第三章 秋柳ノ祓 其の二、

 第三章 秋柳ノ祓


 其の二、


 晴明邸では、『観月の宴』が開かれていた。


 晴明が屋敷に招いたのは、当人達は知る由もないが、皆、藤原宗輔や柳の君に縁がある者や、『柳のお屋敷』の近くに住む者達だった。


「皆様、本日は『観月の宴』にお集まり頂き、大変、ありがとうございます!」


 晴明が挨拶している間も、客人達は談笑していた。


「『観月の宴』と言えば、我が国では船遊びをしながら水面に映る月を楽しんだり、杯に月を映し愛でたりする訳ですが、海の向こうにはこんな言い伝えがあるそうです。赤い満月を見ながら意中の相手と酒を酌み交わす事ができれば、その想いが成就するという言い伝えです。生憎、今日は殿方ばかりですが、いつかそんな想い人と巡り合える事を願って、今夜は宴に興じようではありませんか!」


 晴明が乾杯の音頭を取り、どっと笑いが起きた。


 その後は宴は盛り上がる一方、飲めや歌えやの大騒ぎである。


 ある者は呂律が回らないぐらい酔っ払い、またある者はほろ酔い加減で歌を詠み、蹴鞠を始める者も出てきた。


 晴明はと言えば、周囲を煌々と照らす篝火のそばで、客人である三人の貴族と、立ち話をしていた。


「この頃の娘は親の威光を嵩にきて我がままに育った者が多いそうですな」


 晴明は何気なく切り出した。


「そうそう、〝めでたき娘〟と甘やかされて、ろくに世間の常識も知らず、学問にも詩歌にも優れず」


「毎日、お白粉を塗りたくって眉毛を整えて、黒髪を梳くのに夢中で」


「あちらの姫もこちらの姫も見た目ばかり気にして、見栄を張る事に一生懸命でな」


 彼らは女性がこの場にいないのをいい事に、月が揺れる盃を煽りながら、言いたい放題だった。


「しかし、皆さんがお住まいの近くには、『柳のお屋敷』があるのでは? 確かあのお屋敷には、学問にも詩歌にも優れているという、柳の君がいませんでしたか?」


「いるにはいるが、あそこの姫君はそれ以外がどうも」


「龍笛の名手とは聞くが、年頃の娘でありながらお白粉もせず眉毛も整えず、黒髪を梳く事もないらしい」


「近所の子ども達を使って芋虫や毛虫を捕まえて、籠に飼っているというぐらいだからな。何を考えているのやら」


 三人の貴族達は薄気味悪そうに言った。


 先ほどまで世の娘に化粧をしていればしていたで中身がないと言っていたのに、していなければしていないで今度は気色が悪いとでも言いたげだった。


「子ども達を使って、芋虫や毛虫を?」


 晴明は何も知らない振りをして聞いた。


「『化け柳のお屋敷』に勤める侍女達の話によれば、柳の君は日頃からおかしな事を言っているらしい。例えば、この世の本質を理解するにはどうすればいいか? いくら綺麗な蝶を見たり、絹を手にしても、仕方がない、蝶になる前の毛虫、絹を生み出す蚕にこそ、興味を抱かなければならない、とかなんとか」


「この世の本質ですか」


 晴明は感心したように言った。


「芋虫や毛虫集めぐらいなら子どもの遊びかも知れないが、最近は陰陽道にも手を出しているらしい。その上、どこの馬の骨とも判らん怪しげな者達を侍女に召し抱えたかと思えば、当の本人は自分の部屋に引きこもって、人前に出てこなくなったとか」


「……陰陽道にも手を出した?」


 晴明は眉を顰めた。


 ——もしかしたら、柳の君は……。


 なんとなく、嫌な予感がした。


「柳の君が召し抱えた怪しげな者達というのは?」


「柳の君はある日、突然、それまで仕えていた侍女達に暇を出し、次の日にはもうそやつら三人を召し抱えていたという話だよ」


「それぞれ、『かえる』、『蜥蜴とかげ』、『いなご』などと変な名前をつけて呼んでいるというぞ」


「そやつら三人とも、柳の君が陰陽道の術で拵えた〈式神〉だという噂もあるな」


「そう言えば化け柳の噂が出始めたのも、そやつらがやって来た頃か。柳の君は今でも、夜毎、龍笛を奏で、それはそれは美しい音色が聞こえてくるらしいが」


「柳の君はなぜ、部屋に閉じこもっているのでしょう?」


 晴明は事の発端について、興味深そうに聞いた。


「はて?」


「なぜだろうな?」


「病いに臥したという訳でもないし、さっぱりだ」


 三人はそこまで言って、ふと何かに気づいたようにして、晴明の事をまじまじと見た。


「お三方、どうかなさいましたか?」


 晴明はきょとんとした。


「それはこっちの台詞じゃ、安四位殿」


「そうじゃそうじゃ!」


「ふむ……もしやお主、『化け柳の屋敷』の姫君に、〝怪愛ずる姫君〟に、並々ならぬ興味があるのか?」


「いや、私は、その!?」


 晴明は思いがけない指摘を受けて、しどろもどろになり、気のせいか、顔も赤くなっているようだった。


「やめておけ!」


「お主は音に聞こえた陰陽師、我らのような一般人などとは違うところもあるのだろうが、今回ばかりは相手が相手だからな」


「何も〝怪愛ずる姫君〟などに懸想せんでもよかろう?」


 三人とも口々に好き勝手な事を言った。


「いやいや、お話を聞いているうちに一風変わったところがある柳の君に対して、興味が湧いてきたのは確かですけどね」


 晴明がそう言ったのは、宗輔から依頼されているからか、それとも、偽らざる本心からか——。


「私らの話を聞いて興味が湧いてきたと?」


「信じられん!」


「安四位殿といい、右馬佐うまさ殿といい、世の中には物好きがいるものだな」


 貴族の一人が呆れたように言った。


「——『右馬佐』、と言いますと?」


 初めて聞く名前だった。


「うん? お主、何も知らんのか?」


「はい」


「お主と同じように、柳の君に興味を持ち、しばらく足繁く通ったり、恋文を送ったりしていた男だよ」


「それも、数々の浮き名を馳せた美男子だ」


「とは言え、あの男もなぜ、よりにもよって、〝怪愛ずる姫君〟などに想いを馳せたのかな」


「うんうん、本当、男と女は判らん」


「その右馬佐殿と柳の君は、どうなったのですか?」


「結局、顔を合わせる事すらできずに振られたようだが」


「実際はどうかな。右馬佐殿と言えば女ったらしで知られているし、恋文で断られたとしても、強引に一夜をともにする事も珍しくないというからな」


「しかし、あの〝怪愛ずる姫君〟に手を出して、よくもまあ、無事でいられたものよな」


「それで、右馬佐殿は今、どうなさっているのでしょう?」


「お主、自分が誘った相手も覚えておらんのか」


 貴族は呆れた顔をして、ちらりと見やる。


 視線の先には、篝火に雅やかに照らされた中庭の奥に、一組の男女がぼんやりと浮かび上がっていた。


 貴族の男に馴れ馴れしく話しかけられているのは、晴明に仕える侍女、桔梗だった。


「あそこで侍女と話しているのが、右馬佐殿だよ」

「噂をすればなんとやら、とんだ色男よ」


「羨ましい限りだ」


 三人の貴族達は、右馬佐と桔梗が二人っきりで談笑しているのを見て、面白そうに言った。


「…………」


 晴明は糸のように細い目を一段と細め、


(——桔梗、何をしている?)


 侍女に向かって、胸の内で話しかけた。


(……この殿方が、どうしても私と話がしたいと仰って)


 と、晴明の脳裏で桔梗の声音が響いた。


(その男が何者か、知っているのか?)


 晴明は胸の内で話し続けた——これも、陰陽師が操る不可思議な術の一つだった。


(『右馬佐』と名乗っていましたが、他には何も)


(何の話をしている?)


(最近、世間に出回っている噂話や、和歌の流行についてお話されています)


(他には?)


(私に興味があるようです)


(私の侍女にまで手を出すとは、まさしくとんだ色男だな)


(私はこのまま話をしていてもいいのでしょうか)


(ああ、柳の君について何か聞き出せるか)


(はい)


(その右馬佐という男、女ったらしで知られているらしく、柳の君にもちょっかいをかけた事があるらしい。詳細が知りたい)


(判りました)


(見ての通り、かなりの好き者だ。くれぐれも気を付けるのだぞ)


(はい)


「右馬佐様、そろそろ宴に戻りませんと、他の方が心配されます」


 桔梗は困り顔で言った。


「いいではないか、私はそなたと話がしたいのだよ」


 右馬佐は聞く耳を持たなかった。


「右馬佐様のようなお方が私のような者と、こんなところで話をしている事が知られれば、恥をかく事にはなりませんか」


「左京権大夫様に仕える待女と言えば、それなりの家柄だろうよ。実際、詩歌や学問にも秀でていると聞くぞ」


「滅相もございません。それに……」


「それに、何だと言うのだ?」


「右馬佐様は『柳のお屋敷』の姫君とよい仲だと聞いております。大納言様の娘様に比べれば、私など……」


 桔梗は己の事を卑下して、離れようとした。


「ふん、何を言い出すのかと思えば、そんな事を気にしていたのか? 私は家柄や身分になど、こだわらんよ。ただ、この世に生まれてきた幸せと、男女の楽しさを味わいたいだけだからな」


 右馬佐はああ言えばこう言い、桔梗の行く先を塞いだ。


「姫様が悲しみましょう?」


「まだ言うか? あれは一時の遊びに過ぎない。これ以上、何をするという事もないよ」


「一時の遊び?」


「柳の君が一風変わった女子である事は誰もが知るところだろう? だから、からかってやったのさ」


「まあ、悪い事をなさるのですね」


「何が悪い事なものか。ちょっとした悪戯を仕掛けただけの事よ」


「悪戯?」


「あれは普通の女子のように蝶や花を好まず、芋虫や毛虫を集めていると聞いたのでな。こいつは余程、男勝りに違いないと思い、知り合いの職人に頼んで、作り物の蛇が飛び出す手紙を送ってやったのだ」


「…………」


「今、思い出しても笑えるわ。私が書いた恋文というていで送ったのだが、遣いによれば、さすがの〝怪愛ずる姫君〟も驚いていたらしい。確かに、返事の手紙を見ると、達筆だと聞いていた姫君の文字は、震えながら書いたかのようだったわ」


「なぜ、そのような事を」


「さっきも言った通り、ほんのからかい、ほんの悪戯よ。なにせ私は、普段、お澄まししている柳の君や、そなたのような女子の驚いた顔に惹かれるのでね」


「ひどい事を……」


「さあ、これで柳の君とは何でもない事がお判り頂けたかな? 今度は貴方のお話をもっと聞きたいのだが?」


 右馬佐はいやらしい笑みを浮かべて、桔梗の手首を乱暴に掴み、篝火の届かない、暗闇の奥へと連れ込もうとした。


「右馬佐殿」


 と、すんでのところで止めに入ったのは、他の誰でもない、晴明だった。


「うちの侍女が何か失礼を致しましたか?」


「い、いや、別に何も」


「それなら、あちらで一緒に飲みませんか」


「は、はい、もちろん」


 晴明が何食わぬ顔をして誘いの声をかけると、右馬佐はその場から逃げるようにして去った。


「どうやら柳の君は誰かに呪われた訳でもなく、物の怪に祟られたという訳でもないらしい……おそらくは自ら陰陽道に手を出して、その結果、枝垂れ柳に囲まれた部屋に閉じこもっている」


 晴明はしかし、暗闇の奥をじっと見つめるようにして、考え込んでいた——素人の、それもまだ少女に、どこまで陰陽道の術が扱えるものか?


「——左京権大夫様」


 晴明がふと見れば、桔梗が何かに怯えたように、俯きがちに震えていた。


「どうした? いや、すまぬ……怖い目に遭わせてしまったな」


 晴明は桔梗が闇夜に怯える子どものように縮こまっている事に気づき、申し訳がなさそうに言った。


「いいえ——右馬佐殿と姫様の間にあったのは、本当に、手紙のやり取りだけだったのでしょうか?」


 桔梗の脳裏には右馬佐のいやらしい笑みが張り付いていた。


 彼女の細い手首には今もまだ、邪な男が伸ばしてきた乱暴な感触がありありと残っている。


「当事者以外、判らんな。もし、柳の君とあれの間に、手紙以外の何かがあったとすれば、或いはそれが、柳の君の陰陽道の力を強くした原因かも知れん」


 晴明は暗がりから宴の様子を確かめた。


 すると、右馬佐は他の貴族達とともに車座になり、自分がこれまでどんな浮き名を馳せてきたのか、上機嫌で語っていた。


「…………」


 晴明は彼が得意げに語っている様子を眺めているうちに、何か言い知れない不安が湧いてきた。


「桔梗よ、大納言様の屋敷に遣いに出てくれるか。柳の君宛に手紙を出すとしよう」


 晴明は気を取り直すように言った。


 この時代、貴族の恋愛はお互いの容貌や性格を噂話で知ってから、手紙のやり取りを通して仲を深める。


「判りました」


 桔梗はなぜか、気になった。


 主人が今から書こうとしている手紙の中身は、いったい、どんなものか?


 本当に、恋文を書くつもりなのか?


「どんなお手紙を書くおつもりなのですか?」


 桔梗は胸の内に湧き上がった疑問を口に出さずにはいられなかった。


「大納言様の依頼は、柳の君に何が起きているのか調べてくれというもの。今回の宴もその為に開いたもの、今度の手紙もその為のものだよ」


 晴明は、桔梗に——いや、自分自身に言い聞かせるようだった。


「とは言え、実際、手紙を書いてみるまでは判らんな。我ながらどんな手紙になるのか書いてみるまでは」


 晴明が見上げた夜空の遠くには、いつの間に満ちたのか、真っ赤に花開いた椿のように、満月が煌々と輝いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る