第四章 黄龍 其の十二、

 第四章 黄龍


 其の十二、


「残念だよ、〝蛇目〟さん」


 李哪吒は、体長、優に三、四メートルはあろうかという、鮫の顔に虎の身体、鷲の翼を持つ、異形のものに変化した黄龍を前に、仙に対して見下げ果てたように言った。


「あんなにすごい力を持っているのに、結局、みんなと同じなんだからさ」


 ——絶対に、あの人達と同じようにはならないぞ。


「〝蛇目〟さんは平気なんだ。あんな化け物に弟子を貪り食われても、悔しいとは思わないんだ。あの化け物の姿を見て、怖気付いちゃったのかなー?」


 ——例えどんな敵が相手でも、僕の力を見せつけて、必ず認めさせてやる。


「どんなに強くても、臆病者じゃ仕方ないか。だから『自分はただの雇われマスターです』なんて言って、『闘仙』に参加する事も頑なに断っていたんだね」


 仙が黙っているのをいい事に、言いたい放題だった。


「〝蛇目〟さんの得意技は『闘仙』みたいな試合の場じゃ大騒ぎになって使えないだろうし、十八番が使えないんじゃ戦えなんて言われても嫌だよね」


 突っ掛かってきたが、仙は黙って聞いていた。


「僕はあんた達のようにはならないよ。なんだかんだ理由をつけて戦いを避け、安穏とした場所でのうのうと生きているような、そんな連中と同じにはね!」


 黄龍を——いや、醜い化け物に成り果てた、徐福を睨みつけて言った。


「今度こそ、僕の力を思い知らせてやる!」


 縛妖索を懐から取り出し、徐福に向かって投げつけると、あっという間にぐるぐる巻きにした。


「あんたが本当に、方士徐福だっていうのなら、軽く二千年は生きている事になる。正真正銘、化け物っていう訳だ!」


 腰に巻いた赤倫子をするりと解き、己の〝気〟を通わせ、剣に変える。


「相手にとって、不足なし! その首、斬り落としてくれる!」


 少年は一振りの剣と化した〈混天綾〉を威勢よく振り翳したが、


「小生意気な! 小便臭い小僧が粋がりおって!」


 徐福は暴れ回る蛟すら封じた縛妖索を体を軽く揺すっただけで、いとも簡単に引き千切った。


「おお、小賢しや、小賢しや! どんな小細工をしようと、この私に通じるなどとは思わぬ事だな!」


 徐福は少年の事を嘲笑いながら、薄紙を突き破るように『闘仙』本部ビル最上階の天井をぶち抜いた。


「!?」


 少年は飛び散る破片を手で払い、避けながら、天井を見上げ、視線で行方を追いかけた。


 徐福は遥か上空から、凄まじい勢いで急降下してきた。


 まるで地上に這いつくばる、哀れな小動物に狙い定め、猛禽類が襲いかかってくるようだった。


「この!?」


 少年は〈混天綾〉で徐福の鋭い鉤爪と打ち合い、最初の一撃はなんとか凌いだが、飛翔した時の余波で、執務室の壁は脆くも崩れ去り、巨体を気にする事なく身動きができるようになった徐福は、今度は地に足をつけ、闘牛のように突進してきた。


「くそ!」


 徐福を避ける事ができず、〈混天綾〉の剣を盾に変化させ、体当たりに備えるが、体格差があり過ぎ、体重差も大きすぎた。


 少年は大型トラックと激突したように、後方に跳ね飛ばされた。


「危ない!」


 仙は少年が地面に叩きつけられる前に、自分の身体を緩衝材代わりにして受け止めた。


「大丈夫ですか?」


 間一髪のところで、全身で抱き止めた少年の、寝起きのように目を瞬かせた顔を覗き込んで、安否を気遣った。


「なんとか」


 少年は呆然としていたが、幸いな事にどこにも怪我はなさそうだった。


「ここに来る前、李哪吒先生は言ってましたよね——小孫には借りがあるから、ついて行きたいって、それに、どうしても自分の実力を認めてもらいたいからって」


 仙にバーでのやり取りを確認され、少年はしばし呆然としていたが、こくりと頷いた。


「そしてついさっき、自分の実力が足りないから徐福と戦っちゃいけないのかと、そう聞きましたよね」


 少年は、もう一度、素直に頷いた。


「確かに今の実力じゃ、はっきり言って徐福には敵わないでしょう。でも、今の貴方に本当に足りないものは、功夫ではない」


 少年が自分の元を離れ、一人で立とうとするのを支えながら、真摯な面持ちで言った。


「今の私達にとって、本当に一番、大事なものは、最も大切な事は、何だと思いますか? 今回の目的は、〈秦王会〉を叩き潰すなんていう血なまぐさいものじゃないし、力任せに相手を倒す事だけが全てじゃない。そもそも、相手を倒せば、それで終わりなんていう事は——」


「だったら!」


 仙の言葉を遮って、少年は激昂したように言った。


「李哪吒先生に〝道〟との合一を目指すつもりがあるのなら、本当の強さとは何か、もう一度、考える必要があると思いますよ。その答えは、私からすれば、無闇に力を振るう事じゃないし、自分の強さを他人に誇示する事でもないと思います」


 少年の事を真っ直ぐ見つめて続ける。


「今、李哪吒先生がやるべきは、目先のお金や勝利の為に戦いに身を投じる事じゃない。まずは、常に自分自身に対して何をすべきか問いかけ、己を見つめ直し、いつ、いかなる時も本心を見失わず、やるべき事を果たす」


 徐福の事を見据え、ゆっくりと歩き出した。


「それこそが、本当の強さや力というものじゃないですかね……今の私達にとって、本当に一番大事なものは、最も大切な事は、あれを倒して勝利を得る事じゃない……本当に一番大事なものは、最も大切な事は何か?」


 仙は独り言のように言った。


「何をごちゃごちゃと言っている! さっさと私の糧になるがいい!」


 徐福は闘牛士に挑発された牛さながら、地面を蹴って、走り出した。


 仙は徐福の突撃を紙一重のところでかわし、すぐさま間合いを詰め、脇腹に強烈な肘打ちを加えた。


 徐福は急所を打たれ、たたらを踏み、吐き気を催して、げえげえとえずいた。


 喉元をぐるぐると鳴らし、盛大に吐瀉物をぶちまける。


 吐瀉物の中身はまだ完全に消化し切っていない人体の一部で、あちこち噛み砕かれたような頭蓋骨に、どろりとした真っ赤な内臓、バラバラになった手足の欠片を、へどろのように吐き出した。


 更に栗色の毛糸のようなものを吐き出し始め、お腹の底から大きな丸いものがせり上がってきたかと思えば、喉奥から人間の大人ほどもある毛玉が、一個、ごろんと飛び出してきた。


 栗色の巨大な毛玉が蕾が花開くようにはらりと解け、眠り姫を思わせる美しい少女の横顔が覗いた。


「まさか!?」


 李哪吒は思わず、声を上げた。


 少年の目に飛び込んできたのは、今の今まですっかり徐福の餌食になったとばかり思い込んでいた、〝斉天大聖〟の孫美猴の姿だった。


「さすがは小孫——徐福の臓腑に収められながらも、自分の髪の毛を使って、生き永らえていたみたいですね」


 仙がぱちんと指を鳴らすと、彼女の全身を包んでいた栗色の髪の毛が、目には見えぬ力で取り払われた。


 彼女は徐福に丸飲みされた時、自分の髪の毛に包まり、強力な消化液にじっと堪えていたのだ。


 その際、治癒気功も使っていたのだろう、肩口から胸にかけての斬り傷も綺麗に塞がっていた。


「小孫の事、頼みましたよ」


 仙は床に力なく横たわり気を失っている彼女をそっと抱き抱え、呆然と立ち尽くしている少年の元に差し出した。


「——本当に一番大事なもの、最も大切な事」


 少年は初めて赤ん坊を抱くような緊張した面持ちで呟き、優しく恐る恐る抱きとめた。


 彼女が腕の中ですやすやと寝ているのを見て、何か言いようのない温かなものがじわじわと胸に広がるのを感じた。


「そろそろ本番と行きましょうかね」


 仙は徐福に向き直った。


「……貴様、いったい、何をした!?」


 徐福はようやく吐き気が治まり、仙を睨み付けた。


「これ以上、好き勝手されても困るので、ちょっとした〈陣〉を敷かせてもらったんですよ——〈誅仙陣ちゅうせんじん〉です」


 仙が言う通り、いつの間にか徐福を中心とした四方、東西南北にはそれぞれ一振りの剣が突き刺さっていた。


「ほんのちょっと動いただけでも、四方に置かれた宝剣が鳴動して、痛い思いをする事になりますよ」


 仙は皮肉っぽく笑った。


「き、貴様!」


 徐福は怒り心頭だったが、こうして話している間も、周囲に敷かれた〈陣〉の底知れない恐ろしさがひしひしと感じられ、仙に向かって安易に飛び掛かる事はできなかった。


 かと言って、いつまでもじっとしている訳にもいかない。


 このままじっとしていても、〈陣〉の餌食になるだけだ。


 ならばいっその事、一か八かやるしかない。


 と、徐福がそう考えていた、矢先。


「……蛇目」


 徐福は周囲に異様な雰囲気が漂っているのに気づき、思わず相手のあだ名を呟いていた。


 仙の黒髪はいつの間にか腰の辺りまで伸びていて、風など吹いていないのに逆立つようになびいていた。


 その上、真っ白な長袍の襟元から覗いた首回りは、新雪のように輝く爬虫類の鱗のようなものにびっしりと覆われていた。


「な、何なんだ!? 貴様は!?」


 徐福は狼狽えているようだった。


「…………」


 仙は深い眠りから醒めたように、ゆっくりと目を開けた。


 あたかも蛇のそれのように縦長に変化した瞳孔は異様な輝きを放ち、およそこの世のものとは思えない、化生の如き迫力を備えた金色の双眸が、徐福にじっと向けられていた。


「〈十絶陣〉が一つ、〈天絶陣〉!」


 つい先日、〝独角龍〟の鄒潤を黒焦げにしたのと同じ、凄まじい稲妻が徐福の全身を貫いた。


「!?」


 徐福は仙が敷いた〈陣〉のおかげで身動きが取れず、落雷をまともに食らい、全身に大火傷を負って、無様にのたうち回った。


「〈列焔陣〉!」


 間髪入れず、今度は〝挿翅虎〟の雷横を飲み込んだ激しい炎の柱で追い打ちをかける。


 徐福は自身の巨体を凌ぐ大きさの炎に包まれ、その姿が見えないどころか、悲鳴さえもかき消された。


 十秒、二十秒、三十秒——今頃は分厚い毛も焼き尽くされ、肺までぼろぼろに焼け爛れ、ろくに呼吸もできないのではないか。


 どれぐらい時間が経っただろうか。


 徐福は悲鳴一つ上げられないまま、その命、尽き果てようとしていたが。


「これは驚きましたね……〈十絶陣〉のうち、二つを受けても、まだ生きているとは」


 仙は感心したように言った。


「ぐふ!」


 徐福は〈列焔陣〉が消え去ったあと、黒ずんだぼろ雑巾のようになりながらも、消し炭と化す事なく、しぶとく生きていた。


「き、貴様、判っているのか!? 私が死ねば、貴様は永遠に、『白日昇天』する機会を失う事になるのだぞ!?」


 生まれたての子鹿のようにぶるぶると震え、四本足でなんとか立ち、息も絶え絶えに言った。


 仙は苦しみ喘いだ徐福の顔が、よほど醜いと感じられたのか、いつもの笑顔はすっかり消えていた。


「私と同じように貴様もこの地上に留まる事をよしとせず昇天する方法を探しているのではないのか!? ならば、私が長年に渡って研究し、ようやく完成させた外丹術の全てを教えてやろう! そしていつかまた貴様が、私や貴様のような者と出会った時、そやつを我が身の血肉とすれば、天へと昇る事ができるかも知れんぞ!?」


 徐福は紀元前から二千年も生きてきたせいか、命乞いをしているにも関わらず、偉そうな物言いだった。


「……だから、この場は見逃せと?」


 仙は一拍置いて、つまらなそうに言った。


「ああ、さすれば、私が知っている外丹術の全てを、貴様に一つ残らず、教えてやろうではないか!?」


 徐福は仙が話に乗ってきたと思ったのか、喜んで言った。


「確かに貴方が苦労して見つけたというその方法を使えば、本当に天に昇れるかも知れない」


 仙は愛想笑いか、にっこりと笑った。


「それでも、私は、昇天さえできれば何をしてもいいなどとは思わない……なぜなら〝道〟は、いつも自然とともにあるからです」


 仙の金色に輝いた双眸に映っているのは、目の前にいる徐福などではなく、遥か遠い昔、記憶の彼方のようだった。


「ばっ、莫迦な!? き、貴様、それで、何がどうなるというのだ!?」


 徐福は驚きのあまり大きく目を見開き、自分が置かれた状況も考えず、怒りに任せて、仙を罵倒した。


「これからまた今までと同じように過ごして、いったい、何になる!? またこの世で、何十年、何百年と、神仙修行に明け暮れて、いったい、何になるというのだッ!?」


「…………」


「私とて自ら編み上げたこの術で異形の者となり、不老長寿を得るだけで精一杯だったのだ! だが、まだこの世のどこかに、私や貴様のような者がいるのならば、私の術を使えば——!」


「どうぞお好きなように言って下さい。なんと言われようと、人間の血肉を食べる気はありませんから」


 仙はにべもなかった。


「貴様のその手が汚れていないなどとは言わせんぞ!? 私が差し向けた〈秦王会〉の連中を返り討ちにし、今もまたこの私をその手にかけようとしている貴様の——ッ!!」


 徐福は唾を吐きながら喚き散らしたが、仙は両目を閉じて九字を唱え始めた。


「天地の気を凝縮し、天に雷、地には炎を呼び、全てを焼き尽くす——〈地烈陣〉!!」


 一瞬だった。


 まるで〈天絶陣〉と〈烈焔陣〉を掛け合わせたような強烈な稲妻と巨大な紅蓮の炎に襲われ、ついに方士、徐福は倒れた。


 仙達は徐福を倒した後、〈傲来幇〉に連絡し、『闘仙』本部ビルのロータリーに、迎えのリムジンを呼んだ。


「小孫の事、頼みましたよ」


 仙はリムジンの後部座席を覗き込んで、李哪吒少年に言った。


 孫美猴は座席の奥で目を閉じて、静かに横になっていた。


「はい!」


 少年は元気よく返事をした。


 足元には、額にお札が貼られた黒焦げの屍体、仙に封印を施された、方士、徐福が転がっている。


大哥たいかは一緒に乗っていかないんですか?」


 仙が車に乗ろうとしとないのを見て、少年は不思議そうに聞いた。


「急にどうしたんですか?」


 仙は、突然、態度を改めたような少年の言葉遣いに、興味深そうな顔になる。


 何しろ、『大哥』という呼称は、長兄や年上の男性に対して、尊敬の念を込めた呼び方なのである。

「別にどうもしないですよ」


 少年は気恥ずかしそうに視線を逸らし、素直に答えなかった。


「本当なら私なんか、何か尤もらしい事を言えるような立場じゃないんですよ。なにせ、ただの雇われマスターですから」


 仙は初めて出会った時と比べて、確実にどこか変化した少年の様子に、嬉しそうな顔をして言った。


「私は気分転換に、歩いて帰る事にしますよ。また今度、うちのお店で会いましょう」


 仙はリムジンを見送った後、舗装工事中の道路を歩き出した。


 まるで大災害に遭った街を、あてどもなく歩く被災者である。


『闘仙』本部ビルを中心に、開発途中の超高層建築群は天変地異に見舞われたように、あちらで全壊、こちらで半壊し、〈秦王会〉構成員の屍体がそこら中に転がっている。


 開発途中の区画は、大陸からやって来た紀元前の名状し難きものが跳梁跋扈したおかげで、荒れ地のようになっていた。


 月明かりは雲に遮られ、行くあてを照らすものは何もなく、底冷えする夜風が身に染みる廃墟と屍体ばかりが目につくここは、まるで地獄だった。


「…………」


 仙は表情もなく、たった一人、孤独に歩んでいる。


(ばっ、莫迦な!? き、貴様、それで、何がどうなるというのだ!?)


 脳裏に木霊したのは徐福の叫びだった。


(これからまた今までと同じように過ごして、いったい、何になる!? またこの世で、何十年、何百年と、神仙修行に明け暮れて、いったい、何になるというのだッ!?)


 確かに、もうどれぐらい時が経っただろうか?


(貴様のその手が汚れていないなどとは言わせんぞ!? 私が差し向けた〈秦王会〉の連中を返り討ちにし、今もまたこの私をその手にかけようとしている貴様の——ッ!!)


 幇の抗争に参加し、戦い争い、傷つけ合っている事は事実だが、他人の命を奪った事は一度もない。


 それでも、天に昇る事はできず、地上に留まっているのが現実だった。


 これからまた今までと同じように過ごして、いったい、何になるというか?


 いったい、何がどうなるというのか?


(まずは、常に自分自身に対して何をすべきか問いかけ、己を見つめ直し、いつ、いかなる時も本心を見失わず、やるべき事を果たす)


 仙は、徐福との戦いの最中、李哪吒に伝えた、自分自身の言葉を思い出した。


 では、自分の本心とは何だ?


 本当に一番大事なもの、最も大切な事は何だった? 


 その為に、どうする?


 どうすればいい?


    ◇


「…………」


 仙は頭を抱えて、苦しみ喘いでいた。


 この家にはもう、白素貞の姿はない。


 時に恋人のように、時に夫婦のように、ずっと一緒に過ごしてきた、彼女はもう、どこにもいなかった。


 あんなにも優しく美しかった白素貞は、人ではないという、たったそれだけの理由で、あの憎んでも憎みきれない道士、魏飛霞の手によって、連れ去られてしまったのだ。


 これから彼女は、侍女の小青とともに、西湖にそびえ立つ美しい雷峰塔の下に、封印される運命にある。


 そうなってしまえば、薬屋の主人に過ぎない自分には、どうする事もできない。


 さっきも手も足も出なかったし、誰かに助けを求めようにも、あの道士魏飛霞に敵うような者など、この辺にはいない。


(だったら、どうする? どうすればいい?)


 ——雷峰塔倒


 雷峰塔が倒れ、


 ——西湖水乾


 西湖の水が干上がり、


 ——江潮不起


 銭塘江の潮が起こらなくなったら、


 ——許汝再世


 汝が、再び、世に出る事を許そう。


「…………」


 仙の嗚咽がぴたりと止まった。


 まるで何か意を決したように、ゆっくりと顔を上げた。


 ——例え、何年、何十年かかったとしても、神通力を手に入れて雷峰塔を壊し、西湖の水を干上がらせ、銭塘江の潮を止めて、白素貞を助け出してみせる!


 その時は、あの道士魏飛霞という男も、必ずや積年の恨みとともに、この手で討ち果たしてくれる!


 だが——、


(……それで、どうする?)


 その後、どうなる……?


 ふと脳裏を過ったのは、白素貞の優しい微笑みだった。


 彼女は果たして、魏飛霞に復讐する事を喜ぶだろうか?


 雷峰塔に封印された恨みを晴らす為に、他人の命を奪う事を望むだろうか?


(そうだ、思い出せ)


 彼女と、今日まで、どんな時間を過ごしてきたのか、どんな気持ちを確かめ合い、何を育んできたのか?


(なぜ、白素貞が下界に降りてきたのかは判らない)


 なぜ、白素貞が下界に降りてきたのか、そして、彼女の身に何があって、道端で深手を負い、通りかかった自分に助けられる事になったのか、それは判らない。


 だが、ただ一つ言える事があるとすれば、白素貞の傷が何者かに襲われたものだったとして、彼女はそれでも、何の抵抗もしなかったのではないか?


 考えてみれば、道士魏飛霞に襲われた時もそうだった。


 彼女は何の抵抗もしなかったし、侍女の小青にしても、青蛇の姿形で威嚇しただけではなかったか?


 二人とも人間に化けられるほどの力を持ち、余人にはない能力や知識もある。


 その気になれば、たかが道士の一人、どうにでもできたのではないか?


 にも関わらず、彼女達は、どんなに暴力を受けても、同じ暴力でやり返そうとはしなかった。


 ならば、白素貞が胸の内に秘めているものは何だ? 


 彼女は何を望み、何を願っていた?


(……もし、もし私が、普通の人間じゃなかったとしたら、貴方はどうしますか?)


 いつか彼女から聞いた言葉が脳裏に響いた。

(本当に私が普通の人間とは違うとしたら、例えば仙人だったとしたら……)


 どうする?


(地上にいる仙人は、いずれ更なる高みに昇ります。いつかは、天に昇るのです。貴方はその時、どうしますか?)


 どうすればいい?


「…………」


 仙は深呼吸すると真っ直ぐ前を見つめ、背筋を伸ばした。


 さっきまで打ちひしがれていたのが嘘のように、二つの瞳には、力強い意志の光が宿っている。


 もう何の迷いもなかった。


 あの時、自分が彼女に対して何と答えたのか、はっきりと思い出した。


 ◇


 神奈川県横浜市と言えば、日本三大中華街の一つ、横浜中華街がある、国際都市である。


 だが、美食と貿易に彩られ、近未来的な高層建築群と異国情緒溢れる街並みを見る事ができるこの街には、もう一ヶ所、中国人街が存在する。


 嘘か真か、〈桃源郷〉の出身者が集まってできたという、『横浜仙人街』である。


 一口食べれば不老長寿になるという神仙料理に、よく当たると評判の占いで、仙人街は今日も賑わっていた。


 だが、眉唾物なのは、街の成り立ちだけではなかった。


 この街に住む住民に関してもまた、不可思議な噂がまことしやかに語られる事がある。


 いったい、いつから、誰が言い始めたのか、『十字坡酒楼のバーには、本物の仙人がいるらしい』、と。


 その男の名は、許仙という。


 彼は普段、チャイニーズレストラン&バー、『十字坡酒楼』で、マスター兼バーテンダーとして働いているが、仙人街の華僑・華人社会に詳しい者なら、彼の事をこう呼ぶ。


 ——〈傲来幇〉のお抱え仙鏢師〝蛇目〟、或いは、〝蛇眼金睛〟、と。


 仙は、樫の木で作られた立派なカウンターに立ち、いつものように愛想のいい笑顔でお客を迎えていた。


 カウンターの向かい側の壁には、大がかりな水墨画が一面に飾られている。


 見る者を惹き付けてやまない美しい筆致で描かれているのは、いかにも深山幽谷といった中国の景観、中国十大風景名勝の一つ、浙江省は杭州市にある、西湖だった。


 今から何百年も前に描かれたというこの絵の作者は、果たして、どんな想いで筆を執ったのか、特に趣が感じられるのは、西湖の南岸に聳え立つ、四重構造の美しい塔、雷峰塔だろう。


 雷峰塔の空には天上に住まう仙女を思わせる、羽衣を身に纏った二人の少女を見る事ができた。


 二人の少女は何かから解き放たれたかのように歓喜に満ちた顔をして、今まさに天に昇っていくようだった。


 常連客の中には、『この絵を描いたのは、許老板だ』、などと真顔で言う者もいるが、酒の席の冗談だろう。


 いくらこの店が〈桃幇〉限定の会員制のバーとは言え、本当の訳がない。


 もし本当だとしたら、仙は不老不死の仙人だとでもいうのか。


 当の本人である仙は一見のお客に聞かれた時、いつも柔和な笑みを浮かべてはっきりと答えようとはしなかった。


 が、この店の主人が水墨画にどんな想いを抱いているのかは、少し気が利いた人間ならすぐに判るかも知れない。


 と言うのも、中国では薔薇の本数によって花言葉が変わるのだが、薔薇の花が九九本なら、花言葉は、『永久に変わらない』、百本なら、『ともに白髪まで添い遂げる』、といった具合である。


 十字坡酒楼のバーの壁一面に飾られた水墨画の脇には、いつも眩いばかりに美しい薔薇の花が飾られている。


 その数は常に変わらない——いつ、いかなる時も、百一本である。


 例え、何十年、何百年経ったとしても……『直到永远的爱永遠の愛になるまで』。


(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『仙鏢師 蛇目—白蛇伝異聞—』  ワカレノハジメ @R50401

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ