第四章 風花ノ祓 其の三、
第四章 風花ノ祓
其の三、
「——何をそんなに、一生懸命、書いているのだ?」
晴明は桔梗が文机に向かって書き物をしているのを見て、面白そうに聞いた。
「和歌を書き写しております」
桔梗は筆を置き、顔を上げた。
文机に広げられた冊子には、『古今和歌集』、と書かれていた。
この国、初めての勅撰和歌集で、『万葉集』の「ますらをぶり」と比して、「たをやめぶり」、つまり、女性的だと言われている。
「なぜ、突然?」
晴明が疑問に思うのも当然だった。
桔梗が——すなわち、〈式神〉が、『古今和歌集』を書き写す必要がどこにある?
『古今和歌集』を暗唱する事は貴族の教養とされていたが、我が〈式神〉は使用人として働くだけでなく、貴族の嗜みを身に付け、上流階級と交わろうというのだろうか?
「ここ最近、ずっと考えている事があるのです」
桔梗は何か悩んでいるようだった。
「と言うと?」
この年頃の、これを女子と言ってよいのなら、考える事と言えば、お菓子の事か、遊びの事か、それとも?
「はい……あの木こり、巳吉という男の事にございます」
桔梗は思い詰めたような顔をして、文机の『古今和歌集』に目を落とした。
「巳吉、か」
晴明もまた、感慨深そうに言った。
一度、ほんの少し話しただけだったが、今も鮮明に憶えている——まるで女性のように整った顔立ち、氷のように冷たい眼差し。
「あのお方はなぜ、私と約束を交わそうとはしないのでしょう?」
彼女の心が千々に乱れているのは、下男、下女、唐衣裳姿、文官、武官と、次々、姿形を変えているところからも窺える。
「いったい、どうして?」
桔梗は下女の姿に戻り、ため息混じり。
「あの巳吉という男の事がそんなに気になるのか」
晴明は苦笑した。
主人である自分と同じく、少し変わっている。
全く、妙なところばかり似てしまったものだ。
「はい。だからこそ〈式神〉の私でも和歌を書き写していれば、人間の情念が理解できるかも知れないと思いまして」
桔梗は大真面目に言った。
「そうか、我が〈式神〉ながら実に面白い——恋、かな」
晴明は感心したように言った。
「こいかな?」
桔梗はこの様子だと恋を知らないらしい。
「まだ判らぬか……だとしたら、この歌はどうかな」
晴明は『古今和歌集』の頁を捲り、落ち着いた声音で読み上げた。
わりなくも 寝ても覚めても 恋しきか 心をいづち やらば忘れむ
詠み人知らず
『どうして、寝ても覚めても恋しいのだろう。どこに心を向ければ、忘れる事ができるのだろう?』
そういう歌である。
「これが、恋だ」
晴明は反応を窺うように言った。
「それが、恋? 答えになっていないのではありませんか?」
桔梗は戸惑っているようだった。
「その通り——恋に答えなどない。今の心境にぴったりではないか」
晴明は困惑している桔梗を見やり、微笑んだ。
何しろ、『古今和歌集』まで引っ張り出してきて、自分の気持ちや相手の気持ちを理解しようとしているのだ。
陰陽道の術によって作られた〈式神〉にも関わらず、年頃の娘のように可愛い事をするではないか。
これが恋でなければ、何だと言うのだろう。
「だとすれば、恋ですね」
桔梗は臍を曲げたように言った。
「恋ではないとしたら、ただの好奇心だろうよ」
晴明は笑い出しそうになるのを堪えて言った。
「かくいう、この私もあの男の事が気になって、今も考えていたところだよ」
「左京権大夫様も? なぜ、あのお方の事を?」
「……たぶん、私と彼奴は、同じような境遇だからだろう」
「同じような境遇?」
「こんな話を知っているか? 雪女の、息子の話だよ」
晴明は母親がそうしてくれたように、桔梗に昔話を語って聞かせた。
雪女の息子の話を——。
そして、昔話として伝えられる出来事がいつ頃の事なのか考えると、巳之吉と雪女との間に生まれた子どもがちょうど今の巳吉ぐらいの年齢に育っている事、昔話の舞台となっている場所もそう遠くない事、成長した息子が木こりを生業としている事も、可能性として、十分、あり得る事を話した。
桔梗は最初、半信半疑だったが、考えてみれば、他ならぬ自分自身、人間ではなく、〈式神〉だという事を考えれば、あってもおかしくはない話だと思った。
「なぜ、巳之吉は、雪女との約束を破ったのでしょうか?」
桔梗は疑問に思った事を、素直に口にした。
あの吹雪の晩、死ぬほど恐ろしい目に遭い、口止めされていながら、なぜ?
家族三人揃って、幸せに暮らしていたはずなのに、どうして?
「確かな事は何も判らんが、一つ判っている事があるとすれば、人間と雪女との間に生まれたあの巳吉という男は、いつも一人ぼっちで過ごしているという事、それだけだよ」
晴明は何となく寂しそうに言った後、こう付け加えた。
「……そう、例え都の賑わいの中にいようと、どれだけ人込みの中に紛れていようとも……」
——他でもない、この私自身そうであるようにな、と。
「ご免下さい」
巳吉は月が欠けた頃、土御門小路にある晴明の屋敷に、木炭を届けに来た。
「はい——いつもご苦労さまです。おかげで助かります」
桔梗は特別、意識した訳ではなかったが、自然と、下女の姿で応じていた。
巳吉はいつものように伏目がちで、視線を合わせようとはしない。
——別に下男の姿で出迎えたって構わない。
毎朝、お米の研ぎ汁を付けた櫛で髪を整えているのも……
——ただの戯れ、いつものお遊び。
わざわざお香を焚き染めて、その身に芳しい香りを染み込ませているのも……
——ただ年頃の娘の真似事をしているだけ、何となくそうしたかっただけ。
「こちらこそ」
巳吉は桔梗の胸中で渦巻く思いなど知る由もなく、差し出されたお代を受け取ろうとした。
が、地面に落としてしまい、慌てて拾おうとする。
「!?」
桔梗は巳吉が代金を拾い上げようとした時、巳吉の手首から肘にかけて、なぜか斑らに凍り付いているのを見た。
「そ、その腕は?」
桔梗は思わず聞いていた。
「大した事はありませんよ」
巳吉は袖をさっと伸ばし、異様な片腕を隠した。
「山で吹雪に遭った時、凍傷になっただけで……」
巳吉はそそくさと立ち去ろうとした。
「次は、次はいつになりますか!?」
桔梗は追いかけるようにして必死に声をかけたが、巳吉は振り返ろうともしなかった。
——あの人は今日も私の事を見ようともしないで、約束を交わしてもくれない。
巳吉の背中が遠ざかっていくのをじっと見つめて、なぜ、どうしてと、いくら考えたところで、答えは出ない。
桔梗は今にも泣き出しそうな様子で、立ち尽くすばかりだった。
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