第一章 私家庭園『劉家花園』 其の二、①
第一章 私家庭園『劉家花園』
其の二、①
今日初めて『劉家花園』を訪れたイワンは知る由もなかったが、『劉家花園』は滬徳案内屋『優游涵泳』がある『風花園』と、子驥の住まいがある、ここ、『雪月園』に分かれていた。
『優游涵泳』の平屋の反対側には、太湖石を積み上げた築山があり、短い橋が架かっている。
短い橋を渡った向こう側は高い塀に囲まれ、奥に何があるのか見る事はできなかったが、橋を越え、円洞門を潜ったその先にあるのは、『風花園』とはまた違う景観を見る事ができる、『雪月園』である。
子驥の住まいである『雪月園』には伝統的な四合院建築の平屋の屋敷、『悠々閑適』があり、『悠々閑適』の門を潜れば、そこにも美しい中庭が広がっていた。
『雪月園』の中庭には季節の草花が鮮やかに咲いているのはもちろん、明の十三陵の参道、神路の両脇に並ぶ石像ほど巨大なものではないが、石人、石獣、獅子、獬豸、駱駝、象、麒麟、馬といった動物が景観を形作っている。
段景住の指笛が辺りに響き、まるで指笛に呼ばれたように、月明かりに包まれた中庭に人影が出てきた。
人影は、髪は烏の濡れ羽色、青い衣に白い肌が映える、十六、七歳の少女で、目鼻立ちが整っている分、機嫌が悪そうな顔が際立ち、どこか近付き難い雰囲気が漂う。
まさか、この少女も石像ではないだろうが、黙って立っていると、陶器でできた人形のように見えた。
「——こんな夜中に何の御用ですか?」
少女は不機嫌そうな顔をして、誰もいないはずの中庭に向かって言った。
「間が悪いな……やっちまえ」
中庭の陰から姿を現したのは少女とさして身長が変わらない、色黒の肌をした小柄な男だった。
両脇を固めるのは、赤い服を着た大男に白い服を着た大男だ。
二人の大男は色黒の男の言葉に反応し、無言で近付いてきた。
「劉老板のお客さんじゃないみたいね」
少女はいっそう、眉を顰めた。
「俺達は劉老板のお客さんだよ」
親玉らしき色黒の男は、下卑た笑みを浮かべた。
「それなら、何で屋敷に忍び込むような真似を? ただの物盗りにしては、身なりがいいみたいだし」
少女は二人の大男に囲まれても、怖気付く様子はなかった。
「使用人風情が!」
赤い服を着た大男が少女に手を出そうとした時、
「待て、使用人ならこの女に聞いた方が早いかも知れない。おい、この屋敷に台所以外で竃があるのはどこだ?」
色黒の男は、妙な事を聞いてきた。
「何なの、貴方達?」
少女は戸惑いの色を隠せなかった。
「〝小神仙〟が〈金丹〉を作る時に使う焼丹竃、丹房はどこだと聞いているんだ……その様子だと何も知らないのか。やっぱりやっちまえ」
色黒の男は少女から情報を聞き出す事を諦め、二人の大男に言った。
「痛っ!?」
赤い服を着た大男はふいに痛みが走った顔に手をやり、小さな悲鳴を上げた。
「てめえ、何をした!?」
白い服を着た大男は少女から距離を取り、警戒した。
「お前、ただの使用人じゃないな。劉子驥の弟子か?」
色黒の男は少女の正体を察した。
「ただの阿姨よ」
少女は右手で何かを弾き、連続して飛ばした。
「何だ、こいつは!?」
白い服を着た大男は何か硬いものが何度も飛んできたので、羽虫を振り払うような仕草をしたが、次々、身体中に直撃した。
「呂方、郭盛、〈簡松丹〉を使え!」
色黒の男が言うと、赤い服を着た大男、呂方と、白い服を着た大男、郭盛は、丸薬を口に含み、瞬く間に毛むくじゃらの化け物へと変身した。
「この女が飛ばしているのは、指弾だ! 〈簡松丹〉を飲んじまえば、痛くも痒くもねえ!」
指弾は直径一センチぐらいの、鉄、鉛、石の類を親指で弾き、礫として使う、武器術の一種である。
「ただの石飛礫だったのか!」
呂方は毛むくじゃらの化け物に変身した事で身体能力が飛躍的に上がり、少女が放った石飛礫を簡単に手で掴んだ。
「こんなもので俺達が『羽化登仙』するのを邪魔しようなんてふさげてやがる!」
郭盛も石飛礫を片手で受け止め、難なく握り潰した。
「貴方達、〝窮奇〟ね」
少女は二人の大男が毛むくじゃらの化け物に変身した様子を見ても、不機嫌そうに言うだけだった。
「だったら、何だっていうんだ!?」
呂方が吠えた。
「今すぐ、お前も捻り潰してやる!」
郭盛は石飛礫をものともせずに、のっしのっしと迫ってきた。
「それじゃ、こういうのはどうかしら?」
少女は毛むくじゃらの化け物が目前に迫ってきても、平然としていた。
次の瞬間、
「ぎゃあ!?」
郭盛は横からぬっと姿を現した、巨大な何かに踏み潰された。
「石の、馬?」
呂方は呆然と呟いた直後、やはり避ける間もなく、石の馬の後ろ足で蹴り飛ばされた。
『悠々閑適』の中庭に飾られていた、石の馬である。
「宗老板、助けて下さい!」
郭盛は中庭に横たわり、色黒の男——宗に助けを求めたが、お腹を蹴破られ、血みどろの内臓が飛び出していた。
「がはっ!」
呂方も同じような状態で血反吐を吐き、起き上がる事もできない。
「ちぃ、こんな小娘如きに!」
宗はあっという間に二人の手下を失い、自分自身、〈簡松丹〉を飲んで毛むくじゃらの化け物に変身し、少女に牙を剥いた。
「〈石馬精〉!」
少女は、石の馬、〈石馬精〉に呼びかけると、素早く飛び乗り、宗から距離を取った。
「お、遅かったか!」
そこにちょうど姿を現したのは、子驥だった。
「ば、化け物だ!?」
イワンも遅れてやって来て、思わず叫ぶ。
「小樊!」
子驥は呂方と郭盛の有様を見て、痛々しげな表情をした。
「いくら〝窮奇〟だからって殺していい訳じゃないぞ!」
子驥が胸元から取り出し両手で広げた巻物は神仙境を思わせる荘厳な山河が描かれた掛け軸だったが、呪文を唱えた途端、巻物から黒い煙が出てきて宗達に巻き付き、彼らの身動きを封じた。
「な、何だ、これは!? お前が〝楽園案内人〟、劉子驥か!?」
宗はまるで生きているように絡みついてくる黒い煙に戸惑いながら叫んだ。
「〈山河社稷図〉、急急如律令!」
子驥が鋭い声を発すると、宗達は悲鳴を上げる間もなく、黒い煙に運ばれていくように、巻物の絵の中に吸い込まれた。
「あれぐらいじゃ〝窮奇〟は死なないでしょう? だから老劉だって、〈山河社稷図〉の中に閉じ込めているんだし」
少女——樊は、不貞腐れたように言った。
「それにしてもあんな残酷な真似するものじゃないですよ」
子驥は残念そうに言った。
「いくらなんでも私だって三人掛かりで来られたら老劉を呼びに行く暇もないし、あのまま追い返したところでまたどこかで悪さをするに決まっているわ。ちょっとはお仕置きしないと」
樊は綺麗な顔をして、恐ろしい事を言う。
「さすがの〝窮奇〟も小樊にお仕置きされたんじゃ命に関わると思うけどね。私の元におびき出すとか、連れてくるとかできただろうに」
「ところでその人、一部始終を見てるけど、いいの?」
樊は話を切り上げるように、イワンの事を見て言った。
「スミノフ先生だよ。今夜襲って来た連中の一人に霊符で操られて、捨て駒にされたんだ。元々、桃源郷に行きたくて私のところに来たらしい」
「劉老板みたいな人がいるのなら、神仙境だってあるんじゃないですか? だったら、俺を弟子にしてもらいたい。俺はどうしてもここじゃないどこかに行きたいんですよ!」
イワンは懇願するように言った。
「この国はあまりお好きじゃありませんか?」
子驥は微苦笑を浮かべて聞いた。
「そういう問題じゃないんですよ、俺はもう疲れたんですよ、嫌気が差しているんです。だから、楽園に行きたいんです」
イワンは必死に訴えた。
「貴方みたいな外国人も桃源郷に行きたいのね」
樊は呆れたように言った。
「君だって〝申国四千年の神秘〟を身に付けているみたいだし、劉老板のところで『羽化登仙』する為に神仙修行している〝小神仙〟なんじゃないのか?」
イワンは反論するように言った。
「いいえ。私は小さい頃、劉老板から〝気〟の乱れを正す為に気功の基礎を教えてもらった事はあるけど、不老不死の仙人になろうと思って修行した事はありません」
樊ははっきり否定した。
「それなら俺にも何か教えてくれたっていいじゃないですか? 劉老板は本当のところ、桃源郷に行った事があるんじゃないですか?」
イワンは子驥が気功の基礎を教えていたという過去を知って、ますます興奮した。
「私が〝楽園案内人〟なんて呼ばれているのは、滬涜を遊び歩いているからですよ。それがどこかで大きくなって、桃源郷に行った事があるなんていう話になってしまっただけで……しかし、なんでまた、ロシア人の貴方が桃源郷に興味を?」
子驥は不思議そうに聞いた。
「そんな事、大体、理由は決まっているじゃない」
樊は何を判り切った事をと言わんばかりである。
「小樊、私はスミノフ先生に聞いているんだよ」
子驥は嗜めるように言った。
「……俺にはもう、何もないからですよ。妻も失い、国も失い、あるのは思い出ぐらいのものだ。それも思い出す度に辛く悲しい気持ちになる。なぜって、死んだ妻もなくなった国も、もう二度と取り戻す事はできないですからね」
イワンは自分の人生を卑下するように言った。
「だから、常春の地である桃源郷に行きたいと? でも、私が案内できるのは滬涜だけですよ」
子驥は困り果てたように言った。
「さっきのあれは何だったんですか? 毛むくじゃらの化け物に、その化け物を易々と退治した劉老板の力は? あんなものがいるのなら、あんな事ができるのなら、桃源郷だって……!」
イワンは食い下がった。
「あれは全て方術によるものですよ。でも、方術があるからと言って、神仙境が存在する事を意味する訳じゃない」
子驥は肩を竦めた。
「何で方術について知っていたり意のままに操れるのかって言ったら、劉老板も昔、『羽化登仙』しようとして大真面目に修行していた事があるからなんだけどね」
樊はイワンの事を不憫に思ったのか、子驥の過去について話した。
「じゃあもしかしたら、やり方によっては可能性は!?」
イワンは可能性はゼロではないのではないかと、鼻息を荒くした。
「お金なら少しは持ってます、何でもするので弟子にして下さい! お願いします!!」
イワンは何度も頭を下げて頼んだ。
「弟子って、何の?」
子驥は目を瞬かせた。
「〝小神仙〟のです! 俺にも方術を教えて下さい! 仙人になれば神仙境に行けますよね? 俺みたいな外国人でも、頑張れば不老不死の仙人になれるんじゃないですか!?」
イワンは期待に胸を膨らませて、目を輝かせていた。
「まあまあ、落ち着いて、一息つく為にもお茶にしますか。小樊、頼むよ」
子驥はお茶を勧めたが、
「お願いします! まず弟子にして下さい!」
イワンは是が非でも弟子入りしようと詰め寄った。
「小樊の選んでくれるお茶とお茶請けはおいしいんですけどね……考えてみればもうご飯時だし、近所で夕飯を食べながらゆっくりお話するというのはどうですか? ご馳走しますよ」
子驥はイワンに強引に詰め寄られても笑顔で夕飯に誘った。
「生憎、夕飯は済ませてしまったんですが、劉老板がそこまで言うのなら。でも、弟子入りの話、忘れないで下さいよ」
イワンは弟子入りができればなんでもよさそうである。
「いってらっしゃい」
樊はつまらなそうに言って、屋敷に戻った。
「あの子は?」
イワンはあまりにもつっけんどんな彼女の態度を見て、不思議そうに聞いた。
子驥は〝申国四千年の神秘〟の力を意のままに操るが、彼女もまたあの若さでなかなかのものである。
「樊清照です。昔、お世話になった人の娘さんで、今は住み込みでお手伝いさんみたいな事をしてもらっているんですよ。隣の通りにある、『五福里』に行きましょうか。あそこなら、いい屋台がたくさんあるから、案内させてもらいますよ」
子驥は『劉家花園』からイワンを連れ出し、近くにある『五福里』に向かった。
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