第三章 孫美猴 其の七、

 第三章 孫美猴


 其の七、


 もう深夜だというのに、仙人街はまだまだネオンサインの輝きに溢れ、人々で賑わっていた。


 だが、街の中心部から遠く離れた、立ち入り禁止区域は暗闇に包まれ、ひっそりと静まり返っていた。


 立ち入り禁止区域は、鉄筋コンクリートが剥き出しである建設途中の超高層建築物が密集し、まるで深い山間のような景観をなしていた。


 大型クレーン車があちこちに駐車している様子は、中国の伝説にある瑞獣、麒麟に見えなくもない。


 昔から深山幽谷を分け入った先には、仙人がいるのが常である。


 開発途中の区画を進んだ先にはフランスはパリにあるノートルダム大聖堂のような、一際威容を誇る、地上四十八階建てのビルが建っていた。


 完成すれば、ホテルとして使用される予定だという、〈秦王会〉が所有する建物だった。


 ビルの外装は上に行けば行くほど未完成のパズルのように穴だらけで、遥か下に位置する円形広場にも装飾は施されておらず、植木や長椅子も設置されていなかった。


 殺風景な円形広場を行き、正面玄関の回転自動扉をくぐると、吹き抜け構造である一階が広がっている。


 建設途中なだけにまだコンクリートが剥き出しであり、単管パイプで組まれた足場や、剥落防護ネットが目につく。


 中央部ビルの最上階へと続く階段だけはいち早く施工が完了しているようで、大理石で造られた長大な螺旋階段は、ある種、荘厳な雰囲気を漂わせていた。


 螺旋階段の両脇に設置された数基のエレベーターもすでに電気が通い、最上階の手前にある階段まで行く事もできれば、地下区画に下りる事もできた。


 中央部ビルの地下には、円形闘技場が設けられ、まるで仮面舞踏会の参加者のように洒落た仮面を被った観客達が大勢集まり、地鳴りのような歓声と、むんむんとした熱気に包まれていた。


「皆様、今宵はようこそ、記念すべき、第一回『闘仙』、関東地区の最終予選においで下さいました!」


 円形闘技場の中央に立って大袈裟な身振りを交えて司会進行しているのは、〈秦王会〉会長お付きの漢方医であり、『闘仙』の企画者でもある、司会者らしく正装に身を包んだ黄龍だった。


 第一級正装に身を包んだ仮面の観客達が、お忍びで楽しんでいるのは、〈秦王会〉所有ビルの地下で行われている、『闘仙』関東地区の最終予選だったのである。


 このビルの地下は三階構造で、一階は駐車場、二階は地下格闘技場を中心とした娯楽施設になっている。


 一階の駐車場には、今夜集まった観客を各地から乗せてきた架空の観光会社、『天下巡遊』の名義で偽装した観光バスが、何台も停まっている。


 地下二階は、闘技場の他にも、カジノやレストラン、パーティールームが完備され、大型の娯楽施設となっていた。


 今夜、古代ローマのコロッセオを思わせるすり鉢状の観客席から、熱狂的な歓声と拍手が惜しみなく注がれ、取り分け、盛り上がっているのは、運営側も目玉行事としている、地下格闘技、『闘仙』である。


「ここ、横浜仙人街は、東の小国にある、桃源郷タオユアンシアンです! これから『桃幇の守り手』、『現代の仙人』とまで言われる仙鏢師達が、最高の試合をお見せします! 他では見る事のできない、彼らの中国武術、武芸十八般、気功術の数々を、最後までごゆっくりお楽しみ下さい!」


 黄龍の言葉を聞き、観客達葉はますます沸き上がる。


「優勝者には、皆様方の盛大な拍手と称賛の声をお願い致します! もちろん、我々主催者側からも、最強の仙鏢師に相応しい、賞金と待遇をご用意しております!」


 黄龍は観客の反応を窺うように、ゆっくりと周囲を見渡した。


 観客は水を打ったように静まり返っていた。


「そろそろ、試合開始のお時間が迫って参りました。僭越ながら、今大会の実行委員長である私、黄龍が、ここに、第一回『闘仙』、関東地区、最終予選の開会を宣言致します!」


 黄龍の開会宣言を聞いた観客は、一気に興奮の頂点に達し、歓声に沸いた。


 彼は深々と一礼し、大会関係者でごった返す通用口に姿を消した。


「——〝蛇目〟が?」


 黄龍は大会関係者への挨拶もそこそこに、ファッションモデルが務まりそうな美男子と、主催者控え室の出入り口の脇で話していた。


「はい。奴は〝挿翅虎〟の雷横の時と同じように、〝独角龍〟の鄒潤が乗り込んだ時にも、自分は仙鏢師じゃないなどと言い張って、『闘仙』の参加を拒んだと」


 黄龍に難しい顔で報告をした美男子は、〝撲天鵰はくてんちょう〟の李応りおうだった。


「その上、これまた〝挿翅虎〟の雷横君の時と同様、〝独角龍〟の鄒潤君も返り討ちに遭ったと?」

「は、はい」


〝撲天鵰〟の李応は、同僚の度重なる失態に、ばつが悪そうな顔をした。


「つまり、ただのバーのマスターに、〈秦王会〉の仙鏢師が、二人揃って仲よくやられてしまったと、そういう事ですか? その上、〝独角龍〟の鄒潤君に至っては、フリーの仙鏢師をあれだけ引き連れていったのに、一人残らずやられてしまったと?」


 黄龍は何かの間違いではないかと言うように、もう一度、確かめた。


「は、はい……それともう一つ、二人とも、妙な事を言ってまして」


「妙な事?」


「……〝蛇目〟が何もないところに、突然、無数の岩石を出現させたとか、室内に雷を落としたとか、〝蛇目〟の強さは自分達とは全く違う、何か異質なものを感じる、と。まるで……」


 李応は奥歯に物が詰まったような言い方をした。


「まるで? まるで、何だっていうんですか?」


 黄龍は興味深そうに聞いた。


「……“まるで、本物の仙人みたいだった”、と」


 李応は狐につままれたような顔をして、白状するように言った。


「なるほど、仙人、と来ましたか!」


 黄龍は面白そうな顔をして言った。


「私も最初に聞いた時にはただの言い訳だと思ったんですが、どこか真に迫ったところがありまして。実際、仙鏢師の気功術にやられたにしても、かなりひどい怪我ですし」


「確かに、二人揃って岩石がどうとか雷がこうとか言ったり、〝蛇目〟に対して同じ仙人という印象を抱いているのは気になりますね。噂通り、〝蛇目〟の気功術は尋常ではないという事かな。いや、これは、ひょっとすると、ひょっとするかも知れませんよ」


「まさか、本当に奴が仙人だなんていう事が? 〝蛇目〟も自分の事を仙鏢師じゃないなんて、『闘仙』に参加するのを拒否する為に、苦し紛れに言っただけじゃないでしょうか?」


「そうかも知れないし、そうではないかも知れない。私も『闘仙』参加云々は別にして、〝蛇目〟という男に興味が湧いてきましたよ。ちょっと探りを入れてみましょうかねえ?」


「今回の鄒潤の失敗はまだ会長のお耳には入れてませんが、誰かまた送り込みますか?」


「そうですね、誰に行ってもらいましょうかね。会長には折を見て、私から報告しておきましょう」


「私か、〝九尾亀きゅうびき〟の陶宗旺とうそうおうか——それとも、私と奴の二人で?」


「いや、貴方方は今夜はここにいて下さい。引き続き、『闘仙』の運営を手伝ってもらいたいので」


「奴のところには誰を? それに、どんな探りを入れるおつもりで?」


「なに、大した事じゃありませんよ。〝蛇目〟は自分の事を仙鏢師ではないと言い張って、手合わせをした二人は〝蛇目〟が本物の仙人みたいだと感想を漏らした。じゃあ当の本人は、自分の事を何だと思っているのか? いったい全体、どこの誰なのか? もう一度、今度は確実に、それを確かめてみるとしましょう」


「は、はあ」


「そうと決まれば、雷横君と、鄒潤君、どちらに、もう一働きしてもらいましょうかね」


「あの二人は入院していますが……」


「だからと言って、彼らも、『桃幇の守り手』、『現代の仙人』と言われた仙鏢師の端くれでしょう? 全く動けないという事はないんじゃないですか。会長もほらあの通り、私の薬を使って今じゃピンピンしているじゃありませんか。彼らも私の薬を処方すれば、すぐに回復するはずだ。それだけじゃない、今より強くなれる事でしょう」


 黄龍は、会長をはじめとする重要人物達が談笑している控え室を見て、含み笑いを漏らした。


 彼らに向けた視線は、ぞっとするほど冷たかった。


 数日後の夕方、『十字波酒楼』のバーは開店前で、看板の明かりも灯っていなかった。


 仙はウェイトレス達が色とりどりの旗袍姿で開店準備をしているのを見ながら、カウンターでグラスの整理をしていた。


「ねえ、〝蛇目〟さん。最近、客足が遠のいたとは思わない?」


 声をかけてきたのは、華やかな女性達に混じって、ウェイター姿で箒片手に床を掃いていた、李哪吒だった。


「そういう時もあるでしょうね」


 仙はなんでもないような顔をして言った。


「このお店のお客さんは、〈桃幇〉限定なんでしょう? 『闘仙』を観に行っているんじゃないかな」


 李哪吒は箒の柄に顎を載せて、掃き掃除に飽きたと言わんばかりだった。


 もう木乃伊男のような包帯は必要なくなったらしいが、まだあちこちに生々しい傷跡が残っていた。


「噂じゃ仙人街のどこかで関東地区最終予選が開かれたっていうし、どんな仙鏢師が出場したのか気にならない?」


「言ったでしょう、私は『闘仙』には興味がないって。『闘仙』に出たからといって、仙人として高みに昇る事はできませんからね」


「それじゃ、僕は何をどうしたら強くなれるんですか? いったいいつになったら、修行をつけてくれるんですかねー?」


 少年は不貞腐れたように言った。


「まだ掃除の途中じゃないですか? お喋りはお仕事が終わってからにしましょう」


 仙は話を切り上げると、磨き終わったグラスを背後にある食器棚にしまい始めた。


「あーあ、この前は弟子にしてくれるような事を言っておいて、従業員としてこき使うだけじゃないか」


 ため息混じりに言って、面倒臭そうに掃き掃除を再開する。


「貴方が壊したお店の修理費、私が肩代わりしているのを忘れないで下さいね」


 仙は不貞腐れたような少年に背中を向けたまま、食器棚に並んだグラスを眺めていたが、きっちりと釘を刺した。


「はいはい、一生懸命、働かせてもらいますよ!」


 李哪吒は痛いところを突かれて、熱心に履き掃除を始めた。


「いつもそれぐらい頑張ってもらえると助かるんですけどね」


 仙は微笑ましそうに言ったが、少年のせっせと箒を動かしていた手が、ふいに止まった。


「お客さんがお見えになったみたいですよ」


 少年は開店前の閉ざされた扉を見つめて、楽しげに言った。


「久しぶりだな、元気にしてたか?」


 直後、騒がしい蝙蝠のドアベルと共に、どう見ても堅気には見えない派手な背広を着たプロレスラーのような大男が、ずかずかと入ってきた。


「……貴方は」


 仙は数日前までの李哪吒のように包帯塗れで、顔貌が判らないプロレスラーのような大男の姿を見て、僅かに眉を顰めた。


「今日はえらい客が少ないみたいだな。こいつは都合がいいや、今夜は俺の貸し切りって事で頼むぜ」


 プロレスラーのような大男は包帯塗れどころか、うっすらと血が滲んでいるほどで、どう考えても、バーで酒を楽しむような状態ではなかった。


「こんにちは、雷横さん」


 仙は気を取り直したように、愛想笑いをして言った。


「俺の事、覚えていたのか」


 プロレスラーのような大男は包帯塗れで顔こそ見えなかったが、太々しい態度といい、恵まれた体格といい、仙が返り討ちにした、〈秦王会〉の仙鏢師、〝挿翅虎〟の雷横だった。


「まだ開店前なので、もう少し外で待って頂けますか」


「けっ! 固い事を言うなよ」


 雷横はカウンターに座って足を投げ出したかと思えば、手近なボトルを何の断りもなしに開け、ぐいぐいと煽った。


「今度来る時は、お客様として来て下さるようにお願いしたはずですが」


「俺は、あの夜、お前と本気でやり合った訳じゃねえからな」


「はい?」


「お前をスカウトしに来た俺は、本気を出してやり合った訳じゃねえって言ってんだよ! その結果がこの様だ、なあ、おい!?」


 雷横は、カウンターの上に置いてある紙ナプキンや灰皿を、腹立たしそうに蹴り飛ばした。


「お客さん、店のものを乱暴に扱うのやめてもらえませんか」


 李哪吒はさも迷惑そうな顔をして言った。


「誰かと思ったら、てめえか。うちの大会に出て名前を売るんじゃなかったのか。こんなところに隠れていやがったとはな!」


「あんたの方こそ、何しに来たんだよ。ああ、そうか! 今度は〝蛇目〟さんから慰謝料でも脅し取りにきたのかなー?」


「つくづく口の減らねえ餓鬼だ。あんまりふざけた事を抜かすなら、二度と立てねえようにしてやるぞ」


「それはこっちの台詞だよ」


 二人とも売り言葉に買い言葉で、一触即発の雰囲気が漂う。


「そこまでにしておきましょうか。李哪吒先生はお店の準備をしていて下さい」


 仙は前回のように店内で暴力沙汰になっては堪らないと思ったのか、カウンターから出てきて二人の間に入った。


「雷横さん、もう一度お聞きしますけど、今日はどんな用があっていらしたんですか? お客様として来られたのなら、開店まで待って頂かないと」


 仙は根気強く諭すように言ったが、雷横は返事もせずにのっそりと立ち上がった。


「茶番は終わりだ」


 雷横の全身から目に見えない殺気がゆらりと立ち上った。


「俺が用があるのは、バーのマスターなんかじゃねえ、〈傲来幇〉のお抱え仙鏢師、〝蛇目〟、てめえだ」


「私は仙鏢師じゃないって言っているのに……ところで雷横さん、貴方、ちょっと匂いますよ」


 仙は眉間に皺を寄せた。


「そうか、そうか、ちょっと匂うか!」


 雷横はなぜか、楽しそうに言った。


「なにせ俺は、『現代の仙人』とまで言われる仙鏢師だからな! その辺の奴らとは、食べているものからして違うのよ。この程度の怪我じゃ、安静にしている必要もねえっていう訳だ!」


「食べ物一つでそんなに丈夫な身体になれるとはね……そう言えば〈秦王会〉の会長さんも危篤状態になった事があるみたいですけど、黄龍という漢方医のおかげで、元気になったそうじゃないですか?」


「ああ、よく知っているじゃねえか。確かにあの男は、優秀な漢方医だ」


「それはそれとして、こんな話をご存知ですか? 時は紀元前、ところは中国、秦の始皇帝に仕える、一人の方士の話なんですけどね」


「秦の始皇帝だと?」


「はい、秦の始皇帝は、中国統一という偉業を成し遂げた後、不老不死を夢見たそうで。中国各地から、名だたる方士や識者を集め、彼らに最新の設備と莫大な資金を与え、不老不死の研究をさせたと。そんなある日、『渤海の向こうにある三神山に住む仙人は、不老不死の秘薬を持っている』、なんて耳打ちしてきた輩がいたとか」


「何だ? いきなり? 歴史の勉強でも始めるつもりか?」


「その男の名は、方士、徐福じょふく。徐福は、始皇帝から援助を受け、有力貴族や腕利き職人、三千人の童子を引き連れて、三神山を目指し、意気揚々と大海原に船出したんですけど、結局、仙人が住む山は見つからなかったそうですよ。その後、徐福は、ここ、日本に辿り着いたのではないかと言われ、全国各地に、徐福伝説が残っているんですが、徐福は外丹術を嗜んでいたので、健康に役立つ丸薬の一つぐらい作り出す事に成功したかも知れない」


「…………」


「それに、ここは横浜仙人街だ。もしかしたら、徐福の子孫がこの街のどこかで、誰かの後ろ盾を得て研究を続けているかも知れない。或いは、どこぞの仙鏢師が、徐福の研究成果を、何かに利用しているという事もあるかも知れない」


「てめえ、何が言いてえんだ?」


「いえね、〈秦王会〉の会長を元気にしたっていう漢方医の話を聞いたら、始皇帝と徐福の話を思い出して、ちょっとばかり想像が膨らんでしまったもので」


「その漢方医様は、てめえが何者か気になるそうだぜ。少しぐらい怪我をさせたとしても、連れてくればいいとのお達しよ。前回とは違って、手加減なしって事だな!」


 仙は見るからに殺気立っている相手を見て、何か疲れたようにため息をついた。


「ちょっといいかな?」


 仙に声をかけたのは、それまで黙ってやり取りを見守っていた、李哪吒だった。


「ここは代わりに僕にやらせてくれるかな」


 李哪吒は、雷横を真っ直ぐ見据え、一歩、前に出てきた。


「〝蛇目〟さんがいつまで経っても本格的な修行をつけてくれないから、身体がなまって仕方がないんだよね」


「本格的な修行を始めるのは、基礎である呼吸法を身につけてから、と言ったはずですよ」


「〝蛇目〟さんに教えてもらった事は、毎朝、欠かさずやっているよ。叩歯こうしに、嚥津えんしん調息ちょうそく小周天しょうしゅうてんのほうの法——だから、ここは僕にやらせてもらえないかな」


 少年の目には、最早、雷横の姿しか映ってはいなかった。


「うーん、修行の成果がどれぐらいあるのか楽しみだなー」


 期待に胸を躍らせ、腰に巻いた赤綸子を解き、瞬く間に鄒潤が愛用していたそれと同じ、青龍偃月刀に変化させた。


 雷横も望むところだと言わんばかりに、両手を虎の爪に変化させる。


「ハッ!」


 李哪吒は巧みな武器さばきで虎の爪と打ち合い、相手をあっという間に壁際に押し込んだ。


「僕の事、二度と立てないようにするんじゃなかったっけ!?」


 李哪吒は身の丈以上はある青龍偃月刀を巧みに操り、相手を翻弄し、鼻で笑った。


 雷横はあちこち斬り裂かれ辺りに血飛沫が飛び散り、このまま勝負がつきそうなどころか、はっきり言って、命も危ぶまれた。


「李哪吒!」


 仙は、血気に逸った少年を制す為、鋭い声を発した。


 いや、


「油断するな!」


 仙は警戒するように促した。


「があああっ!」


 雷横は壁際に押し込まれてなす術がないと思われたが、青龍偃月刀の切っ先をがっしりと掴んだかと思えば、獣のような咆哮を上げて、投げ捨てた。


「!?」


 少年は驚きに目を見張った。


「蛇目野郎が言う通り、油断は禁物だ!」


 雷横は次いで、呆気に取られていた少年の腕を鷲掴みし、ぐいっと懐に引きずり込むと、羽交い絞めにした。


 仙と戦った時、〈発手群石〉を受け、大怪我をしているにも関わらず、いったい、どこにそんな力が残っているのか。


「……にしても、何を食べているのかなー? いくら身体にいいからって周りの人間は堪ったもんじゃないよ!?」


 李哪吒はどんなに抵抗しても雷横を振り解く事ができなかったが、口数が減る事はなかった。


「ふむ」


 仙は雷横の様子を見て、難しい顔をしていた。


 ——あの雷横という男、何か引っ掛かる……。


 いくら気功術で体の一部を獣のそれに変化させているとは言っても、ただの人間だという事に変わりはない。


 だが、雷横の気配は、本当に獣じみているのだ。


 まさしく、ケダモノそのものといった気配なのである。


「なんとでも言え! おい、蛇目野郎、俺も正直言って、あの黄龍って男が何者か気にならないと言えば嘘になる!」


 雷横は李哪吒の事を羽交締めにしたまま、仙に話しかけた。


「あの男はある日突然、会長の前に現れて、危篤状態だった会長を得体の知れない漢方でたちまち元気にした。その後は会長お付きの漢方医に収まって、気付いたら『闘仙』なんて地下格闘技を企画して、今じゃ片腕として働いている。かと思えば、会長には内緒で、てめえの正体を探ってこい、多少、痛め付けてもいいから連れて来いなんて、俺に命じてくるんだからな。あ、怪しまない方が、ど、どうか、しているぜ!」


 雷横はなぜか、呼吸が荒くなってきた。


「だけどな、あの男がどこの誰だろうが、俺には関係ねえ。俺は、あの男からもらった、この力で! てめえを! 殺す事ができれば! それでいいんだからな!」


 雷横は血走った目つきで、鼻息も荒く、少年を突き放した。


「ぐおおおおおおおおおッ!!」


 雷横は天を仰いで雄叫びを上げると、頭に巻いた包帯から覗いた髪は、まるで針鼠のように逆立ち、両の眦はつり上がり、ある種の肉食獣を思わせた。


 全身の筋肉が膨れ上がり、派手な背広はあちこち破け、破れた箇所から金色の獣毛が見え隠れした。

 

 虎の爪は両手だけでなく、よく手入れがされ黒光りした革靴を突き破って、両足からも伸びていた。


「……こ、こいつは」


 李哪吒は絶句した。


 雷横の顔は血塗れの包帯に隠れ、どうなっているのか判らなかったが、さながら、〝虎男〟である。


 仙が変身した時となんとなく通じるものがあったが、異形のものと化した雷横には畏怖すべきものは感じられず、身の毛がよだつような悍ましさだけが感じられた。


「!?」


 李哪吒は一瞬、怯んだが、床に落ちていた〈混天綾〉に手を伸ばし、再び、青龍偃月刀に変化させ、先手必勝とばかりに、雷横に向かって振り下ろした。


 すると、雷横は何の躊躇いもなく、青龍偃月刀を片手で受け止めたではないか。


 当然の如く、人間と虎の間の子のような手のひらは、ぱっくりと割れ、使い物にならなくなった。


「なっ!?」


 少年は更に驚きの光景を目にした。


 雷横の真っ二つになった手のひらから、なんと、瞬く間に薄桃色の肉が盛り上がってきた。


 見る見るうちに、新しい皮膚に覆われ、獣毛がびっしりと生える。


 これも仙鏢師が得意とする気功術だというのか、雷横の片手はある種の爬虫類の尻尾のように再生した。


「相手にとって不足なし、だ!」


 息つく間もなく、攻め立てた。


 雷横の全身に何度となく青龍偃月刀を突き入れ、縦横に切り裂き、力任せに叩き斬ったが、その度に雷横の傷口はすぐに塞がり、身体の一部を失っても、何事もなかったように再生した。


「うーん、〝蛇目〟さんの言いつけを守って、ちゃんと基礎鍛錬を積んでいたつもりだったんだけどなー」


 ついに息切れしたのか、雷横から、一旦、距離を取った。


 口調は軽い感じだったが、攻撃したそばから再生されては、正直、お手上げだった。


「冗談で言っているんだと思いますが、修行の成果はすぐに表れるものじゃないですよ。第一、前にもお話した通り、私達の修業は、相手を叩きのめす為にある訳じゃないですからね?」


 仙が念の為というように、噛んで含めるように言った。


「でも、今は目の前にいるこいつを倒さないと。その為には、いつも〝蛇目〟さんが使っている必殺技を教えてもらえると助かるんだけどねー」


「李哪吒先生は、時々、血気に逸る事がありますね。その目に宿った危険な光がなくなるまでは、本格的な修行をつける訳にはいきませんよ」


 李哪吒は仙から拒否され、全身に緊張が走り、心臓がどくんと、大きく脈打つ音が聞こえた。


 ——孔徳の容は、ただ〝道〟にこれ従う。


 と、その時、少年の脳裏に木霊したのは、遠い故郷で聞き慣れた、誰かの声音だった。


 ——〝道〟を以って人主を佐くる者は、兵を以って天下に強いず。


 李哪吒は仙の厳しい眼差しの向こうに、不吉な暗雲が立ち込める大陸の夜空を見た気がした。


 まるで天変地異の前触れを思わせる、稲妻に引き裂かれた故郷の夜空である。


「今はただ自分自身と真っ直ぐ向き合って、ありのまま受け入れた方がいいんじゃないですか」


 仙は少年に代わって、自分が雷横の事を相手にするつもりらしく、静かに一歩、前に出てきた。


「——〝気〟は、天然自然に満ちた生命力の源、根本を成す力。私達人間にも、その力は備わっています」


 仙は〝気〟の存在を確かめるように、胸元で両手をこすり合わせ、次に、こすり合わせた両手を離し、手と手の間に、あたかも〝気〟が満ちているかのように、じっと見つめる。


「内丹の中でも、小周天の法は、最も基礎的な修行法。下腹部にある丹田に〝気〟を集中して、身体の前面にある正中線から、頭、背骨の上、尾骶骨下、背部の正中線まで一周させる」


 仙が全身に〝気〟を巡らせるにつれて、室内の温度も上がっていくようだった。


 李哪吒は固唾を飲んで見守っているせいもあるが、額にうっすらと汗を掻くぐらい暑さを感じていた。


 当の本人である仙は、至って涼しそうな顔である。


「修行の大きな柱は、『煉精化気れんせいかき』、『煉気化神れんきかしん』、『煉神還虚れんしんかんきょ』、『還虚合道かんきょごうどう』——天地に充満する〝気〟を錬成し、〝道〟と合一する」


 仙は瞼を閉じると両手で素早く印を結び、何かぶつぶつと念じ始めた。


 臨・兵・闘・者・皆・陣・列・前・行


 仙が呟いているのは、古代中国で煉丹術に取り組み、晩年は羅浮山に入り、仙人になったという葛洪の著書、『抱朴子』に由来する、九字だった。


「…………」


 李哪吒は三度、目の当たりにする事になった光景に、目を奪われた。


 仙の黒髪はいつの間にか腰の辺りまで伸びていて、風など吹いていないのに逆立つようになびいていた。


 その上、真っ白な長袍の襟元から覗いた首回りは、新雪のように輝く爬虫類の鱗のようなものにびっしりと覆われていた。


「…………」


 仙は深い眠りから醒めたように、ゆっくりと目を開けた。


 あたかも蛇のそれのように縦長に変化した瞳孔は異様な輝きを放ち、およそこの世のものとは思えない、化生の如き迫力を備えた金色の双眸が、雷横にじっと向けられていた。


「今の俺にはてめえの石飛礫なんて屁でもねえ、すぐに傷口は再生するんだからな! 次の瞬間、くびり殺してやる!」


 雷横は口の端から涎を垂らし、興奮しきった様子で言った。


「——〈十絶陣〉が一つ、〈烈焔陣〉」


 仙は今にも雷横が襲いかかって来ようかという時、独り言のように呟いた。


 その途端、雷横の足元から、まるで天をつくような巨大な火柱が三本生まれ、彼の巨体を飲み込んだ。


「!?」


 雷横はてっきり〈発手群石〉が放たれるとばかり思っていたから、唖然とした様子で、全身、激しい炎に包まれた。


 ほんの一瞬、聞こえたかも知れない悲鳴は、燃え盛る炎によってかき消され、火柱に映った大きな影は、紅蓮の渦の中で少しずつ萎んでいく。


「す、すごい」


 李哪吒は呆気に取られた。


 雷横の不死身かと思われた強靭な生命力も、噂に名高い仙鏢師、〝蛇目〟、〝蛇眼金睛〟の前では、全くの無力だった。


 しばらくして激しい炎が消えた後、煤けた床にごみ屑のように転がっていたのは、両手足を焼き尽くされ、黒焦げになった、雷横だった。


 雷横は真っ黒に焼け焦げたぼろ雑巾のように見るも無残な姿に変わり果て、あちこちぶくぶくと泡立っていたが、再生は遅々として進まず、死んだように動かなかった。


「なんか腐ったような匂いだな。本当に何を食べていたんだろう」


 李哪吒は焼け焦げた雷横が発する悪臭に、鼻が曲がりそうだった。


「たぶん、黄龍という男から、何か薬をもらったんでしょう。まあ、まともな術じゃないでしょうね。大人しくしてもらうには、これぐらいするしかありませんでしたけど、死んだ訳じゃない、時間が経てば再生しますよ」


 仙は自分の手で黒焦げにした雷横の姿を見ても、顔色一つ変えずに言った。


「こんな黒焦げじゃ前みたいに路上に放り出して、向こうの組織に回収されるのを待つ訳にもいかないよね。袋詰めにして、直接、〈秦王会〉のビルまで運び込む?」


 李哪吒は当たり前のような顔をして言ったが、その目には危険な光が宿っていた。


 雷横に手こずらされた腹いせに、〈秦王会〉に殴り込みに行こうかという勢いである。


「この状態でそんなに動かしたら、さすがに命に関わりますよ。〈秦王会〉のところに行けば、面倒になるのは避けられないし、ここは容態が落ち着いて、薬が抜けるまで、看病して差し上げましょう」


 普段の容姿に戻った仙は、誰かに合図するようにぱちんと指を鳴らした。


 すると、旗袍を身に纏ったウェイトレスが店の奥から二人ほどやって来て、白いバスタオルを一枚、雷横の下に敷き、担架の要領で手際よく抱え上げて、どこかに運んで行った。


「ところで、仕事が増えちゃったみたいですね」


 仙はひと段落ついて、おどけたように言った。


「…………」


 李哪吒は仙が言わんとしている事に気付き、顰めっ面になる。


 それもそのはず、せっかく掃除したはずの開店間近の店内は、小火が起きたように煤けていた。


 その上、そこら中にテーブルや椅子がひっくり返り、床には酒や調味料がぶちまけられ、おいしく、味付けまでされていたのである。

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