第二章 雷鳴ノ祓 其の二、

 第二章 雷鳴ノ祓


 其の二、


 晴明と道摩法師、二人の方術勝負が執り行われる事になったのは、道長邸の中庭だった。


 今回の方術勝負、立会人の道長にとっては単なる無聊の慰みかも知れないが、平安京の内裏に出入りをする官人陰陽師である晴明と、地方の陰陽師である道摩法師にしてみれば、それ相応の意味を持っていた。


 その上、あまり見る機会がない方術勝負とあっては、道長邸には観客兼証人として大勢の貴族が集まり、立ち見が出るほどの盛況ぶり、道長は寝殿の南面中央に設けられた階隠しの間に座り、左右の簀子にも貴族達がずらりと並んでいた。


 白砂を敷き詰めた美しい中庭を利用した会場は観客の熱気に包まれ、すでに晴明と道摩法師が向き合い、後は勝負の開始を告げる合図を待つだけだった。


「——失礼ですが、貴方が道摩法師殿ですか?」


 晴明は法政寺の一件以来、久しぶりに顔を合わせたとは言え、初めて彼と出会ったような口振りである。


 それも無理もない。


「いかにも! 左京権大夫様とこの姿でお会いするのは、初めてだったかな!?」


 と、自信に満ち溢れた眼差しにはきはきとした口調で答えたのは、紅顔の美少年と言っていい、剃髪をした若い僧侶だったからである。


「はてさて、それも本当の姿なのかどうか……」

 晴明は半分呆れ、半分困っているようだった。


「御堂関白様の御前で無礼を働く気などございませんよ。正真正銘、これが本来の私の姿です」


 道摩法師はにこやかに言った。


「だといいんですがね」


 晴明は苦笑いをした。


「それより、御堂関白様にもお約束して頂きましたが、この勝負、勝った方が、負けた方の師匠になる——ゆめゆめ、お忘れなきように!」


 道摩法師は念を押すように言った。


 彼はこの勝負に勝ち、播磨流の陰陽道の使い手として、中央でのし上がろうという気なのだ。


 万が一、敗北したとしても、晴明の弟子として、この地に残り、いずれ本流に食い込むつもりだった。


 例え、形勢不利になったとしても、無様な戦いにはしないつもりである。


 今日、ここには、都中の有力な貴族が集まっているのだから、晴明といい勝負をすれば、その分だけ、自分の実力を知ってもらう事になり、今後、重用される機会も増える事だろう。


 道摩法師には、勝っても負けても、得があるという訳である。


「もちろん、覚えていますよ。この勝負、勝った方が、負けた方の師匠になる」


 晴明は自分の不利を承知しているのか否か、いつもと変わらず、落ち着き払っていた。


「まずは、私から!」


 先手は、挑戦者、道摩法師である。


 道摩法師が石ころを拾い上げ呪文を唱えると、石ころは燕に姿を変え空高く飛び立ち、勝負の行方を見守る貴族達が小さな歓声を上げた。


「ふむ、大きな口を叩くだけの事はある」


 晴明は燕の行方を目で追いながら、檜扇をぱちんと鳴らした。


 次の瞬間、空を舞っていた燕は石ころに戻って地面に落下し、道摩法師ははっとして、観客の貴族達からはどよめきが湧いた。


「お次は、私の番ですね!」


 晴明は待ちくたびれたとでも言うように、足元に転がっていた竹の棒を拾い、白洲に窪みを作り始めた。


 すると窪みの真ん中から清らかな水がこんこんと湧き出し、噴水のように吹き上がってきたではないか。


「たかが、その程度」


 道摩法師がつまらなそうに指を鳴らした途端、噴水は幻のようにぱっと消え、観客は感嘆の声を上げた。


 今のところは、両者互角といった風。


 続いて、審判役の陰陽師達によって、長持が運び込まれてきた。


 晴明と道摩法師、二人の間を分かつように置かれた長持——衣類や寝具を収納する時に使う長方形の木箱にはぴったりと蓋がされ、二人はもちろんの事、観客の誰一人、中に何が入っているのか知らない。


 長持の中身が何なのか知っているのは、道長と道長の側近、そして、長持を準備した審判役の陰陽師達だけである。


 陰陽師が操る陰陽道の術には色々な種類があるが、これはその一つ、〈卜占ぼくせん〉の実力が問われる勝負だった。


 晴明と道摩法師はこれからそれぞれ長持の中身を占い、審判役の陰陽師から手渡された紙に答えを書き、審判役の陰陽師が彼らが紙に書き記した答えと長持の中身を照らし合わせて、勝敗を決する訳である。


 三本勝負のうち、二本が引き分けに終わっている今、ここで勝敗が分かれれば、二人の勝負が決まる。


 表向きは単なるお遊びとは言え、中央の陰陽師にしてみれば、晴明に勝ってもらわねば面子に関わるというもの。


 観客は皆、手に汗握り、勝負の行方に注目していた。


 いち早く中身を占って、紙に答えを書き記したのは、晴明。


 次いで道摩法師が占い、同じく紙に答えを書き記す。


「——左京権大夫様! 鼠が十五匹!」


 審判役の陰陽師が晴明の答えを読み上げた瞬間、だ。


 道長と道長の側近達の顔に、戸惑いの色が見られた。


 彼らの反応は、何を意味するのか?


「道摩法師様! 大蜜柑が十五個!」


 大蜜柑というのは、今で言うところの夏蜜柑である。


「ふふふ! はっはっは!」


 ふいに高笑いをしたのは、道摩法師だった。


「この勝負、私の勝ちだな!」


 道摩法師は審判がまだ下っていないにも関わらず、勝利を宣言した。


「勝負はまだついていませんよ」


 晴明はやれやれといった風で、焦った様子はない。


「左京権大夫様、よくご覧下さい! 御堂関白様の落胆されたあのお顔、他の方々の驚きよう! そう、左京権大夫様の正解はあり得ない!」


 道摩法師は余程、自信があるらしい。


「落ち着いて考えてみれば、子どもでも判りそうな事だ。なぜなら長持の中に鼠が十五匹も入っていれば、その匂い、その鳴き声、いくらでもするはずではありませんか!?」


 道摩法師の指摘に対して、観客の貴族達は、言われてみればその通りだと思い、唸った。


 確かに長持からはどんな匂いもしなかったし、鼠の鳴き声が聞こえてくる事もなかった。


 こうなると大蜜柑が入っているかどうかはともかく、十五匹の鼠が入っているなどとは、到底、思えない。


「左京権大夫様、そろそろ、観念してはいかがですかな!? くっくっく! はっはっは! 今、この時から、左京権大夫様は私の弟子となり、都の陰陽師達もまた、播磨国の陰陽師である私の命に従うのだ!」


 道摩法師は己の勝利を確信して、声高に叫んだ。


「私はまだ勝負はついていないと言ったはずです」


 が、しかし、晴明は余裕の態度を崩さなかった。


「安四位!」


 道長は苦言を呈すように言った。


「御堂関白様、先程も申し上げましたように、勝負はまだついた訳ではございません。さあ、どうか、長持の蓋を開けてみて下さい!」


 道長はしばし、晴明と視線を交わし、理解を示したように黙って頷くと、審判役の陰陽師達に長持の蓋を開けさせた。


「そんな莫迦な!?」


 道摩法師は直前まで自分の勝利を信じて疑わなかったが、長持の中身を見て、驚きの声を上げた。


 彼だけではない、長持の中身を知っていたはずの道長も、道長の側近達もまた驚いていた。


「まさか、こんな事が!? 本当に鼠が十五匹も入っていたら動物の匂いが鼻をつき、鳴き声も聞こえてきたはずだ!?」


 道摩法師は悲鳴を上げるように言った。


 長持の中身は晴明が言った通り、なんと、十五匹の鼠だったのである。


「どうやらこの勝負、私の勝ちのようですね」


 晴明は北叟笑んだ。


 その微笑み、まさしく〝狐面〟、観客達からも、自然と賞賛の声と拍手が巻き起こった。


 実際、蓋を開ける直前まで長持の中身は大蜜柑だったのだろう。


 でなければ、道長達の反応や、道摩法師が言う、動物の匂いや、鳴き声がしなかった事の説明がつかない。


 だが、そこは稀代の陰陽師、安倍晴明は、実力でそれを覆した。


 陰陽道の力を使い長持の中身を十五匹の鼠に変えたに違いない。


 それも審判役の陰陽師が長持の蓋を開ける、その瞬間に。


 見事としか言いようがなかった。


 その力、推して知るべし、だ。


「……こ、この私が負けるはずがない! 播磨国に、陰陽師、道摩法師ありと言われた、この私が!?」


 満場一致の拍手に包まれながら、ただ一人、当の敗北を喫した道摩法師だけが、納得していなかった。


 いや、審判を担当していた陰陽師達も驚きのあまり、皆、目を白黒させていた。


「己!?」


 道摩法師は審判達の動揺を目の当たりにして、思わず晴明の事をキッと睨んだ。


「貴様! 何をした!? いや、普通の人間に、こんな事ができる訳がないッ! いったい、何者なのだッ!?」


 道摩法師は詰め寄るように言ったが、顔には怯えの色が浮かび、恐怖しているようだった。


「おかしな事を聞かれるものですね」


 晴明はいつもの調子で、はぐらかすように言った。


「ええい、往生際の悪い! あの長持は審判役の陰陽師が、今回の方術勝負の為に準備したもの! 我々が中身に細工できぬようにと、〈呪詛返し〉が施されているはずだぞ!」


 道摩法師の言う通り、勝負事に用いるものだから、どんな小細工もできないようにと、予め、〈呪詛返し〉が、防止策が施されていた。


 だがしかし、もし、それを容易く破る者があるとすれば?


「左京権大夫様は、〈呪詛返し〉が施された長持の中に入っていた大蜜柑を、いとも簡単に鼠へと変えてみせた! その結果、彼らは驚愕に打ち震え、今も尚、事態を理解できずにいる!」


 道摩法師は、晴明に、再度、勝負を挑むように言った。


「私には判りますぞ! 周囲が思う以上に、左京権大夫様が只者ではないという事が! いくら腕利きの陰陽師と言えども、そう簡単に、〈呪詛返し〉が解けてなるものか!!」


 道摩法師はそこまで言って、ごくりと息を飲んだ。


「或いは、左京権大夫様は……」


 道摩法師は、その先を、晴明の正体について言葉にする事を躊躇っているようだった。


 安倍晴明は、ただの人間ではないのではないか?


「——ただの人間ではないのではないか、そう言いたいのかな?」


 晴明自身が、道摩法師が躊躇した一言を察して、平然とした顔で言った。


「……!?」


 道摩法師は狼狽えた。


「図星でしたか?」


 晴明は含み笑いを漏らした。


「しかし、私がただの人間ではないとしたら、どうします? もしや、約束を違えるおつもりですか?」


 今度は晴明が詰め寄るように、道摩法師に言った。


「そもそも、これは方術勝負。ならば、長持に施された〈呪詛返し〉を破れるか否かも、実力のうちではございませんか?」


「…………」


 道摩法師は一瞬、何か言おうとしたが、口を噤んだ。


「今更、言うまでもない事ですが、陰陽師同士のこの勝負、勝負、それ自体にも、呪術的な力が働いています。それ故、約束を違えればどうなるか、貴方も知らない訳ではないでしょう」


 もし、道摩法師が晴明の弟子になる事を拒めば、今回の勝負を取り巻く呪いの力によって、その身はただでは済まないだろう。


「それに、御堂関白様の御前だ。これ以上、見苦しい真似はよした方がいい。大人しく、我が門下生になる事をお勧めしますよ」


 晴明は、殊更、親切心を発揮して、弟子入りを勧めた。


「……承知、致しました」


 道摩法師はぐうの音も出ない様子だった。


「これで私達は、晴れて師弟関係になった訳だ。となるとここは一つ、お互いの事をよく知らなければなりませんね」


「……何ですって?」


「そろそろ、季節も夏真っ盛り。どこかに涼みに行くとしましょうか?」


 晴明は自分の勝利を祝って周囲が大騒ぎしているのをよそに、いったい、何を企んでいるのか、冗談めかして言った。

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