第一章 私家庭園『劉家花園』 其の一、①
第一章 私家庭園『劉家花園』
其の一、①
イワン・スミノフはロシア革命の時、白軍の兵士として赤軍と戦っていた。彼は貴族だったが、階級は下から数えた方が早く、経済的にも決して裕福だとは言えなかった。
その辺はイワンの妻であるソフィアも同じで、二人は人生に求める事も似ていた。
イワンもソフィアも食べるのに困らない程度の生活ができればいいと思っていて、特別な地位や名誉を欲する事もなかった。
ただ、夫婦仲よく末長く幸せに暮らしたいと思っていた。
イワンは身長一九〇センチ、何となくマトリョーシカ人形を思わせる、全体に丸みを帯びた筋肉質の大男だ。
歩兵師団の一兵卒として銃器の扱いはもちろん、先祖代々伝わる投げ技や関節技を主体とした格闘術も身に付けていた。
とは言え、当然の如く、戦争は彼一人が頑張ったところでどうにかなるものでもなく、白軍は敗北した。
イワンは白軍を離れ、生まれ故郷である、ロシア西部、ヴォルガ川のほとりにあるカザンの街に戻った。
カザンには、愛する妻、ソフィアがいた。
イワンは夕食を終えた後、これからどうするべきか、ソフィアと話し合った。
ソフィアはいつものように金属製の湯沸かし器——サモワールを使い、蜂蜜入りの紅茶を淹れてくれた。
お手製のロシア風のジャムである、ベリーと砂糖を煮た、ヴァレーニエも用意されていた。
イワンはソフィアのヴァレーニエが大好きで、お茶請けとして、スプーンで掬って食べた。
だが、二人で話し合わなければならない事は、およそ幸せとは程遠い内容だった。
イワンの故郷である、ここ、カザンの街にも、赤軍の脅威が迫っていたのである。
本当なら一刻も早くこの土地から離れ、どこか安全な場所に逃げるべきなのだが、彼らは白軍が敗北した時点で祖国を失っている。
この国は赤軍のものとなり、どこにも逃げなどなかった。
イワン達は何の答えも出せないままに、ついにカザンの街にも赤軍がやって来た。
赤軍はあれよあれよと言う間に住民の家族構成、職業を調べ上げ、虐殺を始めた。
実業家や役人、社会的地位がある人間を逮捕し、射殺、ヴォルガ川に停船していた船に人々を乗せて、船ごと爆破した事もあった。
イワンはもう迷っている暇はないと、ソフィアと一緒に、申国の港街、滬涜に行く事にした。
彼女とともに着の身着のままで駱駝に乗り、滬徳を目指して旅立った。
滬徳は滬徳租界が成立した後、今やあらゆる人種が集まる極東最大の都市へと発展していた。
滬徳に行くには、パスポートもビザも要らないし、辿り着きさえすればきっと何とかなると、イワンは飲み食いするのをなるべく我慢し、その分、ソフィアに栄養を摂ってもらった。
途中で立ち寄った村で食料を調達しようとしても、パンを一個買うにも全財産を寄越せなどと言われる始末だ。
シベリアの大草原を三ヶ月かけて越え、ようやくバイカル湖に辿り着き、駱駝から馬橇に乗り換え、氷に覆われた湖を渡る。
身を切るような寒さの中、必死の形相で馬橇を操った——足元ではソフィアが羊の毛皮と藁に包まれ、まるで凍りついたように寝込んでいた。
イワンは彼女の体調を案じて、凍った湖のど真ん中にぽつんと建つ丸太小屋で、休憩を取る事にした。
ソフィアを抱えるように運び込んで横にして、目が覚めたら食事を摂ってもらおう、そう思っていた。
だが、彼女は丸太小屋の粗末なベッドに横になった後、二度と起き上がってくる事はなかった。
イワンは、時間が止まったように呆然とした。
いったい、いつまでそうしていただろうか?
(——ここじゃないどこかに行きたい)
心身ともに憔悴していたが、妻を弔い、再び出発した。
(——ここじゃないどこかに行きたい)
だが、この世のどこに行くべきところがあるというのか?
(ソフィアは、もう、どこにもいない)
どうする?
どうすればいい?
せめて彼女と一緒に行くはずだった滬涜に行くか?
イワンは近くの港に辿り着き、白軍のスタルク上将率いる、三十隻の艦隊の一隻に乗り込んだ。
イワンと同様、滬涜の街を目指す白系ロシア人の難民を乗せて、艦隊は出航した。
やはりここでも水も食料も足りずに飢えに苦しみ、大嵐にも見舞われ、呉淞江に辿り着いた時には、艦隊は十四隻にまで減っていた。
どうにか滬涜に辿り着いたと思ったら、滬徳租界を支配する外国人達は白系ロシア人の受け入れには消極的だった。
もし難民を受け入れれば、治安が悪化する事は目に見えていたからである。
白系ロシア人は租界の秩序を乱す存在だと人々から敬遠され、英語や申国語ができなければ、どこも雇ってくれなかった。
過去に官職や教職、専門職に就いていたとしても、滬徳租界では安い給料で、肉体労働を強いられた。
元は軍人であるイワンも、英語、申国語には通じておらず、滬徳の街で働く事は叶わず、港で埠頭苦力として働くしかなかった。
色々な人種、年齢、職業がごった返す港で、毎日、薄汚い青い上着と褌子姿で荷物の上げ下ろしをした。
どんなに長時間の重労働をこなしても大した給料はもらえず、ご飯は屋台の握り飯を買うのが精一杯、どこかに狭い部屋を借りる事もできず、ビルの庇や便所の近くで野宿をした。
それでも一年が過ぎ二年が過ぎると、英語や申国語が少しずつ身に付いてきたので、イワンは時間を見つけて、就職活動を開始した。
「ロシアの元軍人です! 仕事を探しています! 何かいい職はありませんか!?」
イワンは人混みの中で、一生懸命、職を探している事を訴えた。
「あんた、ロシアの元軍人だって? 少しは申国語が喋れるみたいだな?」
歳の頃なら、二十四、五歳ぐらいだろうか、同い年ぐらいの申国人の男が声をかけてきた。
「貴方は?」
イワンは興味深そうに申国人の男に聞いた。
「俺の名は段景住、滬徳案内人だよ。ちょうど腕っ節が強そうなロシア人を探していたところなんだ。よかったらいい仕事先を知っているんだけど、やるかい?」
滬徳案内人だという男、段景住は愛想のいい笑顔で言った。
「滬徳案内人? 紹介してもらえる仕事っていうのは、どんな内容なんですか?」
イワンは『滬徳案内人』なる職業の事も気になったが、仕事の内容がどんなものなのか知りたかった。
「滬涜案内人は租界と同じ時期に生まれた職業で、最初は侠客、遊侠の徒の義侠心、小遣い欲しさから始まったって話さ。具体的には、地方から来た人間やあんたみたいな外国人を相手に観光案内をしたり、就職先や住まいの紹介をさせてもらっている」
段景住はそれこそ滬徳案内人らしく、慣れた調子で説明した。
「あんたに紹介したい仕事はボディガードなんだが、はっきり言って、命懸けの仕事だ。その分、金はいい。どうだい? やるか?」
段景住の話によれば申国人の富裕層は犯罪組織である黒社会に身代金目当ての誘拐対象として狙われており、イワンのような軍隊経験があるロシア人にはボディガードの就職口があるのだという。
「今回の募集枠は三人、薬屋『星辰堂』を経営する宗老板からのお話だ。すでに二枠が埋まっている、どうする?」
イワンは段景住の話が悪魔の囁きのように聞こえたが、自分が持つ技能を生かせる仕事は他にはないと、引き受ける事にした。
実際、この街の治安は、お世辞にもいいとは言えなかった。
身代金目当ての誘拐事件は後を絶たず、滬徳では、脅迫、監禁、銃撃戦が、日常茶飯事だった。
イワンのボディガードとしての主な仕事は、自分と同じ元軍人である同僚のボリス・スクラートフとニコライ・ヴラソフとともに、朝から雇い主の宗と一緒に行動し、彼の経営する漢方薬店の各店舗を回る事だった。
宗が店内で仕事をしている間、一人は彼のそばで警護し、残りの二人は戸口に立ち、不審者がいないか警戒する。
イワン達は宗が行くのなら結婚式やパーティにもついていったし、主催者から豪華な食事を用意され、参加者から心付けをもらう事もあった。
宗の警護は朝方から夕方まで行われ、彼が休みの日はイワン達も休みだった。
宗が自宅にいる時は、イワン達とは別の身辺警護を担当する申国人の側近が職務に当たっていた。
おかげでイワン達は一般的なボディガードよりも仕事が楽だったし、数年後には申国のロシア人社会の中心地、プラタナス並木の美しい霞飛路とはいかずとも、同じフランス租界で人並みの生活をする事ができた。
フランス租界の西に伸びる霞飛路は、『リトル・ロシア』と呼ばれ、ロシア人の経営する店舗が並び、生活に必要なものはなんでも揃ったし、そこに行けば申国にいながら、ロシア料理を楽しむ事ができた。
(……ソフィア)
だが、何不自由のない生活ができたとしても、ここはロシアではなかったし、愛する妻はもう、この世にはいなかった。
イワンはまるで、生きている気がしなかったのである。
ボディガードという危険な仕事に打ち込む事で、なんとか生きている実感を得ようとしたのだが、
(毎日、脅迫に対応しても銃撃戦に身を投じても何の充実感もない)
心身ともに、疲れていた。
どんなに給料がよくても、衣食住に困っていなくても、幸せだと感じる事はなかったし、ボディガードを続けているうちにますます神経はすり減っていった。
(——ここじゃないどこかに行きたい)
いったい、どこに?
(この胸にぽっかりと穴が空いたような気持ち、ソフィアを失った痛みも苦しみも感じなくていい世界はないのか?)
イワンは何度となく願ったが、そんなに都合がいい場所など、この世にある訳がない。
それ故、異国の地で過去を懐かしみ、思い出に囚われ、仕事が終われば、深酒する事が増えた。
その日の夕方は滬徳案内人の段景住に誘われ、スクラートフ、ヴラソフとともに、共同租界にある、茶館の個室にいた。
段景住は、紹介した仕事先の実態を確認したり、紹介相手の勤務状況を把握する為、定期的にこうした席を設けていた。
滬徳案内人という仕事も住まいや就職先を紹介すれば、はい終わりという訳でなく、色々とやらなければならない事があるらしい。
「宗老板のところは金払いはいいし休みも多くてよかったじゃないか。用心棒稼業には危険がつきものだ、人生いい事ばかりじゃないのは国をなくしたあんた達が一番よく知っているんじゃないのか。もっといいところを探したいって言うのなら、〝楽園案内人〟にでも頼んでみるか?」
イワン達、上座の面々から、段景住は下座で近況を聞き、四角い卓子の上に載った料理に箸を伸ばした。
イワンは申国に来てしばらく経ち、滬徳にもそれなりに詳しくなっていたが、『楽園案内人』という言葉は初耳だった。
「〝楽園案内人〟? 滬徳案内人よりも凄いのか?」
イワンの右隣でスクラートフが面白そうに言った。
「本当に楽園に連れて行ってくれたりしてな」
イワンの肩を叩いて言ったのは、左隣に座るヴラソフだった。
「〝楽園案内人〟劉子驥——噂通りなら、本当に楽園に案内してくれるらしいけどな」
段景住はイワン達の反応を楽しむように言った。
「まさか?」
イワンは面食らった。
「滬徳は、『魔都』! 『冒険家の楽園』なり! 共同租界には、草花美しき『劉家花園』あり! 『劉家花園』の主人、劉子驥は、申国の理想郷、桃源郷に行った事があるという腕利きの滬徳案内人! 人は彼を、〝楽園案内人〟と呼ぶ! ——なんでも共同租界には〝楽園案内人〟なんていうご大層な肩書きがついた、嘘か真か、桃源郷に行った事があるって噂の滬涜案内人がいるらしい」
段景住は芝居がかった調子で言い、上機嫌で酒を煽った。
「申国の理想郷、か。帝政ロシア時代よりいい暮らしができるって言うのなら、行ってみたいもんだな」
スクラートフは満更でもなさそうだった。
ロシア革命によって、ロシアの貴族階級で、外国の銀行に預金がある者は、皆、ヨーロッパに逃げた。
滬徳にやって来たのは中産階級や金銭的に余裕がない貴族であり、イワン達のような軍人、大学教授、商人、農民達の中には、自分の事を少しでもよく見せる為に、将軍、伯爵、公爵を自称し、経歴を詐称する者もいた。
「桃源郷っていうのは、どんなところなんだ?」
イワンは眉を顰めた。
今のイワンは、昨日、今日、初めて滬徳に来た訳ではない、滬涜の街に関して、ある程度通じているし、滬涜案内人という職業に対しても、一定の知識を持ってはいたが、桃源郷については初耳だった。
滬涜案内人は数百人に上ると言われているが、中には通り一遍の観光案内で高額の代金を要求する者、顧客にとって都合がいい雇用条件や住宅環境を並べ立てて実態はそれ以下という、詐欺師のような連中もいる。
イワンが最初に出会った滬涜案内人、段景住は、いい案内人だったという事である。
「〝申国四千年の神秘〟、ってやつだな——桃源郷には、一年中、桃の花が咲き乱れ、そこに住む人々は平和で豊かな生活を送っているって、昔から伝わるお話だよ」
段景住はほろ酔い加減で言った。
「桃源郷、か」
ヴラソフも酔いが回ってきたのか、夢見心地のような顔である。
「楽園に案内してくれるって噂の真偽はともかく、〝楽案〟に依頼をすれば、観光はもちろん、就職先も住居も、その辺の滬徳案内人よりもいいところを紹介してくれると思うぜ。とは言え、本当に桃源郷なんて都合のいい場所があって、案内できるっていうのなら、俺も是非とも行ってみたいもんだ。なあ、あんた達だって、いくら外国の伝説でも、そんなところが本当にあるのなら、生まれた国を失った悲しみも忘れられるってもんじゃないのか?」
段景住は無論、本気で言っているのではなく、酒の肴に、〝楽園案内人〟の話をしているだけだろう。
「確かあんた達はみんな、ロシア革命で不幸にも天涯孤独の身になったんだよな? 今からでも〝楽案〟のところに行くか?」
段景住にとって〝楽園案内人〟は商売敵のはずだが、明らかにイワン達の事をからかい、面白がっている。
イワンはしかし、はっとしたような顔をした。
——……もしかしたら、〝楽園案内人〟なら、ここじゃないどこかに連れて行ってくれるかも知れない。
十一月という季節、ひしひしと感じられる寒さのせいか、今は亡き妻と、もうこの世にはない祖国の事を思い出し、感傷的な気分になる。
「ああ、食った食った! そろそろお開きにするか——と、その前に、さっきお茶を頼んでおいたんだ、みんな、よかったらお茶と一緒にこれを飲んでくれ」
段景住は予めイワン達にお茶を注文していたようで、赤い墨で流麗な筆文字が記された黄色い紙を、彼らに一枚ずつ配った。
「俺はあんまり申国のお茶は飲まないんだが、こいつはなんなんだ?」
イワンは目の前に置かれたお茶と黄色い紙を見て不思議そうに聞いた。
「霊符だ、霊験新たかなお札さ。俺には〝楽園案内人〟ほどの力はないが、あんた達の無事ぐらい祈ってやりたくてね。もちろん、〝虎〟に騙されて買った訳じゃないぞ、タネを明かせばその辺の土産物屋で買った安もんだからただでやるよ。お札を丸めてお茶と一緒に飲めば、悪鬼を退け、諸病を治癒し、諸災を除いてくれる。せめてもの気持ちだよ、気持ち」
イワン達は顔を見合わせたが、勧められるままに黄色い霊符を丸めてお茶で流し込み、一同は解散した。
茶館を出て段景住と別れ、フランス租界に真っ直ぐ帰るつもりが、何となく、お互い顔を見合わせる。
「…………」
イワンの心は、すでに決まっていた。
「行くか?」
スクラートフは楽しげに聞いてきた。
「ああ」
イワンはこくりと頷いた。
「行くって、〝楽園案内人〟のところだよな? 奇遇だな、俺もそう思っていたところなんだよ」
ヴラソフも同じ気持ちだったらしい。
「なんたってこの国には〝小神仙〟とかいう、不思議な力を持っている連中がいるらしいしな。〝楽園案内人〟も、本当に桃源郷に連れて行ってくれるかも知れねえ」
スクラートフが言うと、三人は共同租界にあるという、『劉家花園』を目指して歩き始めた。
三人の境遇は、大して変わらない。
白系ロシア人は皆、家族を、友を、国さえも失った、流浪の民なのだ。
だから、だ。
まだ陽は落ちたばかりだし、滬徳案内屋もやっているだろうと、茶館を出たその足で『劉家花園』に行く事にした。
——桃源郷に行けば嫌な事なんか何もかも忘れて幸せに暮らせるはずだ。
イワンは桃源郷の事で頭が一杯だった。
やがて滬涜最大の繁華街、南京路に足を踏み入れた。
「
行く先には滬涜蟹の天秤売りをしている若者がいた。
「すみません、この近くに〝楽園案内人〟って呼ばれている、滬涜案内人はいますか?」
イワンは若者に声をかけ、単刀直入に聞いた。
「〝楽園案内人〟? 劉老板の家ならこの近くだよ!」
滬涜蟹の天秤売りの若者は、気さくに教えてくれた。
「どの辺ですかね」
イワンは居場所を知っている人間を捕まえる事ができて、幸先がいいと期待に胸を膨らませた。
「この道を真っ直ぐ歩いて行けば『五福里』って
「ありがとうございます」
イワン達はお礼を言って、また歩き出した。
南京路の喧騒を進んでいくと、『五福里』の名を冠した弄堂——横丁が見えてきた。
『五福里』の手前の道に入ると、さっきまでの喧騒が嘘のように、人けもなく静かなものだった。
左手は『五福里』に、右手は摩天楼に挟まれた道を少し行くと、突き当たりに白く高い壁に囲われた、庭園らしき敷地が見えてきた。
立派な柳の木に隠れるように小さな門が設けられ、門の上部には『劉家花園』の扁額が掛かっていた。
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