『陰陽師 狐面—夕闇ノ祓—』

ワカレノハジメ

 第一章 朧月ノ祓 其の一、

 第一章 朧月おぼろづきはらえ


 其の一、


 平安京は春を迎えていた。


 だが、この時代、物の怪が人前に姿を現す事は珍しくなかったし、夜ともなれば、人間に悪さをした。


 今宵も、都には、どこか不吉な気配が漂っていた。


 月明かりに照らされた大内裏の南東角を、牛飼童が先頭に立ち、車幅が周りを囲み、随身が弓矢や太刀を携えて警護に当たった牛車が、ゆっくりと進んでいく。


 帝に仕える陰陽師、賀茂忠行かもただゆきを乗せた牛車である。


 牛車の後ろを付かず離れず歩いているのは、賀茂の付き人である陰陽師見習いだった。


 行灯を提げ、水干を身に纏った、なんとなく笑っているように見える、狐のように細い目をした少年である。


 陰陽師見習いの少年は二条大路と大宮大路が交わる四つ辻に出る時、牛飼童に声をかけ、牛車を停めた。


「お師匠様!」


 牛車に駆け寄って、賀茂に呼びかけた。


「何だ何だ? いったい、何事だ、晴明せいめいよ?」


 賀茂は屋形から顔を出し、陰陽師見習いの少年、晴明に聞いた。


「お師匠様、そのままお静かに!」


 晴明は切羽詰まった様子だった。


「お前も大人しくしていてくれよ」


 まるで何かに怯えているような牛車の牛を、安心させるように優しく撫でる。


「物の怪でも現れたか?」


 賀茂の小声に、牛飼童、車副、随身も、緊張した面持ちになる。


「はい、息を潜めていて下さい」


 晴明は四つ辻から視線を逸らさずに言った。


 次の瞬間、人けのない通りにぬっと姿を現したのは、物の怪の大行列だった。


「百鬼夜行、です」


 晴明は息を呑んだ。


 陰陽師見習いの少年が撫でているお陰か、牛車の牛は大人しくしていたが、牛飼童と車副は短い悲鳴を上げ、随身達まで弓矢や太刀を投げ捨てて、一目散に逃げ出した。


 賀茂は偶然出くわした百鬼夜行に驚いたのはもちろんの事、連中が自分達の存在に気づいていない事にも衝撃を受けた。


 この場で陰陽道の術を操る事ができる者がいるとすれば、賀茂の他には、彼の弟子である狐顔の少年しかいない。


「隠形術を使ったのか!?」


 さすがは一流の陰陽師、晴明が他人の目から自分の姿を見えないようにする術、隠形術を使用した事にすぐに気がついた。


 晴明は驚きに目を見張る賀茂に黙って頷く。


「うーむ!」


 賀茂は計り知れない才能を前にして唸った。


 師匠である自分よりも早く百鬼夜行の気配を察知した上、こんなにも手際よく隠形術を駆使するとは——摂津国は阿倍野の武士、安倍保名あべのやすなより預かりし、安倍晴明あべのせいめいの、これが神童と言われる所以か。


 晴明の隠形術は目眩しの効果を十二分に発揮し、物の怪の群れに気付かれる事なく、やり過ごす事ができた。


 だが、晴明は訝しげな顔をした。


 こちらの姿は隠形術によって目に見えないはずが、ふと、一匹の妖怪が、頭から二本の角を生やした小山のように大きな鬼が、くるりと振り向いたではないか。


 小山のように大きな鬼は青紫色の肌をしており、のっぺらぼうのように顔がなかった。


 晴明は顔のない鬼がのっしのっしと近付いてきても、恐怖心を抑え、物音を立てずにじっとしていた。


 顔のない鬼は牛車には目もくれず、すぐそばまでやって来た。


 いくら晴明でも鼻先が触れるか触れないかという至近距離で、顔のない鬼と見つめ合っては堪らない。


「晴明!」


 賀茂は屋形から飛び出し、陰陽道の霊符を手にして呪文を唱えた。


 だが、顔のない鬼に息をふっと吹きかけられた途端、石像のように固まってしまった。


「お師匠様!?」


 晴明は師匠の元に駆け寄ったが、同じく顔のない鬼に息を吹きかけられ、金縛りに遭ったように動けなくなる。


「儂らの目を欺くとは、小賢しい人間もいたものだな」


 顔のない鬼は、目がないというのに、感心したように言った。


「この辺に陰陽道の術を施し、儂らの目を欺いたのは貴様か? 年端も行かぬ小僧のくせに、いい度胸をしているじゃないか!」


 さも面白そうに言った。


「貴方の方こそ、私の隠形術を見破るとは、ただの物の怪ではないのでは?」


 晴明は口を動かし話をする事ぐらいはできるようだったが、賀茂は瞬き一つ、指一本動かせない様子である。


「貴様の方こそ、まだ口をきく事ができるとは、ただの童ではないと見える」


 顔のない鬼は目がないにも関わらず、晴明の事を見据えるようにして言った。


「まさか——私など、どこにでもいるただの人間、ただの小僧ですよ」


 晴明は謙遜するように言ったが、晴明が隠形術を使った事によって、顔のない鬼以外、彼らの存在に気づかなかったのは、事実である。


 いくら陰陽師見習いとは言え、簡単にできる事ではない。


「よく見れば、本当に人間ではないのかも知れんな」


 顔のない鬼はまるで両目がついているかのように、晴明の顔をまじまじと見て、興味深そうに言った。


「どういう意味ですか?」


 晴明はいかにも不愉快そうな顔になる。


「おっと、これは失礼」


 顔のない鬼はわざとらしく言った。


「今さっき出会ったばかりの貴方に、私の何が判るというんですか?」


 晴明は珍しく苛立っているようだった。


「ふふん、ちょっと長居をしすぎたみたいだな、この辺でお暇させてもらおうか」


 顔のない鬼は鼻で笑い、四つ辻に向き直った。


「またどこかで顔を合わせるような事があれば、その時こそ、色々と話そうじゃないか」


 思わせぶりに言って、二、三歩行くと、忽然と姿を消した。


 晴明と賀茂の金縛りは、直後、自然に解けた。


 月明かりに滲んだ寂しげな四つ辻には、百鬼夜行の影も形もなかった。


 晴明の傍らで、いかにものんびりした様子で、牛が鳴いた。


 晴明は子どもの頃、『童子丸どうじまる』の名で呼ばれ、今では信じられないような奇行を重ねていた。


 例えば、寝殿造りの庭園に植えられた樹木の枝葉に虫が止まっていれば、当たり前のように、食べた。


 屋敷の廊下で、鼠がうろちょろしていれば、捕まえて食べたし、田畑で、蝗や源五郎を見つければ、やはり、ばりばりと平らげた。


 挙げ句の果てには、庭園に蛇が迷い込んできても、怖がる事なく、獣のようにかぶり付く始末である。


 それでは、童子丸の奇行を目の当たりにした母親、葛の葉の胸中は如何許りか。


 何度、注意したとしても、奇行を繰り返す我が子を見つめるその瞳は、哀しみの色に染まっていた。


 その日も我が子が、屋敷の庭先で草の葉に止まっていた虫をひょいと素手で捕まえ、平然とした顔で食べるのを目にした。


 いくらお腹を痛めて産んだ我が子とは言え、いや、だからこそ、見るに堪えないと言わんばかりに、すぐに立ち去ろうとした。


 晴明は几帳に映った彼女の後ろ姿に、見てはならないものを見た。


 ——今思えば、あれは、紛う事なき、化生の者。


 去り際、几帳に映り込んだ母親の影は普段見慣れた愛しい母親のそれではなく、獣のように尖った耳、長い尻尾、化け狐の本性の一端だった。


 葛の葉は我が子に正体を知られた後、紆余曲折を経て、信太の森に帰った。


 幼い晴明を置いてきぼりにして、ただ一筆、書き置きだけを残して。


 ——人である父と人ならざる母の間に生まれた化生の者……それが、私だ。


 だとすれば、どうする?


 ——お前は、いつまでここにいる気だ? 死ぬまで、ここに残るのか?


 かつて自分の母親がそうだったように、本性を映した影が他人の目にいつ触れるとも判らぬこの都に。


 ——誰にも本当の姿を見せずに、本心も打ち明けないままに、ずっと?


 どうする?


 ——この先、どんな風に生きていけばいい?

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