第四章 黄龍 其の十一、
第四章 黄龍
其の十一、
中国は陳塘の町外れにある、李武術道場——李哪吒は、稽古場の冷たい床に、膝をついて座っていた。
彼の目の前、稽古場全体を見渡す事ができる、壁際に置かれた木製の椅子に座しているのは、初老の男性、少年の父親であり、師父である、白髪が目立ち始めた李靖だった。
「師父、僕が師範代になれない理由はなんなんですか?」
李哪吒は苛立ちを隠そうともしないで聞いた。
「お前がそんな事を気にしていたなんて思ってもみなかったよ」
李靖は苦笑いを浮かべた。
「誤魔化さないで下さいよ」
少年は鼻息も荒く言った。
「師範代と言っても、たかが町道場。それも近所の子どもが健康を目的として運動する為に通ってくるような寂れた門派の師範代、何をそんなにむきになる事がある?」
李靖は半分呆れたように、ため息混じりに言った。
「うちは代々、この辺りの妖怪退治を一手に引き受けてきた、押しも押されぬ仙鏢師の門派でしょうに」
「今は妖怪退治の依頼も、随分と少なくなってきている。そんなに堅苦しく考えたり、威張るような事じゃないんじゃないか?」
「だからと言って、寂れた門派だと卑下する必要もないでしょう。それに寂れていると思うのならやるべき事があるはずですよ。師父の若い頃は道場も栄え、その筋の人間なら仙鏢師である李靖の名を知らぬ者はいなかったとか?」
「誰から聞いたのか知らんが、昔の話だよ」
「確かに最近は、妖怪変化も大人しくなって久しい。でも、都会に行けば黒社会の抗争激しく、彼らに雇われた仙鏢師達がしのぎを削っているっていう話ですよ。そこに介入すれば、李家の名を再び天下に知らしめる事もできるはずだ」
「……道場に来てくれる子ども達と一緒に野山を駆け回り、足腰を鍛え、型稽古に励むのは気に入らんというのか?」
「師父の方こそ、妖怪退治をしたり、用心棒をするのは、もう嫌だと、そう思っているんですか?」
「もちろん、依頼さえあれば妖怪変化相手にまだまだ戦ってみせよう。護衛が必要なら用心棒もしようではないか。それが、仙鏢師を名乗る者の務めだからな」
「それなら、なんで自分から積極的に名を上げようとしないんですか? 大きな街に行けば、それだけ、大きな仕事が受けられるんですよ? そこで結果を出せば、もっと大きな仕事が舞い込んでくる。そうすれば、こんな小さな街の寂れたおんぼろ道場で、いつまでも慎ましく暮らしている事もないでしょうに!」
身を乗り出すようにして訴えたが、
「その光を和らげ、その塵に同ず」
李靖は難しい顔をして独りごつように言った。
「?」
何を言われているのか判らず、目を瞬かせた。
「お前も名前ぐらいは聞いた事があるんじゃないか。道家の開祖、老子の言葉だよ。自分の才能の光を和らげ、世間の人々と同じように振る舞わなければ、謂れのない誹謗中傷や無益な争いを生む事になる、という意味のな」
「他人の実力や、才能を羨み、妬むだけで、何の努力もしない連中に合わせて生きていけと!? 莫迦莫迦しい!」
吐き捨てるように言った。
続けて、
「謂れのない誹謗中傷には耳を貸さなければいいし、争いは力尽くで収めればいいだけじゃないですか。そして、自分の実力を、才能を思うがまま発揮して、己の利益を追求すればいいだけの話でしょうよ!」
「お前の才能は確かに素晴らしい。努力も怠らない。お前の実力は、いつかこの年老いた父はもちろん、二人の兄さえも追い越す事だろう。今だって、その辺の仙鏢師など相手にはなるまい。お前は貧乏だと言うが、道場の稼ぎだけでも人並みに暮らしていく分には困らないはずだ——だとしたら、これ以上、何を望む? いや、望んで、どうするのだ?」
「そこまで言うのなら、なぜ、僕の事を師範代として認めてくれないんですか?」
「師範代として認めたら何をするつもりだ?」
「我が門派を天下に知らしめる為、晴れて道場から出て行きますよ」
「我が門派を天下に知らしめて、どうする? 天下に知らしめる手段は、なんなのだ?」
「さっき話した通りですよ。世界中の都市を巡り、黒社会お抱えの仙鏢師を手当たり次第に打ち倒し、名前を売る! そして、天下に仙鏢師李門派を知らしめる事ができれば、いくらでも稼げるようになるでしょう!」
「それで何がどうなるというんだ?」
「今の退屈極まりない生活から抜け出して、毎日、楽しく過ごすに決まっているじゃないですか!?」
黒社会お抱えの仙鏢師を倒し、名を上げ、金を稼ぎ、天下に門派を知らしめる事ができれば、自分を認めようとしない父親を、見返す事ができるかも知れない。
有名になり、金持ちになれば、頑なに自分の事を認めようとしない父親も、認めざるを得ないのではないか?
「いつまでもこんなところで燻っているつもりはありませんよ。僕の実力を、みんなに認めさせてやる」
「……この際、はっきり言っておこう。お前には、得がない」
「——『得』?」
「それ故、儂はお前の事を師範代としては認めん」
「『得』というのは何なんですか?」
「人徳、だよ」
「人徳だって? いったい、何をどうすれば手に入るっていうんですか?」
「孔徳の容は、ただ〝道〟にこれ従う」
これもまた老子の言葉で、『大きな徳を身につけたいと思うのなら、〝道〟と一体化しなければならない』、という意味の言葉だった。
「どんなに小難しい理屈を並べ立たところで、結局は怖気付いているだけじゃないですか。いつまでもこんな片田舎に引っ込んでいるのも都会に出るのが怖いだけ、妖怪退治に精を出さないのも彼らの力を恐れているからなんでしょう? 生憎、僕はあんた達とは違う!」
少年はいつもの調子が戻ってきたらしく、啖呵を切ると、傍らの窓を見やり、にやりと笑う。
窓から見える夕闇が迫る空には、いつの間にか不吉な暗雲が立ち込め、雷鳴がごろごろと唸っていた。
「師父には雷の音が聞こえますか? あれはただの雷鳴じゃない。近くの山間にある湖で、『
少年はいっそ楽しげだった。
『蛟』は妖怪の一種で、湖や池、川底を住み処にしているという。
頭には角と髭を生やし、龍とよく似た顔付きで、体長は三メートル以上、四肢を有した、ほっそりとした体は錦のように五色に輝き、背中には青い斑模様、尻尾の先には、硬い肉の瘤がついている。
「あそこで本当に妖怪が、蛟が暴れているんだとしたら、仙鏢師の出番なんじゃないですか?」
「誰から、どこから依頼があった?」
「依頼? 依頼なんかありませんよ。あれが妖怪の仕業だと気付いているのは、この街では僕一人だけでしょうからね。それも無理もない、普通、あんな山奥に足を踏み入れようとはしませんからね」
「お前は、なぜ、あんな山奥に足を踏み入れたのだ?」
「あれだけ季節外れの雷が鳴っていれば、仙鏢師なら嫌でも気になるというもの。逆に聞きたい、師父や兄上達は、なぜ、気にならなかったのですか?」
「あの辺りに住む者に頼まれた訳でも、何か被害が出た訳でもないのだろう。だとしたら、殊更、何かする必要などあるまい?」
「今はまだ誰もそばに近寄らないだけ、たまたま被害が出ていないだけでしょう。蛟は龍の眷属と言われているし、倒せば箔が付きますよ」
「誰にも依頼されていない、被害が出ていないのなら、仙鏢師が出る幕などどこにもないぞ?」
李靖はしばらく息子の顔を見つめていたが、返事はなかった。
「今夜はもう、疲れた。また今度、ゆっくり話そうじゃないか」
李靖はいくら待っても返事がない事を悟り、ため息をついて、席を立った。
「——やだやだ、人間、歳は取りたくないもんだねー」
李哪吒は誰もいなくなった途端、ぼやいた。
父、李靖は、若い頃はかなり血気盛んだったらしいが、歳を取って日寄ったらしい。
「いくら息子だからっていつまでも素直に言う事をきくと思うなよ……僕だってもう子どもじゃないんだ」
今晩、蛟退治を実行に移すつもりだった。
(見ていろ、僕一人で倒してやる!)
少年は気功術を使った俊足で道場を飛び出し、山間の湖を目指す。
蛟は、『述異記』には、『水にすむ
すなわち、龍の一種であり、泳ぐ生き物全ての王とされ、池、川、湖に住み、魚の群れが二千六百匹を超えた時、どこからともなく現れ、彼らを支配下に置くと言われ、長い年月を水の底で過ごした後、天に駆け上っていくと言われている。
(あれを倒せば、誰だって僕の実力を認めない訳にはいかないだろう!)
「さて、と」
真夜中、湖に辿り着き、風が吹きすさび、激しく波打つ湖面をじっと見つめ、倒すべき相手を探した。
頭上にはどんよりとした暗雲が重く伸し掛かり、雷鳴が鳴り響く。
「あそこか!?」
カッと稲光が天を引き裂いた後、大海原に鯨が浮き上がるように、湖面の中央が大きく盛り上がった。
湖面が割れ水飛沫が舞い、龍とよく似た顔に、五色に輝いた蛇のような身体をした、蛟が姿を現した。
だが、どうした事か、まるで、釣り針に引っ掛かって暴れ回る魚のように、湖の上を飛び跳ねていた。
「なんだなんだ、泳ぐ生き物全ての王が聞いて呆れるじゃないか! まず、その忙しない動きから封じてやる!」
李哪吒は頑丈に縒り合わされた細い縄を嬉々とした様子で懐から取り出し、蛟に狙い定め、鞭のようにしならせた。
「
少年が『縛妖索』と呼んだ細い縄は、あたかも生き物のように、蛟の体にぐるぐると巻き付き、あっという間に自由を奪った。
蛟は必死にもがいたが、縛妖索には〝気〟が込められている為、そう簡単に引き千切る事はできない。
「
少年は縛妖索を力一杯引っ張り、蛟を岸辺に叩きつけ、ぐったりしている蛟の元に駆け寄ると、腰に吊るした剣を引き抜き、逆手で滅多刺しにした。
勝利を確信して笑顔を浮かべても、尚、斬妖剣を執拗に振るい、蛟は全身貫かれ、げえげえと血反吐を吐き、痙攣した後、ついにぴくりとも動かなくなった。
「やったか!?」
少年は無様に転がる蛟を足蹴にし、生死を確かめる。
まだ、気づいていなかった。
頭上を覆う暗く澱んだ空は、一向に晴れる様子がないという事に。
蛟が息絶えた時、空模様が回復してもおかしくないのではないか?
なぜなら、たった今倒した蛟が、天候を操っていたのではなかったか?
だが、暗雲はいっそう密度を増したように、耳をつんざくような雷鳴が轟いた。
まともに目を開けていられないぐらい風が吹き荒れ、大粒の雨がどっと降り出してきた。
少年は不安げな面持ちになり、雨風に晒されながら辺りを窺った。
何かが、おかしかった。
いったい、何が……?
「!?」
少年が背にしていた湖が突然割れ、さながら通り雨のような水飛沫とともに、〝何か〟が姿を現した。
「もう一匹!?」
さっきまで相手にしていた蛟よりも、一回り、いや、二回りは小さかったが、蛟、だ。
「あの蛟、子どもがいたのか!?」
少年は間一髪、飛びすさり、新手の蛟の顎門から逃れた。
「化け物風情が! 一人前に敵討ちをするつもりなら相手になってやろうじゃないか!」
少年は剣を振り翳したが、空振りに終わった。
「なっ!?」
一瞬にして空になった己の手を見ても、自分の身に何が起きたのか、すぐに理解する事はできなかった。
更に飛び込んできた別の影によって、斬妖剣を奪われたのだ。
「こいつは?」
そこには、今までどこに隠れていたのか、一匹目の蛟以上に、立派な顔つきに巨体を有した、三匹目の蛟がいた。
三匹目の蛟が口に咥えているのは、今し方、目にも留まらぬ速さで奪われた、斬妖剣である。
「こいつら、何のつもりだ?」
少年はじりじりと後退った。
「いったい、どこに隠れていたんだ!?」
気付いた時には、蛟の群れに囲まれていた。
ざっと数えてみても十匹以上はいるだろう、さすがにいつもの自信はなりを潜め、険しい顔になる。
(どうする?)
どこにも逃げ場はなかった。
(どうすればいい?)
蛟が群れを作るなど聞いた事もない。
これが一匹や二匹なら、自分一人でも相手にする事はできた。
実際、最初の一匹は簡単に倒したのだから。
だが、たった一人で蛟を十匹以上も相手にするとなると、ただでは済まないだろう、下手をすれば、やられるのはこっちだ。
「…………」
少年は、おもむろに天を仰いだ。
もう一つ、気がかりな事がある。
遥か頭上、ごろごろと唸る雷雲の奥で、何かが蠢いている気がした。
空の上を滑るようにして動いているのは、光り輝く美しい鱗に全身を覆われた、巨大な何かだった。
(あれは、伝説にある龍なんじゃないか?)
龍——水を司り、雨や雷を意のままに操り、この国で最も美しい珠の一つとされる如意宝珠を持つ、三六六種類の魚や蛇、鱗がある生き物の王である。
(だとしたら、なぜ、こんなところに龍がいる? よりによってこんな時に、なんだってまた、こんなところに現れる!?)
一分一秒が、いやに長く感じられた。
目の前には、蛟の群れ。
空の上からはひしひしと圧迫感が感じられ、身動ぎ一つできない。
八方塞がりもいいところだ。
安易に動こうものならどうなるか判ったものではない。
時間にすれば、ほんの一、二分だったかも知れないが、緊張の糸がぴんと張り詰め、焦りを覚えていた。
「…………」
少年は下唇を噛み、覚悟を決めた。
——やるしかない!
「——〈
次の瞬間、何者かが蛟の群れに向かって、〝気〟の塊を放ち、蛟は四方八方に吹き飛んだ。
二発、三発と、それぞれ、違う場所から、続け様に放たれる。
「な、なんだ……!?」
あっと思った時には、四方を取り囲んでいた蛟の群れが崩れた隙を突き、何者かが飛び込んできた。
人影は一瞬にして少年の体を抱えて跳躍し、窮地から救い出した。
「……この分からず屋が」
少年の事を地面に下ろし、残念そうに言ったのは、父親であると同時に、師父である、李靖だった。
「師父!? なぜ、こんなところに!?」
少年は窮地を救ってくれた相手が、李靖だと知り、驚きを隠せなかった。
「我が弟子、我が子の事が判らんで、何が師父か! 何が父親か! 金吒! 木叉! しばらくの間、蛟の相手は頼んだぞ!」
長兄、次兄は、遠くでこくりと頷いた。
「しかし、情けない、お前がここまで莫迦だったとは。儂は言ったはずだぞ。誰に頼まれた訳でもない、何が起きた訳でもないのに、蛟を退治する必要などないとな」
「僕も言ったはずですよ! 何かが起きてからじゃ遅いって」
少年はたった今、窮地を救ってもらったバツの悪さからか、視線を逸らして言った。
「その結果が、これか?」
李靖は周囲を見回して、呆れたように言った。
今も二人の息子は蛟の群れを相手に健闘しているが、数が数だけに優勢とは言い難かった。
かてて加えて、気にかかるのは、頭上の雲間に蠢いた巨大な何かだった。
雷鳴轟く暗雲の合間から、光り輝く鱗が垣間見えるだけでも畏怖を覚える、大いなる獣だ。
「お前は自分が何をしたのか判っているのか?」
李靖は痛々しげな顔で問いかけたが、少年は口を閉ざしたまま、答えようとはしなかった。
「お前は自分の名声を得る為に、私利私欲の為に、湖の主である、蛟の命を奪ったんだぞ?」
少年は、何か言おうとしたが、李靖の鋭い眼差しに気圧されて、口を噤んだ。
「お前も、知らない訳ではあるまい? 時を経た蛟は天に昇る事を、大海を渡り龍に仕える事を。あの湖の主である蛟も、悠久の時を経て、ここしばらくは、次なる道へと進む為に足掻いていたに違いない」
少年は自分の知った事ではないと言わんばかりにそっぽを向いた。
「それをお前は、儂の忠告も聞かずにその手にかけて、若い蛟の怒りを買った。彼らは決して、人々に仇なし、悪さをするような妖怪変化ではない。長年、この地の水源を守り、そこに住まう者達、全てを繁栄させてきた、れっきとした湖の主だ」
噛んで含めるように言った。
「この様子だと、お前が命を奪った蛟は、天に昇ろうとしていた訳ではないらしい。おそらくあの蛟の群れは、龍の宮仕えだ。つまり、お前は龍に仕えようとしていた、蛟を殺した事になる」
息子がしでかした不始末に、深々とため息をついた。
「いいか、事は重大だぞ? お前は、とんでもない大物の気分を害してしまったんだからな」
「これぐらい自分一人でなんとかしてみせるから、放っておいてくれよ」
少年は苛立たしげに言った。
「いつもみたいに何もしないで見ていてくれれば、それでいいんだよ。蛟の群れだろうが、龍だろうが、倒すべき相手には変わりないんだからさー」
心底、面倒臭そうに言った。
「……だからお前には徳がないというのだ」
李靖は疲れたように言った。
「!?」
少年は相手の目に失望の色が浮かんでいる事に気づき、動揺した。
だが、いったい、なぜ、動揺しているのか、自分自身、判らなかった。
果たして、この胸の内に生まれたのは、怒りか、哀しみか、それとも?
「これ以上、蛟の群れと戦う必要はない。龍と戦うなど、以ての外だ!」
李靖はぴしゃりと言い放った。
「…………」
少年は動揺したまま、何も言い返す事ができなかった。
「言っておくが、儂らがその気になれば、蛟を退治するなど造作もない事だ。儂らが力を合わせれば、相手が天翔る龍であろうとなんとかなるだろう。なのに、そうしないのはなぜか、お前には判るか?」
少年は、答える気がないのか、答えられないのか、固く口を引き結ぶばかりだった。
「——〝道〟を以って人主を佐くる者は、兵を以って天下に強いず」
まるで、それが全てだとでも言いたげだった。
『〝道〟に基づいて君主を補佐する者は、武力によって天下に強さを示すような事はしない』、という意味である。
力を使えば必ず報復され、軍隊が駐屯するところには茨が生え、戦争が行われた後には凶作になるという事だ。
「……何様のつもりだよ」
少年は憎々しげに言った。
——正直、反吐が出る! 自分が、自分達が、聖人君子だとでも言うつもりか!?
「まだ判らんのか、これ以上、いたずらに蛟の群れと戦えば、今度こそ龍が怒りを露わにして姿を現すかも知れんのだぞ。今はやり過ごし、今回の非礼を詫びる為、それ相応のお供え物を用意するのが得策だろうよ」
李靖は諭すように言った。
「!?」
少年はふと、二人の兄の様子を見て、我が目を疑った。
彼らは気づいた時には戦うのをやめていて、麻袋から取り出した何かを、蛟の群れにばら撒いていた。
亀とよく似た、文様のない丸い甲羅を背負った生き物、大量のスッポンである。
なぜか、蛟の群れはスッポンが飛んできた途端、急に大人しくなり、彼らの方から距離を取り始めた。
「効果覿面じゃないか」
「いったい、どういう事なんですか?」
「やはり知らなかったか。昔から蛟は、スッポンのいる湖には住まないと言われているのだ」
李靖は蛟の群れが引き上げるのを見て、満足そうに言った。
「そ、そんな莫迦な、あんなもので!?」
少年は、蛟の群れに囲まれ、追い詰められていた自分が、恥ずかしくなった。
「近所にある料理屋に無理を言って、用意できる分だけ買い取らせてもらったのだ。血気に逸ったお前が飛び出した事にはすぐ気づいたが、おかげでここに来るのが遅くなってしまった。それでも、最悪の事態は避けられたし、よしとしよう」
李靖はほっと一息ついたように言った。
「道場で話していたあの時、なんで教えてくれなかったんですか? 蛟が暴れているのは、ただ、次の段階に進む為だって。蛟を退治するのには、何も真っ向から戦う必要なんかないって……!」
少年は李靖に弄ばれたように感じ、激しい怒りに身を震わせた。
「一つ聞くが、今のお前には他人の忠告を受け入れる余裕があるのか? 自分の欲望に囚われ、単純な強さにだけこだわって、それを証明する事に躍起になっているお前に? この父と、二人の兄を敬う心も、すっかり忘れてしまったお前に?」
李靖は、息子であり、弟子である少年の、何もかもを見透かしているようだった。
「そ、それは……」
少年は返答に窮して、視線を逸らした。
「師父として言わせてもらう。しばらくの間、仙鏢師として働く事は許さん。明日より子ども達に混じって、道場で自分自身を見つめ直すがいい」
李靖は有無を言わせない迫力で、きっぱりと言い渡した。
「…………」
だが、少年は納得できなかった。
翌朝、若気の至りと言うべきか、李靖の言いつけを守る事なく、姿をくらました。
今度こそ、自分の実力を証明する為に、黙って家を出ていった。
そして、少年は今、ここにいる。
横浜仙人街——嘘か真か、〈桃源郷〉の出身者が集まってできたという街。
この街に住む住民に関してもまた、不可思議な噂がまことしやかに語られる事がある。
いったい、いつから、誰が言い始めたのか、『十字坡酒楼のバーには、本物の仙人がいるらしい』、と。
その男の名は——
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