第三章 孫美猴 其の九、

 第三章 孫美猴


 其の九、


「——貴方は?」


 孫美猴は執務室に足を踏み入れ、訝しげな顔をした。


「初めまして、お嬢さん。〈秦王会〉会長お付きの漢方医、黄龍と言います」


 目の前に立っていたのは、サラリーマン然とした四十絡みの中年男だった。


「よくこんなところまでお一人で来ましたね。大変だったんじゃないですか」


 黄龍の口の端からは血が滴り落ち、足元には今しがた喉元を食い千切られたと思しき、〝撲天鵰〟の李応の屍体が転がっていた。


 両手に抱き抱えられているのは、こちらもたった今、首の骨をあらぬ方向に曲げられたであろう、〝九尾亀〟の陶宗旺だった。


 孫美猴にいくら攻撃されても何度となく立ち上がってきた陶宗旺も、首の骨を折られてはどうしようもないらしく、すでに事切れていた。


「貴方が〈秦王会〉会長を危篤状態から助けたっていう、漢方医の黄龍さん?」


 彼女は黄龍を睨みつけるようにして言った。


「そう言う貴方は、〈傲来幇〉の仙鏢師、〝斉天大聖〟の孫美猴さんですか?」


 黄龍は息絶えた陶宗旺を無造作に放り出し、彼女の名を確かめた。


「だったら何? 貴方、自分の事をただの漢方医っていうつもりじゃないでしょうね。人間を二人も、それも仙鏢師を殺しておいて」


 孫美猴は油断ならないとばかりに言った。


「貴方の方こそ何者かお聞きしたいですな。雷横君に与えた薬ほどじゃないにしろ、私のそれを使って気功術の出来を高めた李応君や陶宗旺君を赤子の手を捻るようにあしらうとは。あの噂に名高い〝蛇目〟さんの弟子とは言え、二人掛かりならなんとかなるんじゃないかと思ったんですが、甘く見すぎていたみたいですね」


 黄龍は依然として余裕の表情で、興味深そうに言った。


「…………」


 彼女は自分でも気付かぬうちに、いっそう、厳しい目をして黄龍の事を見ていた。


 ——この男、人間でさえないかも知れない。


「何を疑っているのか知りませんが、私はただの漢方医ですよ」


 黄龍は笑って言った。


「まあ、不老不死の研究をしているのは珍しいかも知れませんが。しかもその過程で、仙鏢師が持っているような気功術の知識や技術を手に入れる事にもなりましたし」


 黄龍は何がそんなに面白いのか、にやにやと笑っている。


「貴方が何者であれ、うちにちょっかいを出さなければ何も言う事はないわ。『闘仙』なんて下らないイベントはさっさとやめにして、この街から出て行ってもらえる?」


 彼女は相手を威嚇するように、紅い棍を目まぐるしく操り、先端を床に打ち付けた。


「この私に仙人街から出て行けと?」


 黄龍は笑いが込み上げてきて仕方がないらしい。


「ええそうよ。もし出ていかないのなら、きついお仕置きをする事になるわね」


「それは困りましたねえ、こちらにも都合というものがある。『闘仙』を中止するか否か決めるのは、〝蛇目〟さんにお会いしてからにしてもらえませんか?」


 黄龍は口では『それは困りましたねえ』などと言っているが、全く困っているようには見えなかった。


「貴方が許師父と会う必要なんかどこにもないでしょう。いい事、よーくお聞きなさい! 一、うちにちょっかいを出さない事、一、今すぐこの街から出ていく事! 貴方が今すぐやるべき事は、この二つだけよ!」


 彼女は有無を言わせぬ口調だった。


「お断りしますよ——〝蛇目〟さんと手合わせした二人の部下は、口を揃えてこう言っていたそうですからね。〝蛇目〟の強さは自分達とは全く違う、何か異質なものを感じる、と……まるで、本当の仙人みたいだったとね」


 黄龍は苦笑いを浮かべながら執務机に向かって歩き出し、仙に返り討ちにされた二人の証言を口にした。


「かく言うこの私も、いつからか不老不死を求めて、長年、外丹の研究を続けてきました。研究過程で貴方の師父のように仙人だなんだと呼ばれた事もありましたよ。研究には、たゆまぬ努力はもちろん、莫大な資金と、膨大な時間、他にも言葉に尽くせないほどの多大な犠牲を払いました」


 黄龍は椅子に腰を下ろし、昔を懐かしむように言った。


「そんな私もいつしか時の施政者や権力者の理解を得て協力してもらう事を覚え、今はこうして〈秦王会〉に身を寄せている。いや、本当に何かと便宜を図ってもらって、随分と楽に研究をさせてもらってますよ」


 黄龍は椅子の上でゆったりと寛ぎ、伸びをして言った。


「…………」


 彼女は突然、昔話を始めた黄龍に対して、警戒心を露わにしていた。


「昔は不老不死の秘薬を探し求めて、長い長い航海に出た事もあるんですよ。時の施政者の支援もあって、当時、最新鋭の大型船に、腕利きの乗組員、同乗者には貴族や名家のご子息と、これ以上ないぐらい豪華な船出だったんですが、目的地に辿り着く事はできなかった。それどころか、航海の途中、ある時は大嵐に見舞われ、またある時は鮫に襲われ、ついに食糧も尽き、全員、流行病に倒れ、船は遭難の憂き目に遭いました」


 黄龍はまるで子ども相手に話すように、船が荒波に飲まれたり鮫に襲われたりしている様子を、身振り手振りを使って表現した。


「もちろん、私も船の上で、飢えに苦しみ、病に悶えました。大海原では食料も調達できず、流行病も私が持っている漢方の知識ではどうにもならなかった。でもある時、ふと気付いたんですよ。長年、研究に身を投じていた私だったから、気が付いたのかな」


 何かに取り憑かれたように嬉しそうな顔をしていた。


「そうそう、貴方、『医食同源』という言葉をご存知ですか。『病気を治す薬と食べ物は根源を同じくする』、というような意味なんですが」


 黄龍は彼女が半分、呆れているのにも、お構いなしに喋り続けた。


「元々、ヒトに由来する生薬というのは、それほど珍しいものじゃありませんからね。流行病に冒された私は、咳が出れば誰かの喉仏を食い千切り、腕が痛くなれば誰かの腕に齧り付き、足が悪くなれば、これまた誰かの足にガブリと食いついたんですよ!」


 黄龍はなんだか楽しげに声を弾ませて言ったが、彼女は聞いていて、気持ちのいい話ではなかった。


「とは言え、本当に苦労しましたよ。腐ったものを食べる訳にはいきませんからね。なるべく、元気な人間、新鮮な屍体を探すのが一苦労で……なんとか生き残った私は船ごと流されに流され、最初の目的地とは全く違う場所、見知らぬ土地に辿り着いたんです。そこからですよ、私がまた一から、不老不死の研究に取り組んだのは……」


 黄龍は感慨深そうに言った。


「道教によれば、宇宙は〝気〟によって成り立っています。私達、人間もまた、小宇宙と言える存在で、やはり〝気〟によって成り立っている。そう、その〝気〟が消える事がなければ、おのずと不老不死を得る事になる! 以前までの私は自分の〝気〟を増やす為に、考えてみれば遠回りな方法を取っていました。毎日、一生懸命、色々な漢方を調合し、様々な丸薬をちまちまと飲んでいたんですから。ですが、あの地獄のような船旅の果てに、私はようやく気付いたんですよ!」


 黄龍はだんだんと興奮してきたようで、声が大きくなっていった。


「どうして最初からこんな簡単な事が思い付かなかったのかなあ!?」


 自分でも興奮が抑えきれないようで、鼻息が荒くなる。


「私達、人間が〝気〟によって成り立っているのなら、〝気〟を保つ為には、どうすればいいのか!? わざわざ、特別な草花や鉱物を探し出して来て調合して丸薬にして飲まなくてもよかったんですよ。そんな遠回りをする必要などなかったんだ! なぜなら、最初から当の〝気〟の塊である、人間を食べればいいんですからね!!」


 彼女はいよいよ、顔を顰めた。


「もちろん、普通の人間よりは、〝気〟を鍛えて操る事に長けた人間の方がいい。今の時代なら、仙鏢師を食すのが最も効率的な方法だと言えるでしょう。そして久しぶりに表舞台に顔を出した私は、漢方医を名乗り、〈秦王会〉会長に近付き、彼の容体を回復させ、信用を得たところで、『闘仙』の開催を提案した訳ですよ。いくら仙鏢師が公に知られていない存在とは言え、あまり大っぴらに殺せば騒ぎになる。私が『闘仙』を開催しているのは面倒に思えるかも知れませんが、彼ら仙鏢師達が怪我人として運び込まれるのを待って、確実に食す為なんですよ。どこかの幇やお抱え仙鏢師みたいに言う事をきかない連中もいましたけどね、結果は大成功ですよ!」


 黄龍は得意満面といった様子である。


「……化け物め」


 彼女は吐き捨てるように言った。


 ——してみると、先程、李応と陶宗旺の命を奪ったのも、自分の食事だったという事か。


「いやいや、貴方の師父も大して変わらないと思いますよ。話を聞く限り、その力、その技は、まさに仙人が操る神仙術と言うに相応しい。もし貴方の師父を食べる事ができれば、私は向こう百年、貴方が嫌がるような化け物じゃなく、その辺にいる普通の人間として暮らしていけるでしょうねえ!」


 黄龍は機嫌がよさそうに席から立ち、彼女の前までやって来ると、何を思ったのか、しゃがみ込んだ。


 四つん這いになり、床に転がる李応と陶宗旺の屍体を、がつがつと貪り始めた。


「……今すぐここで、貴方を〝退治する〟事に決めたわ」


 彼女はあたかも肉食獣が獲物のはらわたに顔を突っ込んで骨までしゃぶり尽くすように、一心不乱に李応と陶宗旺の屍体を食らっている黄龍の姿を見て、蔑むような眼差しで言った。


「やれるものならやってもらいましょうか」


 黄龍は李応と陶宗旺をすっかり臓腑に収めてから、満足そうに笑って、彼女を挑発した。


「ハッ!」


 孫美猴は裂帛の気合いを込めて、黄龍に狙い定め、紅い棍を振るった。


 生憎、高層ビルの最上階の一室では〈如意金箍棒〉を最大重量の八トンで振り回す事はできなかったが、いかに仙鏢師と言えども、ただでは済まない一撃なのは確かだった。


 だが、〈如意金箍棒〉は、いとも簡単に跳ね除けられ、彼女の手から離れて宙を舞った。


「な!?」


 彼女はがらんがらんと耳障りな音を立てて、紅い棍が床に落ちたのを見て、我が目を疑った。


「どうかしましたか、お嬢さん?」


 黄龍は小莫迦にして笑っている。


「…………」


 彼女は驚いたと同時に、焦りを覚えて、下唇を噛んだ。


〈如意金箍棒〉を跳ね飛ばされた事にも驚かされたが、それ以上に驚いたのは、相手の動きが全く見えなかった事だ。


 他にも気づいた事がある、硬いのだ。


 鄒潤と同じような気功術を使って肉体を鋼鉄と化しているのだろうが、〈如意金箍棒〉をものともしなかった事からも判るように、実力は桁違いだった。


「くっ!」


 孫美猴は恥も外聞もなく、ドアに向かって一目散に走り出した。


「おやおや、逃しませんよ」


 が、黄龍はいつの間にか回り込み、目の前に立ち塞がっていた。


「!?」


 彼女は衝撃のあまり、冷や汗を流した。


 気配の絶ち方も、身のこなしも、陶宗旺以上である。


「驚いているみたいですね。私は自分が食べた相手の能力を自由に使えるんですよ。ほら、こんな事も!」


 黄龍は両腕を一瞬にして禿鷲の翼に変え、見せびらかすようにして動かした。


 次の瞬間、黄龍の両翼から機関銃のように鋭い羽が無数に発射され、彼女は全身を貫かれた。


 だが、全身を貫かれたのは、今さっきドアから逃げようとしていた孫美猴ではなく、いったい、どこから現れたのか、黄龍の背後に足音もさせずに迫っていた、もう一人の孫美猴だった。


 その上、三人目の孫美猴が、黄龍の傍らに姿を現したが、ちょうど紅い棍を振り上げたところを分厚い刃を思わせる片翼によって、一刀両断、袈裟懸けにされてしまう。


「まさか、私の分身の術を見破るなんて!?」


 三人目の孫美猴は青ざめた顔をして、呻くように言った。


 次いで、ドアから逃げようとしていた一人目の孫美猴も、黄龍の片翼に返す刀で斬り伏せられ、忽然と姿を消した。


「神出鬼没、変化隠形は、仙人の得意とするところですが、これは子ども騙しもいいところだ。予め、気配を絶ってどこかに身を隠し、髪の毛を使った分身の術で相手を翻弄する。この前は貴方の本拠地、『二竜山大酒店』が舞台だったからやり易かったでしょうが、残念ながら、ここは敵地だ。瞬時に二体の分身を出したところまでは褒めてあげてもいいが、本体の居所も行動も丸わかりですよ」


 黄龍は勝ち誇ったように言った。


 最初にドアから逃れようとした一人目の孫美猴と、黄龍の背後を取った二人目の孫美猴がさっきまで立っていたそこには、若い女性のものと思しき栗色の長い髪の毛が一本、はらりと落ちていた。


 自分の毛髪を触媒とした分身の術——孫美猴が敵の手にかかって、明らかに致命傷を負ったとしても、何事もなかったように立ち上がって来られた理由が、それだった。


 が、今回ばかりはそうもいかなかったようである。


「……許師父」


 と、黄龍の手で一刀両断された三人目の孫美猴は、血の気がない顔で、消え入りそうな声で呟いた。


 普段の彼女を知っている者が見たら、信じられないぐらい、弱り切った姿である。


 孫美猴の肩から胸にかけて、ざっくりと斬られた傷口からは止めどなく鮮血が溢れていたが、いつまで経っても彼女の姿が、一本の髪の毛になってはらりと落ちる事はなかった。


「貴方には〝蛇目〟をおびき寄せる為の餌になってもらいましょう」


 黄龍は吸血鬼のようにいやらしい手つきで、今や立っているだけでも精一杯だろう彼女を抱き寄せた。


「くっくっく、今から楽しみな事だ」


 彼女の白い首筋を指先でなぞり、金縛りの経穴を突いて微笑む。


 孫美猴は意識が遠のこうとしていた瞬間、視界がぼやけてはっきり見えなかったが、誰かが自分の事を嘲笑っているような気がした。


 自分の事を嘲笑っているような誰かの顔が、だんだん、人間とは思えないぐらいに醜く歪んでいった。


 顔の皮膚は魚の鱗のように濡れ濡れと輝き、口はぐにゃりと耳まで裂け、鮫のそれを思わせる乱杭歯が覗き……


 周囲が真っ暗闇に包まれるのを感じて、気を失った。


 ◇


 仙は『十字坡酒楼』のバーで、カウンターの片隅に座り、携帯電話で誰かと話していた。


 他に人影はなく、電話を切ると、すぐに席を立つ。


「そろそろお店を開ける時間だっていうのに、どこに行くんですか?」


 ひょっこりと店の奥から姿を現したのは、今日も新人ウェイターとしてアルバイトにやってきた李哪吒だった。


「せっかく来てくれたのに申し訳ないですけど、今日は臨時休業にしますよ。幇主から急な仕事を頼まれましてね」


 仙は心なしか表情か硬く、詳細も語ろうとはせず、少年を置いて、バーから出て行こうとした。


「ちょっと待ってよ。今の電話、〝斉天大聖〟の姐さんに、孫小姐に何かあったんじゃないの?」


 李哪吒は慌てて仙の後を追い、質問をした。


「だとしたら、どうしようっていうんですか? まさか、一緒についてくる気ですか?」


 仙が仕方なさそうに振り返ると、李哪吒はそのまさかだと言わんばかりに、にやにやと笑っていた。


「貴方には他にやるべき事があるはずですよ。私の言いつけは——」


「叩歯に、嚥津、調息、小周天の法、毎日、教えられた通りにやってますよ」


 李哪吒は仙の言葉を遮って、自信満々の様子で言った。


「だからと言って——」


 仙は自分に向けられた少年の眼差しが、いつになく真剣だという事に気づいて、途中で話すのをやめた。


「俺、孫小姐には借りがあるんですよ。だから、一緒に連れて行ってくれないかな。それに……」


 李哪吒はいつもとは違ってどこにもふざけた様子はなく、足元をじっと見つめて、何事か呟いた。


「判りましたよ」


 仙は根負けしたように言った。


「さすがは〝蛇目〟さん、話が判るね!」


 少年は待ってましたとばかりに、いつもの調子に戻った。


「一つ言っておきますが、これは遊びじゃありませんよ。私の雇い主である〈傲来幇〉の幇主から頼まれた仕事で、目的は〈秦王会〉を叩き潰すとか、そんな血なまぐさいものじゃない。それに今回、同行を許すのは、この機会に言っておきたい事があるからです」


 仙は釘を刺すように言った。


「あはは、こいつはおかしいや! 〝蛇目〟さん、『一つ』って言ったのに、今、二、三個、言ったよね!?」


 だが、少年は仙の揚げ足を取って、お腹を抱えて笑い出す始末。


「全く」


 仙はこの調子では先が思いやられると思ったが、説教をしている暇はない。


 李哪吒を連れて、〈傲来幇〉の案内人が待つ、合流場所に向かう事にした。

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