第三章 秋柳ノ祓 其の四、
第三章 秋柳ノ祓
其の四、
晴明は柳の君から手紙の返事が来るのを待っていたが、何日経っても返事が届く事はなかった。
だが、柳の君からの伝言である『大丈夫です』という言葉を信じ、催促するような真似はしなかった。
依頼者の宗輔には、柳の君は誰かに呪われている訳でも、何かに祟られている訳でもないという事を、書簡で報告した。
公務で顔を合わせた時に、直接、話もした。
宗輔は『化け柳のお屋敷』で何事もなく過ごしているとの事で、柳の君に関してこんな事を言っていた。
——私もあれから色々と考えてみて思ったのだが、娘は部屋に閉じこもって、夜毎、笛を吹いているだけだし、化け柳も東の対を囲っているだけ、だとしたら、別に何も困るような事などないのだから、最近は我がままだった妻の時と同じく、あれの好きなようにさせてやろうと思ってな。
と。
これにて一件落着、何もかも周囲の杞憂に終わったかのように見えた。
だが、晴明の元にある日、大納言、藤原宗輔の訃報が飛び込んできた。
彼はある朝、突然、起き上がる事ができなくなり、寝たきりになってしまったのだという。
何かに取り憑かれ精気を吸い取られていくように痩せ衰え、眠るように亡くなったらしい。
医者を呼んでも、何の病気なのか判らなかったそうである。
この世にたった一人残された、柳の君はどうしているのかと言えば、不思議な事に、父親が亡くなったのと同じ頃、『化け柳のお屋敷』から、夜毎、聞こえていた笛の音も止んでしまったとか。
柳の君は父親の後を追って自ら命を経ったのだと、専らの噂だった。
もう一つ、妙な噂が流れていた——『化け柳のお屋敷』には今はもう誰も住んでいないはずなのに、時々、若い女の話し声や笑い声が聞こえてくる、と。
「左京権大夫様、いったい、『化け柳のお屋敷』で、何が起きているのでしょう?」
「行ってみるしかあるまい」
晴明は桔梗をお供に連れて、今は亡き宗輔の屋敷に牛車を走らせた。
目的地に辿り着き牛車から降りると、呆然と立ち尽くした。
かつて『柳のお屋敷』と親しみを込めて呼ばれていた事もあるそこは、今となっては見る影もなく、荒れ果てていた。
築地壁はあちこち剥がれ落ち、中庭の草木も手入れをする者がいないのだろう、昼なお暗く、鬱蒼と茂っていた。
晴明は緊張した面持ちで足を踏み入れ、桔梗も恐る恐るついて行く。
「……あれは」
晴明は柳の君が暮らしていた対屋の廊下の途中で立ち止まり、怪訝そうな顔をした。
廊下の先には柳の君に仕える侍女のものらしき着物が三人分、脱ぎ捨てられたように散らばっていた。
三人分の着物の上には、それぞれ、干からびた小さな蛙に、蜥蜴に、蝗が転がっているではないか。
「これは、もしや……」
桔梗は、以前、屋敷を訪れた時に見た、三人の侍女達の事を思い浮かべた。
「柳の君が〈式神〉を拵え侍女にしたという噂は本当だったようだな」
「では、大納言様は、姫君は……?」
「十中八九、何かあったな」
晴明は警戒心を強めて先に進んだ。
対屋の入り口には枝垂れ柳が垂れ下がり、不気味な雰囲気を醸し出していた。
「柳の君、柳の君はいらっしゃいますか?」
晴明は幾重にも垂れ下がった枝垂れ柳の向こうにいるだろう、柳の君に向かって呼びかけた。
「はて、私の事をお呼びになるのは、どこのどなたでしょう?」
部屋の奥から可愛らしい声が聞こえたかと思うと、それが合図だったように、枝垂れ柳がするすると引っ込んでいく。
「柳の君」
晴明は視界が開けた途端、呆気に取られたような顔をして、その名を呟いた。
柳の君は室内の中央に根を下ろした小振りな枝垂れ柳と一体化し、等身大の木彫りの像のように変わり果てた姿となっていた。
「そんな……」
桔梗はあまりの事に言葉を失った。
「おお、桔梗ではないか。そこにいらっしゃるのは、安四位殿にございますか?」
柳の君は変わり果てた姿だったが、機嫌がよさそうに言った。
「桔梗、下がっていなさい」
晴明は柳の君には聞こえないように、小声で言った。
「また父上に何か言われて、わざわざいらっしゃったのですか。都にも並ぶ者はいないと言われる稀代の陰陽師、安四位様とこうしてお会いできる日が来るとは嬉しい限り」
柳の君は晴明の言葉に従って黙って部屋から出て行った桔梗には目もくれず、満面に笑みを浮かべた。
「さあ、ご覧下さいな、生まれ変わった私の姿を! 最初は陰陽道の術を使って、身近に生息している、蛙に、蜥蜴、蝗を、〈式神〉とするところから始めました。次に、龍笛の音色に想いを乗せて、屋敷の枝垂れ柳と一体化する術を行いました。今や私の姿は、普通の人間にはただの枝垂れ柳にしか見えない事でしょう。今の私は、安四位様のような陰陽道に通じたお方や、物の怪の類の目にしか映る事はない」
柳の君はいかにも満足そうに言った。
「私はこれから、その時、その時の季節を感じ、煌めき輝く事でしょう」
「煌めき輝く?」
「ええ、私はお化粧をして煌びやかな着物を着て、毎日、噂話に興じるような女としてでなく、真の私として魂を輝かせ、永遠に生きていくのですよ!」
「……姫君、何があったというのですか。右馬佐という男との間に、いったい、何が?」
晴明は、柳の君の様子が痛々しいばかりに、つい右馬佐の名を口にしていた。
「あの男の悪戯によって、柳の君がどんなに心を痛めのかは想像に難くありませんが、それでも、それだけの事で、こんな呪術ができるはずが……」
晴明は辺りを見回して言った。
「今更、そんな話をしたところで、何になりましょうか」
柳の君は楽しそうにも見えるし、悲しそうにも見える、すごい笑みを浮かべて言った。
「確かに今となっては、柳の君は大納言様の娘でもなく、侍女の桔梗と語り合った一人の女性でもなく、〝怪愛ずる姫君〟でもない」
「それはどういう意味でございましょう?」
「まだお気づきになりませんか、ご自分のその目でしかとご覧なさいな」
「私に、何を見ろと?」
「貴方の侍女、『蛙』は、『蜥蜴』は、『蝗』は、どこに行きました?」
『蛙』は、『蜥蜴』は、『蝗』は、東の対の廊下で、皆、干からびて死んでいる。
「お父上である大納言様は、どうなされました?」
父親、宗輔もまた、陰陽道を利用して物の怪と化した彼女の妖気に当てられて、骨と皮ばかりになって、痩せ衰えて死んだ。
だが、柳の君は、何一つ理解していない。
あれほど詩歌管弦に優れ、聡明だったはずの彼女が、たった今、この瞬間も、思いもよらない。
「そんな、まさか?」
「残念ながら、そのまさかですよ。柳の君が永遠を手に入れる為に、彼らは精気を吸い取られたのです。最早、貴方は人間ではない、一匹の物の怪に成り果てたのですよ」
「莫迦な……」
「まだ、恋も知らず、男も知らず、この世の何もかも、全て判らないままに、物の怪となったのですよ」
「あり得ないわ!」
「ほれ、あの通り」
晴明はすっと指差した。
ちょうど、一匹の鼠が、迷い込んできた。
その途端、鼠は足を止めて、苦しみ出し、見る見るうちに干からびて、木乃伊のようになって死んだ。
「ひっ!?」
柳の君は短い悲鳴を上げたが、事はそれだけでは終わらなかった。
鼠が干からびて行くにつれて、枝垂れ柳の化身となった柳の君から伸びる枝葉が揺れ、不思議と緑の輝きが増した。
まるで鼠の精気を吸い取ったかのように。
「これが貴方のお望みですか?」
晴明はつまらなそうに聞いた。
「ち、違う、違います! 私は、私はただ……!」
「ならば……」
と、晴明は呪文を唱えて、手のひらの上に、静かに燃える炎を生んだ。
「陰陽道にはこうあります。万物は、木火土金水、五つの要素で成り立っている、と。五行相生においては、火から土が生ず……」
晴明は柳の君の樹木と化した身体に赤々と燃える炎をゆっくりと近付け、蝋燭に火を灯すように彼女から伸びる魔性の枝葉に次々と火をつけていく。
「これはただの炎でなく、陰陽道の〝呪〟を用いています。貴方がその身に宿した妖力、幹を、枝葉を、全てを焼き尽くし、灰燼に帰す」
晴明は淡々とした調子で言った。
「……なぜ、ここまでして下さるのですか?」
柳の君は、不思議そうに聞いた。
「…………」
晴明は、ゆらゆらと揺れる炎が眩しいのか、それとも、笑っているのか、目を細めた。
「この世にはもう、父上もいないというのに」
柳の君は呆然と呟くように言った。
「…………」
晴明は何も答えようとせず、ただ燃え盛る枝垂れ柳を眺めて、眩しそうに笑っているだけだった。
「いったい、なぜ? どうして?」
柳の君は紅蓮の炎に包まれ今にも灰になって消え去ろうとしていたが、最後の最後まで晴明に対する疑問を口にしていた。
晴明は、それでも、笑っていた。
いよいよ赤々と燃え盛る炎に飲まれ、少しずつ影が萎み、やがて——
「月見の季節も終わりか」
晴明は崩れかけた屋根を見上げて、何の感慨もなさそうに呟いた。
ほんの少し前まで夜空に咲き誇っていた大輪の椿も、いつの間にか枯れ落ちていた。
辺りには枝垂れ柳が燃え尽きた温かみが微かに残っていたが、それもすぐに消え失せた。
狐のような顔をした男だけがたった一人、朽ち果てた屋敷の一室にぽつんと立っていた。
狐面は受取人が封も切らず、返事が書かれる事もなかった手紙を無造作に踏み付けると、暗闇の奥へと姿を消した。
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