第四章 風花ノ祓 其の四、

 第四章 風花ノ祓


 其の四、


 あれは巳吉がまだ子どもの頃、ひどい吹雪の晩だった。


 巳吉が一人で寝ていると、部屋の向こうから、普段は物静かな母親が父親と何か言い争っている声が聞こえてきた。


 巳吉の母親は村で評判の美人だった。


 端正な顔立ちに、雪のように白い肌——何より人々の噂に上ったのは、いつまでも若々しい事だった。


 ——母さんは幾つになっても、怖いぐらい綺麗だった。


 巳吉はその頃すでに、子ども心に母親が普通ではないという事に気付いていた。


 本当に何年経っても、全く見た目が変わらない。


 まるで歳を取らないみたいに。


 村人の中には、実際、巳吉の母親を指して、あれは物の怪の類ではないかと噂する者もいたし、露骨に薄気味悪そうにする者もいたが、それがいったい、何だというのか。


 巳吉にとって、この世にたった一人の母親である事には何の変わりもなかった。


 だが、巳吉の母親は、彼と彼の父親の前から忽然と姿を消し、二度と姿を現す事はなかったのである。


 巳吉は大きくなってから、あの吹雪の晩、母親との間に何があったのか、父親に聞いてみた事がある。


 ——俺はあいつと昔交わした約束を破ったんだよ。


 父親は素直に答えた。


 ——俺が昔、交わした約束を破ったから、あいつは俺達を捨てて山に帰ったんだよ……あれは、雪女だったんだな。


 父親は巳吉の表情を窺おうともしないで、淡々とした調子で言った。


 だが、巳吉は何とも思わなかった。


 自分の母親の正体が普通の人間ではない事ぐらい、子どもの頃から薄々気付いていた。


 それよりも気になるのは、なぜ、父親は母親との約束を破ったのか、という事である。


 なぜ、父親は母親と昔交わした約束を守る事ができなかったのか?


 巳吉は何度となく問い質したが、その度に父親はお前には判らないとでも言いたげに寂しそうに笑うだけだった。


 結局、納得がいくような答えは聞けないままに、父親は老衰で亡くなった。


 巳吉は父親が死んだ時に、村人からこんな事を言われた。


 お前は父親が若い時に見た目がそっくりだ、と。


 巳吉はそれを聞いた時、これからはもう絶対に女と約束はしまいと決めた。


 意中の女なら、尚更だ。


 もしそんな事をしようものなら、いつか自分も父親のように、愛する者を失う事になるかも知れない。


 それが、怖い。


 どうしようもなく恐ろしい……。


 誰か女性と何か約束を交わしてしまったら、父親と同じように約束を守る事ができず、孤独を味わう事になるのではないか?


 ならば、いっその事、最初から約束などしなければ、女性と関わなければ……。


 そう考えて、人里離れた山の麓で木こりを生業とし、自ら心を閉ざし、女性をできるだけ避け、ずっと一人っきりで生きてきた。


 ——いずれ、相手がいなくなるのなら、それも、自分が原因で姿を消す事が判り切っているのなら、最初っから一人っきりでいた方がましだ。


 とは言え、巳吉はいつからか、体を蝕まれていた。


 雪女である母親から受け継いだ人ならざる力によって、巳吉の体は芯から冷え切って、身体中、凍りつき始めている。


 このまま心の臓まで凍りついてしまい、死に至るのも時間の問題だった。


 こうして一人っきりでいられるのもあと僅かだったが、今日まで何度となく繰り返し、今も自問自答している事がある。


 ——寂しいか?


 寂しい。


 ——辛いか?


 辛い。


 だが、もし、誰か女性と契りを結んだとしても、いずれ父親と同じように約束を破り、相手を失ってしまうぐらいなら……。


「——きっと巳吉という男、他人と関わる事を避けているうちに、母親から受け継いだ人ならざる力をその身に溜め込み、呪いに掛かったのと同じ状態になっているのだろう」


 晴明は階隠しの間に座り、難しい顔をして言った——桔梗から、巳吉の右腕が斑らに凍り付いている事を聞いたのである。


「うん、どうした、桔梗?」


 晴明は訝しげな顔をした。


 と言うのも桔梗が、下男、下女、唐衣裳姿、文官、武官と、忙しなく、姿を変えていたからである。


「なぜ、あのお方は、私と約束を交わそうとしないのでしょう?」


 桔梗は下女の姿に戻り、質問を投げかけた。


「ふむ」


「あのお方はあんな風になってまで、何を我慢なさっているのでしょうか?」


「それさえ判れば、お前の気持ちも落ち着くか?」


「…………」


 桔梗は自分でもよく判らないのか、考え込んだ。


「おいおい、大丈夫か?」


 晴明は心配そうに言った。


 桔梗は気持ちを持て余しているようで、まるで子どもがいやいやをするように首を横に振るばかり。


「難儀な事だな」


 晴明は独り言のように言って、屋敷の奥に引っ込んだ。


「左京権大夫様?」


 桔梗は捨てられた仔犬のように不安そうな顔をして、主人の背中を視線で追いかけた。


「それは……?」


 晴明が再び姿を現した時、手にしていたのは、桔梗がついこの間、写本に取り組んでいた『古今和歌集』だった。


「これと、これ」


 晴明は冊子を捲り二つの歌を指差した。


 一つ目の歌は、


 昔見し 春は昔の春ながら 我が身ひとつの あらずも あるかな


 清原深養父きよはらのふかやぶ


「『昔経験した春は昔の春そのままなのに、我が身は変わってしまったなあ』と、そういう歌だ」


 晴明が突然、和歌の解説をし始めたので、桔梗は戸惑っているようだった。


「巳吉の父親の事だよ。吹雪の晩に初めて雪女と出会った後、旅の女に化けた彼女と再会し、めでたく結ばれたものの、結局は約束を破ってしまった男の気持ち、もしかしたら、こんなものなんじゃないのか?」


 桔梗はしばし、考えた。


 どんなに時が経っても、初めて出会った時と変わらない、なぜか若く美しいままの妻と、年老いていく自分。


 自分は時とともに老いるにも関わらず、何も変わらない妻を見続ける男の気持ちは、果たして、どんなものだったろうか?


 まるでいつかは儚く消えてしまう夢幻を見ているかのような、本当に目の前に存在しているのか疑いたくなるような、そんな毎日だったろうか?


「巳吉の父親は自分の妻が雪女なのではないかと思い、吹雪の晩に出会った雪女が夢幻か否か、確かめたくなったのかも知れない」


 晴明は感慨深そうに言った。


「雪女が夢幻か否か確かめる為には、彼女と交わした約束を破るしか方法はあるまい?」


 晴明はこれは全くの想像でしかないが——と前置きした上で続けた。


「巳之吉は雪女と出会った吹雪の晩の事は、忘れたくても忘れられなかったみたいだし、二人は出会った瞬間から惹かれ合い、恋に落ちていたのだろう」


 雪女はそれ故、巳之吉を殺す事ができず、巳之吉もまた、雪女を忘れる事ができなかった。


 二人は吹雪の晩に、とうに結ばれていたのかも知れない。


 だからこそ、雪女は旅の女に化けてまで、巳之吉の前に再び姿を現し、巳之吉も出会ったばかりの旅の女と、結婚する事を決めたのだろう。


 初めて出会ったはずなのに、なぜか再会を感じさせた、旅の女と……。


「巳之吉は最初から旅の女が雪女だと気付いていたのでしょうか?」


「ああ、そうかも知れないな——雲ゐにも かよふ心の おくれねば 別ると人に 見ゆばかりなり」


 晴明はもう一つ、歌を詠んだ。


 二つ目の歌は、


『遥かな国へ旅立つ貴方の事を追って、空さえ行き来する心は、貴方に遅れずについて行きますから、他人の目には別れるように見えるだけで、心は離れ離れにはならないのです』


 と、そんな意味合いが込められた歌だった。


「巳之吉は吹雪の晩に姿を現した雪女が夢幻か否か、と同時に、自分の妻が雪女か否か、確かめる事ができれば、例え約束通り、雪女に殺されたとしても、逆に彼女が愛情故に身を引いたとしても、いいと思っていたのかも知れんな」


「自分の妻がこのまま昔と変わらぬ姿をしていれば、いずれは人々の噂に上って暮らし辛くなる。その前に、いっそ、自分の手ではっきりさせたかった?」


 桔梗は人と物の怪の、許されぬ恋に思いを馳せた。


「巳之吉も何も好き好んで、約束を破った訳ではないのだろう。願わくは家族一緒に末長く暮らしたいと考え、とにかく切り出す事しかできなかったのかも知れない」


 例え約束を破った事で、愛する女に殺されるか、相手が身を引く可能性があったとしても。


「どうだ、これで事の成り行きは判っただろう? あの男は自分が女と約束を交わし、父親と同じように破ってしまう事に怯えている。愛した女を失う事に、恐怖しているのだろうよ」


 晴明が巳吉の心境を語っても、桔梗はまだ決めかねていた。


「故に、女と約束を交わす事はなく、ついには人ならざる力に自分自身も蝕まれた。あの男はそのうち、淡雪のように溶けてしまうに違いない。この世から消えるのも、時間の問題だな」


 晴明の残酷な物言いに、桔梗ははっと顔を上げた。


「さあ、あの男がお前と約束を交わさない理由は判っただろう? ならば、これからいつも通り屋敷の仕事に手を付けるか、それとも……後は、お前次第だよ」


 晴明は優しく笑った。


「左京権大夫様」


 桔梗は紛れもなく女性の熱い眼差しで晴明の事をじっと見つめた。


 恋する女の顔、である。


 だが、それは晴明に向けられたものではない。


 例え〈式神〉だったとしても、恋する女の行く先は決まっている。


 黄昏時が迫る屋敷にはどこか狐を思わせる顔をした男だけが一人、階隠しの間にぽつんと座っていた。


 ——昔々、信田の森で、武士の若者が、ひょんな事から、一匹の狐を助けた。


 狐は人間の女に化けて、若者と再会し、二人はめでたく結ばれ、赤子が生まれたという。


 人であって人ではない、物の怪であって物の怪ではない男の子は成長し、いつの頃からか人々から、〝狐面〟の名で呼ばれた。


〝狐面〟——平安京にも並ぶ者はいないと言われる、稀代の陰陽師、安倍晴明は、まるでこの世を後にするように、夕闇に姿を消した。

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『陰陽師 狐面—夕闇ノ祓—』 ワカレノハジメ @R50401

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