第四章 風花ノ祓 其の二、

 第四章 風花ノ祓


 其の二、


 平安時代、あの世とこの世の境は曖昧だった。黄昏時には、人と物の怪がすれ違う。


 今宵もきっと、誰かがどこかで、怪異に見舞われている事だろう。


 平安京、内裏の北東、土御門小路にある、『化け物屋敷』——晴明邸を照らす月明かりは弱々しく、木枯らしが寂しげに吹いていた。


 晴明は寝室で横になり、屋敷に出入りする木こり、巳吉の事を考えていた。


 燭台が照らす寝室の片隅には、まるで置き物のように、下女の桔梗が俯きがちに座っていた。


 その身に纏っているのは小袖と腰布だったが、果たして本当に女性と言っていいのかどうか。


 なぜならこの桔梗は、晴明が陰陽道の術によって、その名の通り一輪の花から作り出した、〈式神〉だったからである。


 どうやら桔梗は人間に興味があるらしく、その日の気分に合わせて、男と女、どちらの姿にも化けた。


 桔梗なりに男女の違いを学んでいるようで、最近は巳吉という男の事が気になって仕方がないらしく、ずっと下女の姿で過ごしている。


『私のような者にも、人様には言えぬ過去がございます』


「過去、か」


 晴明は子どもの頃の事をふと思い出した。


「母上、母上!」


 晴明は——幼い頃の名前で言えば、童子丸は、夜、寝る前に、母親の葛の葉の事を捕まえては、よく昔話をねだっていた。


「何かお話を聞かせて下さいませ! 今夜もすぐには眠れそうにありません!」


 童子丸は抱きつくようにして昔話をせがんだ。


「あらあら、困った子ね」


 葛の葉は童子丸の頭を優しく撫でた。


「今日はどんな昔話を聞かせて下さるのですか?」


 童子丸は嬉しそうな顔をして聞いた。


「今晩はどんなお話がいいかしら?」


 童子丸は幼いながらも、自分の母親が、毎日、飽きもせず噂話に興じている世の女性達と比べ、一風変わっている事は承知していた。


 なぜか、物の怪に詳しく、たった今、そうしているように、いつも自分の事を優しく抱き寄せ、色々な昔話を聞かせてくれる。


 童子丸はそんな葛の葉の事が好きだった——いつも昔話を語ってくれる葛の葉が、抱きつけば木漏れ日の匂いがする葛の葉が。


 世の女性はやれあそこの大将はお金持ちだとか、やれどこそこの若君は美男子だとか、子どもの童子丸からするとあまり興味が湧かない、馴染みのない話ばかりに夢中で、なんとなく苦手だったのである。


「童子丸、もっと近くにいらっしゃいな。火桶も寄せましょうか?」


 葛の葉は童子丸の事を抱き寄せて火桶に炭をくべた。


「そうね……今日は吹雪の夜の話でもしましょうか」


 葛の葉は炭をくべながら少し考え、童子丸に言った。


「はい!」


 童子丸は、母親と一緒にいられるだけで幸せだったから、嬉しそうに返事をした。


「——昔々、あるところに、二人の木こりがいました」


 葛の葉は童子丸の事を膝の上に乗せると、落ち着いた声でゆっくりと語り始めた。


 ——一人は年老いた木こりで、その名を茂作もさくと言いました。


 もう一人はまるで女のように目鼻立ちが整った若い木こりで、巳之吉みのきち、と言いました。


 茂作と巳之吉はその日、村から離れた川向こうの森に木を切りに行きました。


 川には橋が架かっていないので、渡し船を使って向こう岸に渡り、目当ての森まで辿り着き、仕事も無事に終えました。


 けれど、帰り道にひどい吹雪に遭い、なんとか川まで戻ったものの、岸に渡し守の姿はなく、渡し船も向こう岸にありました。


 二人はあまりの寒さに泳いで川を渡る訳にも行かず、一晩、渡し守の小屋で過ごす事にしましたが、小屋には囲炉裏があっても炭がなく、凍えた体を温める術はありませんでした。


 せめてもできる事と言えば、戸口をぴったりと閉め、小屋の隅にあった蓑を被り、横になる事ぐらいでした。


 茂作はすぐに眠りに落ちましたが、巳之吉は小屋が吹雪に見舞われガタガタと揺れているのが気になって、なかなか眠る事ができませんでした。


 川が激しく流れる音にも今にも氾濫するのではないかと不安を駆り立てられましたが、寒さと恐怖に震えているうちに、ようやく、眠りに就きました。


 ——葛の葉は反応を窺うように童子丸の事を見やり、童子丸は母親の顔など見慣れているはずなのに怖いぐらい綺麗だと思った。


「巳之吉は凍えるような寒さに震え、目を覚ましました」


 葛の葉は童子丸の緊張した面持ちを見て、満足そうに微笑むと、昔話の続きを始めた。


 ……すると、どうでしょう。


 小屋の戸口はまるで熊に叩き壊されたように砕け散り、茂作のそばには、雪のように白い女が立っていました。


 汚れ一つない着物を身に纏った女は氷のように冷たい眼差しで、粉雪混じりの風に黒髪が乱れるのも気にせず、足元で寝ている茂作に向かって濡れたように赤い唇をすぼめ、吐息を吹きかけているようでした。


 見れば、茂作の顔は青ざめ、体には霜が降りているではありませんか。


 巳之吉は恐ろしさのあまり、横になったまま固まっていました。


 雪のように白い女が滑るように近付いてきて顔を寄せてきたので思わず叫び声を上げようとしましたが、声も出ません。


「お前さんは若くて綺麗だね。次はお前さんを氷漬けにしてやろうかと思ったけれど、見逃してやろう」


 雪のように白い女は悪戯っぽく笑って言いました。


「でも、ここで見た事は誰にも喋っちゃいけないよ。もし誰かに喋ったら、お前さんの命はないからね」


 雪のように白い女はそう言い残して、忽然と姿を消しました。


「それから、どうなったの?」


 童子丸は不安そうな顔をして聞いた。


「巳之吉は雪のように白い女が忽然と姿を消すと、すぐに飛び起きて茂作に駆け寄り、呼吸を確かめましたが、茂作はもう冷たくなって死んでいました」


 巳之吉は雪のように白い女の、氷のように冷たい眼差しを思い出して、一晩中、恐怖に震えていました。


 ようやく朝を迎え、二人を探しにやって来た村人達によって助け出されました。


 それからしばらく、何もせずに養生していましたが、あの吹雪の夜、雪のように白い女と出会った事は忘れようにも忘れられませんでした。


 けれど、他人には話す事なく、また木こりとして働き始めました。


 巳之吉はいつものように木を切りに行ったある日の帰り道、旅の女と出会いました。


 旅の女は奉公先を探して都に行く途中だという事でしたが、二人は話しているうちに村に着く頃にはお互いに惹かれ合っていました。


 巳之吉は、初めて会ったような気がしない旅の女に、今晩、宿がないのなら、部屋を貸す事を申し出ました。


 旅の女も満更でもない様子で、ありがたく泊めてもらいました。


 巳之吉と旅の女はそのまま一つ屋根の下で暮らし始め、やがて一人息子が生まれました。


 巳之吉の顔には、いつしか深い皺が刻まれ、髪の毛にも白いものが目立ち始めましたが、不思議な事に、妻は出会った時と同じように、いつまでも若く美しいままでした。


 ある冬の晩、村は激しい吹雪に襲われ、巳之吉と彼女はまだ幼い息子が寝静まった後、囲炉裏を囲んで一緒に過ごしていました。


「——そう言えば昔、俺はこんな吹雪の夜に、不思議な女と出会った事があるんだ」


 巳之吉は向かいに座って針仕事をしている妻に対して、ふと思い出したように言いました。


「そりゃもう、怖いぐらい綺麗な女でな……何となく、お前と雰囲気が似ているかも知れない」


 巳之吉の話を聞いているのか、いないのか、彼女は行燈の明かりを頼りに針仕事をしていて、返事一つしませんでした。


「仕事帰りに吹雪に遭って、仕方なく木こり仲間の茂作の爺さんと、渡し守の小屋で寝ていた時だ」


 巳之吉は一向に針を止めようとしない彼女を見ながら言いました。


「俺が目を覚ましたら、入り口近くに寝っ転がっていた爺さんのそばに、雪のように白い女が立っていたんだよ」


 彼女は何も言わずに、針仕事を続けていました。


「雪のように白い女は足元で寝ている爺さんに向かって、吐息をかけているみたいだった。あの女は不思議な力を使って、爺さんを凍え死にさせちまったんだよ……そして、俺だけがなぜか助かって、今もこうして生きている」


 巳之吉は昨日の夜見た夢の話でもしているかのように、呆然とした顔で言いました。


「今でも時々、こう思うんだよ……なぜ、俺だけが助かったんだろうってな」


 巳之吉の心からの疑問を聞いても、彼女は黙ったまま、巳之吉の事を見ようともしませんでした。


「確かあの時、雪のように白い女は、こう言ったんだよ——『お前さんは若くて綺麗だね。次はお前さんを氷漬けにしてやろうかと思ったけれど、見逃してやろう』、ってな」


 巳之吉は何か確かめるように自分の両手を見ました。


 巳之吉の両手は干からび、乾き物のようにひび割れていました。


 あの吹雪の晩、雪のように白い女に氷漬けにされて死んだ、茂作のそれのように。


「俺があの吹雪の晩に出会った雪のように白い女は、あの夜、起きた事は、夢だったのかな?」


 巳之吉は目の前にいる自分の妻の存在さえ、夢幻なのではないかと疑っているようでした。


「……なんかじゃないわよ」


 彼女は針と布を放り出し、呻くように言いました。

「夢なんかじゃないわよ? お前さんが吹雪の晩に出会ったっていう女は、この私なんだからね」


 彼女はふいに立ち上がり、静かに言いました。


「それにしても、何で今頃、そんな事を言い出すのかねえ」


 彼女はつまらなそうな顔をして言いました。


「あの夜、私と約束した事を忘れちまったのかい?」


 ……ここで見た事は誰にも喋っちゃいけないよ。もし誰かに喋ったら、お前さんの命はないからね……


 彼女はあの吹雪の晩、まるでその場で聞いていたかのように、雪のように白い女が口にした言葉を、一字一句、間違う事なく繰り返しました。


「あーあ、私達の間に子どもさえいなければ、今すぐ、氷漬けにしてあげたんだけどね」


 彼女の体は、なぜか氷のように透き通っていき、輪郭までぼやけ始めました。


 巳之吉が言葉を失い、立ち尽くしていると、彼女は白い靄になり、煙のように消えてしまいました。


「……巳之吉は?」


 童子丸は恐る恐る、質問した。


「……それから巳之吉は、彼女の姿を二度と見る事はありませんでした」


 葛の葉が寂しげな顔をし、童子丸は辛そうな顔をした。


「童子丸、そんな顔をしないでおくれ。このお話にはまだ続きがあるの」


「続きが?」


「そう——雪女の息子の話」


「……雪女の、息子の話?」


 童子丸は鸚鵡返しに言った。


「ええ、人間と雪女との間にできた子ども……父親が母親との約束を破ったが為に、甘えたい盛りに母親を失う事になった……」


 葛の葉は童子丸の事を愛しそうに見つめた。


「ああ、童子丸、願わくは、お前には、これから先もずっと、幸せであって欲しい」


 葛の葉は優しく強く、童子丸を抱き締めた。


 童子丸は母親の切なる願いを耳にしながら、眠りに落ちた。


 冬山に雨とも雪ともつかぬものが降り出し、風が吹き荒び、浮かぶ月は欠けていた。


 ただの風だと思って油断すれば、気づいた時には天候が変わり、芯まで冷えて身動きが取れなくなるだろう。


 後に待っているのは、死、だけ。


 案の定、吹雪いてきたが、男が一人、背中いっぱいに薪を背負って、山道を歩いている。


 ——巳吉、だ。


 巳吉は、ふと足を止めた。


 目の前に広がっているのは、雪に彩られた川だったが、橋はない。


 渡し船はあるにはあったが、船着き場には遠すぎるし、この天気だ。


 よしんば船着き場に辿り着いたとしても、渡し守はいないだろう。


 そう言えば、昔、この辺に住んでいた木こりの老人もひどい吹雪に遭い、渡し守の小屋で一晩過ごす羽目になったらしいが、あまりの寒さに凍え死にしてしまったと聞く。


「…………」


 巳吉は対岸を見つめ、どうするべきか考えた。


 何を思ったのか膝をつき、右手を川の中に突っ込む。


 次の瞬間、巳吉の手のひらは、川面の下で、ぼんやりと白く輝き始めたではないか。


 巳吉の手のひらのぼんやりとした白い輝きは瞬く間に川全体へと広がり、川面は向こう岸まで凍り付いた。


 巳吉は不思議な力を使い氷漬けにした川面の上を、当たり前のように歩いていく。


 まるで氷のように冷たい眼差しで行く先を見つめ、一人孤独に、雪景色の奥へと消えていく。

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