第一章 朧月ノ祓 其の三、

 第一章 朧月ノ祓


 其の三、


 晴明は帝と謁見してから数日が経っても、酒呑童子の討伐隊に加わるか否か決めかねていた。


 答えを出せない間、人と鬼の両陣営には、ちょっとした動きが見られていた。


 酒呑童子の討伐隊に名を連ねる渡辺綱が、配下の鬼と斬り合いを演じたのだ。


 相手の鬼の名は、茨木童子——酒呑童子の右腕と言われる鬼である。


 渡辺綱が夕暮れ時に馬を駆り、一条戻り橋までやって来た時、橋の袂に一人の妖艶な美女が立っていた。


「こんばんは。これから五条まで歩いていくつもりが、いつの間にか暗くなってしまって、私一人では心細くて……どうか、一緒に行っては下さいませんか?」


 渡辺綱が快く馬の後ろに乗せ、一条戻り橋を渡った途端、彼女は恐ろしい鬼の姿になり、襲いかかってきた。


 渡辺綱は、馬上で鬼と——茨木童子と激しくもみ合い、地面に転げ落ちた。


 渡辺綱も茨木童子も、すぐに立ち上がったかと思えば、お互いに隙を窺い、じりじりと間合いを詰めた。


 勝負は、一瞬だった。


 渡辺綱が、名刀『髭切り』で、茨木童子の片腕を一刀のもとに斬り落としたのである。


 渡辺綱はその後、主人である源頼光の屋敷に赴き、茨木童子の片腕を見せた。


 源頼光は茨木童子の片腕を見るなり何か嫌な予感がしたのか、陰陽師に相談する事を勧めた。


 そして茨木童子の片腕は、陰陽師、安倍晴明の元に届けられ——晴明は母屋にある四方を土壁に囲まれた部屋で、名刀のように据え置かれた片腕と向き合っていた。


 源頼光ぐらいの武士ともなると神通力のような特別な力が備わっているのか、彼の判断は正しかった。


 晴明は陰陽師として、茨木童子の禍々しい片腕を一目見ただけで、はっきりと感じた。


 ——茨木童子という鬼、斬り落とされた自分の片腕を、必ずや取り返しに来るだろう。


 晴明は塗籠の部屋に閉じこもり、屋敷の外に、一週間、出る事なく、〈物忌ものいみみ〉を行う事にした。


〈物忌み〉とは不吉な予兆があった時や凶日とされた日に家に閉じこもり、凶事から身を守る事をいう。


〈物忌み〉を行っている間は本人も家から出てはいけないが、他人を中に入れる事もしてはならなかった。


 晴明が鬼を相手に〈物忌み〉を行っている事は、各所に通達され、〈物忌み〉の札は屋敷の門の前にも立てられていたし、誰かが屋敷を訪れる事はまずなかった。


 が、人ならざる者、片腕を奪われた、当の茨木童子は別である。


 いったい、どこから嗅ぎ付けてきたのか、茨木童子は自分の片腕を取り返そうと、土御門小路にある晴明の屋敷に、毎晩、訪れた。


 どうにかして晴明が閉じこもっている寝所に侵入しようと塗籠の板扉や壁に何度も鋭い爪を突き立てるのだが、陰陽道のお札による結界を破る事ができず、夜明け前になると悔しげな雄叫びを上げて退散した。


 一日目が過ぎ、二日目が過ぎて、最終日の七日目、〈物忌み〉、最後の晩、寝所の板扉の向こうから、誰かの足音が聞こえてきた。


「——童子丸や、童子丸や」


 晴明が耳にしたのは自分が幼い頃の名を優しげに呼ぶ、聞き覚えがある女の声だった。


「——童子丸や、早くここを開けておくれ」


 晴明は声の主が誰なのか考え、はっとした。


 ——まさか、そんな事がある訳がない。


 板扉の向こうから聞こえたのは、この世にたった一人しかいない、自分の母親、葛の葉の声だった。


「母上? 申し訳ございません、今晩は誰も入れる事はできないのです」


 晴明は声の主が自分の母親ではないと、偽者だという事を判っていながら、素直に返事をした。


 そう、人の世に別れを告げ、信太の森へと帰った母親が、今更、平安の都に戻ってくる事など、あり得ない。


「長旅の末に訪ねてきた母親に顔も見せてくれないなんて、お腹を痛めて産んだ我が子がこんな親不孝者に育つなど、露ほども思わなんだ!」


 人の世に傷つき、悲しみに暮れた母親が、本当に部屋の外にいるようだった。


「ああ、ほんの一目でいいから顔を見せておくれ!」


 晴明は母親の声でそうまで言われては仕方がないとでも思ったのか、板扉をゆっくりと開けた。


「……母上?」


 晴明は苦々しい顔をした。


 目の前に立っていたのは、身の丈一丈近い細身の筋肉質、乱れた長い髪を背中まで垂らした、案の定、大鬼だった。


「まんまと騙されおったな、愚か者めが!」


 大鬼の吊り上がった眦と、耳まで裂けた口が、晴明の事を嘲笑った。


「お主の言う通り、我ながら莫迦な事をしたものよ」


 晴明は自嘲気味に笑った。


「はっはっは、我は茨木童子なり! 確かにこの腕、返してもらったぞ!」


 次の瞬間、一陣の風が吹いたかと思えば、晴明が振り返ると、片腕を取り返した大鬼、茨木童子が、勝ち誇っていた。


「稀代の陰陽師、安倍晴明と言えども、母親には逆らえないと見える! そんなに母親の事が恋しいのなら、お前も人の姿を捨てて信太の森に帰ったらどうだ!?」


 茨木童子は嘲るように言った。


「何?」


 晴明は眉を顰めた。


「まだとぼける気か? 平安京随一の陰陽師、安倍晴明は人と狐との間の子——今時、そのような噂話、子どもでも知っていよう!」


「これで何かと忙しいんでな、童子のように森で遊んでいる暇などないよ」


「ふん、気取るのもいい加減にしろよ! そこまで言うのならお前の正体、人間達の前で暴いてやってもよいのだぞ!?」


 茨木童子は晴明の事をキッと睨んだ。


「——昔々、摂津国、水尾村の農家に、一人の赤子が生まれました」


 晴明は何食わぬ顔をして口を開いた。


「その子は母親のお腹の中に十六ヶ月もいたので、生まれた時から歯が生え揃っていました。そして、すぐに歩き始めたと言います」


 晴明は淡々とした調子で話したが、茨木童子は血相を変えた。


「母親は難産の為に亡くなり、父親はお乳をもらう為に村中を歩き回りました。けれど、赤子はたちまちお乳を吸い尽くし、いつしか、誰にも相手にしてもらえなくなりました」


「……や、やめろ!?」


「父親は日に日に、我が子が恐ろしくなってきて、ある日、悩んだ末に、赤子を森に捨てました」


「やめろと言っているだろうが!?」


「偶然、通りかかった床屋の主人に拾われて、赤子は命を救われました。床屋の主人には妻も子どももいなかったので、赤子を、大切に大切に育てました。やがて、赤子は童子となり、床屋の手伝いを始めました。ある日、お客の顔剃りをしていた童子は手元が狂い、お客の皮膚を傷つけてしまいました」


「お前、いったい、どこまで!?」


「童子はお客の頬に滲む真っ赤な血を指で拭い、なんとなくひと舐めしました。それからです——どうしても、血の味が忘れられなくなったのは」


「お前は、いつ、どこで、そんな話を!?」


「それからというもの、童子はお客の顔をわざと傷つけては血を舐めるようになり、お客は気味が悪くなって来なくなりました。童子は床屋の主人にこっぴどく叱られ、近くの川にやって来ました。橋の上から川面に映った自分の顔を見てみると、恐ろしい鬼のようなそれに変わり果てていたではありませんか」


「……なぜ、お前が、そんな事まで知っている?」


「貴方がさっき自分で仰ったんじゃありませんか、私の事を稀代の陰陽師だと。ならば、相手の正体、素性を見抜く事など、造作もない事だとは思いませんか?」


 なるほど、これぐらい、『稀代の陰陽師』ならば、お見通しという訳である。


「私が今、話した事が事実なら、元を辿れば貴方は人間だったという事になる。貴方の方こそ、人の世には帰らないのですか?」


「何を今更! 生まれた時から歯が生え揃いすぐに歩き始めたような我が、人間だなどと言えるか!?」


 茨木童子は片腹痛いと言わんばかりだった。


「第一、血の繋がった父親でさえ我の事を見捨てたのだぞ? 情に厚い義理の父親にしても、人の血を好んで啜るような我を受け入れる事はできなかった。だが、たった一人、あの方だけは、我の事を認めて受け入れて下さったのだ!」


 茨木童子は髪を振り乱さんばかりに、歓喜に打ち震えるように言った。


「……酒呑童子」


 晴明は茨木童子が興奮しているのとは対象的にひどく冷め切っていた。


「我はあの日、床屋には戻らずに町を後にし、丹波の山奥に辿り着いた。そして、大江山で酒呑童子様と出会って〝茨木童子〟を名乗るようになった我は、心に決めたのだ! この先、どこまで行っても、例えそこが、地獄の果てであろうとも、決して酒呑童子様のおそばを離れぬと!」


「——心に、決めた?」


 晴明は茨木童子の鬼気迫る迫力に、まるで何があっても愛した男と添い遂げようとする、情念の炎にその身を燃やす、女のような印象を受けた。


 いや、晴明は、事ここに至って気づいた。


 この鬼は真実、女なのだ。


「ふん……同じ物の怪のよしみだ、今日のところは見逃してやろう」


 茨木童子は途端に、頭が冷えたように言った。


「だが、この次、出会った時、これ以上、お前が人間に味方をするようなら、我もまた容赦はせんぞ?」


 茨木童子は念を押すように言うと、疾風のように姿を消した。


「…………」


 晴明はただ呆然と立ち尽くしていた。


 まだ、何も決断できなかった。


 未だ、何も。

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