第三章 秋柳ノ祓 其の一、

 第三章 秋柳あきやなぎはらえ


 其の一、


 今宵もまるで都の怪異を養分として花開こうとしている椿のように、三日月は日に日に赤々とした輝きを増していた。


 都には人間だけが住んでいるのではなく、物の怪も巣食っている。逢魔時には、あの世とこの世の境が溶け、人間が物の怪に身を窶す事もあれば、物の怪が人間に化ける事もある。


 海の向こうにあるかの国の言い伝えによれば、赤い満月を眺めながら意中の相手と酒を酌み交わせば、恋愛が成就するという。


 だが、都では人ならざる者が跳梁跋扈する夜もある。そんな夜は赤い月はきっと血に染まったように見えるし、さぞや不気味に感じられる事だろう。


 秋の夜長、内裏の北東、土御門小路にある貴族の屋敷は、夜の闇に沈んでいた——貴族の名は、安倍晴明。


 晴明はまだ若かったが、色恋沙汰に現を抜かす訳でもなく、贅沢な暮らしに溺れる訳でもなく、変わり者として知られていた。


 なんとなく笑っているように見えるどこか狐を思わせる顔から、〝狐面〟の名で呼ばれ、自分が住む屋敷も、『化け物屋敷』などと呼ばれていた。


 なぜなら彼は自分と同じ貴族を相手にする、官人陰陽師だったからである。いわゆる陰陽五行に通じ、木火土金水を意のままに操る、占術、呪術の専門家である。


 それ故、本人だけではなく、彼が住む屋敷もまた曰く付きという訳だったが、他にも怪異に見舞われ、恐ろしい目に遭う事で有名な屋敷は幾つかある。


 按察使大納言あぜちのだいなごん藤原宗輔ふじわらのむねすけ——彼もまた、曰く付きの屋敷に住む者の一人だった。


 藤原宗輔は以前は枝垂れ柳が美しい、『柳のお屋敷』の主人として知られていた。


 だが、宗輔邸はいつからか『化け柳のお屋敷』などという、おどろおどろしい呼び名を頂戴していた。


 なぜか?


 宗輔邸は、秋も深まってきたというのに、未だに、鬱蒼と茂った枝垂れ柳に囲まれていたからである。


 屋敷の主人である宗輔には特に変わったところはない。


 彼は晴明のような陰陽師ではなかったし、何かに取り憑かれているという訳でもなかった。


 強いて言えば、恐妻家として有名だった。宗輔の妻は、何かと言うと高価な化粧品や着物を欲しがる、派手好きな女性だった。


 宗輔は妻の我がままをよく聞いていたが、今はそういう事もなかった。彼の妻は、数年前、流行病に罹ってこの世を去った。


 とは言え、宗輔の身内にはもう一人、今も巷で噂になる人物がいた。


 藤原家の一人娘、柳の君である。


 皆が『化け柳のお屋敷』について噂をする時、話題に上るのは、決まって、宗輔の一人娘、柳の君の事だった。


 宗輔邸が『柳のお屋敷』と呼ばれていた頃、屋敷からは、毎晩、美しい音色が聞こえてきたものだった。


 柳の君の、龍笛、だ。


 彼女は龍笛の名手で、夜になると、父、宗輔や、人々を魅了していたが、いつしか自分の部屋に閉じこもり、人前に姿を現さなくなった。


 この時代、女性は元々、人前に出る事はなかったが、彼女の場合は、度を越していた。


 実の父親である宗輔でさえ、顔を合わせる事すらなかったのだから。


 だが、夜を迎えると、柳の君が閉じこもる部屋から、龍笛の美しい音色が響いてくる。


 彼女にしか奏でる事ができない、心に染み入るような音だった。


 そして、屋敷の近くに住む人々の間で、こんな噂が囁かれるようになった。


 ——柳の君が夜毎、龍笛を奏でる度に、屋敷を囲んだ枝垂れ柳が風もないのにざわざわと騒ぎ出し、翌朝には、一回り大きくなっている、と。


 そう、柳の君が部屋に引きこもり始めたのと、近隣の人々が『化け柳のお屋敷』などと呼び始めたのは、ちょうど、同じ時期だったのである。


「安四位よ、夜分遅くにすまんな。実はあまり大きな声では言えないのだが、娘の事で相談したい事があってな」


 晴明の元に、突然、訪ねてきた宗輔は、思い詰めた顔をして言った。


『安四位』とは、位階が従四位下である安倍氏、すなわち、晴明の事である。


「あれは妻が生きていた頃から少し変わっていてな、子どもの頃から手を焼かされたものだが、最近は本当にどうしようもない、困ったものだよ」


 宗輔はほとほと、困り果てた様子だった。


「もういい年頃の娘だと言うのに、どんなに高貴な家柄のお相手から手紙が来ても、全く興味を示そうとしないし、何のつもりか、お歯黒もしなければ、眉毛も整えない始末だ。おまけに部屋に引きこもって、習字や和歌、音楽なんかに耽っているらしい」


 宗輔はため息混じりで、一人娘の素行について並べ立てた。


「それぐらいならまだいいが、近所の子ども達を使って芋虫や毛虫を集めて虫籠に飼っているというし、そんなだから侍女も、娘や娘の部屋に近付くのを嫌がってしまってな。挙げ句の果てには、あれが夜毎、笛を吹く度に、屋敷を囲んだ枝垂れ柳が、翌朝には一回り大きくなっているなどという噂まで立って、今じゃうちの屋敷は、『化け柳のお屋敷』と呼ばれている始末よ」


 宗輔がこんな夜中に晴明の元にやって来たのもむべなるかなである。


「柳の君は聡明なお方で、詩歌管弦に優れていると専らの評判ですよ。特に龍笛の音は美しく、聴く者の心を揺さぶるとか」


 晴明は急な訪問にも嫌な顔一つせずに、いつもの笑顔で話を聞いていた。


「確かに娘はその種の才能に恵まれているようだが……」


 宗輔は奥歯に物が詰まったような言い方だった。

「きっとお化粧に頓着しないのも、他人には判らない深い考えをお持ちなのでは?」


 晴明が気遣いを見せると、宗輔は神妙な面持ちで頷いた。


「我が娘ながら、どうだか。ただいつだったか、いい加減、少しは年頃の娘らしく振る舞えないのかと苦言を呈した時、あれはこんな事を言っていたよ」


 宗輔はいつかの跳ねっ返り娘の言葉を思い出した。


『——父上、私は毎日、飽きもせず化粧をして、派手な着物を着て、あそこの殿方なら家柄が釣り合うとか、ここの殿方ならば、将来、出世が約束されているとか、そんな愚にも付かない噂話をして生きていくつもりはありませんからね』


「面白い事を仰いますな」


 晴明は興味深そうな顔をした。


「儂も赤の他人ならそう思うかも知れんが、親としては困りものさ」


「まあまあそう言わずに、手のかかる子ほど可愛いと言いましょう」


「いやいや、最近は身内から見てもさすがに度が過ぎている」


「と言いますと?」


「娘が部屋に引きこもり夜な夜な笛を吹いているのは以前と変わらないにしても、侍女からどうも部屋の様子がおかしいと聞いてな」


「柳の君は部屋の中で何を?」


「……それがよく判らんのだ。娘の部屋に行って、恐る恐る御簾を開けてみるとどうだ、そこにはなぜか、枝垂れ柳が幾重にも垂れ下がり、中に入る事はおろか、ちらりと覗き見る事さえできなかったのだよ」


 宗輔は冷や汗を浮かべて言った。


「柳の君は今、お部屋で、無事に過ごされたいるのでしょうか?」


 晴明は柳の君の安否を気遣った。


「判らん!」


 宗輔は自分が知りたいぐらいだと言わんばかりだった。


「部屋の前からいくら呼んでも返事はないし、なんとか中に入ろうとはしたのだが……」


「どうなりました?」


「どんなに太刀を振るっても枝垂れ柳に刃物は通らなかったし、思い切って火を放っても焼き払う事はできなかった。儂には娘の身に何が起きているのか、皆目、見当も付かん。あんな不気味な部屋に閉じこもってどうやって生活しているのか、それも全く判らん」


 宗輔は深々とため息をついた。


「何も判らぬとは困りましたな」


 晴明は考え込むように言った。


「ああ、判らん! 何も判らぬからこそ、今日、ここにやって来たのだよ! 平安の都にも並ぶ者はいないと言われる、稀代の陰陽師、安倍晴明の元にな!」


 宗輔ははっきりと追い詰められていた。


「……大納言様」


 晴明は労わるように声をかける。


「儂には何も判らぬ。果たしてあれは、陰陽道の力か、物の怪の類か……どちらにしても、儂にはもう、どうする事もできん。ああ、あんな娘など、誰も嫁にもらってくれんだろうなあ」


 宗輔はますます気落ちをして、がっくりと項垂れた。


「それにしても、いったい何がきっかけで、こんな事になってしまったのでしょうか?」


 晴明は改めて、質問した。


「本当に何も判らんのだよ。ただ一つ判っている事があるとすれば、あれが今も部屋の中にいるという事、それだけだ。あの部屋から出るには幾重にも重なった枝垂れ柳をくぐり抜ける以外にないし、今も夜毎、あれにしか奏でる事ができない笛の音が鳴り響く」


「夜毎、笛の音が」


「儂はあの娘が誰かに呪われているか、何かよからぬものに祟られているのではないかと心配でならないのだよ。だから、頼む。娘の身に何が起きているのか、調べてはくれまいか?」


 宗輔は真摯な顔で言って、頭を下げた。


「大納言様、顔を上げて下さい。お話は判りました。これは、陰陽師の仕事です。今日これより、柳の君のお部屋には、誰も近付けてはなりません。早急に手を打ちましょう」


 晴明が解決に乗り出した事で、宗輔はほっと胸を撫で下ろした。


「——左京識大夫様、どうされたのですか?」


 晴明が客間に一人、残っている様子を見て、不思議そうに言ったのは、彼に仕える侍女だった。


「大納言様から仕事の依頼を受けたはいいが、どうしたものかと思ってな」


「大納言様の依頼というのは、どんな内容だったのですか?」


「一人娘、柳の君についての相談だったよ。年頃の娘にも関わらず、色恋沙汰には興味がないらしい。誰かに呪われているのか、物の怪に祟られているのか、確かな事は判らんが、姫様は自分の部屋に閉じこもって、出入り口はなぜか幾重にも枝垂れ柳に覆われてしまっていて、誰も出入りができないのだとか。その上、夜になると、部屋の中から龍笛の音色が聞こえてきて、枝垂れ柳がざわざわと騒ぎ出す、と」


「まあ、大変」


「大納言様はすっかり気を落とされて、これでは嫁のもらい手がないと嘆いておられたよ。自分の娘に何が起きているのか調べてくれと言われたが、大納言様は何を聞いても判らないの一点張り。とりあえず、お部屋には誰も近付かないように言っておいたが、さて、どうするべきかと思ってな」


「それはそれは、困りましたね」


「実際、あちらの屋敷まで足を運んで、柳の君に会ってみるしかなさそうだな」


「柳の君と左京権大夫様は、どこか通じるものがありますね?」


「私と、柳の君が?」


「はい。左京権大夫様も女性に現を抜かす訳でもなく、贅沢する訳でもなく、お屋敷に引きこもって、ほれ、このように、毎日、仕事に励んでおられるではありませんか?」


「……それが私の務めだからな」


「そして、周りにいる者と言えば、私のような、人ならざる者ばかり。自分のお部屋に引きこもって、枝垂れ柳に囲まれて龍笛を吹いているという、柳の君と、案外、気が合うのではありませんか?」


 侍女はくすりと笑った。


「まさか……しかし……そうだな」


 晴明は何か思いついたのか、ふと明るい表情になる。


「どうかなさいましたか?」


 侍女は怪訝そうな顔をして聞いた。


「桔梗、おかげでいい事を思いついたぞ!」


「いい事と言いますと?」


「私はこれより、柳の君に懸想してみようと思う」


「あら、まあ」


 侍女は——桔梗は、小さな口をぽかんと開けた。


 それも無理もない、彼女の主は、突然、大納言の一人娘を、恋慕ってみようというのだから。


「そうと決まれば、まずは『観月かんげつうたげ』の準備だな!」


 晴明はやる気に満ちていた。


『観月の宴』というのは、読んで字の如く、月見を楽しむ宴の事である。


「そろそろ、満月。宴を開けば柳の君について知っている者、関わりがある者を一度に呼べる。男女の関わりは、噂話から人となりを知る事であろう?」 


 晴明は悪戯っぽい顔をして言った。


「では、『柳のお屋敷』の近くに住まわれている方々に、お誘いの手紙を出しておきましょう」


 桔梗も主人と同じように、楽しそうな顔をして言った。

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