第二章 白素貞 其の六、

 第二章 白素貞


 其の六、


「——ここは?」


 李哪吒はふと目を覚まし、辺りを見回した。


「よかった、やっと目が覚めたのね!」


 ほっと一安心したように言ったのは、栗色の髪に紅い耳飾りが印象的な凛とした少女、孫美猴だった。


 彼女は少年が意識を取り戻すまで、ベッドの脇でパイプ椅子に座り、ずっと見守っていたようである。


 李哪吒は自分が白いカーテンに覆われた病室のような場所で、寝台の上に寝かされている事に気付いた。


 おそらくは、『二竜山大酒店』の医務室だろう、独特の薬品の匂いが漂う室内は、静寂に満ちていた。


「どれぐらい寝ていたのかな?」


 壁に掛けられた時計を見ると、時計の針は二時を少し回ったところだった。


「五、六時間ってところかしら」


 彼女の言う通りなら、今は深夜の二時という事になる。


 李哪吒は信じられない思いがした。


 何しろ、全身、串刺しにされ、今頃は生死の境を彷徨っていてもおかしくはないはずの彼女が、平気な顔をして目の前に座っているのだ。


 あれから、まだ、五、六時間しか経っていないなんて事があるのだろうか?


 それに、だ。


 李哪吒は彼女の隣に席に座る、一人の青年に視線を移した。


〈傲来幇〉のお抱え仙鏢師、〝蛇目〟、またの名を、〝蛇眼金睛〟——、


「……あんた達、二人揃って仙鏢師じゃないっていうのなら、いったい、何者なんだ?」


 李哪吒は疑問を口にせずにはいられなかった。


 二人とも、昨日、今日と、一度は倒したはずの相手である。


 にも関わらず、二人とも何事もなかったようにここにいる。


 師父の許仙といい、弟子の孫美猴といい、あまりにも不可解な事が多すぎる。


「私にも聞きたい事があるんですよ。まずは改めて、貴方のお名前と、ご職業についてお願いできますか」


 仙は面接しているように質問した。


「……李哪吒」


 最初は迷っていたものの、観念したように口を開いた。


「うちは代々、仙鏢師の家系で、近くの町や村の人から妖怪退治の仕事を請け負っているんだ。ちょうど一年ぐらい前に家を出て、自分の実力を世間に証明する為に、世界中を旅しているんだけど、日本に着いてからの事も話した方がいいかな?」


 李哪吒は、こうなったら、とことん付き合ってやろうと、半ば意地になったように、身の上を話した。


「日本に着いてからの事は大丈夫ですよ。これも改めてお聞きしたいんですが、貴方は仙鏢師をどんな職業だと思いますか?」


「どんな、って——仙鏢師は、『桃幇の守り手』、『現代の仙人』、中国武術を修め、武芸十八般に優れ、気功術に秀でた、三拍子揃った者。人々から依頼され、仙匪、仙賊、妖怪変化から、物品や要人を警護する、用心棒稼業でしょ?」


「となると、私も小孫も、中国武術は人並みに修め、武芸十八般に通じ、気功術も知らない訳ではないし、幇には自衛集団としての側面もあるから、外敵を相手にする事もない訳じゃない」


「それでもあんた達は、頑なに仙鏢師じゃないって言い張るんだろう?」


「そうですね」


 仙はこともなげに言った。


「…………」


 李哪吒は顔を顰め、いかにも納得がいかないという顔をした。


「昨日も言ったと思いますが、私と貴方達とでは目的が違いますからね」


「目的?」


「もう一度聞きますけど、代々、仙鏢師の家系に生まれ、自分自身、そうである貴方は、なぜ、仙人街にやって来たんですか?」


「『闘仙』に参加する事で、仙鏢師としての実力を世間に証明して、これから商売がやりやすいように——」


「つまり、富と名声を得る為に、この街にやって来たと、そういう訳ですか?」


「それの何がいけないって言うんですか?」


 李哪吒はますます、納得がいかないといった風である。


「何も私は、お金を稼ぐ事が悪いなんていう言うつもりはないですよ。私も生活する為にバーでマスターをやっているんだし」


「だったら!」


「ただ、私や小孫が功夫を積んでいるのは、お金の為じゃないという事ですよ。もちろん、自分の名を売る為でも、誰かを倒す事ができる力を手に入れる為でもない」


「お金の為じゃないだって? それなら、何の為にやっているっていうんだよ? 富でもない、名声でもない、かと言って、力を手に入れる為でもない! だったら、なんだって言うんだよ!?」


 李哪吒にしては、珍しく感情的になっていた。


「——貴方も聞いた事ぐらいはあるんじゃないですかね……〝タオ〟との合一ですよ」


 確かに、聞いた事ぐらいはある。


 古代中国の哲学者で、仙人だったとも言われる、老子が説いた思想、それが、〝道〟、だ。


〝道〟は、宇宙の真理であり、自然の摂理であり、人間の根源であり、不滅の法則だという。


「〝道〟との合一だって!? あんた達は、その為に中国武術を修め、武芸十八般に通じ、気功術も嗜んでいるから、仙鏢師じゃないっていうのかよ!?」


「ええ、そういう訳で『仙鏢師』と言われるよりは、まだ『道士』と呼ばれた方がしっくり来ますね」


「〝蛇目〟さんと〝斉天大聖〟の姐さんが道士!?」


 あれだけ手こずらされた二人が、民間信仰である道教の、道士の枠などに収まってたまるかと思った。


 道教は〝道〟との合一を目的とした宗教で、中国社会に広く根付き、道教の修行者の事を、道士という。


 道士もまた仙鏢師と似たような符呪や養生の術を操るが、李哪吒が仙の言う事を受け入れられないのも仕方がない。


 彼らが操る符呪や養生の術は、はっきり言って、儀式的、形式的なもので、仙鏢師のそれとは比べるべくもないからである。


 それ故、彼らが道士だなどとは、到底、思えなかった。


 けれど、仙は、まだ道士と呼ばれた方がしっくり来ると、自分は仙鏢師ではないなどと言い張っている。


 李哪吒は、この二人は何者なんだと、まじまじと見た。


 彼らの得体が知れない力を目の当たりにした今となっては、仙鏢師と呼ぶには違和感があるのも事実だと、もう一度、考えてみる。


 ——確かに、自分達、仙鏢師を名乗る者は、『桃幇の守り手』、『現代の仙人』を自認し、気功術をはじめとした、絶技、妙技を操る。


 仙鏢師は気功術を利用し、普通の人間には真似のできない肉体の強化が可能だし、肉体の一部を獣のそれに変化させる事も、〝気〟を放ち、対象に強い衝撃を与える、〈百歩神拳〉や〈遠当て〉と言われる、人間離れした技を駆使する事もできる。


 仙鏢師が相手では、運動神経抜群のスポーツ選手も筋肉隆々の格闘家も歯が立たないし、仙鏢師は、妖怪変化、魑魅魍魎を敵に回したとしても、引けを取る事はない。


 ——だが、逆に言えば、そこまでだった。


 本当のところ、仙鏢師は仙人には程遠い。仙鏢師は天に昇る事はできないし、不老不死でもなければ、無から有を作り出す事もできない。


 遥か昔から今の世にも語り継がれる、伝説の彼らには遠く及ばない。


 では、仙鏢師は〝寸剄〟によって内臓をズタズタに破壊され、或いは、青龍偃月刀で肩から腹部まで斬られ、致命傷を負っても尚、立ち上がってくる事はできるだろうか?


 更に言えば、全く何もないところから、岩石を出現させる事は?


 室内に落雷を呼び出すなどといった芸当は可能か?


 いや、これらも仙鏢師にできる事ではなかった。


 どんなに気功術に長けていたとしても、不可能に近い。


 絶対に、不可能だと言っていい。


 なぜなら、仙鏢師の気功術は、所詮、気功術であって、仙人が操る、神仙術ではないのだから。


 このご時世に〝道〟との合一を語るような胡散臭い道士には、尚の事、できる訳などなかった。


 もし、そんな真似ができる者がいるとすれば、それはきっと仙鏢師でもなく、道士でもなく——


「まさか?」


 李哪吒は自分が辿り着いた答えに愕然とした。


 ——まさか、そんな事が?


 この二人、仙鏢師でもない、道士でもないとしたら……仙鏢師の域さえ超えた、あんな真似ができる、この二人は……!?


「〝蛇目〟さんは、〝蛇目〟さんと、〝斉天大聖〟の姐さんは……もしかして、本物の……!?」


 ——〝もしかして、本物の仙人なのか〟?


 李哪吒は喉元まで出かかった言葉に、我ながら半笑いだった。


 あまりに突拍子がないし、にわかには信じ難い。


「『もしかして』——なんでしょうか? もしかして、本物の仙人だとでも思いましたか?」


 仙は何気ない顔で、少年の言いたい事を察した。


「…………」


 李哪吒は迷った末に、こくりと頷いた。


「随分と昔に、そんな風に呼ばれた事もありましたね」


 仙は懐かしそうに言った。


「こんな街中に、それもバーのマスターに、女子大生だなんて!?」


 李哪吒は仙が言う『随分と昔』がいつの事なのかはさておき、自分で本物の仙人なのかと言い出しておきながら、信じられない様子だった。


 少年は仙鏢師という職業柄、これまで何度も妖怪変化や魑魅魍魎を相手にしてきたし、瑞獣と言われる、龍に出くわした事もある。


 だが、仙人となると、話は別だった。


 仙人は伝説や民話に語られるばかりでこの世から姿を消して久しいし、仙鏢師と言えども現代に生きる人間が仙人の域に達するのは困難を極めた。


「そんな風に呼ばれた事があるというだけで、私も小孫も、不老不死の仙人じゃありませんよ。でも、仙鏢師を名乗るのはちょっと違うような気もするし、道士と言うのも納まりが悪い。それならいっその事、中国武術を修め、武芸十八般に優れ、気功術に秀でた、ただの雇われマスターという訳です」


「無茶苦茶だ」


 李哪吒は『雇われマスター』と称するに至った経緯を聞き、呆れたように言った。


「私も小孫も、仙鏢師と道士、どちらに当てはまるのかと聞かれれば、あえて言うのなら、仙人に近い道士かも知れませんね。小孫は京劇に出ているせいか、大袈裟なあだ名がついたみたいですけど」


 仙が追い打ちをかけるようにややこしい事を言うものだから、李哪吒の顔色はますます曇った。


「私も許師父の力を初めて目の当たりにした時は本物の仙人だって思ったし、『ただの雇われマスターです』なんて言われても、納得できないのも無理ないわ」


 孫美猴は戸惑いの色を隠せない少年に理解を示した。


「——『長生不死、修道成仙』、まだまだ私も修行中の身ですよ」


 仙は穏やかに微笑み、おもむろに席を立った。


「許師父、どこに行くんですか?」


「李哪吒先生も目覚めた事だし、幇主に連絡して来ますよ」


 仙は二人を置いて医務室を出ると、人けのない廊下に一人佇み、ポケットから携帯電話を取り出した。


 深夜だというのに、窓の向こうに見える仙人街は活気に満ちていた。


 いつの間にか烟るような雨が降っていた。


(……『長生不死、修道成仙』、か)


『長生不死、修道成仙』——永遠の命を得て、修行の後に仙人になる事を言う。


 仙はこれを長く、本当に長く目的として生きていた。


 それこそ、李哪吒が知れば、不老不死の仙人だと思うぐらいに、だ。


(——そう言えば、あの日も、こんな風に雨が降っていたな)


 霧雨の向こうに、遠い過去の記憶が揺らめいた。


(忘れられない)


 まるで昨日の事のように覚えている。


(忘れられる訳がない)


 どんなに時を経たとしても、あの人の姿は鮮明だった。


 普段、胸の内に秘めたあの人に対する狂おしいほどの思いが、苦い記憶とともに甦る。


 ——今より遥かな昔、中国は、杭州。


 後世、『中国八大古都』の一つとして数えられるこの地の西には、観光客が訪れる美しい湖、西湖がある。


 生憎の天気で空は曇っていたが、西湖の北側に浮かぶ島、孤山の墓地は、墓参りに来た人々でごった返していた。


 今はお花見の季節であり、ご先祖様を供養する清明節でもある。


 墓参りのお客は、お供物として、赤い蝋燭、抹香、紙銭を携え、歩いてやって来る者、轎、輿、馬、驢馬に乗って来る者もいた。


 お墓参りを済ませ、雨に備えて持ってきた傘だけを手に、一人の青年が帰路に着いていた。


 何年か前に流行病で両親を亡くした、許仙だった。


 仙はこの頃、杭州の街で、両親が残した薬屋、『保和堂ほうわどう』を、一人で切り盛りしていた。


 正真正銘、ただの薬屋の主人であり、仙人に通じるような、不思議な力も知識も持ってはいなかった。


 親類縁者もおらず、恋人はもちろん、意中の相手すらいない、毎日、朝から晩まで、薬屋でひたすら働く日々である。


 最近、何か変わった事があったとしたら、道端で一匹の蛇が傷つき、動けなくなったところを見つけ、助けた事ぐらいか。


 どこにでもいるような蛇なら目に留まる事はなかったかも知れないが、まるで雪のように真っ白な鱗に覆われた美しい蛇だった。


 おそらく、墓地を行き来していた人間に踏み潰されたか、馬車に轢かれたかしたのだろう。


 白い蛇は鱗がごっそりと剥がれ落ち、剥き出しの筋肉からは血が滲み、痛々しいぐらいだった。


 仙は人間の擦り傷に使う軟膏がどれほど効くかは判らなかったが、できる限りの事をしてやろうと、白い蛇の体に塗ってやり、草むらに帰した。


 あんな怪我さえしていなければ、さぞや綺麗だったろう。


 今頃、元気にしているといいが。


 それにしても、昔から白い蛇は幸運をもたらすと言われているが、所詮は、言い伝えだったという事か。


 両親を流行病で亡くしてからというもの、それなりに頑張ってきたつもりだったが、働けど働けど、暮らしは楽にならない。


 自分の元に幸運が訪れる気配は一向になかった。

 仙は両親の予期せぬ死から、ある日、突然、店を継ぐ事になったが、薬剤師としての腕は悪くはない。


 子どもの頃から店の手伝いをしてきたので、病気に応じて処方を出す事はもちろん、個々人の症状に合わせて、微妙な調合を行う事だってできる。


 だが、それだけでは、お客を満足させる事はできなかったのである。


 いかに薬剤師としての腕が確かだったとしても、薬そのものは万能ではない。


 大病ともなれば、薬石効なく死に至る事もあるし、病気の進行を遅らせる事や、痛みを和らげる事もままならない場合もある。


 現に仙の両親は数年前、なす術もなく死ぬしかなかった。


 あの流行病を境にして、店から離れたお客は少なくない。


 その後、彼らはどこに行ったのか?


 今現在、彼らが病気になった時に通っているのは、最近、近所にできたという、道教の寺院である。


 仙の耳にも噂は届いていた。


 寺院に詰めた道士の中でも、魏飛霞ぎひかという男が、飛び抜けた力を持っていると。


 彼の名が人々に知れ渡る事になったのは、寺院が建設されてから間もなくの事。


 偶然、街中で出くわした急病人の命を救ってからだった。


 魏飛霞はその日も、いつものように護符や線香を売りに、行商に出かけ、急病人に出くわしたらしい。


 彼は人々が見守る中、急病人にそっと手を翳しただけで、立って歩けるようにしたという。


 その日から、どんな病も瞬く間に治してしまう、高名な道士様だと、一躍、有名人である。


 今では毎日のように、信者の如き多くの人々が、道観を訪れていた。


 そこで話が終わっていればこんなにめでたい事はないのだが、生憎、続きがある。


 病気を治してもらう為には、お布施が必要だった。


 それも、法外な値段のお布施である。


 もちろん、対価は支払われるべきだろうし、病気が治るのならいくら支払っても構わないという人もいるだろう。


 が、せっかく高いお金を払って、治療を受けたにも関わらず、何の意味もなかったとしたらどうだ?


 その上、快方に向かわないのは本人の信仰心が足りないからだと、更に高額のお布施を要求されるとしたら?


 もう一度、莫大なお布施を支払ったとしても、魏飛霞がする事と言えば、また同じ事、ただ手を翳すだけだったとしたら?


 実際、無為に時間を過ごして、亡くなってしまう者も少なくないらしい。


 大金を積んでも病気が治らなかった者の中には、絶望し、自ら命を絶つ者もいるという。


「…………」


 仙の表情は、暗く沈んでいた。


 はっきり言って胡散臭かったし、ちょっと考えれば判りそうなものではないか。


 仮にも一軒、店を営んでいるだけに、商売のイロハは知っているつもりだった。


 街頭で商いをする時、最も簡単にお客の興味を引く事ができる方法は、何か?


 サクラ、だ。


 予め仕込んでおいた、サクラを使って、お客に対して、商品が上物だと、技術に効果があると思わせる。


 魏飛霞が、手を翳しただけで回復させたという急病人も、サクラだったのではないか?


 そう考えると、魏飛霞の守銭奴のようなその後の所業にも、納得が行く。


 が、世間の人々は今に至るも疑いの念を抱く事なく、病気が完治しない場合は信仰心が足りないからだと思い込んでいる。


 今となってはただの風邪や擦り傷ぐらいでも、道観に通っている始末だった。


 以前の流行病で自分が苦しんだり、愛する者を失った者にしてみれば、その時、何の役にも立たなかった町医者や薬屋など、今更、信じる事などできないのだろう。


 だが、あまりに短絡的すぎるのではないか——いや、自分が何をどう思ったところで、何も変わらない。


 魏飛霞の信者の中には日増しに病状が悪化している者もいるだろうが、頑なに医者に診てもらおうとはせず、薬屋に行く事もなく、毎日、飽きもせずに道観に通い、今日も熱心に祈りを捧げている事だろう。


「…………」


 仙は不甲斐ない自分に、ますます足取りが重くなった。


 この状況では誰に何をどう言ったところで、お客が戻ってくる事はない。


 仙は、両親の命を奪った流行病に効く薬を、いつの日か必ず、この手で作らなければいけないと思っている。


 そうすればきっと、店から離れたお客も戻って来てくるに違いない、と。


 だが、正直、今日生きるだけでも精一杯で、新薬を開発するお金も時間もなかった。


 気付けば烟るような雨が降り出し、全身を冷たく濡らしていた。


 仙は傘を差したが、すでにびしょ濡れ、雨脚は強まりばかりで、辺り一面、深い霧に覆われたよう。


 霧雨だ。


 行く先に、西湖北岸の風光明美な石橋、断橋が見えた。


 ふいに雨が衰え、思わず、立ち止まる。


 雨上がりの断橋には夏の夕立の後のように、美しい七色のそれが架かっていた。


 この先にある船着場から、船を使って杭州の街に帰るつもりだったが、橋の袂にはまるで仙女を思わせる二人の若い女性が佇んでいて、神仙境に迷い込んだような気がした。


「すみません、峨眉山から旅をしてきた者なんですが、この辺りに宿はございませんか?」


 仙に声をかけてきたのは、いつも微笑んでいるような優しげな目元をした、品がよさそうな女性だった。


 高貴な家柄を思わせる上品な顔立ちに、その身に纏うのは仕立てのよい純白の衣服、雨に濡れた事でいっそう、美しさが際立っていた。


 けれど、なんとなく、不思議と以前にも出会った事があるような、親しみのようなものが感じられた。


「は、はい?」


 仙はちょうど見惚れていたところに話しかけられたので、素っ頓狂な声を上げた。


 彼女達はこの雨の中を、傘も差さずに歩いてきたようで、全身、ずぶ濡れだった。


 蛾眉山と言えば、道教の聖地の一つだが、彼女達は抹香臭い道士には見えないし、天から舞い降りてきた仙女だと言われた方が、まだ納得が行くというものである。


白素貞はくそてい様、見ず知らずの人間には、あまり話しかけない方が宜しいかと」


 仙が見惚れていた女性——白素貞に耳打ちしたのは、お付きの者らしい、白素貞が純白なら、こちらは青を基調とした装いに身を包んだ、警戒心を露わにした可愛らしい少女だった。


「失礼しました。この先に、杭州の街があります。そこまで行けば、いい宿が見つかると思いますよ」


 仙は慌てて返事をした。


「よかった。私達、杭州の街に行こうと思っていたんですよ」


 白素貞は目を輝かせて言った。


「何しろ山奥から出てきたもので右も左も判らず道に迷ってしまって、おまけに雨に振られて、途方に暮れていたところに、貴方様のような親切な方にお会いできて、助かりました」


 女の二人旅でよほど苦労したのか、ほっと胸を撫で下ろした。


「これも何かの縁だ。私は杭州の街で薬屋を営んでいるんですが、よかったら街まで案内しましょうか?」


「まあ、そんなにご親切にして頂いて、ありがとうございます!」


 白素貞は深々と頭を下げた。


「大した事じゃありませんよ」


 仙は彼女の立ち居振る舞いから人柄のよさを感じ、朗らかな気持ちになった。


「白素貞様!」


 だが、侍女はと言えば、生真面目な性格のようで、主人に警戒を解かないようにと、目配せをした。


小青シャオチン


 白素貞は思わせぶりな顔をして侍女の名を呼んだ。

「——まさか!?」


 すると、侍女——小青が、何かに気付いたように驚き、白素貞は黙って頷いた。


「どうかしましたか?」


 仙はきょとんとしていた。


「私の名前は、白素貞と言います。こちらは、侍女の小青です。改めて、初めまして。よろしくお願いします」


 白素貞は明るく微笑んで言った。


「こちらこそ、よろしくお願いします。私は杭州の街で『保和堂』という薬屋をしている、許仙と言います。小雨のうちに、行きましょうか。一本しかなくて申し訳ないですけど、お二人で使って下さい」


 仙は彼女の微笑みがあまりに魅力的だったので、自分が使っていた傘を照れ隠しのように差し出した。


「そんな、私達の事はお気になさらず!」


 白素貞は驚いて言ったが、


「ここは有り難く使わせて頂きましょう」


 さっと傘を受け取ったのは、小青だった。


「旅の途中で体調を崩したら大変ですから」


 小青は白素貞と相合傘をしながら言った。


「そうですね」


 仙は頷いたものの、小青の調子のよさに面食らって白素貞を見ると、彼女がごめんなさいと謝るように苦笑いしてくれたものだから、なんだか心が通じ合ったような気がして、嬉しくなる。


「船着場に行きましょう。船に乗って街まで行けば、宿も見つかると思いますよ」


 仙は杭州の街まで道案内をするだけなのに、なぜかうきうきとしていた。


 ついさっきまで雨に打たれて絶望に打ちひしがれていたのが、嘘のようである。


 こんな風に誰かと話すのは久しぶりだという事もあるが、相手が若い女性というのもあるかも知れない。


 仙はほんの少し彼女達と一緒に過ごしただけだったが、白素貞がその辺にいるただのお嬢様ではないという事はよく判った。


 聞けば、彼女は以前にも一度、この土地にやって来た事があるという。


 前回は自分一人だけでこの地を訪れ、途中、運悪く足に怪我をしてしまい、偶然、通りかかった男性に助けてもらったとか。


 男性は医者か、それに近い職業の人間だったようで、慣れた様子で応急処置を施し、名前も言わずに立ち去ったそうである。


 女の一人旅にはそういう事もあるのかも知れないが、彼女が変わっているのはここからだった。


 白素貞が再びこの地を訪れたのは、自分の事を助けてくれた男性を探し出して、一言、お礼を言う為だという。


 どうしても、もう一度、直接会って、お礼を言いたいからと。


 深窓の令嬢を思わせる大人しそうな見た目とは裏腹に、男顔負けの行動力だし、今時珍しいぐらい、義理堅い女性ではないか。


 仙は彼女と話しているうちに、なぜ、侍女の小青の警戒心が強いのか、なんとなく判るような気がした。


 白素貞は話を聞く限り思い立ったが吉日とばかりにあまり深く考えず行動に移す質のようだったし、それぐらいでなければ務まらないのだろう。


 仙は二人を街まで送り届け、家路についた後も、そんな事を考えていた。


 なぜか白素貞とは、今日初めて出会ったような気がしなかったし、なんとなく、頭から離れなかった。


 仙は翌日、いつものように、『保和堂』を開いていた。


 天気のいい昼下がり、青空はどこまでも澄み渡り、軒先では小鳥達が囀り、店には閑古鳥が鳴いていた。


 仙は帳簿や生薬の整理を早々と済ませ、流行病に効く新薬を開発する為に、資料と睨めっこしていた。


 普段なら、午前中は店を開け、午後から行商に出かけるのだが、昨日、墓参りに行ったせいか、そんな気分にはなれなかった。


 さすがにこんなに早くから店仕舞いをする訳にもいかず、新薬の調合でも考えようかと思ったのだが、今度は困った事に、いくら読んでも頭に入ってこなかった。


 仙の頭をもたげていたのは、これから先、どうしたらいいのか、という事だった。


 両親には先立たれ、近くに頼れる者もいない。


 仙はめっきり顔を出さなくなった常連の為に午前中は店を開け、午後は新規の顧客を開拓する為に、できるだけ遠くに行商に出向いていた。


 そんな中、何かと時間を見つけては、新薬開発の為に調べ物をしたり、自分なりに努力を重ね、できる限りの事をしている。


 だが、生活は一向に楽にはならなかったし、だんだんと、苦しくなってきていた。


 それに比べて、魏飛霞が主人を務めている町外れの道観はますます賑わいを見せていた。


 ——両親を亡くしてから、すでに三年の月日が経つ。いつまで、こうしていればいい? いつまで、こうしていられる?


 果たして、このままでいいのか?


 いくら一人で考え込んだところで答えは出なかった。


「?」


 仙は最初、気のせいだと思ったが、店先で誰かの気配がした直後、すぐに戸が開いた。


「いらっしゃいませ! あ、貴方は……!?」


 このところ、客足が途絶えていた事もあり、半ば緊張した面持ちで喜び勇んで立ち上がったが、相手が意外な人物である事に気付き、言葉を失う。


「こんにちは、許老板。突然お邪魔したんで、驚きました?」


 少し不安そうな顔をして言ったのは、白素貞だった。


「お邪魔だなんてとんでもない。でもどうしてまた、うちの店に? あの雨で風邪でも引いたんですか?」


 仙は思いがけない来客に動揺しているのか、矢継ぎ早に質問した。


「いいえ、許老板に傘を貸してもらったおかげで、風邪一つ引きませんでした。こちらにお邪魔したのは、その傘をお返ししようかと思って」


 彼女は仙から借りた傘を、大事そうに抱えていた。


「傘の一本や二本、そのままもらって下さってもよかったのに」


 仙は申し訳なさそうに帳場から出ると、彼女から傘を受け取って、壁に立てかけた。


「あれからいい宿も見つける事ができましたし、本当になんとお礼を言ったらいいか」


 仙は深々とお辞儀をされ、相変わらずの人柄のよさに感じ入った。


「そう言えば、今日はお付きの小青さんはいらっしゃらないので?」


 辺りを見回したが、小青の姿はどこにも見当たらなかった。


「はい、あの子には何も言わずにやって来たんですよ」


 彼女は悪戯っぽく言った。


「何も言わずに?」


 仙は不思議そうに言った。


「私も自分が世間知らずなのは少しは自覚しているので、あの子の気苦労が絶えないのは、判っているつもりなんですよ。でも、最近のあの子は、警戒心が強すぎるんじゃないかと」


 彼女は困ったような顔をして言った。


「もちろん、自分達の身を守る為だから感謝しているんですけど、今日も、もし私が正直に、許老板のところに傘を返しに行くと言っていれば、あの子は許してくれなかったと思います。だから……」


「それでわざわざ、黙ってここまで?」


 仙は事情を聞き、驚きに目を見張った。


「…………」


 彼女ははにかむように笑い、こくりと頷いた。

 

 仙と白素貞の二人はその後、気づけば、杭州の街並みのどこそこが美しいですよ、あそこが綺麗でした、と楽しくお喋りしていた。


 仙は、彼女が口を開く度に、うんうんと笑顔で相槌を打っていた。


 ただ雨の日に傘を貸してもらったというだけでお礼を言う為に店までやって来て、立ち話をするぐらいには自分という男を信用してくれている。


 もしかして、好意を寄せてくれているのではないか?


 そう思わせるぐらい、彼女は眩しいぐらいの笑顔で真っ直ぐこちらを見つめて、嬉しそうに話していた。


「許老板、どうかなさいましたか?」


 彼女の事を思うあまり、上の空になっていた。


 決して、惚れやすい質ではない。


 今までにも、若く綺麗な女性に出くわした事はあったが、こうはならなかった。


 だが、不思議と白素貞は違った。


 いつも微笑んでいるような優しげな目元、濡れたように黒い髪、透き通るように白い肌、相手を包み込むような温かな雰囲気、彼女は魅力に溢れていた。


「すみません、ちょっと考え事をしてまして。小青さんには、散歩に行ってくると言ってきたんですね」


「許老板はいつも何か考え事をしていらっしゃるんですね」


「いや、面目ない」


「いいえ、私も見たものや聞いたものに心を奪われて想像が膨らんで、ぼーっとする事はよくありますから——そうそう、この街は本当に綺麗なところですよね、ちょっと散歩に出かけただけでも、色んなところに目移りををしてしまいますもの」


「そう言ってもらえると、生まれた時からここに住んでいる私も、なんだか嬉しいですね」


「一番、印象に残っているのは、やっぱり、許老板と初めて出会ったあの湖です」


「あそこは西湖と言って、この辺りじゃ有名なんですよ。さすがは、白素貞小姐、判っていらっしゃる」


「まあ、お世辞がお上手ですね。世間知らずなだけで、お恥ずかしい限りです」


「そんな事ありませんよ。ただ念の為に言っておくと、この街じゃ昔、流行病で大勢の人が死んだ事もありますから、体調の変化には気をつけて下さいね」


「……この街でそんな悲しい事が?」


「よくある話ですよ。私の両親も流行病で亡くなりましたし。あの時は医者にも手の施しようがなくて、情けない事にうちで扱っているどんな薬も効き目はありませんでした」


「…………」


 彼女はさっきまでと打って変わって、暗く沈んでいた。


 仙はしまったと思ったが、後の祭りだった。


 彼女の健康を気遣ったまではいいが、親が流行病で死んだ事まで話す必要はなかった。


 一人暮らしが長くなり、いつの間にか心の底に澱のようなものが溜まっていたのかも知れない。


 それが彼女の温かい心に触れにつれ、噴き出してしまったのかも知れない。


「そう言えばこの街には、名のある道士様がおられるそうですね。どんな病も手を翳しただけで治してしまうとか」


 彼女は重くなった空気を変えようとしてか、巷で噂の道士について話した。


「魏飛霞ですね。彼が街中で出くわした急病人を手翳しで治してからというもの、噂を聞きつけた人達が、毎日のように町外れの道観に並んでいますよ」


「本当に素晴らしいお力を持っている道士様なんですね」


「だといいんですが、彼が病気を治す代わりに要求してくるお布施はとても高いと聞きますし、どんな急患だったとしても、お金がなければ診てくれないそうですよ。その上、大金を支払って治療を受けたとしても、絶対治るという訳でもないみたいだし、しかも治らなかった場合、患者や患者の家族、関係者の信仰心が足りないからだと、更に高いお布施を支払えと言われるらしいですよ」


「……ひどい」


「今、話した事が事実だとすれば、本人も家族も、本当のところ、どう思っているんでしょうね。いつ終わるとも知れない病いの苦しみに負けて、ただ単に何でもいいから縋り付いているだけなんじゃないでしょうかね」


 仙はここに来て、ようやく自覚した。


 自分が彼女に対して、恋心を抱いてしまっているという事に、それ故、わざわざ、言わなくてもいい事を喋っているという事に。


 自分の事を知ってもらいたいと、今の自分を取り巻くこの状況を、苦々しく思うこの気持ちを、判ってもらいたいと思っている。


 彼女にしてみたら、そんな深刻な話を振られても答えようがないだろう、実際、困ったように俯いている。


 もしかしたら傘など返しに来るべきではなかったと後悔しているかも知れないし、この場から一刻も早く立ち去りたいと考えているのかも知れない。


 何にしろ、彼女に不愉快な思いをさせてしまった事は確かである。


 仙は自分が蒔いた種にも関わらず、何と言ったらいいのか判らずに、立ち尽くしていた。


 ——ああ……もう、どうにでもしてくれ。


 まるで絵に描いたように、どうしようもない男だった。


 そもそも、自分のような冴えない男が、ほんの一瞬でも、こんな綺麗なお嬢様と、お近づきになれると思った事が間違いだったのである。


 ——いっそ、嫌われた方がましだ。


 仙が、何もかも投げ出そうとしたその時、


「そろそろ、お昼時じゃありませんか?」


 彼女が顔を上げて言った。


「あ、ああ、そう言われればそうですね」


 確かに近所から食欲を刺激するいい匂いが漂ってきていた。


「これでもお料理は得意な方なんですよ。実は今日、こちらにお邪魔したのも、よかったら、お昼ご飯を作らせてもらおうかと思って!」


 屈託のない笑顔で、突拍子もない事を言い出した。


「お、お昼ご飯?」


 仙は困惑していた。


「はい! 傘を貸して頂いたお礼に、是非!」


 彼女はここに来る前に市場で買ってきただろう一抱えほどはある食材を店先から運び込み、仙に台所まで案内してもらうと、早速、調理に取りかかった。


「!?」


 仙は、台所に並んだ米や豆、食材が全て真っ黒なのを見て、ぎょっとした。


「何を作ってくれるんですか?」


 仙は初めて見る食材を前にして、恐る恐る聞いた。


「大丈夫ですよ、見た目は真っ黒でも腐っている訳じゃありませんから。黒米、黒豆、黒胡麻、黒松の実、黒花梨、みんな、身体にいいものばかりなんですよ」


 彼女は仙が戸惑っている様子を見て、安心させるように笑顔で言った。


 彼女にとっては何でもない、ただの笑顔に過ぎなかっただろうが、仙は年頃の男の子のように恥ずかしそうに、顔を真っ赤にした。


 いっそ、嫌われた方がましだと、やけになっていた男の反応ではない。


 やがて、出来立ての料理が次々と食卓に並べられ、


「どうぞ、冷めないうちに召し上がって下さいな!」


「いただきます」


 仙は今まで見た事もないような真っ黒な料理を前にして、緊張した面持ちで箸を伸ばした。


 しばし躊躇っていたが、思い切って、一口、食べてみる。


「いかがですか、お口に合いますか?」


 彼女は、仙が料理を口に運んだ後、考え込むような顔をしてずっと口を動かしていたので、不安そうに聞いた。


「おいしい! すごくおいしいです!」


 仙は一口目を味わうようにしてようやく飲み込み、驚いたように、笑顔を浮かべた。


 最初は見た事もないような真っ黒な料理に戸惑いを覚えたが、食べてみるとこれが本当においしかった。


「よかった、お世辞でも嬉しいです!」


 彼女は安心したように笑った。


「こちらこそありがとうございます!」


 仙はお腹を空かせた子どものように、旺盛な食欲を見せた。


「……許老板、これからも色々あるとは思いますが、あまり深刻にならないで下さいね。私にはこんな事しかできませんが、お腹一杯食べて、元気を出して行きましょう」


 彼女は仙が食事する様子を優しい眼差しで見守り、ふと労るように言った。


「白素貞小姐?」


 仙は箸を止めて、ようやく気付いた。


 はじめは本当に傘を貸してもらったお礼に、お昼を作りにやって来ただけかも知れない。


 だが、あまりにも自分が辛気臭い話ばかりするのを見て、途中から、努めて明るく振る舞い、頑張って昼食を拵えてくれたのではないか?


 自分の事を励まそうとして、いつも以上に笑顔を振りまいてくれたのではないか?


「私の方こそ、すみません。貴方のような素敵な方に気を遣わせてしまって、本当にありがとうございます」


 仙は我ながら、鈍感にもほどがあると、自分を呪い、己の器の小ささと不甲斐なさに、嫌気が差した。


「そんな、私が勝手に押しかけて、やりたくてやった事ですから。しばらくはこの街にいるつもりですし、よかったらまたお食事を作らせて下さいませんか?」


 仙は一瞬、耳を疑った。


「今、何と?」


 慌てて聞き返したが、彼女はにこにこと笑っているばかりだった。


 彼女は仙の手からお椀をもらい受けると、当たり前のようにおかわりをよそり、笑顔で手渡した。


 仙は生まれてこの方、恋人ができた試しなどなかったし、彼女の手から愛想よく差し出されたお椀を受け取らない理由など、どこにもなかった。


 仙は白素貞と一つ屋根の下で暮らし始め、いつしか彼女は『保和堂』の仕事も手伝うようになっていた。


「毎度、ありがとうございました!」


 仙は仲睦まじい夫婦のように、彼女と店先に並び、閉店間際のお客を見送った。


 仙が店仕舞いをしている間に彼女が夕飯の準備をし、いつものように二人で夕食を囲み、床に着いた。


 翌日は早起きをして、生薬の原料となる草花を採りに行く為に、近くにある小山に出発した。


 彼女がお店を手伝い始めてからというもの、少しずつお客が戻ってきて、大分、状況はよくなっていた。


 二人暮らしをしていても、生活に不自由していないのだから、繁盛していると言ってもいいぐらいだ。


 それには理由があったのだが、残念ながら仙の努力が実ったという訳ではない。


 彼女——白素貞のおかげなのである。


 彼女が店の看板娘の役割を果たしているのも、少なからず理由としてあったが、それ以上に大きかったのは、彼女が、生薬に関する知識を、それも、本職である仙も顔負けの知識を持っていた事である。


 仙は彼女の内助の功で今までにない薬を用意できるようになり、それがゆっくりとだったが巷で評判を呼び、売り上げは緩やかながら右肩上がりになっていた。


 仙はいつだったか彼女に対して、なぜ、そんなに薬に詳しいのか、不思議に思って、聞いた事がある。


 ——何しろ山奥で生まれ育ったものですから、自然と身についたんですよ。


 彼女は微笑み、何でもない事のように言った。


 だが、彼女の目利きは確かなものがあったし、全く教えた事などないのに、漢方の調合も難なくこなすほどだったから、どこかの薬屋で働いていたとか、手伝いをしていた事ぐらいあるのではないかと思う。


 他にもいくつか、気になる事はある。


 彼女の首周りや袖の中から、なんと、時々、小さな青い蛇が、ひょっこりと顔を覗かせる事があるのだ。


 ——昔から一緒にいる、友だちみたいなもので、毒も持っていないので、安心して下さい。


 仙は当然、引っ掛かるものがあったが、追求するような事はしなかった。


 実際、疑問に思っている事を挙げればきりがなかった。


 第一、雨の日に傘を貸してもらったというたったそれだけの事で、どこぞのお嬢様と思しき彼女が、自分のような男と一緒に暮らそうなどと思うだろうか?


 そればかりか、なぜ、毎日のように面倒な台所仕事を、一生懸命、楽しそうにやってくれる上、頼んでもいない店の手伝いまでしてくれるのか?


 いったいどんな理由があって?


 いや。


 仙は彼女の口からはっきりと聞いた事はなかったが、ある種の確信のようなものはあった。


 白素貞の素性は正直言って怪しいところがあるが、彼女から自分に対して向けられる優しさや温もりは揺るぎのないものだ。


 その証拠に、自分と一緒に生薬の原料となる草花を探している今も、彼女はいつもと同じように微笑んでくれているではないか。


 家に帰ればやはりいつもと同じように、真心を込めて夕飯を作ってくれる事だろう。


 仙はこれからも、彼女とずっと一緒に、幸せに暮らしたいと思っていた。


 仙にとって彼女はそれだけ、掛け替えのない存在になっていた。


 彼女もきっと、自分の事を大事に思ってくれているはず。


 それが自分達の全て。


 だから細かい事など、何も気にする必要はない。


 夫婦の契りこそ交わした訳ではないが、この先も二人で力を合わせ『保和堂』を盛り立てて、末永く幸せに暮らすのだ。


 仙はそう思っている、そう信じている。


 では、白素貞は……?


 ——本当のところ、彼女はどう思っているのだろう?


「——小白、松脂が取れたぞ!」


「松脂は苦いですが、煎じて飲めば、身体が温まって風邪に効きますね。出来物にも効き目があるし、早速、お店に置きましょう」


「今度は青芝を見つけたぞ!」


「青芝は飲んでも酸っぱいだけで身体は温まりませんけど、目にいいし、肝臓の働きも助けてくれるから、二日酔いにも効きますよ」


「お次は王不留行おうふるぎょうの種だ!」


「王不留行の種は刃物の切り傷によく効くと言います。毎日、家事をしているご婦人や、料理人に売り込みをしてもいいかも知れませんね」


 仙が何かを見つけて話しかける度、彼女は打てば響く鐘のように答えた。


「松脂も青芝も王不留行も、飲み続けていると、寿命を延ばす効果があるんですよ」


 薬屋である仙が、知らないような事まで言う。


「うーん、小白には初めて出会った時から驚かされてばかりだなあ。私には勿体ないぐらい、よくしてくれるし、いつも色々教えてくれるんだからね」


 仙は彼女の愛情と見識の深さに、感心する事、頻りだった。


「もしかして小白は、空から舞い降りてきた仙女なんじゃないか?」


 仙はただ、冗談を言ったつもりだったが、


「……もし、もし私が、普通の人間じゃなかったとしたら、貴方はどうしますか?」


 いつもと同じように笑ってくれるとばかり思い込んでいたのだが、彼女の真剣な眼差しを見て、はっと胸を突かれるような思いがした。


「本当に私が普通の人間とは違うとしたら、例えば仙人だったとしたら……」


 白素貞は仙の事をじっと見つめて言った。


「地上にいる仙人は、いずれ更なる高みに昇ります。いつかは、天に昇るのです。貴方はその時、どうしますか?」


「〝その時は私も、一緒に仙人になろう〟」


 仙は気付いたら、そう答えていた——誰かに莫迦にされてもいい、笑われたって構わない、何があっても、白素貞と一緒にいる、それが正直な気持ちだった。


「…………」


 彼女は仙の決意とも言うべき言葉を聞いて、本当に嬉しそうにこくりと頷いた。


「——君は本当に、仙人なのか? それとも?」


 仙は今日まで胸の奥にしまっていた疑問を、口にせずにはいられなかった。


 彼女は仙の疑問に答える事なく、静かに寄り添ってきた。


 仙は絶対に離すまいとするかのように、彼女の体を搔き抱いた。


 ——今はまだ、このままでいい。


 今はまだこのまま、彼女と力を合わせて、店を切り盛りしよう。


 いつか時が来れば彼女の方から打ち明けてくれるのではないか、でなければ今度こそ自分の口から、はっきりと真実を訊ねる決心がつくかも知れない。


 だが——、


 ある日の夕方、ふいに家の戸が乱暴に叩かれた。


「——突然、邪魔してすまんな」


 仙が出迎えたそこに立っていたのは、いかにもふてぶてしい顔をした、恰幅のいい一人の道士だった。


「この辺りで儂の名を知らぬ者などいないと思うが、一応、挨拶しておこうか。儂は近くの道観に詰めている、魏飛霞という者だ」


 歳の頃なら、五十代ぐらいだろうか、まるで礼というものがなっていない男は、魏飛霞、と名乗った。


 どんな病人も手を翳しただけでたちまち治してしまうと評判だったが、一方で悪い噂も絶えないあの胡散臭い道士である。


「お主が『保和堂』の店主か?」


 魏飛霞は玄関口に立ったまま、仙の事をじろじろと見てきた。


「思ったより若いな、それだけに騙されやすいと見た」


 初対面にも関わらず、言いたい放題である。


「『保和堂』の店主を務めているのは、確かに私ですが……」


 普段は穏やかな仙も、初対面の人間にいきなり若いだの騙されやすいだのと言われ、さすがに不快感を隠せなかった。


 人づてに聞いたところによれば、魏飛霞の道観は『保和堂』が繁盛するにつれて、訪れる者が減って来ているのではなかったか。


 となると、嫌がらせでもしに来たのだろうか?


「はっはっは、若い連中は上辺の綺麗さに騙され、事の本質を見極めようともしないのだから、全く、困ったものよのう!」


 魏飛霞は大笑いし、何を言わんとしているのか、要領を得なかったが、仙の事を笑っているのは確かだった。


 仙は何か嫌な予感がした。


 魏飛霞が何をしに来たのか判らなかったが、背筋にぞっとするものを感じた。


「貴様と一緒にいるあの女、確か白素貞と言ったか。貴様も薄々、気づいているのかも知れんが、彼奴は人ではないぞ」


 魏飛霞はいやらしい顔をして言った。


「な、何を莫迦な!?」


 仙は明らかに狼狽えていた。


「あの女と、いや、あの化け物とこのまま一緒にいるつもりなら悪い事は言わん、やめておけ。いつか精気を吸い取られ、自分の力で起き上がる事もできなくなり、最後は干からびて死ぬだけだぞ」


 魏飛霞は仙の反応を楽しむように言った。


「帰ってくれ!」


 仙はカッとなって叫んだ。


「さっさと出て行ってくれ! 帰れ、帰れ!」


 仙は怒りを露わにして、魏飛霞を追い払おうとした。


「生憎、儂は道士として、妖怪変化に誑かされている者を放っておく訳にはいかん」


 仙がいくら押し出そうとしたところで、魏飛霞はびくともしなかった。


「白素貞とはもうずっと前から、一緒に暮らしているんだ! あんたが言うような事なんか、今更ある訳がないだろう!?」


 仙の脳裏には、彼女と過ごした幸せな日々が甦っていた。


 今までずっと自分の事を助けてくれたのは、いつも支えてくれたのは白素貞である。


 魏飛霞の方が、よほど邪悪な気配を漂わせている。


「貴様がどう思っていようが、道ならぬ恋などそんなものよ。当事者は盲目、事実は滑稽、貴様とて、いざ、彼奴の真の姿を見れば、百年の恋もすぐに覚めるだろうよ!」


 しがみつく仙を、いとも容易く振り解いた。


「どれ、奴の化けの皮を剥いでやるとするか!」


 魏飛霞は家の中に土足で上がり込んでいく。


「に、逃げろ、小白!」


 仙は彼女の元に行かせまいとして背後から飛びかかったが、魏飛霞には中国武術の心得があるらしく、簡単に叩き伏せられてしまう。


「さあ、さっさと出てこい、妖怪変化め! 大人しく儂の前に姿を現さなければ、貴様の想い人、ただでは済まさんぞ!」


 魏飛霞は悪霊を退散させるのに使う法縄ほうじょうという鞭を使い、足元に蹲る仙の事を、何の躊躇いもなく打ちつけた。


「うだつの上がらない薬屋の元に、ある日、突然現れ、内助の功で薬屋を盛り立てて繁盛させたという、女房気取りの女! 貴様の正体! 儂はとっくのとうに見抜いているぞ!」


 魏飛霞は未だに姿を現そうとしない白素貞に向かって、家中に響くような大声で言った。


「どうした、妖怪! 貴様が出てこなければ、貴様の愛しい愛しい此奴が、鞭打ちの痛みに堪えかねて死ぬぞ!」


 魏飛霞はこれでもかというほど、仙の事を鞭で滅多打ちにした。


「妖怪風情が此奴に妙な入れ知恵をしてくれたおかげで、儂の商売も上がったりよ!」


 魏飛霞は恨みのこもった目つきで悔しげに言い、仙を何度も踏みつけにした。


「ぎゃっ!」


 仙に悲鳴を上げさせる事で、今も家のどこかに隠れているだろう、白素貞の事を挑発しているのだ。


「……っ!」


 仙はなんとか悲鳴を飲み込もうと、体を丸めて堪えた。


——白素貞が、妖怪……まさか!?


 仙は魏飛霞の仕打ちに堪えながら、白素貞の正体に思いを馳せていた。


 ——やっぱり、小白と初めて出会ったのは……!?


 烟るような雨の日、虹が架かった断橋の袂ではなく——、


「……やっと姿を現したか、〝毒蛇〟めが」


 魏飛霞は仙を足蹴にするのを止めて、満足そうに言った。


「小白」


 仙は恐る恐る顔を上げて、ぽつりと呟いた。


 白素貞が何か覚悟を決めたような顔をして、黙って立っていた。


 ——いつだったか、道端で傷ついていたところを助けてやった、あの白い蛇が……。


 仙の胸の内でいつからか渦巻いていた疑問、


 ——あの日、道端で助けた白い蛇が、小白の正体?


 仙はそう思っていたとしても、何も言えなかった。


 そんな事を聞けば、その瞬間、二人の関係は壊れてしまうのではないかと、怖くて言えなかったのだ。


「…………」


 彼女は仙の思いを知ってか知らずか、黙って頷く。


「ようやく、観念したか!?」


 魏飛霞は彼女に乱暴に手を伸ばした。


「触らないで!」


 彼女は拒絶し、払い除けた。


「生意気な!」


 魏飛霞は面白いと言った顔をして、何の躊躇いもなく、拳を振り上げた。


 と同時、白素貞の足元からするりと姿を現した青い蛇が、魏飛霞の事を威嚇した。


「ええい、鬱陶しい!」


 魏飛霞は懐から小さな酒瓶を取り出すと、青い蛇の背中に瓶の中身を振りかけた。


 その途端、青い蛇の背中はじゅっと焼け爛れ、白い煙が立ち上り、死んだようにぴくりとも動かなくなる。


「しゃ、小青!?」


 白素貞は青ざめた顔をして悲鳴を上げた。


「!?」


 仙ははっとした。


 その名は、白素貞に仕えていた侍女の名前ではなかったか?


「安心しろ。貴様も今すぐ、同じ目に遭わせてやる」


 魏飛霞は彼女に狙い定め、じりじりと近づいてきた。


 彼女は恐怖に身を固くし、じりじりと後退りをする。


「悪く思うなよ。惚れた男の前で正体を暴き立てるのは忍びないが、これも道士の勤めなんでな」


 魏飛霞はどう見ても白素貞の正体を暴くのが楽しくて仕方ないという顔をして、白々しい台詞を吐いた。


 仙は蹲ったまま、混乱していた。


 してみると、あの侍女の正体は……?


 いや、それよりも、白素貞の正体は間違いなく……?


 だが、今はそんな事に思いを巡らせている場合ではなかった。


「さあ、次はお前の番だ!」


 魏飛霞は酒瓶を振り上げ、彼女に中身をぶちまけようとした。


「小白!」


 仙は彼女の事を庇おうとして立ち上がり、走り出したものの、魏飛霞に鞭で打たれた時にできた傷が痛み、思うように動けなかった。


「小白」


 仙は目の前でもうもうと煙が上がるのを見ても、呆然と立ち尽くしているしかなかった。


「残念だったな、小僧。この酒は『雄黄酒ゆうおうしゅ』と言ってな、ほれ、このように、邪気を打ち払い、化け物の正体を暴いてくれる、有り難い酒なのだ! 見ろ、此奴の醜い正体を!」


 魏飛霞は今にも泣き崩れそうな仙の事を嘲笑い、足元に転がる〝彼女〟の姿を、楽しそうに指差した。


「小白」


 仙はよろよろと歩き始めたが、すぐに力尽き、跪いて、土下座するように首を垂れた。


 仙が首を垂れた目の前の床には、全身に火傷を負った、まるで雪のように白い、一匹の蛇が横たわっていた。


 魏飛霞によって『雄黄酒』などかけられていなければ、本当に雪のように白い美しい蛇だっただろう。


 以前、同じように道端で怪我をして動けなくなっていたところに出くわし、軟膏を塗って助けてやったあの雪のように白い蛇である。


 その後、今度は烟るような雨の日に断橋の袂で人間の女性として出会い、今日まで一緒に生きてきた、他の誰でもない、白素貞だった。


「毒蛇二匹、もう二度と人様に悪さできないように、どこか手近なところに封印してやる」


 魏飛霞はさも邪魔だとでも言うように仙の事を蹴飛ばすと、死んだようにぴくりとも動かなくなった、色違いの二匹の蛇を拾い上げた。


「……痛っ!」


 仙はもんどり打って床を転がり、無様に倒れ伏した。


 最後の力を振り絞りなんとか立ち上がろうとしたが、鞭で打たれた傷が祟って床の上でもがく事しかできない。


 そうしている間にも、魏飛霞に無造作に掴み上げられ、白素貞と小青は、どこかへ連れ去られていく。


「……畜生」


 仙はまともに立つ事すらできず、なす術もなく見ているしかなかった。


 視界がぼんやりと滲み、意識が朦朧としてきて、やがて、気を失った。


 そして、どれぐらい経っただろうか。


「…………」


 ——悔しい。


 仙は流行病で両親を失った時と同じく、誰もいなくなった家で、頭を抱えるようにして、蹲っていた。


 ——情けない。


   しんと静まり返った部屋に、たった一人取り残され、自分の無力と弱さを嫌というほど味わい、惨めな思いを抱えていた。


 脳裏に木霊していたのは、魏飛霞が白素貞に対して最後に言った言葉だった。


 ——雷峰塔倒


 雷峰塔が倒れ、


 ——西湖水乾


 西湖の水が干上がり、


 ——江潮不起


 銭塘江の潮が起こらなくなったら、


 ——許汝再世


 汝が、再び、世に出る事を許そう。


「…………」


 仙は頭を抱えて、苦しみ喘いでいた。


 ——小白が、何をしたって言うんだ?


 何も悪い事などしていない。


——私が彼女を助けたから、お礼を言いに来ただけ、恩返しをしに来た、ただ、それだけじゃないか。


 そしていつしかお互いに惹かれ合い、自然と結ばれ、仲睦まじく暮らしていただけではないか。


 ——私達は、誰にも迷惑なんかかけちゃいないのに。


   それどころか、白素貞の類い稀なる薬草の知識と内助の功のおかげで、『保和堂』は繁盛し、人々の病気は治り、みんなの健康にも貢献してきたではないか。


 ——それなのに、なぜ、こんな事に?


 どうする?


 ——小白が普通の人間ではないという、それだけの事で?


 どうすればいい?


「…………」


 仙の嗚咽がぴたりと止まった。


 まるで何か意を決したように、ゆっくりと顔を上げた。


 ——例え、何年、何十年かかったとしても、神通力を手に入れて雷峰塔を壊し、西湖の水を干上がらせ、銭塘江の潮を止めて、白素貞を助け出してみせる!


 その時は、あの道士魏飛霞という男も、必ずや積年の恨みとともに、この手で討ち果たしてくれる!


 ◇


 深夜から降り始めた烟るような雨は、一向に止む気配がなく、横浜仙人街を、静かに濡らしていた。


 仙は『二竜山大酒店』の医務室に李哪吒を残し、孫美猴と一緒に支配人室を訪れ、立派な執務机を前に革張りの椅子に座る妙齢の女性、『二竜山大酒店』のオーナー兼支配人であり、〈傲来幇〉の幇主、孫二娘に、今回の件について報告していた。


「ありがとう、許老板。美美もよくやってくれたわね」


 京劇女優である妹に負けず劣らずの美貌の持ち主、姉、孫二娘は、報告を受けて、労いの言葉をかけた。


 血統書付きの猫を思わせるしなやかな肢体には、豪奢な旗袍を身に纏っていた。


 傍らには副幇主であり夫である張青が、生真面目な顔をして控えている。


「全く、〈秦王会〉ときたら、どうしてくれようかしら。許老板には謝らなければいけないわね、『闘仙』について知らせるのが遅れた事で、とんだご迷惑をおかけしたみたいで、ごめんなさいね」


 孫二娘は妹と顔貌こそ似ているが、性格は落ち着いているようで、素直に謝罪した。


「幇主が謝る事はないですよ、悪いのは〈秦王会〉なんですから」


 仙は恐縮した様子で言った。


「ううん、私が甘く見ていたのがいけなかったのよ。まさかこんなに早く、しかも本格的に連中が動き出すなんて……本当にごめんなさいね」


 孫二娘は申し訳なさそうに言った。


「確かにいつもと比べると、少しやり過ぎの感がありますね。今晩もなんとか間に合ったみたいでよかったですよ」


「ええ、おかげで助かったわ。今更、言うまでもないけど、〈秦王会〉はチャイニーズ・マフィアよ。私達〈傲来幇〉と同じ、郷幇として始まった組織だけど、その様相は大きく異なる」


 孫二娘は仕切り直すように言った。


「今の会長は、若い頃からやり手で、今日の〈秦王会〉をほとんど一代で築いたのよね。表向きはどこにでもある普通の企業にしか見えないけど、裏じゃ〈桃幇〉の力を使って一般人相手にかなりあくどい事をしているみたいじゃない?」


 孫美猴は相槌を打つように言った。


「しかし、ここ何年かは歳のせいか、静かになったと思ったんだが……」


 張青は困り顔である。


「最近、また元気になったのか、いい評判は聞かないわね」


 孫二娘はため息混じりに言った。


「高齢の会長がまた元気になったのには、何か理由でも?」


 仙は〈秦王会〉がかつての悪評を取り戻したきっかけについて聞いた。


「そうね、会長も寄る年波には勝てず、ここ何年かは病床に伏していたのよ。そろそろ会長職も退くんじゃないかと言われていたし、危篤状態に陥った事もある。でもある日突然、一人の漢方医が現れて、あっという間に回復に向かわせたのよ」


 孫二娘は一葉の写真を机の上に置いた。


「この人がその漢方医ですか、ただのサラリーマンみたいですね」


 仙が手にした写真には、何の変哲もないサラリーマン然とした中年男が、会長や息子の栄亥とともに、真っ黒なリムジンに乗ろうとしている光景が写っていた。


「その男の名は、『黄龍』——なんでも生まれは中国で、いつからか日本に移り住み、長年、漢方の研究をしているとか。はっきり言って、素性、戸籍は表向きのものね。会長を回復させたのは、十中八九、その辺で手に入るような普通の漢方薬の力じゃないだろうし」


「仙鏢師、という訳ですか」


「おそらくは。写真を見ても判る通り、今は会長お抱えの主治医として、どこに行くのにも一緒みたい。その上、彼は黒社会でも頭角を現し、『闘仙』なんて血なまぐさい金儲けを企画して、現在、開催中という訳」


「今日までの一連の出来事は〈秦王会〉や会長の仕業というよりは、黄龍なる男の手によるところが大きいという訳ですか」


「ええ、会長も年老いたという事かしらね。おまけに、〈秦王会〉と関わりがある幇の間じゃ、妙な噂まで流れているのよ」


「妙な噂、というと?」


 仙は鸚鵡返しに聞いた。


「〈秦王会〉が『闘仙』を押し進めているのは、お金儲けをする為だけじゃない、『闘仙』で得た莫大な利益を使って、不老不死の研究をする為だと。病の床から返り咲いた栄政会長は不老不死の夢に取り憑かれている! なんてね」


 孫二娘は眉唾物もいいところだと、呆れた顔をして言った。


「それでうちとしては、奴らのいいようにされたままなの?」


 孫美猴は憤懣やる方ないといった風だった。


「彼らのやり方に反発する昔ながらの幇は少なくないし、このまま黒社会の好きにさせておいていい訳がない。とは言え、『闘仙』の本拠地がどこにあるのか、まだ掴めていないのよね。話はそれからよ、いずれその時が来たらもちろん」


 孫二娘は思わせぶりに言って、深く頷いた。


「その時が来たら、ね」


 孫美猴も皆まで言わず、凄みのある笑みを浮かべた。


 こうなると、黒社会とほとんど区別がつかなかった。


「どうかした、許老板?」


 孫二娘は仙が何事か考え込んでいると気づき、心配そうな顔をした。


「いえね、随分昔、時の権力者に同じように不老不死の秘薬があるとかなんとか、まことしやかに語っていた連中がいたなと思いまして」


 仙は、さてどんな人物がいただろうかと考えてみたが、これはきりがないと思ってやめた。


 中国の長い歴史の中で時の皇帝に近づき、権力を利用しようとした詐欺師のような連中は掃いて捨てるほどいる。


 が、いつだったか時の皇帝に近づき不老不死の秘薬を手に入れようとまんまと権力を利用し、大船団を組んで神仙境目指して大海原に船出したものの、結局、この東の果ての小国に辿り着いた者がいはしなかったか?


「ところで、今晩のいざこざの時、私達に加勢してくれた、勇ましい、仙鏢師の少年がいるんですが」


 仙はふと思い出したように言った。


「あら、それは是非とも、直接会って、お礼をしなきゃいけないわね」


「李哪吒、という男の子です。他に行くあてもないみたいだし、しばらくうちの店で預かろうと思っているんですが、いかがでしょうか?」


「大事な妹を助けてもらった事だし、許老板がそう言うのなら、構わないわよ。泊まるところがないのなら、喜んでお部屋も貸しましょう」


「ありがとうございます。ただちょっと危なっかしいところがあるので、私の目の届くところにいてもらおうかと。彼には色々と話したい事もあるので」


 仙は少年の性格を見透かしたように言い、悪戯っぽく笑った。

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