第一章 朧月ノ祓 其の二、

 第一章 朧月ノ祓


 其の二、


 晴明が顔のない鬼と出会ってから、何度、季節が巡っただろうか——胸の内に秘めた、自分の人生に対する疑問には何の答えも出せないままに。


 だが、今や平安の都で、陰陽師、安倍晴明の名を知らぬ者はいなかった。


 帝に仕える陰陽師の中でも随一の腕利きとして知られ、どこに行っても衆目に晒された。


 広沢の僧正に会う為に、遍照寺を訪れた時の事である。


 晴明は中庭に面した廊下で若い僧侶の一団に囲まれた。


 僧侶達は都の有名人を間近で見る事ができた嬉しさからか、好奇の眼差しを向けてきた。


「聞くところによると、安四位様は、都にいる陰陽師の誰よりも、陰陽道に通じていらっしゃるとか?」


『安四位』——位階が従四位下の安倍氏——すなわち、晴明の事である。


「占術、呪術、どれ一つ取っても、素晴らしい腕前だと聞いております」


「そんな、私などまだまだですよ」


 晴明は謙遜した。


「よければ、ここで陰陽道の術を見せてもらえませんか?」


「私からも、是非、お願いします!」


「私も、この目で見てみたいです!」


 彼らは晴明が戸惑っているのも気にせず、口々に勝手な事を言った。


「今、ここでですか……それは、ちょっと」


 晴明はやんわりと断った。


「試しにあの蛙の命を陰陽道の術を使って奪ってみてくれませんか?」


 僧侶の一人が、廊下に面した中庭にある小さな池の辺りで、蛙が一匹、飛び跳ねた様子を見て、いい事を思いついたと言わんばかりに言った。


「ご冗談でしょう」


 晴明は苦笑いするしかなかった。


「たかが蛙の一匹や二匹、稀代の陰陽師と言われる安四位様なら何程の事もないのでは?」


 どうやら彼らは自分達が僧侶の身でありながら、どれだけ残酷な事を言っているのか気づいておらず、陰陽道の術を見せてもらうまで、引き下がるつもりはないようだった。


「……ふむ」


 晴明は観念したように廊下の端に膝をつき草の葉を摘むと、何やら呪文を唱えて庭に向かって投げた。


 草の葉は蛙の群れの頭上にひらひらと舞い落ち——蛙の群れは目には見えない力に押し潰され、一匹残らず、ぺちゃんこになって死んだ。


 僧侶達はあまりの事に唖然として、次の瞬間、恐怖した。


 陰陽師は、時に陰陽道の術を使い、暗殺を行う事もある。


 その気になれば、いつでも簡単に、誰にも知られる事もなく、他人の命を奪う事ができるのだ。


 もし、陰陽師と対等に向き合える者がいるとすれば、それは同じ陰陽師か、物の怪ぐらいしかいない。


 自分の好奇心すら抑えられない僧侶など、陰陽師を見世物のように扱うか、陰陽道の術を前に、怯えすくむ事しかできないだろう。


 陰陽道に通じていない者に他にできる事があるとすれば——、


「……平安の都に、鬼の盗賊団が出ると?」


 晴明はその日、内裏で帝と謁見していた。


「そう、揃いも揃って大鬼。夜な夜な都に現れては、貴族の屋敷を襲い、金銀財宝はもちろん、姫君を攫っていくという」


 突如として出現し都を荒らし回る鬼の盗賊団に、帝は頭を痛めていた。


「運よく命拾いした者の話では、連中の親玉は一際、大きな身体で、身の毛もよだつような、恐ろしい姿形をしているそうだ」


「いったい、どんな?」


「頭髪は縮れた赤毛に、角は五本、その上、目は十五個に、赤銅色の肌、身の丈優に、一丈の大鬼よ。赤毛の大鬼は、人呼んで〝酒呑童子しゅてんどうじ〟」


「……酒呑童子」


「判っている事と言えば、それぐらい。酒呑童子の生まれも判らなければ、連中がどこからやって来るのかも、なぜ、姫君を連れ去っていくのかも、全く判らん。これでは、手も足も出んよ」


「逆に言えば、親玉の正体や根城としている場所さえ判れば、いくらでも手の打ちようはある、と? そして、それを占えるのは——」


「言わずもがな、平安の都、稀代の陰陽師、安倍晴明、お主しかおらんよ。お主の占いで連中の居場所を知る事ができれば、今すぐにでも腕に覚えがある者を呼び集めるつもりだ」


「鬼退治にございますか?」


「ああ、いつまでも連中の好き勝手にはさせんよ」

 帝は含み笑いを漏らした。


 実際、都には、源頼光を筆頭に、坂田金時さかたのきんとき碓井貞光うすいさだみつ卜部季武うらべすえたけ藤原保昌ふじわらのやすまさといった、兵で知られる武士が集まっていた。


「早速、占ってみましょう」


 晴明が厳かに占い、件の鬼の盗賊団は、大江山にいる事が判った。


 丹後地方に位置する連山で、別名、『千丈ヶ嶽』という。


「大江山、か。確かにあそこなら身を隠すには都合がいい。しかし相変わらず、お主の占いは凄まじいのう。この世の中に、見通せないものなど存在しないのではないか?」


「いえいえ、そんなに便利なものではございませんよ。今回の占いの結果にしても大江山に行って確かめてみない事には……」


「いつもながら殊勝な事だな、お主の占いが外れた事など一度もなかろうに。ものはついでだ、いったい何の為に、酒呑童子が姫君を攫うのか、理由は判るか?」


「はい」


 晴明はこともなげに言った。


 果たして、最初から見当が付いていたのか、これもまた、占いの結果なのか。


 晴明は酒呑童子の出自について、まるで見てきたように語り始めたのである。


 ——昔々、子宝に恵まれなかった信州の夫婦が、戸隠山に子宝祈願しました。


 その甲斐あってか妻は身篭り十六ヶ月後に男の子を産み、男の子は『外道丸げどうまる』と名付けられすくすくと育ちましたが、成長するにつれて周囲に乱暴を働くようになり、国上寺に預けられました。


 母親は何かと気にかけてくれましたが、ある日、突然、亡くなってしまいました。


 外道丸は母親を亡くしてからというものひたすら修行に励みましたが、顔立ちが整っていた彼の元には年頃の娘達から毎日のように恋文が送られてきました。


 それでも煩悩に惑わされる事なく、差出人がどこの誰だろうと手紙の封は開けず、日々、修行に打ち込んでいました。


 ある時、返事が返ってこない事を苦にして、一人の娘が、自ら、命を絶ちました。


 外道丸は顔も名前も知らない娘が身投げした事を人づてに知り、自分の行いが正しかったのか否か、思い悩み、今更だと判っていながら、恋文が詰まった葛籠を開けたのです。


 すると、葛籠の中から、紫色した煙が立ち上ってきたではありませんか。


 外道丸は紫色の煙を吸った途端、気を失い、手紙を読んでもらえず悲しみの果てに死んだ女や、他の女達の恨み辛み憎しみにうなされ、目が覚めました。


 すぐに自分の身に異変が起きている事に気づき、慌てて外に出て井戸の中を覗き込むと、水面に映し出されたのは、かつて多くの女達を魅了した美しい顔貌ではなく、見るも無惨に変わり果てた、悪鬼のようなそれでした。


 外道丸はこんな恐ろしい鬼の姿になってしまっては、修行も何もないと仏の道を捨てました。


 それから〝酒呑童子〟と名を変え、〝茨木童子いばらきどうじ〟をはじめとした自分と同じ鬼との出会いを重ね、今では彼らの首領として、人々に悪さをするようになりました。


「——そして今、酒呑童子は、夜毎都に現れては、悪行の限りを尽くしているという次第」


「まさか、鬼の首領が、元は人間だったとは……」

 帝は驚きを禁じ得なかった。


「酒呑童子は自分の事を醜い鬼の姿に変えた女達に復讐するつもりであちこちから姫君を攫い、その手にかけているのではないでしょうか?」


「なんとまあ、恐ろしい事よ……怖いのは、女の情念か、鬼の憎悪か」


 帝は、半分、感心しているように言った。


「仰る通りで」


 晴明は頷いたが、浮かない顔をしていた。


 なぜなら、他ならぬ自分自身、身につまされる事があったからである。


 先日の遍照寺での僧侶達との一件である。


 この先ずっと、あんな風に見世物扱いされては、自分もいつ、他人に対して、酒呑童子のように恨み辛み憎しみを抱いてしまうか判ったものではない。


 散々、持て囃され、お望み通り陰陽師としての実力を見せれば、今度は打って変わって蔑まれ、怯えられ、疎まれても尚、平常心を保っていられるだろうか?


 ——それだけじゃない……酒呑童子が女子の恨みを買って、妖怪変化に身をやつしたのと比べたら、私などは元から……。


 「これで、酒呑童子の素性も、根城としている場所も判ったな。こうなれば討伐隊を組んで退治しに行くだけだが」


 帝は何か言いたげに、晴明を見やる。


「どうだろう、陰陽師のお主がいれば、これほど心強い事はない。一緒に行ってはくれんか?」


 帝から直々に言われては、簡単に断る事はできないが。


「……少し、考える時間を頂けますか。物の怪や穢れを祓うのは慣れていますが、戦いとなると、話は別。それに山道も不慣れときては足手まといにもなりかねませんし……」


 とは言ったものの、晴明は別の事について悩んでいた。


 ——私は、人ではない。


 今や都中に〝狐面〟の噂は広まり、公然の秘密のようになっていたが、今日まで、誰にも見せた事もなければ、明かした事もない、我が身の真実だった。


 ——人間と化け狐の間に生まれた、化生の者であるこの私が、鬼を退治しに行くのか?


 逆に行かないとすれば、どうする?


 どうすればいい?

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