第一章 私家庭園『劉家花園』 其の一、②

 第一章 私家庭園『劉家花園』


 其の一、②


「ここ、か」


 イワンの胸は高鳴り、思わず呟いていた。


 イワン達が興味深そうな面持ちで小さな門を潜ると、導入路はうねうねと入り組んでおり、壁が高く設定されている為に、庭園の内部を目にする事はできなかった。


 白く高い壁に蔓性の植物が一面に這い、足元は苔生し、途中、導入路は四つに枝分かれしていた。


「ああ、こいつは凄いな」


 イワンは感嘆の声を漏らした。


 どの通路を通ったとしても出る場所は同じだったようで、季節の花が水辺に咲き誇る美しい池を中心とした、神仙境のような景色が広がっていた。


 手前には、揺蕩う池に『八面玲瓏亭』なる四阿がせり出すようにして建ち、対岸には、丸型や四角、花形の空窓に彩られた回廊があり、緑に輝く美しい林を覗く事ができた。


 右奥には平屋建てが、左側の手前には太湖石を積み上げた築山があり、短い橋が架けられ、橋を越えた向こう側は高い塀に囲まれ、円洞門が口を開けている。


 平屋建てには滬徳案内屋『優游涵泳』の名が冠せられ、申国によくある喫茶店、茶館のような雰囲気が感じられた。


 イワン達は滬徳案内屋ではなくどこかの金持ちの家に迷い込んでしまったのではないかと思い、恐る恐る平屋に入った。


 屋内にもやはり喫茶室のような雰囲気が漂い紫檀の卓子と椅子が置かれ、壁に掛けられた書画や陶磁器の壺が落ち着いた雰囲気を醸し出している。


 部屋の隅には水屋が備え付けられ、木製の棚には、一つとして同じ形のものはない色とりどりの茶器、茶灌に、お茶請けが保存されているだろう、これも色彩豊かで様々な形をした壺が並んでいた。


「すみません?」


 イワンは受付と思しき場所に座っている人影に話しかけた。


「いらっしゃい、今日はどんなご用で?」


 愛想よく笑って立ち上がったのは歳の頃なら四十代ぐらい、人がよさそうな顔をした中年の男だった。


 身長は一七〇センチ近くと申国人にしては高い方、四季の花々が金の糸で丁寧に縫い取られた見事な深紅の長袍を身に纏っている。


「滬涜案内人の劉老板ですか?」


 イワンは、彼が噂の〝楽園案内人〟、劉子驥、その人なのだろうかと聞いてみた。


「はい、どうぞ座って下さい。今、お茶を用意しますから。ああ、でも、小樊がいないな? ちょっとお待ち下さい」


 いかにも善良そうな中年は店の主人である事をあっさりと認め、イワン達が酒臭い事に対して嫌な顔一つしなかった。


「いや、お茶は大丈夫です。それより劉老板は昔、桃源郷に行った事があるというお話を聞いたんですが……桃源郷に行った事があるから、〝楽園案内人〟と呼ばれている、と。俺達も桃源郷に連れて行ってちゃもらえませんかね?」


 イワンは本人を目の前にして興奮したように、お茶を断り、席にも着かず、早速、用件を切り出した。


「桃源郷ですか、ただの伝説ですよ。私は桃源郷には行った事はないし、案内だってできません」


 子驥は困った顔をして言った。


「この国には、〝小神仙〟と呼ばれる不思議な力を使える人達がいるじゃないですか? 〝小神仙〟は楽園に行く為に修業をしているって言うし、桃源郷も探せばどこかにあるんじゃないですか?」


 イワンは藁にもすがる思いだった。


「確かに〝小神仙〟と呼ばれている人達はいますが、〝虎〟なんていうのもいますからねえ。〝虎〟は適当に作った丸薬を万病に効く〈金丹〉だとか言って、病人に高値で売りつけるインチキ詐欺師ですよ。彼らの存在こそ、桃源郷なんかないって証拠かも知れません」


 子驥は〝虎〟の下りについては不愉快そうだった。


「火のないところに煙は立たないんじゃないか?」


 スクラートフはまだ納得していない様子だった。


「〝楽園案内人〟なんてご大層な名前で呼ばれているんだ、勿体つけてとぼけるなよ」


 ヴラソフに至っては苛立ちを露わにして言った。


「私は本当に、桃源郷に行った事は……」


 子驥はそこまで言って口を噤んだ——イワンがいつの間にかヒップホルスターから、銃身が短い自動拳銃オートマチックを取り出し、銃口を向けていたからである。


「…………」


 イワンは自分の事ながら、なぜ、銃を抜いてしまったのか、不思議に思っていた。


(どうした? 俺は何をしている? これからどうするつもりだ?)


 イワンが手にしているのは、ブローニング一九〇〇型、三十二口径、装弾数七発——スーツのポケットに入れても目立たない、携帯用の銃である。


「……これはいったい、何のつもりですか?」


 子驥は拳銃を向けられているにも関わらず、いやに落ち着いていた。


「滬涜に、七、八年も住んでいれば、ロシア人の俺もそれなりに詳しくなる。神仙境に行くには不老不死の仙人にならないといけないんだよな? 桃源郷に行った事があるって噂が本当なら、あんたも不老不死のはずだ……試させてもらうよ」


 イワンの目は座っていた。


(俺はなぜ、こんなにムキになっているんだ?)


 判らない。


 自分と同じように、スクラートフもヴラソフも、子驥にブローニングの狙いを定めて、静かに立っていた。


「いくら酔っ払っているにしても、やり過ぎじゃないですかね」


 子驥は呆れたように言った。


「だったらどうする?」


 イワン達は嬉々としてブローニングの引き金を引き、子驥に向かって発砲した。


 だが、彼らの目の前から、子驥は煙のように消えた。


「!?」


 イワンは目を白黒させた。


「うちの店で発砲なんかされたら困りますよ」


 子驥はイワンの背後に回り、首の後ろを指先で軽くつついた。


「!?」


 イワンは咄嗟に振り返ろうとしたが、すでに身動ぎ一つできなかった。


「お二人さんもね」


 子驥は呆気に取られ立ち尽くしていたスクラートフとヴラソフの首の後ろを指先で軽く突っつくと、身動ぎ一つできなくなった彼らの手から拳銃を奪い、近くの卓子の上に置いた。


「これは〈点穴術〉と言って、いわゆる〝申国四千年の神秘〟——!?」


 子驥は次の瞬間、石畳の床に自分から転がっていた。


「ちぃ!」


 子驥に背後から襲いかかり、仕留め損ない、舌打ちをしたのは、イワン達と茶館で別れたはずの滬徳案内人、段景住だった。


「……貴方は?」


 子驥は迷惑そうな顔で立ち上がると、突然、襲いかかってきた男、段景住に聞いた。


「やれ!」


 段景住は金縛りに遭ったようにぴくりとも動かないイワン達に命じ、質問に答えようとはしなかった。


「強引だな、〝気〟の流れを絶っているっていうのに」


 子驥はイワン達が再び操り人形のように動き出し、じりじりと間合いを詰めてきたのを見て、呆れたように言った。


「こいつらは見ての通り、白系ロシア人だ。おまけに、身寄りのない兵隊崩れと来ている」


 段景住は得意げな様子だった。


「白系ロシアだから、兵隊崩れだからなんだって言うんです?」


 子驥はスクラートフとヴラソフの二人掛かりで掴みかかられ、揉み合いになる。


「判らないのか?」


 段景住は子驥が揉み合っているところに、構わず手刀を突き入れた。


「ギャ!?」


 突然、背中を手刀でぶすりと貫かれ、堪らず悲鳴を上げたのは、スクラートフである。


 更に段景住は、そのまま子驥の体を抉ろうとした。


 どう考えても、人間業ではなかった。


「こいつらはここで死んだとしても誰にも顧みられる事はない、お前を不意打ちする為に使い捨てるには打ってつけっていう訳だ」


 段景住はまたしてもスクラートフの体ごと、子驥を手刀で貫こうとした。


 が、子驥は自分に覆い被さるようなスクラートフの体を投げ捨て、その勢いで回転するように避けた。


「ギャァ!?」


 子驥が避けた事で、今度はヴラソフが手刀の餌食になる。


「使い捨てならまだあるぞ!」


 段景住が言うや否や、子驥に殴りかかってきたのは、イワンだった。


「——お、俺は、いったい、何を!?」


 直後、イワンは正気を取り戻したのか、驚いたように言った。


「ようやく我に返りましたか?」


 子驥はイワンの両手を掴んで、苦笑いした。


「くそ! 『呑符』の効き目が消えたか!? だが、もう用済みだ!」


 段景住は子驥の動きが止まった瞬間を見逃さず、すかさずイワンの体ごと貫こうと手刀を繰り出した。


「危ない!」


 子驥はイワンの事を庇って、咄嗟に立ち位置を変えた。


「お、おい、大丈夫か!?」


 イワンは自分と向き合うようにして立った為に、子驥が段景住の凶器のような手刀をその身で受ける事になった光景を目の当たりにして、困惑した。


「さあ、お前の正体は人間か、それとも不老不死の仙人か!?」


 段景住は子驥の脇腹を己の手刀でこねくり回し、舌舐めずりをして言った。


「……人間はいつか必ず、死にますよ」


 子驥の脇腹からは血が滲んでいたが、悲鳴を上げるでもなく、呻き声を上げるでもなく、寂しそうに笑った。


「段景住! 俺に、みんなに何をした!?」


 イワンは段景住にブローニングの銃口を向けた。


 スクラートフとヴラソフは二人揃って床に倒れたまま、辺りには血溜まりができている。


 おそらく、もう手遅れだろう。


「お前も白系ロシア人なら判るだろう、お前達のここでの暮らし振りはどうだ? 他人から差別され、ろくに食べるものもない。俺も似たようなものさ。貧しい家に生まれ、どう足掻いたって抜け出せない、こんな世の中に幸せなんかありゃしないのさ——だけどな、この国には、不老不死の仙人がいる。仙人が住む、神仙境があるんだよ」


 段景住はとどめだとばかりに、子驥の内臓を抉った。


「そしてこの男、〝楽園案内人〟劉子驥は、桃源郷に行った事があるという——真偽を確かめる為に、お前らを利用させてもらったのさ」


 段景住は子驥から手刀を引き抜き、蹴り飛ばした。


「劉老板、大丈夫か!」


 イワンは子驥の元に駆け寄った。


「さあ、この目で確かめさせてもらおうじゃないか! あんたがその辺にいる〝小神仙〟や、ましてや〝虎〟なんかじゃないっていう事を! 本物の不老不死の仙人なのかどうかをな!」


 段景住は足元に転がる子驥を見て嬉しそうに言った——いや、我が目を疑った。


「劉老板!?」


 イワンは目を白黒させた。


「……ロシア人のお客さんを霊符で操ってうちに襲撃しに来た、貴方の方こそどこのどなたなんですか?」


 子驥はなんと、片手で脇腹を庇うようにして、よろよろと立ち上がった。


「き、傷口が!?」


 イワンは子驥が片手を当てた途端、脇腹の傷口が塞がっていくのを見た。


「おいおい! あんた、本当に仙人らしいな!」


 段景住は感心したように言った。


「私が仙人かどうか確かめる為に他人を巻き込んで、殺人を犯す事も辞さないとは」


 子驥は周囲の惨状を見回し、哀れむように言った。


「何とでも言えよ、こちとら『羽化登仙』さえできれば何だっていいんだからな!」


 段景住は下卑た笑みを浮かべた。


「私が仙人だとしたら、どうするんですか? 神仙修行をつけてもらいたい? 〈金丹〉を奪う?」


 子驥はそういうのはもう飽き飽きだというような口振りだった。


「さあ、どうかな?」


 段景住は指笛を吹いた。


「今のは何の合図ですか?」


 子驥は訝しげな顔をした。


「ふん」


 段景住は答えるつもりはないようだった。


「何を企んでいるのか知りませんが、屋敷には阿姨(お手伝いさん)もいるし、これ以上、無関係の人間を巻き込む訳にはいかない——さっさと片付けさせてもらいますよ」


 子驥はつまらなそうに言った。


「いくらあんたが仙人でもその辺にいる普通の人間相手のようにはいかないと思うぜ」


 段景住は自信満々、丸薬のようなものを口に含むと、一瞬にして、毛むくじゃらの化け物に変身した。


「な、何なんだ!?」


 イワンは、段景住に——いや、ついさっきまで段景住だった毛むくじゃらの化け物に向かって、ブローニングを無我夢中で発砲した。


「そんなもの通用しねえよ!」


 段景住は銃弾をものともせずにイワンの事を殴り飛ばし、次いで子驥に襲いかかる。


「私はただの滬徳案内人ですよ」


 子驥は段景住を中心にして円を描くように歩き、彼の攻撃を難なくかわした。


「『羽化登仙』の為なら手段を選ばず、偽丹を使って人間の姿まで捨てるとは」


 子驥は段景住の変わり果てた姿に嫌悪感を露わにした。


「これこそ、仙人に最も近い力、 〈簡松丹〉の力だ!」


 段景住は雄叫びを上げるように叫んだ。


「こいつはさすがに逃げた方がいいんじゃないか?」


 イワンは段景住に殴り飛ばされ床に倒れ込んだところからなんとか立ち上がり、形勢不利と見て言った。


「私は〝虎縛の俠〟なんで大丈夫ですよ」


子驥は毛むくじゃらの化け物を相手に、見事な体術で応戦し、一歩も引かなかった。


「舐めるなよ!」


 段景住は子驥の体に鋭い爪を突き立てようとするが、子驥はその度に軽やかに受け流した。


「〝虎縛の俠〟?」


 イワンは聞いた事がなかった。


「滬徳で案内人を始めた、侠客、遊侠は、司馬遷によれば、三等に分けられるそうで」


 子驥は段景住が必死の形相で攻撃してくるのとは対照的に、涼しい顔で解説した。


「——布衣閭巷、無位無官で、裏町に住む者が、その一」


 すなわち、布衣の侠、匹夫の侠である。


「——士卿相の富を有する、領土を持ち、丞相や大臣のように富裕な者が、その二」


 すなわち、卿相の侠である。


「——暴豪恣欲の徒、横暴で欲しいままに振る舞う者が、その三」


 すなわち、暴豪の侠である。


「そして私は、侠客、遊侠の中でも、特に〝虎〟を許さぬ者……〝虎縛の俠〟」


 子驥は最早、段景住の攻撃を柳のようにかわし、圧倒していた。


「でも、こいつは半端な〝虎〟なんかじゃなく、本物の化け物にしか見えないが……」


 イワンは緊張した面持ちで言った。


〝虎〟は少しばかり方術や気功に通じているとは言え、単なる詐欺師、多くは金目当てのインチキ薬売りや、ハッタリ武術家である。


 だがしかし、段景住と来たらどう見ても人間ですらないではないか。


「申国人の間でもあまり知られていませんが、彼らは普通の〝虎〟じゃない。〝虎〟の中でもより危険で凶悪な、〝窮奇〟です。彼らの目的はお金儲けじゃない、『羽化登仙』だ。『羽化登仙』する為には手段を選ばない、殺人さえ厭わない連中ですよ」


 子驥は見るに堪えないという顔をした。


 窮奇は、前漢初期の書、『神異経』によれば、有翼の虎のような姿をしていて、鉤爪と鋸のような牙で、人間を食べるという。


 誰でも食べる訳ではない——人間が争っているところに行って、正しい方を食い殺し、誠実な人間がいれば鼻を食らう、悪人がいれば野獣を捕らえて贈り物にするという、邪悪な怪物だった。


「しかし、私が桃源郷に行った事があるなんて噂を真に受けて、ここまでやるとは」


 子驥は呆れてものも言えないという風である。


「俺は巷の噂一つで、ここに来た訳じゃない」


 段景住は勿体ぶって言った。


「他に何を信じてやって来たっていうんだ?」


 子驥は段景住の周りを円を描くように歩き、両手を使ってやはり円を描くような動作をする事で攻撃を受け流していたが、ふいに死角に回り込み、拳を打ち込んだ。


「!?」


 段景住は子驥の一撃を受け、ぱたりと床に倒れ込んだ。


「やった!?」


 イワンは喜びの声を上げた。


「まだですね」


 子驥は次の動きを警戒した。


「……さすがは不老不死の仙人だ。〈簡松丹〉を飲んでいなければ、今頃、どうなっていた事か」


 段景住は感心したように言って何事もなかったかのように立ち上がった。


「そちらこそよく平然と立ち上がる事ができますね」


 子驥は少し驚いたように言った。


「褒め言葉か? 〈仙骨幇〉にそんな事を言ってもらえるなんて光栄だ」


 段景住は含み笑いをした。


「ああ……たまに来るんですよね、貴方みたいな人が」


 子驥は途端に悲しげな顔をした。


「俺は巷の噂一つでここまで来た訳じゃないと言ったはずだぞ」


 段景住は獲物に襲いかかる肉食獣のように飛びかかってきた。


「〈仙骨幇〉、かつてこの街で組織された〝小神仙〟の幇だ! 幇主は驚くなかれ、不老不死とまではいかないが、不老長寿だったらしいじゃないか! 今やこの街で知らぬ者とていない滬徳案内人、劉子驥! あんたはある日突然、解散したっていう、〈仙骨幇〉の生き残りなんだろう!?」


 段景色は子驥の体を引き裂こうと、鋭い爪を振り翳す。


「だったら、何だって言うんですか?」


 子驥は両手で円を描いて鋭い爪をかわすが、防戦一方だった。


「俺の力がどこまで通じるか、とことんやらせてもらおう!」


 段景住は矢継ぎ早に攻撃を仕掛けた。


「甘い!」


 子驥はするりとかわし、急所に拳を入れたが、


「どっちが!? 俺に人間の拳なんぞ効くか!」


 段景住はびくともせず、鉤爪を振りかぶった。


「そんなに別世界に行きたいのなら、今すぐ連れて行ってあげましょう」


 子驥は胸元から取り出した巻物のようなもので段景住の鉤爪を防いだかと思えば、前蹴りで突き飛ばし、距離を取る。


「——人生無根蒂」


 子驥は両手で巻物を広げ、何か呪文のようなものを呟き始めた。


「これも〝申国四千年の神秘〟ってやつなのか?」

 イワンは何が起きているのか理解できず呆然としていた。


 子驥が両手で広げた巻物は神仙境を思わせる荘厳な山河が描かれた掛け軸だったが、いったい、どんな細工が施されているのか、黒い煙がもくもくと出てきた。


「な、何だ、この煙は!?」


段景住はあっという間に黒い煙に包まれ、なんとか振り解こうしたが、身動きが取れず、驚きと恐怖で顔が引きつっていた。


人生無根蒂

人生は根蒂無く


飄如陌上塵

飄として陌上の塵の如し


分散逐風轉

分散し風を追って転じ


此已非常身

此れ已に常の身に非ず


落地爲兄弟

地に落ちて兄弟と為る


何必骨肉親

何ぞ必ずしも骨肉の親のみならん


得歡當作樂

歓を得ては当に楽しみを作すべし


斗酒聚比鄰

斗酒 比隣を聚む


盛年不重來

盛年 重ねて来たらず


一日難再晨

一日 再び晨なり難し


及時當勉勵

時に及んで当に勉励すべし


歳月不待人

歳月 人を待たず


「——〈山河社稷図〉、急急如律令!」


子驥が鋭い声を発すると、段景住は悲鳴を上げる間もなく、神仙境を思わせる荘厳な山河が描かれた掛け軸の絵の中に吸い込まれていった。


「今のは……あんたやっぱり、本物の仙人なんじゃないか!?」


 イワンは信じ難い光景に唖然としたが、一呼吸置いて興奮した様子で聞いた。


「いいえ」


 が、子驥は首を横に振った。


「さっきも手を翳しただけで脇腹の傷を治していたじゃないか!? あんたが本当に仙人だっていうのなら——!?」


イワンが何か言いかけた時、遠くから怒号が聞こえてきた。


「……指笛は私の留守を知らせる合図か」


子驥は呟くように言って、足早に外に出向いた。


「お、おい! ちょっと待ってくれよ!」


イワンは置いてきぼりにされては困ると、彼の後について行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る