序②

 序②


 ——ここじゃないどこかに行きたい……絶対、『羽化登仙』してやる……。


 子驥はいつかの父親と同じように、こんな世界はもううんざりだ、と思い、父親が残した資料や道具を使い、独学で煉丹術に取り組んだ。


 自分が十七歳の時、自作の〈金丹〉を自ら試して、呆気なく死んだ父親のような失敗はしないと思いながら。


 父親の死因は自作の〈金丹〉による、中毒死だったのである。


 父親は母親の死期が近い事を受け入れられず、いつも部屋に篭って、煉丹術の研究に明け暮れ、怪しげな実験に没頭していた。


 たまに姿が見えないと思えば、〈金丹〉の材料となる金石草木を探しに遠出していた。


 母親は、自分が病気になった事で周りに迷惑をかけて申し訳がないと、嘆き哀しむばかりだった。


 そして二人とも、子驥を残して亡くなった。


 子驥は人生に嫌気が差して一人で住むには広すぎる屋敷で煉丹術に打ち込んだが、一向に〈金丹〉は完成せず、自分一人の力でやるには限界を感じていた。


 そんな時、滬徳ことくに〝小神仙〟の修行と交流の場があるという噂を聞いたのである。


 一九一五年、劉子驥、二十歳は、滬徳を目指して、旅に出る事にした。


 申国が阿片戦争に敗北し、南京条約によって滬涜の一部をイギリス人の居住地とする事を余儀なくされ、滬涜租界が成立してから七十年、現在、租界は列強各国が名乗りを上げ、フランスはフランス租界を手に入れ、イギリス租界は、アメリカ、日本が加わり、『共同租界』とその名を改めていた。


 滬涜は、『魔都』、『冒険家の楽園』、『東洋のパリ』、数々の異名で呼ばれ、世界中の人々が集まっていた。


 単なる観光目的の者、滬涜に行くにはビザもパスポートも要らない事から、一攫千金を夢見て裸一貫でやって来た者、犯罪など後ろめたい事情があって逃げ出してきた者、人間模様は色々だった。


 滬涜の街は人種の坩堝と化し、滬涜随一の商店街である南京路は活気に満ち、滬徳一の歓楽街である四馬路も夜の快楽に満ちていた。


 だが、それだけでは、『魔都』、『冒険家の楽園』などという、危険な匂いがする呼称は頂戴しまい。


 滬涜がきな臭い名で呼ばれているのは、各租界がそれぞれ違う行政に治められている事に原因がある。


 例えば共同租界で犯罪を犯したとしても、お隣のフランス租界に逃げてしまえば、警察は最早、手出しする事ができない。


 それ故、租界では、大小様々な犯罪が横行しているという訳である。


 その上、〝申国四千年の神秘〟を悪用した、詐欺、誘拐、殺人事件も起こる。


『魔都』、『冒険家の楽園』と言われる所以である。


 子驥は初めて訪れた土地で右も左も判らなかったので、とにかく人がいるところに向かって歩いた。


 そうして、租界最大の商店街、金楼銀楼が建ち並ぶ南京路に着いた。


「すみません、道を聞きたいんですが、この辺に、『大新世界』って遊楽場はありますか?」


 子驥は人々が行き交う大型百貨店の出入り口の前で、陶器人形のように可愛らしい、二、三歳の娘を抱いた、母親と思しき若い女性に声をかけた。


「『大新世界』なら、滬涜競馬場の東側、西蔵路の角ね」


 あまりに判らない事ばかりなのでなるべく優しそうな相手を選んだのだが、間近で見ると溌剌とした感じがする美しい女性だった。


「西蔵路?」


 子驥は本当に何も知らなかった。


「滬涜の街は初めて?」


 女性は愛想のいい笑顔で言った。


「はい、北京から出てきたばかりです。『大新世界』には〝小神仙〟の修行と交流の場があると聞いて」


「もしかして〝小神仙〟? 滬徳には適当な事を言って、お金を騙し取る詐欺師も多いわよ」


 女性は見ず知らずの子驥の事を心配してくれているようである。


「〝虎〟かどうかは見れば判るし怪しそうなら素直に帰りますよ」


 子驥は思った通り、優しい心の持ち主だった相手に、余計な心配をさせまいとして言った。


「ごめんなさい、ちょっといいかしら?」


 女性は娘を地面に下ろすと、子驥に向かって片手を翳した。


 母親に似て可愛らしい顔をした娘は本物の陶器人形のようにじっと佇み、二人のやり取りを見ていた。


「……?」


 子驥は訝しげな顔をした。


「ところで、滬涜案内には行った?」


 女性は再び娘を抱きかかえると、何事もなかったように聞いた。


「滬涜——?」


「この街にやって来たからには滬涜案内ぐらい知らないと。私も今から『大新世界』に行くところだから案内しましょうか?」


 女性は親切にも今から案内してくれるという。


 滬涜案内——『滬涜案内屋』、『滬涜案内人』と言われる、その名の通り、滬涜の案内を生業とする者である。


 その昔、侠客や博徒が弱きを助け強気を挫く義侠心から、或いは単なる小遣い欲しさから、顔の広さ、土地に詳しい事を活かし、地方から出てきた人間や海を渡ってやって来た外国人を相手に、観光案内や職業の斡旋、住居の世話をした事が始まりだという。


「ありがとうございます」


 子驥は親切な女性に感謝して、素直についていく事にした。


「滬涜案内人は租界と同じ時期に生まれた職業で、観光の案内をしたり、職業の斡旋をしているのよ。大体は貴方みたいな観光客や、出稼ぎ労働者、それに外国人相手の商売ね」


 女性は我が子をあやしながら、滬徳案内人の説明をしてくれた。


 現在は元が侠客や博徒でなくても最初から案内人として看板を出している者もいるが、業務は変わらず、観光案内所、口入れ屋、借家紹介業の性格を持つ、ある種、便利屋のような仕事だ。


 滬徳案内人は数百人はいると言われ、滬涜最大の商店街、南京路に事務所を構えるか、路地に立って客引きをし、求人を探しに来た申国人はもちろん、外国人の相手をしている。


「滬涜の街は大きく三つ、今、私達がいる共同租界、プラタナスが綺麗なフランス租界、そして私達、申国人が住んでいる華界に分かれる。貴方が目指す『大新世界』はここね」


 子驥は見ず知らずの女性に案内してもらって、西蔵路の角にある『大新世界』にようやく辿り着いた。


 彼女が言うように滬涜の街は、列強各国が治める共同租界、フランスが治めるフランス租界、申が治める華界に分かれ、共同租界は工部局が、フランス租界は公董局が、華界は申国の当局が、行政を担っていた。


 だが、『三界』と呼ばれる各地域はお世辞にも治安がいいとは言えず、入国審査もないところだから、犯罪者にとっては天国だった。


「助かりました」


 子驥は人々で賑わう、地上三階、地下四階建ての建物を、感慨深そうに見つめた。


『大新世界遊楽場』——文明芝居、太鼓、物真似、各種の出し物の他にも、申国料理屋や洋食レストラン、ダンスホールも併設され、屋内スケート場まで備えた、共同租界でも名が知れた遊楽場の一つである。


「係の人間がいるところまで案内しましょうか?」

 女性は出入り口の人混みをかき分けると、大広間を抜け、地下一階、二階、三階と、階段を下りていく。


「あの、どこまで?」


 子驥は不安そうな顔をしたが、女性は構わず進んでいく。


「老樊!」


 女性に声を掛けてきたのは、階段を下りた先にある踊り場に立っていた、一人は細面の美男子、もう一人は体格のよい筋肉質の若者だった。


「小燕、小鄭、ちょっと遅れちゃったわね」


 女性——樊は、親しそうに言った。


「大丈夫ですよ、まだみんな来たばかりだし」


 燕は美男子らしい、爽やかな笑顔で言った。


「こちらは?」


 鄭は子驥の事を見て、興味津々という様子である。


「北京からやって来ました、劉子驥です。滬徳には〝小神仙〟の修行と交流の場があるという話を聞いて、旅して来ました」


 子驥は、期待と不安、緊張が入り混じった顔で自己紹介をした。


「私はもう確かめたわ」


 樊はいったい、何を確かめたというのか、意味ありげに言った。


「ちょっと失礼」


 燕が改まった様子で子驥に片手を翳した。


「?」


 子驥は燕が樊と同じように片手を翳してきたので、怪訝そうな顔をした。


「うん、おめでとうございます。合格ですよ」


 燕は片手を下ろし、お祝いの言葉を述べた。


「どういう事ですか?」


 子驥は何が何だか判らなかった。


「私達〈仙骨幇〉は入会希望者がどんな〝気〟を持っているのか、最低二人の構成員で確かめているのよ」


 樊は戸惑う子驥の様子を見て、笑って言った。


「ようこそ、〈仙骨幇〉へ!」


 燕と鄭は一礼すると、子驥を奥へと案内した。


「も、もしかして、みんな?」


 子驥は驚きに目を見開いた。


「ええ、『大新世界』の老板が立ち上げた、〈仙骨幇〉の一員よ。二人はここの用心棒で、彼らの許可なしには、〈仙骨幇〉の修行と交流の場である『天堂』には入れないわ」

 

 樊は地下通路を歩きながら言った——『老板』は、「経営者」、「店主」といった意味の言葉である。


「ここが『天堂』よ」


 樊が案内してくれた『天堂』の外観は白い漆喰塗りの壁が印象的な、まるで劇場のような施設だった。


「なんか舞台みたいだな」


 子驥は分厚い木製の扉の上に『天堂』と大書された金縁の扁額が掛けられているのを見て、半信半疑といった風である。


「表向きはね」


 樊が扉を開けて中に入ると、天井に大きな電燈がぶら下がり、客席に籐椅子が三百脚ぐらい整然と並び、舞台の幕は上がっていた。


 舞台の上では数人の男女が、それぞれ別の器具を使い、訓練らしき事をしている。


 細身の筋肉質の男は砂が入った壺の中に五本の指を突き刺し、木の板を体に打ち付けている者もいれば、人差し指で逆立ちしている者もいた。


 十代と思しき少女達は虎のように四つん這いになって伸びをし、鉄棒に掴まって猿のように動き回り、鳥が羽ばたくように両手を動かし、動物の動きを真似した体操をしていた。


「この場にいる人達は、みんな〈仙骨幇〉。客席にいるのが『大新世界』の老板であり、〈仙骨幇〉の発起人である、しょう師父——私の旦那さん」


 樊は観客席に一人座った、三十代ぐらいの精悍な顔つきをした男を見やり、気恥ずかしそうに言った。


「——こんにちは、私は〈仙骨幇〉の幇主をやらせてもらっている、焦先と言います」


 子驥達の姿に気づいた焦は席から立ち、愛想よく言った。


「初めまして、劉子驥と言います。煉丹術に興味があって、北京からやって来ました」


「こうして『天堂』にやって来たという事は、今日から〈仙骨幇〉の仲間だね。ところで劉子驥先生は、何年生まれですか?」


 焦先は初対面の子驥に対しても親しげな様子で、興味津々という様子で聞いてきた。


「一八九四年、今年で二十歳になります」


「そうすると、劉子驥先生は見た目通りの年齢という訳か」


「いくら〝小神仙〟だからって、焦師父みたいな人はそんなにいないと思いますよ」


 樊は苦笑いを浮かべた。


「どういう事ですか?」


 子驥はきょとんとした。


「私が〈仙骨幇〉を設立した理由はかの淮南王劉安に倣って、志を同じくする〝小神仙〟を集めて研鑽を積もうと思ったからなんだよ」


 かつて淮南王劉安は、大勢の食客を抱え、ある日、八人の仙人を迎え入れ、彼らに教えを受けた後、見事、『羽化登仙』を果たしたという。


 焦先もかの淮南王劉安のように才能ある者を集め、不老不死の仙人にならんとして〈仙骨幇〉を組織したという訳である。


「私達は不老不死の仙人になって『羽化登仙』しようという者の集まり、〝申国四千年の神秘〟の体現者だ。実際、私自身、三国時代から生きている」


「ほ、本当ですか?」


 子驥は驚きを隠せなかった。


 三国時代と言えば、今から遥か昔、黄巾の乱が起きた頃である。


「焦師父は〈石髄〉を食べて不老長寿を得たのよ。だからもしかしたら貴方も外見と実年齢が違うかも知れないと思って、何年生まれか聞いたの」


「そんな、滅相もない、俺なんかまだまだ修行が足りませんから」


 子驥は狼狽えたように言ったが〈石髄〉については知っていた。


『本草綱目』にはこうある——『石髄は神山が五百年に一度開くと出てくる。これを服用すると長生きする。王列という者が山に入り、石の裂けたところに石髄を見つけてこれを食べた』、と。


「何か聞きたい事、やりたい事があれば、遠慮なく言ってくれ。『天堂』は毎日、夕方からやっているし、修行以外にも、住むところや仕事が欲しかったら、できる限りの事はするよ。ここで仲間達と切磋琢磨していれば、劉子驥先生も〈石髄〉が効果を発揮する身体を作る事ができる。その為にも、まずは〈仙骨幇〉の面々を紹介しようか」


 焦先は舞台の上で修行に励む男女を見やる。


「右から順に、あの体格のいい男達が、王英、花栄、黄信。体操をしている三人娘が、太仙花、何玉鳳、趙青霞。君を案内して来たのが、私の妻である樊照に、娘の清清。表に立っているのが、燕順に鄭天寿だ」


 子驥は焦先が彼らの名前を言う度に、自分と同い年か少し年上にしか見えない彼らも、百歳、二百歳の不老長寿なのだろうかと落ち着かなかった。


「劉子驥先生も知っているとは思うが、仙人になるには幾つか方法がある——すなわち、煉丹術、辟穀、導引、行気、だ。ここではその全てを教えているし、同じ〝小神仙〟同士、刺激をし合って実力を高め合う事ができる。私もそれが目的で〈仙骨幇〉を設立したから、みんなからは『天堂』の使用料金ぐらいしかもらっていない。今日から一緒に頑張ろう」


 子驥は目を輝かせたが、まだ心のどこかに、彼らは〝虎〟なのではないかという警戒心が残っていた。


 だが、それもすぐに杞憂だと判った。


 焦先は本当に『天堂』の使用料金ぐらいしかお金は請求して来なかったし、子驥の『八卦掌』の腕を見込んで『大新世界』の用心棒として雇ってくれたのだ。


 もちろん、非番の日には神仙修行をつけてくれた。


 そう、彼らは〝虎〟などではない。


 正真正銘の〝小神仙〟なのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る