郷に思いを馳せた。
子驥達を乗せた黄包車は南京路を抜け、外灘を通り、キャセイ・ホテル、パブリック・ガーデンへ。
ガーデン・ブリッジを越え、蘇州河を渡り、ブロードウェイ・マンション、郵便局、虹口市場、三角市場に向かう。
「私達、案内人が観光で案内するのは、〈名所〉、〈悪所〉、〈穴場〉の三つです。〈名所〉は、今通った南京路や外灘、ここ、虹口の場合は、虹口市場辺りが該当します。〈穴場〉は、『五福里』にあるような、あまり知られていないおいしい屋台や料理屋。〈悪所〉は、妓楼に、煙館、遊楽場『滬涜大世界』や茶館『青蓮閣』がそうです。滬徳案内人は誰よりも滬涜の街に詳しくなる為に、毎日、色んなところに行くし、〈名所〉、〈悪所〉、〈穴場〉があるところなら、どんなところにも、お客さんを案内します。でも、四つ目の場所、〈虎穴〉には近付かないし、知っていても案内はしません」
「〈虎穴〉——危険な場所っていう意味でしたっけ?」
「ええ、〝虎〟がどこにいるのかは案内人も具体的に知っている訳じゃありませんけどね。ただ、普段から行き来している場所でも、ちょっとでも悪い噂があれば、そこは〈虎穴〉かも知れないとして近付きません。〈虎穴〉には近付くな、案内人の常識ですよ」
「劉老板も、〈虎穴〉には近付かない?」
「もちろん、お客さんは案内しませんね。スミノフ先生も、〝虎〟と、ましてや、〝窮奇〟なんかとは関わり合いにならない方がいいですよ」
「でも、詐欺師の〝虎〟はともかく、〝窮奇〟は煉丹術の研究をしていたり、桃源郷の手掛かりを知っている人間もいるんじゃないですか?」
イワンは子驥に忠告されたばかりだというのに、不穏な事を言った。
「スミノフ先生ならそう言うだろうと思いましたよ——これから行く場所はみんな、一度は『羽化登仙』を志して神仙修行に取り組んだ人達がいるところです。その人達に会って話を聞けば、滬徳についても詳しくなる事ができるし、気持ちも変わるかも知れない」
「これから会う人間、みんな〝小神仙〟っていう事ですか!?」
イワンは子驥の言葉を聞いて、嬉々とした様子になる。
「そうです。さあ、ここからは社会科見学と行こうじゃありませんか」
子驥が黄包車を停めたのは、虹口の西側、棚戸区と言われる場所で、掘っ立て小屋が建ち並ぶ租界の中でも、かなり貧しい地域だった。
主に、埠頭苦力、人力車夫、女工が住む貧民街であり、今にも崩れ落ちそうな竹で組んだ藁小屋が軒を連ね、廃材である木材の柱にぼろ布を被せただけの粗末な住まいもある。
「ここで何を見学するんですか?」
イワンは子驥に続いて黄包車から降りると、街並みを見回して不安そうな顔をした。
「製糸工場です」
子驥は表情一つ変えず、当たり前のように言った。
滬涜は工業が、特に繊維工業が盛んで、工業労働者の実に七十パーセントが繊維を扱う工場に勤めており、製糸工場は、女工、幼年工が多い事で知られている。
「自分で言うのもなんですけど、俺はこの世に嫌気が差して桃源郷に行こうって奴ですよ。そんな奴に、棚戸区みたいな貧民街や製糸工場を見せても……?」
イワンは廃屋と変わらぬ、ぼろ家が並ぶ路地を歩きながら、苦笑いを浮かべた。
「確かにここでの暮らしも、製糸工場で働くのも楽じゃないですよ。工場主は利益ばかり追求して労働条件は厳しいし現場監督は平気で給料をピンハネするし——ただ、今から行くところはまともなところですよ。工場の中までは案内できませんけど、そこで働いている女性を一人、紹介しますよ」
子驥に連れて行かれ、イワンはとある工場の門の前までやって来た。
工場の門の脇には、女工を募集する貼り紙が掲示されていた。
「——へえ、ここは勤務時間が八時間なんですか。珍しいな?」
イワンは張り紙を見て、少し驚いた。
「だからまともだって言ったでしょう?」
子驥は我が事のように自慢げである。
どこの工場も、始業は朝六時、終業は十八時半と、十二時間にも及ぶ長時間労働だから、滬徳案内人として自慢したくもなるだろう。
毎朝、陽が出る前に製糸工場の汽笛が鳴り響き、棚戸区に住む女工達が動き出す。
無論、幼年工として働く娘達も親に叩き起こされ、六時になると始業の合図として、もう一度、汽笛が鳴る。
そこから働き出して、昼休みを一時間挟み、また十八時半まで働く。
これで給料がよければまだいいかも知れないが、生憎、賃金は低く、職場環境も暮らしも厳しかった。
それを考えるとここの工場は、少なくとも勤務時間については破格の待遇だと言っていい。
「ちょうど昼休みだから、みんな外に出てきますよ。隅っこで待っていましょうか」
子驥の言う通り、昼休みの汽笛が鳴り、女工と幼年工が賑やかな様子で出てきた。
「なんだか随分、活き活きしているな」
イワンはここに来る前に抱いていた女工に対する印象と、彼女達の様子は違うように感じた。
彼女達からは生活や仕事に疲れている感じが全くしないのである。
「うん、いい事じゃないですか」
子驥も活気に溢れた女工達の様子を見て満足そうに頷いた。
「あら、劉老板。待っていてくれたの?」
と、女工の一人がイワン達の姿を見つけて声をかけてきた。
「小趙、忙しいのに時間を作ってもらって悪いね。こちらがこの前話した、スミノフ先生だよ」
子驥がイワンに紹介しようというのは、この趙という女性らしい。
「初めまして、趙青霞です。今日はよろしく。私でよければ、昼休みの半分ぐらいなら付き合えるから」
趙青霞は愛想よく笑った。
「スミノフ先生、ここからは小趙と代わりますよ。小趙から滬涜の製糸工場についてと、彼女が働いている工場がどんなところなのか聞かせてもらいましょう」
「どこから説明しようかしら? 滬涜に租界ができてから外国人が工場主を務める工場がたくさんできたのよね。工場は西洋と同じ方法で運営され、工場主は申国語ができないから、通訳を雇って申国人の労働者の管理に当たらせたの。それが、
拿摩温——従業員名簿の先頭に名前がある事から、そう呼ばれるようになった現場監督である。
「滬涜の一般的な工場や拿摩温の仕事振りは、女工の間で流行っている歌を歌った方が手っ取り早くて判りやすいと思うわ」
趙青霞はおどけた調子で歌い出した。
工場の門を潜れば自由はない
親方はとても残酷で、我々は犯人扱い
腹黒い領犯の拿摩温は凶暴で残忍
ちょっとへまをすれば殴るは怒鳴るは
賃金は罰金のかたに取り
挙げ句の果ては門の外へと追っ払う
「……ひどいな」
イワンは眉を顰めた。
「普通、製糸工場って言えば労働時間は毎日十時間以上だし、食事も外に出て食べる事は許されない。何かこっそり食べているのが見つかれば拿摩温に取り上げられて、自由に用を足す事もできない。その上、規則を破れば罰金。でも、ここは違うわ。ここは社員を大事にしてこそ品質も安定するっていうのが経営者の考えらしくて、昼休みもちゃんとあるし、今みたいにこうして外に出る事も許されているの。拿摩温だって、とってもいい人よ。本当、劉老板に紹介してもらってよかったわ」
趙青霞は笑顔で言った。
「女工っていうのは、どんなお仕事なんですか?」
イワンは女工の具体的な仕事の内容が気になった。
「製糸女工はその名の通り、生糸を作るのよ。女工の養成は工場で女工達自身によって行われ、新人は雑用として働くの。女工には、正規の繰糸女工である正車、予備の絡糸女工である替車、煮繭、それに、索緒工である盆工と、予備の盆工である副盆がいるの」
新人は単なる雑用をするのが当面の仕事で、盆工は目の前で働く正車の仕事振りを見て、雑用をこなしながら繰糸技術を覚える。
「ここは他のところと比べてかなり職場環境が整っているみたいですけど、お金の方も結構もらえるんですか?」
イワンは何気ない顔をして聞いたが、判っていて聞いたのである。
なぜなら、いくら職場環境が整っていて、女工達が明るく元気そうだとは言っても、工場自体は棚戸区にあり、彼女達の住まいも棚戸区にあるのだ。
貧民街の棚戸区に、だ。
ここの工場は従業員を大切にしていると言うし多少は色が付いているのかも知れないが、よその工場と大差ないのではないか。
「お給料は他のところと大差ないわね。でも、私はここが気に入っているし、仕事も好きだから、何の不満もないわ。元々、貧しい家の生まれだし、食べるのに困らないだけのお給料がもらえれば、それで充分よ」
趙青霞は本当に満足しているように、あっけらかんとして答えた。
「とは言え、趙小姐も、一度は『羽化登仙』しようとして神仙修行を積んでいたんでしょう?」
イワンはいよいよ本題に入った。
「私は家が貧しくて家族を養う為に近所のお金持ちの家に嫁いだの。でも、旦那はお金にものを言わせて他の女に手を出して、幸せな夫婦生活とは言えなかったわ。挙げ句の果てに旦那の兄にも言い寄られて……私は何もかも嫌になって家を出たのよ」
趙青霞は遠い目をして、自嘲気味に言った。
「それで〈仙骨幇〉に……趙小姐は〈仙骨幇〉でどんな修行を積んでいたんですか?」
イワンは詰め寄るようにして聞いた。
「結局、私は『羽化登仙』する事はできなかったし、今はもうするつもりもないし、貴方に教えられるような事は何もないのよ。〈仙骨幇〉が解散した後、劉老板の紹介で製糸女工になってから、私が気付いた事は、手に職があれば、この世も案外、悪くはないって事よ」
趙青霞は製糸工場で働き、棚戸区に住んでいる自分に、心から満足しているらしい。
「そろそろ時間かな。小趙、ありがとう」
子驥は趙にお礼を言うと、イワンに視線を向け、出発を促した。
「ありがとうございました」
イワンは趙青霞の話にピンと来ていない様子だったが、子驥と一緒に黄包車に乗って出発した。
「南京路に戻ろう」
子驥は人力車夫に南京路を目指すように言って、黄包車は速度を上げた。
黄包車は来た道を行き、周囲にはだんだんと飲食店や露店が増え、劇場、妓楼も目についてきた。
『楽園案内人 劉子驥』 ワカレノハジメ @R50401
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