第三章 孫美猴 其の八、

 第三章 孫美猴

 

 其の八、


 先日、『闘仙』関東地区の最終予選が行われたノートルダム大聖堂を思わせる超高層ビルには、昼間は訪れるお客もおらず、地上階はもちろん、地下も静まり返っていた。


 左右対称の二つの塔のようなそれに挟まれた中央部の建物は、螺旋階段の先にある最上階に限り内装が仕上げられ、廊下には観葉植物といった調度品も揃っていた。


「お疲れ様です、会長、黄龍です。明日の晩には、いつも通り、今月分のお薬をお届け致しますので」


 執務室でマホガニー製の机の前に座り、携帯電話で〈秦王会〉の会長と連絡を取っていたのは、黄龍だった。


「私の薬を飲んでいれば、ずっと元気でいられますよ。それじゃまた、明日の晩に——失礼致します」


 中央部の最上階は『闘仙』に関するあれこれを一手に引き受ける事務局が入っている、言わば『闘仙』の本部である。


 中央部内のエレベーターから直通で行く事ができる地下最下層の三階には、会長お付きの漢方医である黄龍の為に、薬品研究所としての設備があり、国内外から、合法、非合法を問わず、定期的に生薬の原料が運び込まれ、日々、新たな調合が試されていた。


 地下研究所には、小規模ながら病院としての設備も整っており、『闘仙』開催時には、試合で傷ついた選手が地下通路を使い、搬送されてくる事も珍しくない。


「それで、『十字坡酒楼』のバーに出向いた、雷横君はどうなりました?」


 黄龍は携帯電話を切った後、目の前に立っている、ファッション雑誌のモデルを思わせるような美男子、〝撲天鵰〟の李応に聞いた。


「雷横は開店前のバーに乗り込んだ後、店から出てくる気配はなかったと。ただ〝蛇目〟はいつも通り、バーを開いていたそうで……今に至るも、雷横からは一切、連絡はないし、行方も判っていません」


 李応は同僚の不手際が続いているせいか、いかにも気まずそうな顔をして言った。


「私の秘薬を処方したあれが倒されたとなると、〝蛇目〟はいよいよ、本当にただの仙鏢師じゃないのかも」


「まさか、本当に、奴が仙人だとでも?」


「只者じゃない事だけは確かでしょうね」


 黄龍が言った直後、執務机に置かれたノート型のパソコンが、警報音を発した。


『闘仙』本部ビルの円形広場と正面玄関付近を巡回する警備担当者から、侵入者を知らせる連絡だった。


「これはこれは、〈傲来幇〉には舐められっぱなしじゃないですか?」


 黄龍はパソコンの表示に従い、屋内に設置してある監視カメラのウィンドウを拡大し、楽しげに言った。


 監視カメラが中継しているのは、正面玄関の回転自動扉をくぐったすぐの場所で、十代後半と思しきすらりとした細身の少女と、警備員に扮した〈秦王会〉の構成員が、何やら争っているところだった。


 これが現場を間違えてやって来た作業員なら警備員に扮した構成員に注意されれば素直に帰るところだったが、彼女は紅い棍を握り締めている上、すでにもみ合いに、いや、格闘に及んでいた。


「確か〈傲来幇〉の仙鏢師に、紅い棍を持っていた女がいましたよね?」


 黄龍も実際に顔を見るのは初めてだったが、あれが噂に聞く、〈傲来幇〉の仙鏢師、〝斉天大聖〟の孫美猴だろう。


 彼女はパソコンの画面の中で紅い棍を巧みに操り、瞬く間に警備員を叩きのめした。


〈秦王会〉の構成員が警報を受けて詰め所からなりふり構わず拳銃や刃物で武装して殺到してきたが、紅い棍一つで、互角か、それ以上に渡り合っているのだから、驚きである。


 彼女は飛び交う羽虫を手で払うかのように、群がる警備員をなぎ倒して、打ち放しのコンクリートの正面玄関を突き進んでいく。


「これは普通の人間では歯が立ちませんねえ。李応君、〝九尾亀〟の陶宗旺君と一緒に、始末しに行ってもらえますか?」


 黄龍が話している間も机に載ったパソコン画面には、今にも怒号や銃声が聞こえてきそうな血なまぐさい光景が映し出されていた。


 彼女は中国武術を駆使して、〈秦王会〉の構成員を次々と蹴散らし、正面玄関の中央、単管パイプの足場や剥落防護ネットに囲まれた、大理石でできた長大な螺旋階段を登り始めた。


「お任せ下さい」


 李応は一礼した。


「私は地下の研究所に行ってきます。何かあったらすぐに連絡して下さい」


 黄龍は近所に散歩にでも行くように気軽に言って、室内に備え付けられたエレベーターに乗り込んだ。


 彼が乗ったエレベーターは音もなく動き、最上階の執務室から最下層の地下三階へと一気に辿り着く。


 地下三階に足を踏み入れると、一様に乾いた色をした生薬の硝子瓶が整然と並ぶ保管棚が、さながら図書館の本棚のように列をなしていた。


 まさしく研究所といった趣きの通路を歩いていくと、今度は清潔そうな白いカーテンで何十台と並んだ寝台が一台一台仕切られた野戦病院を思わせる区画に出た。


 今夜は『闘仙』が開催されていないせいか、どの寝台にも人の気配はなかった。


 いや——、


「そろそろ目が覚めましたか?」


 黄龍はある寝台の前でふと立ち止まり、カーテンを開けて話しかけた。


そこにはなんと、寝台を二台も並べて、身長、優に二メートルはある巨漢が寝ていた。


「こ、ここは?」


 黄龍の声を聞いて起きたらしい巨漢が目を瞬かせ、辺りを見回すと、寝台の脇には、手術用具が一式揃った器械台が置かれていた。


「雷に打たれたせいで、記憶喪失になってしまったかな。ご自分の名前は判りますか——〝独角龍〟の鄒潤君?」


 寝台に仰向けになっていたのは、仙に返り討ちにされた、〝独角龍〟の鄒潤だった。


 鄒潤は全身にひどい火傷を負っているらしく、包帯の間から所々覗いた皮膚はどす黒く焼け爛れていた。


「ここは『闘仙』本部ビルの地下ですよ。以前、何度か来た事があるでしょう」


「痛っ!?」


 鄒潤は上半身を起こそうとしたが全身に激痛が走り、起き上がる事はできなかった。


「あまり動くと傷に障りますよ」


 黄龍はいかにも鄒潤の身を案じているように言ったが、なぜか嬉しそうに笑っている。


「…………」


 鄒潤はどう反応していいか判らず、唖然としていた。


「ここには現代医学の最新設備だけでなく、中国古来の外丹術に関するものも一通り揃ってますから、安心して下さいね」


 黄龍は器械台に用意された手術用のメスを品定めし、そのうちの一本を手に取り、薄気味悪い笑みを浮かべた。


「黄龍大夫の漢方薬で、この傷を治して頂けるのですか?」


 鄒潤は藁にもすがるような思いで聞いた。


「うーん、実を言えば私が作る漢方よりも、もっと効率のいい方法があるんですよ」


 黄龍は質問にはっきりと答えず、なぜかもう一本、冷たく輝くメスを手に取った。


「ど、どんな方法なんですか?」


 鄒潤は現代医学はもちろん、漢方についてもよく知らなかったから、『もっと効率のいい方法』などと言われても、いまいちピンと来なかった。


「そうですねえ、いくら私の秘薬を処方したところで、君達では〝蛇目〟に勝ち目はないようなので」


 黄龍はお腹を空かせた行儀の悪い子どもがスプーンとフォークを重ね合わせ、カチンカチンと打ち鳴らすように、両手に持ったメスを何度も打ち鳴らした。


「!?」


 鄒潤はふいに恐怖に襲われ、少しでも遠くに離れようとしたが、思うように動く事ができなかった。


 大怪我を負っていたという事もあるが、そこで初めて掛け布団の下にある自分の手足を鉄の鎖で繋がれ、自由を奪われている事に気がついた。


 ——なぜ、こんな事に?


 鄒潤は心臓をぎゅっと鷲掴みされたような思いがした。


 もう一つ、気づいた事がある。


 周囲にはむせ返るようなある種の匂いが充満していた。


 まるで肉食獣の餌場のような生臭い血の匂い、腐った生肉のような匂いである。


 鄒潤はいよいよ、恐怖に目を見開いた。


 見れば、リノリウムの床には大きさも形もまちまちな、赤黒く濡れた塊や白い破片が散らばっている。


 鄒潤は我が目を疑った。


 ——あの赤黒く濡れた塊は?


 まるで生ごみのように無造作に散らばるのは、人の肉、だ。


 ——あの白い破片は?


 これまた、ごみ屑のように散らばるのは、人の骨、だ。


 鄒潤が横たわる寝台の床回り、そこら中に散らばった人肉や人骨は、どう少なく見積もったとしても、十人、二十人ではきかなかった。


 一人の人間、人体を構成する数多の部位、目が、鼻が、口が、耳が、顔が、髪が、腕が、足が、爪が、皮が、肉が、骨が、内臓が、血管が、何十人分も転がっているではないか。


 さながらどこかから迷い込んできた猛獣が哀れな人間を食い散らかしたように、血塗れの髪の毛や、破裂した眼球、食い千切られた耳らしきもの、半分になった頭部、砕け散った髑髏、上半身に、下半身、何が何だか判らない肉塊が散乱し、辺り一面に、血の海が広がっていた。


「全員、『闘仙』の参加者、惜しくも試合に負けた仙鏢師ですよ。もちろん敗者とは言え、そこは仙鏢師、その辺にいる普通の人間とは比べ物にならないぐらい、大量かつ、上質の〝気〟を持っている。〝そう、私が作る外丹とは、比べ物にならないぐらいのね〟」


 黄龍は満足そうに言った。


「!!」


 鄒潤は、黄龍の怪しげな物言いと室内の惨状から、『もっと効率のいい方法』が何なのかを想像し、身の毛がよだつ思いがした。


「こうしている間にも、〈傲来幇〉の仙鏢師が好き放題やっている事だし、さっさと取り掛かるとしましょうか。なに、何も心配する事はありませんよ。そのまま、安心して寝ていて下さい」


 まさか、こんな相手の言う事を信じられる訳がない、大人しく寝ていられる訳がない。


「ひっ!?」


 鄒潤は、黄龍が一歩、近寄って来ただけで、あまりの恐怖から身を捩ったものの、残念ながら、拘束具によって動きを制限され、逃げ出す事はできなかった。


 身長、優に二メートルはある巨漢の鄒潤は、仔犬のように怯えきっていた。


 彼が涙で滲んだその目に最後に映したものは、黄龍の耳まで裂けた、醜く恐ろしい顎門だった。


 孫美猴は『闘仙』本部ビルの地下で繰り広げられている凄惨な出来事など知る由もなく、鬼神の如き強さを発揮していた。


 黄龍がいるだろう執務室がある最上階を目指していたが、幾何学的な迷路のような建物の中を、エレベーターを使ったり、階段を上ったりと、散歩気分で歩いていた。


〈秦王会〉の末端に位置する一般の構成員程度では彼女を倒す事はおろか、足止めをする事すら叶わない。


 彼女の実力をもってすれば、十重二十重の監視網を掻い潜り、誰にも気付かれずにアジトに侵入する事は造作もない。


 本当ならわざわざ正面突破などして大騒ぎしなくても、他に方法はいくらでもあるのだ。


 それでもあえて正面突破の道を選んだのは、単純に派手好きで面倒臭がりな性格だという事もあったが、〈傲来幇〉の幇主であり実の姉である孫二娘から、今回は徹底的に相手を叩きのめして来るように、と言われていたからである。


 これ以上、〈秦王会〉の好きにさせてはならない、特に首謀者である漢方医、黄龍なる人物については、腕の一本や二本、へし折っても構わないとまで言われていた。


 こうなってくると、どちらが黒社会か判らなかったが、自衛組織であり互助団体でもある幇にも面子がある。


 ここまで連中にいいようにやられて、大人しく黙っている訳にはいかなかった。


 彼女は前回と同じく、仙の手を煩わせるまでもないと、孫二娘の了解を得た上で、単身、乗り込んだ。


(——人間、変われば変わるものね)


 孫美猴は、雨霰と降り注ぐ銃弾を、流れるような棍さばきで跳ね返し、過去に思いを馳せていた。


(いつからだろう?)


 彼女が並み居る敵をなぎ倒しながら胸の内で思っていたのは、珍しく仙の事ではなかった。


(私は、いつから、こんなに素直に姉さんの言う事をきくようになったんだろう?)


 思い浮かべていたのは、〈傲来幇〉の幇主であり、実の姉である、孫二娘の事だ。


(一昔前だったら考えようもなかったわね)


 子どもの頃から近所でも評判だった孫家の美人姉妹は、姉を二娘、妹を美猴と言い、彼女達は周囲の人々から何かにつけて比べられてきた。


 学業、容姿、気品、その他、周りの人間が出来がよいと評価するのは、大抵の場合、五歳離れた姉、孫二娘の方だった。


 実際、孫二娘は、長女らしい落ち着きを備え、成績優秀、容姿端麗、礼儀作法も身につけ、次期幇主としての品格というものが感じられた。


 妹は二人目故か、みんなから可愛がられ、甘やかされて育ったせいか、少し我がままなところがあった。


 まだ幼い頃は年相応と見做され、愛くるしい笑顔で、大抵の我がままは許されたものである。


 だが、孫美猴はある日、気が付いてしまった。


 両親から本当に可愛がられ、愛されているのは、姉の方だという事に。


 小学校、中学校へと上がり、成長するにつれて、それまで見えなかったものが、だんだんと見えてきた。


 仙人街の公式行事、幇に関する催し物、冠婚葬祭、両親は自分の事を連れて行かない事はあっても、姉の事は、毎回、必ずと言っていいほど、連れていった。


 孫美猴はその間、家政婦が用意したご飯を一人で食べ、学校に行って、帰宅し、習い事に通うという、単調な日々を過ごしていた。


 いくら身長が伸びてきて体つきが女らしくなってきたとしても、世の男を虜にするような姉の色気には敵わなかった。


 どれだけ学校の勉強をし、礼儀作法を学び、内面を磨いたとしても、姉が持つ教養や気立てのよさにも届かない。


 当たり前と言えば、当たり前である。


 孫美猴が、周囲から子ども扱いされ、半人前だと思われるのも仕方がない。


 彼女はこの頃、十四、五歳になったばかりの中学生だったのだから。


 中学生と言えば、まだまだこれからという時期ではないか。


 だが、当の本人である孫美猴は納得できなかった。


 ——なんで、いつも姉さんだけが、みんなからちやほやされるんだろう?


 いつからか、我慢がならなくなっていた。


 ——どうしてみんな、姉さんの事ばかり褒めるんだろう?


 ほんの小さな事でも、不満を感じるようになっていた。


 何しろ、〈傲来幇〉の間で、孫二娘が次期幇主に指名される日も近いのではないかという噂が流れ、孫美猴は、ますます面白くなかった。


 孫二娘は二十歳を過ぎて眩しいぐらい美しく魅力溢れる女性に成長したが、高校生になったばかりの孫美猴は荒んでいた。


 高校ではお世辞にも優等生とは言えない、はっきりと不良と呼ばれる者と付き合うようになっていたが、彼らの後を金魚の糞のように付いて回っていた訳ではない。


 ましてや、都合よく使われる女になっていた訳でもなかった。


 彼女の方が女だてらに不良を引き連れて、喧嘩に明け暮れていたのである。


 孫家に生まれた者は幼い頃から男女の区別なく中国武術を習い、才能が認められれば気功術の鍛錬も行う。


 同じ血を分けた姉妹だったが、その手の才能に恵まれていたのは、妹、孫美猴だった。


 彼女は才能の上に胡座をかくような真似はせず、毎日、鍛錬を欠かさなかった。


 その甲斐あってか、高校生になった頃にはかなりの功夫を積んでいた。


 やがて一端の仙鏢師を気取って学校の不良共をまとめ上げ、自分達と同じような荒くれ者を見つけては、次々、喧嘩を吹っかけた。


 表向きには〈傲来幇〉の幇主の娘として、街の治安を守る為にチンピラやゴロツキを一掃しているとの触れ込みだったが、実際には次期幇主などと言われている姉と、姉を支持する派閥への牽制、自分の存在を誇示する為の示威的な行動だった。


 当時の幇主だった姉妹の父親は、どちらかと言えば穏健派で、孫美猴の行動を快く思っていなかった。


 だが、組織の中には、過激な者もいる——いわゆる、過激派、武闘派と呼ばれる者達は、仙鏢師としての力を持つ彼女を支持していた。


 ——そうよ、私には姉さんにはない仙鏢師としての力がある。


 これを上手く使えば、自分の存在をみんなに認めさせる事ができる。


 孫美猴はあちらで仙鏢師崩れが悪さをしていると聞けば懲らしめに向かい、こちらで妖怪変化が跳梁跋扈していると聞けば退治しに行った。


 彼女が率いる不良集団は、アメリカで言うところのストリートギャング、街頭幇がいとうぱんとして知られ、いつしか街の人々から、〈七天大聖しちてんたいせい〉の名で呼ばれた。


 街頭幇〈七天大聖〉は孫美猴を頭目として組織が機能していると思われたが、事はそううまくはいかなかった。


 最初のうちこそ〈七天大聖〉はチンピラやゴロツキを追い払い、人々から感謝されていたが、いつの間にか孫美猴の預かり知らないところで、感心できない振る舞いをするようになっていた。


 彼女の仙鏢師としての力と、〈七天大聖〉の看板、果ては〈傲来幇〉の威光を笠に着て、末端の人間やどこの馬の骨とも知れない騙りが悪事を働くようになっていた。


 孫美猴の耳にも、悪い噂は聞こえてきていた。


 それこそ、街のチンピラやゴロツキのように、強請り、たかりをし、所場代を要求する者がいる、と。


 彼女はすぐさま、〈七天大聖〉に集合をかけ、今後、絶対にこういう事のないように、と厳しく注意したが、悪い噂はなくならなかった。


 すでに、〈七天大聖〉は高校生の少女一人がまとめられるような、小規模の集団ではなかったのである。


 彼女の非常召集に答える〈七天大聖〉の構成員は、日に日に少なくなる一方、実際に被害を被ったという人間に相手が誰だったのか聞き出そうとしても、彼らは報復を恐れて口を開こうとはしなかった。


 かと言って、自力で犯人を見つけ出して捕まえようにも、そうそう都合よく現場に出くわす訳もなく、孫美猴は焦っていた。


 ——早く何か手を打たないと。


 だが、どうする事もできない。


 ——これじゃいつまで経っても私の事を認めてもらえない。


 姉、孫二娘の勝ち誇ったような笑顔が脳裏を過る。


 ——いつもそうやって、私の事を莫迦にしているんだわ!


 両親が孫二娘の事を囲んで、みんな幸せそうな顔をして笑っている、家族団欒の光景が思い浮かぶ。


 ——私の居場所は、どこにもない。


 これではまた昔のように、一人ぼっちで過ごすしかない。


 ——もうそんなのは、嫌。


 もう、そんな寂しい日々を過ごすのは、嫌だった。


 ——こうなったらもう一度、私の力をみんなに示さなきゃ!


 自分一人でやらなければ、周囲に実力を認めさせる事はできない。


 そうすれば〈七天大聖〉のみんなも、また最初の頃のように言う事を聞いてくれるに違いない。


 ——早くしないとみんな、私の事を見てくれなくなっちゃう……。


 みんなから、またそっぽを向かれてしまう。


 この頃には、〈七天大聖〉のよからぬ噂は、彼女の父親の耳にまで届いていて、父親との仲は、ますます険悪なものになっていた。


 それを見かねた孫二娘に、


 ——ねえ、美美、私からも言っておくから、お父さんに相談してみましょうよ。


 と、改まって勧められた事もある。


 だが、姉に対する劣等感に苛まれていた孫美猴には、はい、お願いします、などと言える訳もなく、この時ほど、屈辱的な事はなかった。


 これ以後、孫美猴は家族は元より、〈七天大聖〉や幇の中でも、孤立を深める事になった。


 そうして、彼女は閉塞した状況を打破する為、敵対していた〈芒碭幇〉のアジトに、単身、乗り込んだのである。


〈芒碭幇〉を壊滅させれば、みんなから認めてもらえると考えて——いや、半分はただの憂さ晴らしだったのかも知れないが、たった一人で〈芒碭幇〉のアジトに侵入し、構成員相手に大立ち回りを演じた。


 彼女が気功術を使う事ができない〈芒碭幇〉の三下相手に苦戦する事はなかったが、〈芒碭幇〉お抱えの仙鏢師が出てきてからは形成が逆転した。


 さしもの彼女も、本物の仙鏢師が相手では、全く歯が立たなかった。


 彼女は手も足も出ず、ついにがっくりと膝をつき、今にも気を失おうかという瞬間だった。


 ふいに誰かが嘲笑う声が聞こえた。


 ——あの声は、姉さん?


 彼女はいつの間にか真っ暗闇の中を彷徨い歩いていた上、気付かぬうちに泥沼に足を踏み入れていた。


 ——姉さん!?


 姉が泥沼の岸辺に佇み、こちらを指差して、笑っていた。


 ——誰か、誰か助けて!?


 必死になって泥沼から抜け出そうとしたが、ますますはまり込んでしまうばかりで、腰まで沈んでいく。


 ——お父さん、お母さん!


 父親も母親も、自分の事を見て、指を差して笑っていた。


 ——誰か助けて!?


 いくら助けを求めても辺りには嘲笑が響き渡るばかりで、頭が割れそうになる。


 彼女が頭を抱え、今にも底なし沼に飲み込まれようとしていた時、ふいに嘲笑が止んだ。


 はたと不思議に思って顔を上げると、真っ暗闇に包まれた底なし沼の岸辺に、まるで白く輝くような一輪の花が芽吹こうとしていた。


 彼女は次の瞬間、目が覚めた時には、〈芒碭幇〉のアジトで、床を舐めていた。


 だが、やはり顔を上げた時、そこに白く輝く何かを見つけた。


 よく見てみれば、あたかも倒れ伏した自分の事を守るようにして、誰かが〈芒碭幇〉の仙鏢師と対峙していた。


 歳の頃なら、二十代前半ぐらいだろうか、清潔感がある綿麻生地で設えた真っ白な長袍を、すらりとした体躯に身に纏った青年。


 ——仙師父。


 彼女は仙と初めて出会った時の事を昨日の事のように思い出しているうちに、『闘仙』本部ビルの最上階に迫っていた。


 最上階へ行くには大理石でできた長大な螺旋階段を上る以外に手段はなかったが、周囲から階段を上っている姿が丸見えだった。


〈秦王会〉からすれば、これほど襲いやすい場所もない。


 だが、警備に当たっているはずの〈秦王会〉の構成員は見当たらなかった。


「ようやく、真打ち登場ってところかしら?」


 孫美猴は螺旋階段の踊り場で立ち止まると、行く先を見上げて面白そうに言った。


「お客様、大変申し訳ありませんが『闘仙』の参加受付はすでに終了しております」


 そこに立っていたのは、芸能人のように甘い顔をした美男子、黄龍の命を受けた、〝撲天鵰〟の李応だった。


「私は『闘仙』本部長の黄龍先生に会いにきたのよ」


 孫美猴は敵地の真っ只中だというのに、悠々とした態度を崩さなかった。


「つかぬことをお聞きしますが、貴方は〈傲来幇〉の仙鏢師、〝山猿〟の孫美猴さんではありませんか?」


 李応は〝山猿〟呼ばわりをし、明らかに挑発していた。


「こっちも聞きたい事があるんだけど、貴方達、『十字坡酒楼』のバーを、二度も襲撃したわね?」


 孫美猴は一見すると機嫌がよさそうに笑っていたが、李応に向けた眼差しは、真剣そのものだった。

〝山猿〟呼ばわりされた事に対して怒っているのではなく、彼らが仙に二度も手を出した事が腹に据えかねているのだろう。


「最初から決め付けるような言い方は失礼ではありませんか?」


 李応は答えをはぐらかすように言った。


「何度、違います、って言っても、仙鏢師仙鏢師ってうるさい、あんた達に言われたくないわね」


 孫美猴はため息混じりに言った。


「ふふふ、〈傲来幇〉のお抱え仙鏢師とは言え、たった一人で乗り込んでくるとは驚きですよ。さあ、後悔するがいい、ここからは〈秦王会〉の仙鏢師、〝撲天鵰〟の李応が相手だ」


 李応は自信たっぷりだった。


「勿体ぶらなくてもいいわよ。さっさとかかって来ないんだったらこっちから行かせてもらうわ、私の〈如意金箍棒〉で一瞬で叩き潰してあげ——!?」


 彼女は背後にぞっとするような殺気を感じたが、振り返った時には、すでに背中に張り付かれていた。


「卑怯者!」


 血の気を失った顔で、自分の背後に忍び寄っていた何者かに、吐き捨てるように言った。


「他人の事をとやかく言う前に、たった一人で敵地に乗り込んできた、自分の莫迦さ加減を呪うがいいわ!」


 孫美猴の背中にずぶりと短刀を突き立て、毒づいたのは、頭が綺麗に禿げ上がった小柄な老人だった。


「〝九尾亀〟、その女、滅多刺しぐらいがちょうどいいぞ」


 李応は冷静な物言いで、禿頭の老人、〝九尾亀〟の陶宗旺に、注意を促した。


「言われなくても!」


 陶宗旺は血が滴り落ちる短刃をぐっと引き抜き、孫美猴の身体に、もう一度、突き入れようとした。


 だが——、


「なっ!?」


 陶宗旺は驚きの声を上げた。


「これが奴の術!?」


 李応も唖然とした。


 彼らの目の前から、孫美猴が忽然と姿を消した。

 と同時、さっきまで彼女が立っていた場所には、栗色の髪の毛が、一本、はらりと舞い落ちた。


「〝九尾亀〟の、あの女を探せ!」


「幻術か!?」


 李応は最上階の手前にある大理石の螺旋階段で、陶宗旺は踊り場で、慌てて、辺りを見回した。


 だが、孫美猴はどこにもいない。


「さあ、どうかしら!?」


 と、彼女は螺旋階段の上にいる李応の背後に、消えた時と同じく何の前触れもなくどこからともなく姿を現し、今まさに、紅い棍を振り下ろそうとしていた。


「〝山猿〟が!」


 李央のスーツの袖が風船のように膨らんでビリビリに破けたかと思うと、そこから現れたのは人間の両腕ではなく、禿鷲のそれを思わせる翼だった。


 彼は一瞬にして、ギリシャの伝説上の怪物、女面鳥身のハーピィを思わせる、異形の者に変身を遂げた。


 李応は螺旋階段から飛び立ち、孫美猴が振り下ろした紅い棍の一撃から、まんまと逃げ果せた。


「食らえ!」


 そのまま吹き抜けの宙空で羽ばたきを繰り返し、機関銃のように鋭い羽を発射する。


「!?」


 孫美猴は思いがけない変身と反撃に面食らったが、紅い棍を回転させる事で、鋭い羽を跳ね返した。


 そうしている間にも視界の端に、踊り場にいた陶宗旺が螺旋階段を駆け上がってくる様子が見えた。


「伸びろ、如意棒!」


 彼女が振り返りもせず言った途端、紅い棍は背後から近づいて来ていた陶宗旺に向かって一気に伸び、凄まじい勢いで後方へと押しやった。


「ぐはっ!?」


 陶宗旺は自動車と衝突したように螺旋階段から転げ落ち、血反吐を吐いてぐったりとした。


「二度も同じ手が通じる訳ないでしょう!」


 孫美猴は螺旋階段を駆け下り、紅い棍の先端に陶宗旺を引っ掛け、空中の李応に狙い定め、力任せに振り抜いた。


「ちぃ!?」


 李応は陶宗旺をさっとかわし、銃弾のように鋭い羽で、孫美猴を迎撃したが、


「しつこい!」


 孫美猴は先程と同様、紅い棍で羽を弾き返し、体術を駆使してうまく避ける。


「今すぐ終わらせてやろう!」


 李応は見る見るうちに顔まで禿鷲のそれと化し、両腕の鋭い羽根を一斉掃射した。


「ふはは! その通りだ!」


 李応の言葉に高笑いをしたのは、驚くべき打たれ強さで舞い戻ってきた、陶宗旺だった。


「見ろ、この力を!」


 陶宗旺はこれも気功術によるものか、ボディビルダーのように筋肉を肥大化させて襲いかかってきた。


 彼らが本当に『現代の仙人』なのかはさておき、異形の者であるという事は間違いない。


 どんなに攻撃を受けても、勢いが衰えないところを見ると、虎男と化した雷横ほどではないにしろ、二人とも高い再生能力を持っているらしい。


「莫迦莫迦しい! それでよく『現代の仙人』だなんて言えるわね! 禿鷲の化け物に、筋肉達磨が!」


 彼女は紅い棍の先に陶宗旺の身体を捉え、魚釣りの要領で見事に釣り上げた。


 次いで、螺旋階段を上った先にある、『闘仙』本部長がいるだろう執務室目掛けて、軽々と放り投げる。


「がはっ!?」


 陶宗旺は廊下を綺麗に抜けて、執務室のドアに背中から思いっきり叩きつけられた。


 彼は苦痛に顔を歪めながらも、ドアを背にしてなんとか立っていたが、全身を強く打ちつけ、あばら骨の二、三本は折れ、内臓も幾つか破裂しているに違いない。


 いくら普通の人間よりも高い再生能力を持っていたとしても、この後すぐに今まで通り動くのは難しいだろう。


「次!」


 孫美猴は陶宗旺を片付けた勢いに乗って、上空で羽ばたく李応の事もはたき落とそうとした。


 彼女の掛け声一つで自由自在に伸び縮みする〈如意金箍棒〉は間合いが読みづらい為、怪鳥は避ける事ができず、蠅が叩き落されるように地に落ちた。


「さあ、お遊びはここまでね」


 孫美猴は床に突っ伏した李応を陶宗旺と同じように紅い棍で釣り上げ、廊下の先にある執務室のドア目掛けて、生ごみを投げ捨てるように放り投げた。


「一旦、退くぞ!」


 李応はドアを背にして立っていた陶宗旺に抱きとめられ、悔しげな顔をして言った。


「仕方あるまい!」


 二人は執務室のドアを開け、我先にと中に入っていった。


 すると、どうだろう。


「!?」


 彼女は廊下の半ばまで追いかけてたところで、ふいに耳にした。


 執務室に逃げ込んだ李応の断末魔のような悲鳴と、後から室内に入った陶宗旺の恐怖に駆られた絶叫。


「…………」


 孫美猴は彼らの悲鳴を聞き、眉を顰めた。


 いったい、部屋の中で何が起きたのか?


 彼女は執務室の前に立つと、恐る恐るドアを開けた。

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