序③

 序③


 ——三年の月日が流れ、子驥は二十三歳になった。


 子驥は今も『大新世界』の『天堂』に通い、〈仙骨幇〉の仲間達とともに修行していた。


 樊照はもちろん、燕順や鄭天寿達も、以前と変わらず、修行に励んでいた。


 滬涜の街も相変わらず、仕事を求める貧乏人や乞食が溢れ、毎日、窃盗、強盗、誘拐といった事件が多発し、犯罪者達は租界を行き来し、警察の手を逃れ、捕まる事なくのさばっていた。


 第一、滬涜の警察署長にしてからが、裏では、犯罪組織、〈青幇〉の首領として阿片を売り捌いているのだ。


 ——全く、嫌な世の中だ……ここじゃないどこかに行きたいな。


 子驥の思いは日に日に強くなっていた。


 ——この世は辛く厳しい、女子どもにも容赦がない。


 ちょっと前にも、新聞紙『申報』に、資産家の娘ばかりを狙った、誘拐事件の記事が掲載されていた。


 ——前途ある若者が行方不明になったって言うのに、世間が騒いだのも一時の事だったな。


 滬涜では『滬涜する』という言葉が『誘拐する』といった意味で使われるぐらい、誘拐が日常茶飯事だった。


 誘拐犯は、白昼堂々、街中で人々を誘拐し、男なら水夫として働かせ、女なら女工として売り飛ばすか、女がいない村に嫁がせに行かせる。


 相手が金持ちなら身代金を要求するはずだが、資産家の令嬢誘拐事件では、犯人は、身代金を一切、要求して来なかったという。


 ボディガードに守られた資産家の娘を、わざわざ危険を犯してまで狙ったにも関わらず、だ。


 目的の判らない謎めいた事件だったが、新聞はすぐに別の事件を追いかけ、人々の興味も薄れた。


 ——ここじゃないどこかに行きたい。


 子驥は世間を騒がす事件が起こる度に、ますます思いを強くした。


「二人とも早いな」


 子驥は『大新世界』の地下、『天堂』に行く途中の階段の踊り場で、馴染みの二人組を見つけ、感心したように言った。


 今日の警備を担当している燕順と、非番の鄭天寿だった。


「劉子驥か」


 燕順はなぜか、浮かない顔だった。


「何だよ?」


 子驥は不思議に思って聞いたが、燕順は難しい顔をして返事をしなかった。


「ちょっと前に滬涜の資産家の娘が連続して誘拐されたのを知っているか?」


 燕順に代わって答えたのは、見兼ねたような鄭天寿である。


「誘拐犯はわざわざ金持ちの娘を狙ったっていうのに、何も要求して来なかったってやつだろ? 結局、何の手掛かりもなく迷宮入りだろうよ。滬涜じゃ誘拐事件なんて珍しくも何ともないし。最近じゃこの辺りでも、野鶏が突然、姿を消しているらしいじゃないか」


 子驥が言った『野鶏』とは、娼婦の事である。


「……誰が、何の目的で、資産家の娘を誘拐したと思う?」


 燕順が何か考え込んでいるような、思い詰めたような顔をして聞いた。


「何かの手違いで殺しちゃったから身代金を諦めたとか? 金目当てじゃなくて怨恨とか?」


 子驥はただ何となく、思いついた事を並べた。


「資産家令嬢を誘拐する度に手違いがあったら、誘拐犯も大変だな。恨みの線にしても、対象が多すぎる。もし、金持ち相手の恨みなら、何か声明があってもいいんじゃないか?」


 燕順は子驥の答えに、納得しなかった。


「そんな事より、早く中に入って修行しようぜ。俺達もさっさと焦師父みたいに『石髄』を食べられるようになろう」


 子驥は焦れたように言った。


「〝虎〟だよ」


 燕順は、何かに怯えるように言った。


「〝虎〟? 誘拐された娘は〈虎穴〉に連れて行かれたっていうのか? いったい、何の為に? 〝虎〟なんか中途半端に齧った方術や気功を使って、チンケな詐欺や盗みを働くのが精々じゃないか?」


 子驥は矢継ぎ早に質問を並べ立てた。


 滬涜案内人が観光で案内する場所は三つ、〈名所〉、〈悪所〉、〈穴場〉である。


 だが、人々は、滬涜の街には、〈名所〉、〈悪所〉、〈穴場〉の他に、四つ目の場所があるのを知っている。


〈虎穴〉、である。


〈虎穴〉には近付くな、それが滬徳の人々の、滬徳案内人の常識だった。


 元々、〈虎穴〉は虎が住んでいる洞穴の事、転じて危険な場所の意だったが、この場合はいわゆる〝申国四千年の神秘〟を悪用し、盗みや詐欺を働く者である、〝虎〟と遭遇する危険な場所を意味する。


 しかし、どこに〝虎〟がいるのか、〈虎穴〉があるのかは、滬徳案内人も具体的に知っている訳ではなかった。


 なぜなら、〝虎〟がいつも同じところにいるとも、〈虎穴〉が常に同じ場所にあるとも限らないからだ。


 だから、例え普段、行き来している場所でも、妙な噂を聞いたり、何らかの不吉な前兆がある場合には、〝虎〟に遭遇するかも知れない、〈虎穴〉があるかも知れないとして、近付かないのが習わしだった。


「その辺にいる、ただの〝虎〟だったらな」


 燕順は苦笑いをした。


「どういう意味だ?」


 子驥は訝しげな顔になる。


「聞いた話じゃ、いなくなった野鶏に身寄りはいないし、身代金目当てだとしたら、外れもいいところだ。実際、誰にも身代金は要求されちゃいない。当たり前だ。要求しようにも、する相手がいないんだからな」


「資産家の娘も野鶏も身代金目当ての誘拐じゃないとしたら、地方で嫁を探しているとか、女工の人数が足りないとかじゃないのか」


「……そうだといいんだがな」


 燕順はまた思い詰めたような顔になる。


「何を気にしているんだ? もし 〝虎〟だったとして、何だって言うんだ?」


 子驥は燕順では埒があかないと、鄭天寿に向かって言った。


「ただの杞憂だとは思うんけどな、〝虎〟、だったとしたら……いや、やっぱり何でもない、忘れてくれ」


 鄭天寿は何か言いかけたが、階段をちらりと見て、話を切り上げた。


 焦先が姿を現したのである。


「…………」


 子驥は腑に落ちなかったが、皆と一緒に、『天堂』に入っていった。


「——私達〈仙骨幇〉は仙人になる素質を持つ、『仙骨』を持つ者だ。今日もお互いの修行の成果を、最後に確認しよう」


 焦先はいつものように観客席の中央に座り、子驥達に修行の成果を披露するように言った。


 樊照の姿は、舞台に上に見当たらなかった。


 最近、彼女は娘の清清の体調が安定しないので、『天堂』に参加していなかった。


「——焦師父、俺達は〈硬気功〉を身に付けました!」


 一番最初に挙手し、威勢よく名乗りを上げたのは、王英達だった。


〈硬気功〉は特殊な訓練を行って身体を鉄のように硬くするもので、訓練期間中は秘伝の漢方薬を飲み続けなければ身体を痛めたり病気になってしまうという。


「では、今から〈鉄砂掌てっさしょう〉を披露させて頂きます!」


 王英は舞台の上に積み上げた何十枚もの煉瓦を己の拳を使って一撃で粉砕した。


 子驥が初めて『天堂』を訪れた時に、彼が砂が入った壺の中にひたすら五指を突き刺していたのは、〈鉄砂掌〉の修行だったのである。


 花栄と黄信も〈硬気功〉を披露したが、焦先はなぜか眉間に皺を寄せて、厳しい顔をしている。


「私達は、〈五禽戯〉を身に付けました」


 次に前に出てきたのは、太仙花、何玉鳳、趙青霞、三人の女性陣だった。


〈五禽戯〉は、かの有名な神医、華佗が、不老不死になる事を目的として纏めた、人体の〝気〟の循環を促す体操である。


〈五禽戯〉を行えば、穀物の〝気〟は消え、血脈は流れ、病気は生じないと言われ、体調が悪い時に、一禽の戯を行えば、すぐに治るという。


「一に曰く、虎」


 太仙花の掛け声に合わせて、太仙花本人と残りの二人は、舞台の上に四つん這いになり、前に三回、後ろに一回、飛び跳ね、腰を伸ばし、仰向けになって、同じ事を繰り返した。


「二に曰く、鹿」


 四つん這いのまま首を伸ばし、左に三回、右に二回振り返り、左右の足を三回ずつ伸縮させる。


「三に曰く、熊」


 仰向けになり、両手で膝を抱え、頭の上げ下げを七回、起き上がって蹲り、左右の手を交互に床につけ、体重を支える。


 続いて、猿、鳥の戯も行ったが、焦先は何が気に食わないのか、やはり眉間に皺を寄せ、厳しい顔だ。


「お前達はどうだ?」


 焦先は、残る三人、子驥、燕順、鄭天寿に対しても、修行の成果を聞いた。


「毎日、〈叩歯〉に〈嚥津〉をやっていますし、〈周天法〉も、大分、形になってきましたよ」


 子驥が明るく答え、


「俺も」


「私もです」


 と燕順と鄭天寿も返事をした。


〈叩歯〉は歯を噛み合わせる事、〈嚥津〉は唾を飲み込む事であり、朝起きたら三百回、音が鳴るように噛み合わせ、口の中に溜まった唾を飲み込む。

 唾は〝気〟を含んでいる為、外に出さないようにするのである。


〈周天法〉は体内の〝気〟を練って〝丹〟を作る方法で、自分の下腹部にある、〝気〟、〝丹〟を上部に引き上げ、再び下腹部に戻し、引き上げる。


 これを繰り返す為に、〈周天法〉と言われ、〝気〟が活性化し、身体能力が飛躍的に上がるという。


 だがしかし、どうした事か、焦先はため息混じりに首を振ると、それっきり、一言も喋らなかった。


「——今日の焦師父は、なんだか機嫌が悪かったな」


 子驥は舞台の床を箒で掃きながら、同じく掃き掃除をしている燕順に言った。


「……ああ」


 燕順はいつもと様子が違い、上の空だった。


「おいおい、今日はみんなどうしたんだよ?」


 子驥は足元で雑巾掛けをしている鄭天寿に、呆れたように言った。


「……焦師父、最近、『青蓮閣』によく行っているみたいなんだ」


 燕順は床を見つめながら、意を決したように言った。


『青蓮閣』は南京路から数えて四番目の馬路、四馬路にある二階建ての茶館で、一階には寄席が設けられ、二階はお茶を楽しむお客で賑わっている。


 茶館とは言え阿片を提供し、周囲には店を訪れるお客を目当てに野鶏が屯していた。


 はっきり言って、『羽化登仙』を目的として〈仙骨幇〉まで組織した、焦先のような男が行くところではない。


「なんかの用事があって、お茶を飲みに行っただけじゃないのか」


 子驥は箒を動かす手を止め、観客席で何事か考え事をしている当の焦先を横目に、燕順に言った。


「だといいんだけどな」


 燕順は不安そうである。


「いったい、何がどうしたって言うんだよ?」


 子驥は思わせぶりな燕順に、改めて聞いた。


「もうこんな時間だ。戸締りは私が確認しておくから、この辺で解散するとしよう」


 焦先は弟子達の様子を見て、帰宅を促した。


「行こう。歩きながら話すよ」


 燕順は子驥と鄭天寿に目配せし、『天堂』を出て階段を上っていく。


「あれ、老樊。娘さんの具合はもう大丈夫なんですか?」


 子驥は階段の途中で、樊照の姿を見つけ、声をかけた。


「ええ、ちょっと元気がないだけだから、気分転換に『天堂』を見学しに来たんだけど、遅かったかしら?」


 樊照の傍らにひっそりと佇んでいるのは、陶器人形のように可愛らしく物静かな、清清である。


 子驥は子どもながら整った顔立ちをしたこの娘が、駄々をこねたり愚図ったりしているところを見た事がなかった。


 おかげで『ちょっと元気がない』などと言われても、よく判らない。


「焦師父なら『天堂』にいると思いますよ」


 子驥は階段の下を見て言った。


「ありがとう。最近、あの人も元気がないみたいだし、南京路の百貨店にでも誘ってみようかしら?」


 樊照はいい事を思い付いたとでもいうように、子驥達と笑顔で別れ、娘とともに階段を下りていった。


「今日、修行が始まる前に誘拐事件の話をしただろう。資産家の娘ははっきりしないが、野鶏の時には一致するんだよ」


 燕順は樊照が『天堂』に下りていくのを見ながら、恐る恐る口を開いた。


「一致するって、何が?」


 子驥は階段を上りながら、燕順に聞いた。


「新聞で資産家の娘が連続して誘拐されている事を知ってから、この世はなんて残酷なんだろうって、最近、『天堂』の警備をしている時もずっと考えていたんだよ」


 燕順は深刻そうな顔をして言った。


「それで?」


 子驥は立ち止まって、先を促した。


「そしたら今度は街の噂で野鶏が誘拐されたっていうじゃないか。『天堂』の警備をしている時、ふと気付いたんだよ……思い返せば、どこそこの野鶏がいなくなったってその日に限って、焦師父が『天堂』に姿を現さなかったり、遅れていなかった事に」


 燕順は何かに怯えるようにして、押し殺した声で言った。


「……ただの偶然か、気のせいじゃないのか?」


 子驥は燕順の言わんとしている事を察して、驚いたように言った。


「俺も燕順から聞いて、気になって資産家の娘がいなくなったって日を調べてみたんだよ。確かにその日、焦師父は休みだったり、遅れてきていたよ」


 鄭天寿もまた、深刻な顔をして言った。


「記憶違いじゃないのか。いや、例えそうだったとしても、ただの偶然か別の理由じゃないのか。第一、焦師父にはそんな事をする理由なんかないだろう? 俺達はこの世に嫌気が差して、『羽化登仙』しようっていうんだしさ?」


 子驥は疑問を呈したが、燕順も鄭天寿も階段の半ばで立ち尽くし、視線を落として俯くばかりだった。


 辺りが、しん、と静まり返る。


「たぶん、二人とも疲れているんじゃないのか。さっさともう帰——」


 と、子驥が二人に帰宅を促した時、『天堂』の方から、女性の悲鳴が聞こえたような気がした。


「——おい、今のは?」


 燕順の顔色が変わった。


「まさか?」


 鄭天寿も嫌な予感がしたのか、お互い顔を見合わせる。


「……『天堂』に戻ろう」


 子驥は胸騒ぎが収まらず、燕順と鄭天寿とともに踵を返した。


 ——果たして、悲鳴の主は、樊照か、清清か?


「……何だお前達、まだ帰っていなかったのか。あれほど早く帰れと言ったのに」


 子驥が『天堂』の分厚い扉を開けると、観客席の真ん中辺りで、さっきまで整然と並んでいたはずの籐椅子が、何か諍い争いが起きたように倒れていた。


 ——ここでいったい、何が起きたのか?


「焦師父、これは……」


 子驥は、唖然とした。


「畜生が!」


「でも! 何だって自分の家族にこんな事を!?」


 燕順も鄭天寿も唖然とするしかなかった。


 焦先は血塗れ、その上、恐怖に青ざめた一人娘の清清を羽交い締めにして、何が面白いのか、笑っていた。


 彼の足元には、妻の樊照が、気を失ったように倒れている。


「何事ですか!?」


 子驥は一刻も早く樊照の安否を確かめたかったが、焦先が放つ殺気によって最初の一歩を踏み出す事ができない。


「こうなったら、お前達を生かして帰す訳にはいかんな」


 焦先の唇の端から人間のものとは思えない鋭い犬歯が覗き、まるで生ゴミを捨てるように乱暴に娘を放り出す。


 目撃者である子驥達を、殺す気なのだ。


「この!」


 子驥は頭に血が上ったように走り出し、真っ向勝負するかと思いきや、焦先の足元に倒れている樊照の元に滑り込んで、掻っ攫うように助け出した。


 彼が抱きかかえた樊照の首筋には、獣の牙に噛まれたような傷跡があり、僅かに出血していた。


 清清は焦先に放り出され、呆然とした表情で床に座り込んだままだった。


「おい!」


「よし!」


 燕順と鄭天寿の切り替えは早く、なんとかして子驥達を先に逃そうと、焦先の足を止めようとする。


「小賢しい!」


 焦先は嬉々として襲いかかってきた。


「小樊、大丈夫か!? さっさと逃げるぞ!」


 子驥は未だ呆然としたままの清清を叱咤し、気を失ったままの樊照を抱きかかえ、『天堂』の出口に向かう。


 燕順と鄭天寿もまた、焦先の隙をついて、この場から脱出しようとした。 


「させるか!」


 焦先は燕順と鄭天寿が『天堂』の出口に向かおうと僅かに攻撃の手を緩めた瞬間、彼らの頭上を飛び越え、子驥の前に立ち塞がった。


「な、何でこんな事を!?」


 子驥は、師父、焦先を前にして、湧き上がる疑問を口にした。


 子驥が脇に抱える母親を、清清が心配そうに見ている。


「——なぜ?」


 焦先は何を今更といった風で、いっそ、微笑んでいた。


「……我が名は、焦先なり!」


 焦先はあたかも、天に宣言するように言った。


「今より遥かな昔、三国時代に『羽化登仙』を志し、〈石髄〉を食して不老長寿となり、更なる方術を身に付けようと〈仙骨幇〉を組織し、神仙修行に明け暮れてきたのだ! 言わずもがな、これもまた、『羽化登仙』の為よ!」


 焦先は悪びれもせず、自信たっぷりに言った。


「劉子驥、お前は老樊と清清を連れて逃げろ!」


 燕順は言うや否や、焦先の懐に飛び込んだ。


「ここは俺達に任せて先に行け!」


 鄭天寿も、すかさず加勢する。


「身の程知らずの小僧どもが!」


 焦先は風車のように両腕を振り回し、二人を牽制した。


 次いで、全身を回転させ、腕を思いっきり振り下ろし、かと思えば振り上げ、二人を翻弄する。


 焦先がまたしても勢いよく片腕を振り下ろした、瞬間、


「何としても道を開ける!」


 燕順は焦先の左斜め前に踏み出し勢いよく振り下ろされた片腕を外に受け流すと、そのまま懐に入り込んで掌底を打ち込んだ。


 その際、自分の右足で焦先の前足を踏みつけ、威力を倍増させている。


「ハッ!」


 今度は鄭天寿が瞬く間に燕順と入れ替わり、焦先に右の手のひらを打ち込み、受けを誘って彼の顔面を斜め下から突き上げるように左の手のひらで打った。


 と同時、一気に重心を沈め、焦先の胸に身体ごとぶつかっていくように、右肘を打ち込んだ。


「——何で平気で立っていられるんだ?」


 子驥は師父と兄弟弟子の激しい戦いを前にして立ち尽くしていた。


「……もうおしまいか?」


 焦先は、燕順と鄭天寿、二人の怒涛の攻撃を受けても倒れる事なく、依然として行く手を阻んでいた。


「こ、この手応えは……」


 燕順は自分の手のひらを確かめるように見た。


「ああ、まるで岩みたいに硬いが〈鉄布衫〉とも違う」


 鄭天寿は生唾をごくりと飲んだ。


「その通り、これは〈石髄〉の副作用——これを抑える為には、女子どもの柔らかい肉が必要でな……」


 焦先は再び両腕を振り回し、燕順と鄭天寿の二人に対して、重い鞭のような一撃を打ち込んだ。


「ちいっ!」


 子驥はこのままでは誰も逃げる事ができないと覚悟を決め、樊照を床に下ろして、臨戦態勢を取った。


「お次はお前だ!」


 焦先は嗜虐的な笑みを浮かべあっという間に燕順と鄭天寿を吹き飛ばし、今度は子驥に狙いを定めた。


「資産家の娘を誘拐したのも、あんたの仕業か!?」


子驥は執拗な攻撃を受けながら、焦先に確かめた。


「金持ちの娘は健康で肉付きもいいからな! だがそれでも、私の身体はしばらくすればまた元通り、すぐに岩に変わってしまう!」


 焦先はあっさりと犯行を認めた。


「このところ野鶏が次々と失踪しているのも、あんたが犯人っていう訳か!?」


 子驥は悔しそうに言った。


「資産家の健康な娘に比べれば味は落ちるが、野鶏は失踪してもあまり騒ぎにはならんからなあ」


 なんだか夕飯の献立でも話しているような調子である。


「あんたほどの人が!」


 子驥は悔しさのあまり、歯軋りをした。


「畜生」


「なんてこった」


 燕順も鄭天寿も痛みを堪えてなんとか立ち上がったものの、衝撃を受けていた。


「……焦先……」


 樊照もまたいつの間にか意識を取り戻していたようだったが、夫の名を呟いて絶句するばかり。


「おお、目が覚めたか! 仙骨を持つ女子よ!」


 焦先はさも愛しそうに樊照に話しかけたが、そこには愛情など微塵も感じられなかった。


「今まで〈仙骨幇〉として一緒にやって来た、いや、妻である老樊にまで手をかけたのは、なぜだ!? あまつさえ、実の娘の小樊にも危害を加えるなんて!」


「いくら若い女の血肉を食らったところで、市井の人間では気休めにしかならんのでなあ。〈仙骨幇〉の中でも随一の才を持つ妻と娘のそれなら私の石化も止められるかも知れんと、機を窺っていたのよ」


 焦先はこともなげに言った。


「外道が!」


 子驥は激昂した。


「なんとでも言うがいい——全く、『天堂』なら誰もいない時を見計らえば泣こうが喚こうが気にする必要はないと思ったが、とんだ邪魔が入ったものだ」


 焦先はしかし、涼しい顔をしていた。


「俺はもう、あんたの事を師父だとは思わない」


 燕順は心の底から見下げ果てたという顔である。


「同感だ」


 鄭天寿も怒りに満ちていた。


「燕順、鄭天寿、ちょっと時間を稼いでくれるか」


子驥は二人にだけ聞こえるように、小声で言った。


 二人は無言で頷き、焦先に同時に攻撃を仕掛けた。


「ふん、莫迦どもが! 師父に敵うと思うか!?」

 

 焦先は二人同時に相手にしても、一歩も引かない。


「…………」


 子驥は少し離れたところで、精神を統一していた。


 ——〈小周天の法〉である。


「貴様、何をするつもりだ?」


 焦先は子驥が全身の〝気〟を活性化さているのに気付き、眉を顰めた。


「俺達があんたの下でどれだけ修行に励んでいたのか思い知らせてやるよ……二人とも、離れろ!」


 子驥は自身の身体を巡る〝気〟を、右の手のひらに集中させた。


「!?」


 焦先は子驥が何をしようとしているのかようやく気付いたらしいが、もう遅かった。


「——〈百歩神拳〉!」


 子驥は燕順と鄭天寿が焦先から離れたのを見た瞬間、右の手のひらを突き出し、まるで砲弾のように、〝気〟の塊を放った。


「くっ!?」


 焦先は咄嗟に両手で円を描くようにして〝気〟の塊を受け流そうとしたが、結局、耐え切れず、背後に吹き飛ばされた。


 背中から思いっきり『天堂』の分厚い扉にぶつかり、粉々にぶち壊し、破片とともに廊下に倒れ込む。


 だが——


「消えた!?」


 子驥達はもうもうと埃が舞う廊下に慌てて駆け寄ったが、そこにはすでに焦先の姿はなかった。


「……おいおい、あれだけまともに食らってまだ動けるのかよ」


「血痕も残っていないところを見ると無傷かも知れない」


 燕順と鄭天寿の顔は青ざめ、焦先の驚異的な生命力に冷や汗を垂らした。


「また、誰かが襲われるのか。だとしたら、俺達の手で止めないと……!」


 子驥はこの場から逃げ出した焦先が何をするのか想像し、真剣な眼差しで言った。


「……う、うう」


『天堂』の方から、すすり泣きが聞こえてきた。


 幼い清清が傷付き倒れた母親の傍らにぺたんと座り込み、さめざめと泣いていた。


「老樊!」


 子驥達は樊照の元に駆け寄って、彼女の安否を気遣った。


「全身の〝気〟を奪われて衰弱しているけど、命に別状はない。俺の家に行って応急処置をしよう」


 子驥は樊照の容態を確かめ、一先ず安心したが、胸の内に生じた不安は大きくなるばかりだった。


(ここで助かったとしても、いつまた命を狙われるとも判らない……それにこのままじゃ、きっとまた同じような犠牲者が出るに違いない)


 子驥が思った通り、焦先は、滬涜の街で暗躍し、女子どもを手にかけようとした。


 子驥達、残る〈仙骨幇〉は、師父、焦先の犯行を止めようと、何度か拳を交えた。


 焦先はその度に身体の至る所で石化が進行し、化け物じみた姿に変わっていった。


 結局、焦先はどこかで本当の石と成り果てたのか、ある日を境に、二度と姿を現さなくなった。


 子驥達は心に深い傷を負い『大新世界』が他人の手に渡った事もあり、〈仙骨幇〉は解散した。


 彼らは妻の樊照から、焦先が遺した財産を、それぞれ、もらい受ける事になった。


 子驥は南京路近くの人けのない路地にある私家庭園を譲られ、そこで人目を避けるようにして暮らした。


 ——ここじゃないどこかに行きたい。


 子驥は途方に暮れ屋敷に引き篭もり、庭園の手入れをする事もなく、敷地は荒れ果て寂れる一方だった。


 ——この世に嫌気が差して〈仙骨幇〉を組織し、仙人になろうとしていた人間が、いざ死を前にしたら、あんな化け物じみた姿になって、殺人に手を染めるなんて……。


 焦先は三国時代から生きていて、尚、仙人になれなかったのである。


 ——だったら、どうする?


自分も不老不死になる事ができず、命尽き果てる時には、あんな風に醜い姿を晒す事になるのだろうか?


 ——どうすればいい?


 判らない。


 目の前には自分の心の中のように荒れ果て、寂れた庭園が広がっているばかりだった。


 ——ここじゃないどこかに行きたい。


 子驥は心の底から思った。

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