第二章 雷鳴ノ祓 其の三、

 第二章 雷鳴ノ祓


 其の三、


 晴明は数日後、道摩法師とともに近国にある海沿いの土地を訪れ、縁がある貴族の屋敷に滞在させてもらい、涼を取っていた。


 道摩法師は表面上は弟子として付き従っていたが、内心は、今すぐにでも再戦を申し込みたいぐらいだった。


 それにしても、晴明の古い知り合いだという貴族の屋敷は、何か妙な感じがした。


「——お師匠様、このお屋敷はどうなっているんですか?」


 道摩法師は素直に疑問を口にした。


 何しろ、屋敷の主人に挨拶をしたくても、一度も顔を見た事がない。


 だが、晴明は、どこかに屋敷の主人がいるかのように、客人然として振る舞っていた。


「こちらにお邪魔してからしばらく経ちますが、下女や下男はいても、主の気配がありません」


「貴方は私の事をただの人間ではないと、そう思っているんですよね」


「はい」


「では、自分で言うのもなんですが、土御門小路にある自宅も『化け物屋敷』などと呼ばれているこの私を滞在させてくれる知り合いが、どこにでもいるただの人間だと思いますか?」


「そ、それは……」


「いい機会だから一つ教えましょう。今からお話する事も、私に関して人々が噂している事です」


「はい」


「安倍晴明は幼い頃、父親と一緒に神社に行く途中、村の子ども達が一匹の白い蛇を浜辺で虐めているのを見つけた」


 ——晴明が子ども達から白い蛇を助け出してやると、蛇は竜宮城に住まう、乙姫の化身だった。


 晴明は助けてもらったお礼にと、乙姫から竜宮城に招待され、感謝の気持ちとして、竜宮城の秘宝である、『竜王の秘符』、『青眼』、『鳥薬うやく』をもらった。


 晴明は竜宮城の秘宝のおかげで、未来や過去を見通す力を授かり、鳥や獣が何を話しているのか判るようになったという。


「もし、噂が本当の事だったとしたら、お師匠様も、元は普通の人間だったという訳だ。それに、もしやこのお屋敷は、乙姫様のものなのかな?」


「私自身についてどう思うかは貴方の判断にお任せするとして、かように噂になる程、私には海にまつわる知り合いがいるのは確かだし、このお屋敷に住んでおられるのは、その通り、乙姫様ですよ」


 晴明は笑顔で言ったが、道摩法師には冗談かどうか判らなかった。


「冗談ですよ——ただ、このお屋敷に住んでおられるのが、女性なのは本当の事です」


「女性ですって?」


 道摩法師は驚きを禁じ得なかった。


 この時代、女性は家族以外と顔を合わせない、人前に姿を現さない事が普通であり、恋愛も、姫君の噂を聞いて容姿や人となりを想像し、男の方から何通も手紙を出し、ようやく始まるかどうか、という具合である。


 にも関わらず、晴明は自分の事を連れて屋敷に泊まり込んでいる。


「どういう事なのですか?」


 道摩法師が疑問に思うのも無理はなかった。


「どうもこうも、貴方も私の弟子になった訳だし、こういう事にも慣れてもらわないと。私達、陰陽師に対して、物の怪や穢れを祓う事を依頼してくるのは、男性だけに限らない、という事ですよ」


 晴明が道摩法師の反応に面白そうな顔をして言った時、誰もいないと思われた御簾がするすると開いた。


「安四位様、お久しぶりです。お連れ様も、ようこそおいで下さいました」


 晴明達の前に姿を現したのは、檜扇で口元こそ隠しているが、気品に満ちた美しい顔に、煌びやかな十二単に身を包んだ、妙齢の女性だった。


「これはこれは海の君、いつもながらいきなりのご挨拶で。こちらこそご無沙汰しておりました。彼は播磨国の出身で、道摩法師、と言います。最近、私のところに弟子入りしてきたのです」


「——初めまして、道摩法師様。わたくし、皆様から、『海の君』と呼ばれております」


「こちらこそ、お初にお目にかかります。私は、道摩法師と言います。お目にかかれて光栄です」


 道摩法師は突然、目の前に姿を現した姫君、海の君に、戸惑いの色を隠せなかった。


「うふふ、驚きました? ちょっと悪戯が過ぎたかしら?」


 海の君は晴明達を驚かせる為、今の今までどこかに隠れていたらしい。


「私は何度かお邪魔していますから慣れていますが、彼は驚いたんじゃないですか」


 晴明は海の君の人となりを知っていながら、道摩法師には黙っていたようである。


「さすがは安四位様。都でのご活躍もこの地まで聞こえてきておりますよ」


「そんな活躍などと言うような大した事はしてませんよ——それより今日は、海の君にお詫びに参った次第でして」


「……と言いますと、やはり?」


「はい。八方手を尽くしたのですが、私の力では、どうにも……申し訳ありません」


「……左様にございますか」


「せめて、直接、お詫びに伺おうと思いまして」


「平安の都にも並ぶ者はいないと言われる、稀代の陰陽師、安四位様でも、どうにもなりませんか?」


「大変、心苦しいのですが」


「そうですか、安四位様がそう言うのでしたら仕方ありませんね。ところで道摩法師様も陰陽師だそうですが、いつ頃から都で働いていらっしゃるのですか?」


「はい、つい先日からでございます。弟子入りさせて頂いたのが最近の事ですから」


 道摩法師は晴明がどこかに涼みに行こうなどと言いながら、陰陽師の仕事としてここまでやって来たのだという事、依頼者は海の君であり、残念ながら、依頼は解決できなかったのだという事を理解した。


「安四位様のお弟子様なら素晴らしい腕前をお持ちなのでは?」


 海の君は興味深そうに言った。


「彼の陰陽師としての実力が気になるのなら、実際に確かめてみてはいかがですか」


「お師匠」


 道摩法師は苦笑いを浮かべた。


 晴明は時々、何を考えているのか判らないところがある。


 よくもまあ、自分が一度負かした相手に、高貴な姫君の前で陰陽道の腕前を披露させようとするものだ。


 恥の上塗りのような事をさせて、莫迦にするつもりなのだろうか。


「なに、ちょっとした余興ですよ。こんなに立派なお屋敷に泊めてもらっているんですから、何かお礼をしなければね」


「まあ、嬉しい! わたくし、両親がいなくなってからというもの、話し相手がいなかったものですから! たまに安四位様とお話するのが、とても楽しみだったんです! その上、今日は道摩法師様に、陰陽道の術を見せて頂けるなんて!」


 海の君は檜扇で口元を隠していたが、喜びに満ちた顔をしていた。


「そういう事でしたら」


 道摩法師は何か思い立ったようである。


「失礼は承知の上なのですが、海の君と私の二人だけで、お話させて頂いてもよろしいですか」


「わたくしと、二人だけで?」


「はい——と言いますのも、私は先日、御堂関白様を立会人として、左京権大夫様に方術勝負を挑み、負けたが故に弟子入りする事になったもので。それからいくらも経たぬうちに自分の未熟な腕前をまた披露するとなると、私にも羞恥心というものがあります。できれば、海の君にだけご覧頂きたいと」


「まあ、そうだったのですか。知らぬ事とは言え、大変な失礼を」


「いえいえ、お気になさらず。今晩はお師匠の言うように、私が身に付けた陰陽道の技を、心行くまでご覧下さい」


「まあ嬉しい、ありがとうございます。安四位様、お席を外して頂いてもよろしいですか?」


「……はい」


 晴明は自信家の道摩法師が羞恥心を抱いているなどとは、到底、思えなかったが、元々、言い出したのは自分の方だと思い直して、素直に立ち去る事にした。


「では改めて、自己紹介させて頂きます。私は、播磨国の陰陽師、道摩法師と申します」


 道摩法師は晴明が退室した後、居住まいを正して言った。


「道摩法師様!」


 海の君は、いったい、何がそんなに楽しいのか、子どものように繰り返した。


「こう見えても、私は播磨国では少しは名の知れた陰陽師でして、左京権大夫様と方術勝負をした時も、途中までは互角だったのですよ。結果はこの通りですが」


「弟子入りをしたからには、いつかは師匠を乗り越える為に修行に打ち込まなくては!」


「もちろんですとも。ところで、海の君は、安四位殿とのお付き合いは長いのですか?」


「ええ。最初にお会いしたのは、わたくしが年端も行かぬ子どもの頃になりますから。それが何か?」


「私は左京権大夫様にどうしても勝ちたいのです。ただ、あのお方には得体が知れないものを感じます……あまり大きな声では言えませんが、何か、人ならざる力を」


「何か、人ならざる力?」


「その力の源が何なのか知る事ができれば、今度こそ私は勝つ事ができるはずです!」


「左様にございますか」


「必ずや!」


 道摩法師は鼻息も荒く言ったが、海の君はなんだか興味がないようだった。


「ですから、左京権大夫様について何か知っている事があれば、どんな小さな事でも教えて頂きたいのです!」


 道摩法師はそれを聞きたいが為に、海の君と二人きりになったらしい。


「道摩法師様は、安四位様が、〝狐面〟の名で呼ばれている事は、ご存知ですか?」


「確か、いつもなんとなく笑っているように見える、どこか狐を思わせる顔からついた渾名だとか?」


「それだけではありません」


「と言うと?」


 道摩法師は興味津々といった様子である。


「最近まで播磨国にいらした道摩法師様はご存知ないかも知れませんが、この噂は都の人間ならば誰でも知っている事です。お役に立てるかどうか判りませんよ」


「左京権大夫様に関する事なら、どんな事でもいいのです。して、その噂というのは!?」


「——あのお方の、母上に関する事です」 


「左京権大夫様の母上?」


「……安四位様の母上は、金剛白面九尾の狐だと——すなわち、安四位様は、人と狐の間の子だと……」


「まさか?」


 道摩法師は絶句した。


 まさか、まさかとは思っていたが、本当に狐狸妖怪の類だったとは。


「そんな顔をなさらないで下さいな、あくまで噂なのですから。それこそ真実を見極めるのは、陰陽師としての眼力次第」


 海の君は面白がっているように言った。


「安四位様が本当に化生の者だとすれば、自分と同じ人間だと思っていた時よりも、やりようによっては、有利に事が運べるのでは?」


 海の君は更に焚きつけるような事を言った。


「確かに、狐狸妖怪の類だとすれば、こちらも陰陽道に基づいて、いくらでも戦いようはある」


 道摩法師は勝算があるのか、力強く頷いた。


「しかしなぜ、そこまで私に?」


 道摩法師は晴明を倒す算段が固まってきたところで、なぜ、出会ったばかりの自分に対して、海の君が肩入れしてくれるのか、疑問に思った。


「海の君は、左京権大夫様に何か依頼をしていたのでは?」


 道摩法師は二人の関係に興味が湧いて聞いた。


「はい——ですが、どうにもならないと断られてしまいました。うふふ!」


 海の君は何がおかしいのか、檜扇の下で笑っていた。


「海の君?」


 道摩法師は彼女の暗い微笑みに思わずその名を口にしていた。


「わたくし、いつも一人ぼっちなものですから、こうしてお話しするのが楽しいのですよ」


 道摩法師は一見すると機嫌がよさそうに笑っている彼女の瞳の奥に、暗く淀んだものを見た気がした。


「は、はあ——しかし、海の君のおかげで、左京権大夫様の力の源が何なのか見当が付きました。これなら、次の勝負までには対策を考える事ができそうですよ。そうだ、海の君さえよければ、左京権大夫様に断られたという件、差し出がましいかも知れませんが、私がお手伝い致しましょうか?」


 道摩法師は話の矛先を変えた。


 だが、


「安四位様にできなかった事が、道摩法師様ならばできると?」


 海の君は愛らしい微笑みを浮かべながら、痛烈な一言を放った。


「そ、それは……」


 道摩法師は親切心が仇となり、痛いところを突かれた。


「わたくし、いい事を思いつきました。道摩法師様が安四位様に勝つ気があるのなら、もう一度、今度はわたくしを立会人として、方術勝負を致しましょう!」


 海の君はぱっと目を輝かせて、とんでもない事を言い出した。


「な、なんと?」


「場所はうちの中庭で。道摩法師様が勝利した暁には、その時こそ安四位様にお断りされた一件を依頼させて頂きます」


 海の君はどちらが勝っても負けても退屈しのぎができるし、損もしない訳である。


 道摩法師にしても、早くも巡ってきた再戦の機会を逃す手はなかった。


「……判りました。いいでしょう」


「ではわたくしの方から安四位様にはお声をかけておきます」


 道摩法師は海の君の思いつきで、晴明と再び方術勝負をする事になったのである。

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