第四章 風花ノ祓 其の一、
第四章
其の一、
夜空には雲一つなく、月が満ちていた。青白い月光は、闇夜を照らすには弱々しかった。風は少し、冷たい。
平安京に冬が近付いていた。冬になれば木こりが炭俵を背負い、火桶に使う木炭を売りに来る。
都にも並ぶ者はいないと言われる稀代の陰陽師、安倍晴明の屋敷に出入りをする木こりの中に、少し変わった男がいた。
歳の頃なら二十代前半ぐらいだろうか、まるで女性のように整った顔立ち、力仕事を生業としている割には体付きも細く華奢だった。
一番、印象的なのは、いつも伏目がちな、氷のように冷たい眼差しである。
その男の名は、
晴明のような貴族と巳吉のような木こりが、直接、顔を合わせる事はなく、応対していたのは、晴明に仕える下女だった。
晴明邸では、巳吉は木炭を納める期日を守り、質、量、ともに申し分ないので、重宝していた。
その日もいつもと同じく、巳吉から受け取った木炭は上物だった。
——この次は、いつ頃になるかしら?
下女はなんとなく聞いただけで、深い意味はなかった。
——申し訳ありませんが、今度、いつお届けに上がれるのか、お約束する事はできません。
巳吉はなぜか目を合わせようとはせずに、伏目がちに言った。
——判りました。いつでもお待ちしていますので、またお願いします。
下女は山の天気は変わりやすいというし、先の事は判らないのだろうと素直に納得し、お代を払って帰した。
だが、巳吉は、『お約束する事はできません』などと言いつつ、大して変わらない間隔で木炭を納めに来た。
それからしばらくの間、下男が木炭を受け取っていたのだが、偶さか、下女が応対した時の事である。
——この次は、いつ頃になるのかしら?
なんとなく聞いてみると、
——申し訳ありませんが、今度、いつお届けに上がれるのか、お約束する事はできません。
巳吉はやはり目を合わせようとはせずに、伏目がちに答えた。
下女は不思議に思ったが、木こりにしか判らない事情があるのだろうと、それ以上の事は何も聞かず、お代を払って帰した。
だが、三度目にやり取りをした時の事、
——申し訳ありませんが、今度、いつお届けに上がれるのか、お約束する事はできません。
三度目ともなると、胸の内に疑問が湧いた。
——この男、いったい、何のつもりだろうか?
下女は考えた。
——私の事をからかっているのか? それとも、莫迦にしているのか?
下男の時は視線を交わす事もあったが、下女の時は足元ばかり見つめている。
——私に恨みでもあるのだろうか?
巳吉とは木炭を受け取る時に顔を合わせるだけだったし、何か恨みを抱かれるような真似をした覚えもない。
——なのになぜ、あんな事を言うのだろう?
あれこれ考えているうちに、興味が湧いてきた。
——今度、あの男がやって来た時、下男が出たらどうなるのだろう?
今までは偶然、下女の時ばかり約束できない事情があったとしたら、もしかしたら、今度こそ、下男が出たら、やはり同じように、約束する事はできませんというかも知れない。
——今度は下男になって応対してやろう。
彼女は男装をしようと思った訳ではない。
なぜなら下男と下女は、同一人物だったからである。
その時々で、下男であり、下女でもある、同一人物。
だからこそ、下男と下女の時とで、巳吉の言動が違う事にも気付いたのだ。
——あの男はなぜか、私の事を見ようとしない……。
果たして今、巳吉に思いを巡らせているのは、下男か、下女か?
実を言えば、そもそも、人間でさえなかった。
陰陽師、安部晴明に仕える〈式神〉——屋敷の中庭に咲いた一輪の桔梗から作られた、故に『桔梗』という。
いかにも女性らしい名前だったし、普段は下女の姿をしているが、〈式神〉は〈式神〉。
人間であって人間ではない。
男性であって男性ではない。
女性であって女性ではない。
誰でもあって、誰でもない。
それが桔梗だ。
桔梗は巳吉が炭俵を背負ってまた屋敷にやって来た時、下男の姿に化けて次はいつ納めに来られるのか聞いた。
するとどうだろう——巳吉はいついつまでにと、はっきりと答えたではないか。
では、下女の時はどうか?
頑ななまでに、『お約束する事はできません』と言う。
普通ならこの辺で巳吉の真意を問い質すなり、返答によっては取り引きを断ってもいいだろう、ここまで男女で態度が違うのは失礼だし、木こりなどいくらでもいるのだから。
だが、桔梗は相手の真意を問い質すような事はせず、取り引きを続ける事にした。
もう少し下女の姿で相手をして、巳吉がいつ木炭を届けに来るのか、戯れに当ててやろうと思ったのである。
そうして判った事は、約束しようがしまいが、巳吉が木炭を届けに来る間隔には、さして違いはないという事だった。
にも関わらず、巳吉は決まって、下女の桔梗に対しては、こう言うのである。
あの伏目がちな氷のように冷たい眼差しで、『お約束する事はできません』、と。
晴明は桔梗からその話を聞いて、巳吉という男に、一度会ってみたい、と思った。
とは言え、晴明は官人陰陽師だ。
一般庶民を相手にする、法師陰陽師とは訳が違う。
官人陰陽師は宮仕えの身であり、貴族相手に占術、呪術を行う。
晴明自身もれっきとした貴族だったし、貴族は、普通、下々の者と顔を合わせる事はない。
だが、晴明はどこぞの姫君に現を抜かす訳でもなく、贅沢な暮らしに溺れる訳でもない、有体に言って、変わり者として知られていた。
故に——
「よく来てくれたな。早速、聞きたい事があるのだが、まず、名はなんと言う?」
晴明は寝殿の正面にある階隠しの間で、錦の
相手は、巳吉だった——巳吉は五級の階段の下で膝をつき、白砂が敷き詰められた地面に、恭しく首を垂れていた。
晴明は好奇心から、巳吉の事を呼び出したのだった。
「巳吉、と申します」
巳吉は顔を地面に向けたまま、静かに答えた。
「巳吉——最近、殊の外、寒くなってきたとは思わんか?」
「はい」
「今の時期、寒くて仕方ないが、お前が炭を持って来てくれるおかげで、何とかしのいでいるよ。有難い事だ」
晴明は貴族である自分を前にして緊張しているだろう、巳吉の事を気遣ってお礼を言った。
「そんな、滅相もございません」
巳吉はいっそう、頭を下げた。
「ところで、今度炭を持って来られるのは、いつ頃になりそうかな?」
晴明は何食わぬ顔をして質問した。
「次は、月が欠ける頃には参ります」
巳吉は、当たり前のように答えた。
「ほう」
晴明は感心したような声を漏らした。
桔梗の言う通り、自分が男だからか、至極、簡単に約束を交わす事ができた。
ならば——
「聞けば、下女に対しては、今日、うちに来る事は、約束できないと言ったそうではないか?」
晴明はいよいよ、本題に入った。
「はい」
巳吉に悪びれた様子はなかった。
「下女の話によれば、自分が応対した時に限って、いつもそんな返事をされるというのだが、本当か?」
「私に聞きたい事というのは、その件についてでございますか?」
「うむ、別に咎め立てするつもりはないが、何か理由があるのかと思ってな」
「……お相手が女子故に」
巳吉は呟くように言った。
「相手が女子だからとな?」
晴明は思わず聞き返した。
「左様にございます」
「何でまた女子が相手だと約束できないのだ?」
晴明は小首を傾げた。
「……私の生い立ちに関する事なれば」
「生い立ち?」
晴明は眉を顰めた。
(ああ、
「お主の生い立ちと、女子と約束できない事に、何の関係がある?」
晴明は訝しげな顔をした。
「私のような者にも、人様には言えぬ過去がございます」
(ああ、童子丸、願わくは——)
「どうかこれ以上は、何卒……」
巳吉は深々と頭を下げたまま、じりじりと後退った。
「判った判った、もう下がってよい」
晴明はこれ以上何を聞いても無駄だろうと、巳吉の事を下がらせた。
巳吉がいなくなった後も、彼が膝をついていた地面を眺めながら考えていたが、結局、なぜ、巳吉が下女と約束を交わさないのか、理由は判らずじまいだった。
「うん?」
晴明は、白砂を敷き詰めた地面が陽射しを受けて、きらきらと光を放っている事に、ふと気が付いた。
——そこにはいつの間にか、不思議な事に、びっしりと氷が張っていたのである。
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