第二章 白素貞 其の五、
第二章 白素貞
其の五、
ホテル別館、『花果山京劇団大ホール』稽古場の分厚い防音扉が開き、一目見て堅気の人間ではないと判る、〈秦王会〉の強面の男達がぞろぞろと入ってきた。
先頭を歩いているのは、短く刈り込んだ髪に、異様に突き出た額、身長、優に二メートルはある巨漢だ。
格闘家を思わせる筋骨隆々の体に、派手な背広を身に纏った巨漢の後に続くのは、〈傲来幇〉の本拠地に乗り込むに当たって、『闘仙』参加者の中から募ったフリーの仙鏢師達だろう。
皆、いかにも腕に覚えがありそうないい面構えをしていたが、一人だけ、毛色の違う者が混じっていた。
まるで交通事故にでも遭ったかのように全身に包帯を巻いた姿で、身長も低く、体格も小柄、年齢も一回りは若いのではないか。
若草色を基調とした長袍に、見事な蓮の花を咲かせた包帯塗れの少年は、他の誰でもない、李哪吒、だった。
李哪吒の包帯から覗く瞳は、昨日、仙に惨敗を喫したにも関わらず、些かも輝きを失っていなかった。
『十字坡酒楼』のバーを訪れた時と同じく、挑戦的な光が宿っている。
「——ようこそ、『花果山京劇団見学ツアー』へ!」
孫美猴は稽古場の真ん中に立ち、爽やかな笑顔で彼らを迎え入れた。
「私は〈秦王会〉の仙鏢師、〝
〝独角龍〟の鄒潤は強面の外見とは裏腹に、意外にも丁寧で落ち着いた話し振りだった。
「そのお話の事でしたら、お断りしたはずですが?」
孫美猴は臆する事なく、毅然とした態度で答えた。
「二度目の今日は、それなりの準備がある」
〝独角龍〟というのは異様に突き出た額からついたあだ名か、彼女を見る目はそれこそ爬虫類のように冷たい。
「それなりの準備、と言うと?」
興味津々といった風に聞いた。
「〝
鄒潤は穏やかというより感情の起伏に乏しい口調で、何をしでかすか判らない危険な雰囲気を漂わせていた。
「さっさと私達を幇主のところに案内するなり、話をつけてくるなりしてもらおうか? さもなければ」
鄒潤が傍らに控えたフリーの仙鏢師達に視線で合図をすると、彼らが二人がかりで抱えて持ってきたのは、白い布に包まれた棒状の何かだった。
「どうなるのかしら?」
孫美猴は十数人の男達に囲まれ、脅されているというのに、平然としているどころか、どこか楽しそうだった。
「これを見ても判らないのか?」
まるで果物の皮を剥くようにするすると包みを解くと、中から現れたのは、薙刀に似た形状をした、巨大な武器だった。
蜀の劉備に仕える武将、関羽が愛用していた事でも知られる、青龍偃月刀である。
「私にも聞きたい事があるんだけど、この中に『十字坡酒楼』のバーで好き勝手やってくれたっていう、『闘仙』のスカウトマンはいるの?」
孫美猴は青龍偃月刀の刃を向けられても、平然とした顔で質問した。
「君にも〈傲来幇〉の仙鏢師としての立場というものがあるんだろうが、生憎、これ以上、話をしている時間は——」
「残念、私は仙鏢師じゃないわよ。昼間は学生、夜は京劇女優をしている、ただの
孫美猴はやはりと言うかなんと言うか、師父、仙と同じく、自分の事を仙鏢師ではないと言い切った。
それも満面に笑みを浮かべて、鄒潤の言葉を遮って。
「では、ただの孫先生、最後に特別に君の質問に答えてあげるとしよう。この中に『闘仙』のスカウトマンはいないよ。彼は腕利きの仙鏢師だったが、相手の力量を測る為に手加減したのが災いして、〝蛇目〟に痛い目に遭わされてね。残念ながら、今は病院のベッドの上だよ。全く、手加減さえしなければ、こんな事にはならなかったろうに」
「あはは!」
「何がおかしい?」
「例え、貴方の同僚が本気を出していたとしても、許師父には敵わなかったでしょうね」
「『許師父』、と来たか。ならば、師父の責任は、弟子に取ってもらうとしよう」
鄒潤が面白いとでも言いたげに青龍偃月刀を軽く一振りすると、周囲の空気は唸りを上げた。
「ちょっと待って! その前に僕にも一つ、聞きたい事があるんだよねー!」
鄒潤の背後で様子を見守っていた仙鏢師達の中から、一歩、前に出てきたのは、包帯姿の少年、李哪吒だった。
「ねえ、〝斉天大聖〟の姐さんに聞きたいんだけど、〝蛇目〟さんと〝斉天大聖〟の姐さんは、自分は仙鏢師じゃないって、二人揃って本気で言っているのかなー?」
李哪吒は睨み合う二人を気にせず、いつもの明るい調子で聞いた。
「……貴方、どなた? 病院から抜け出してきた、迷子の男の子?」
孫美猴は場違いなぐらい明るい包帯姿の少年を見て、戸惑いがちに言った。
「失礼。こう見えても彼は〝蛇目〟とやり合って、一度は倒したほどの腕前を持つ仙鏢師でね。最終的にはご覧の有様だが、その腕を見込んで、こうして雇っている訳だ。しかし、ちょっと出たがりなところがあるみたいだな」
鄒潤は青龍偃月刀で李哪吒を制し、元の位置に押し戻そうとした。
「許師父を、一度は倒したですって?」
孫美猴はまるっきり信じていなかった。
「弟子として信じたくない気持ちは判るけどね、僕はこの手で確かに〝蛇目〟さんの事を倒したんだよ」
李哪吒は自慢げに言った。
「面白い冗談ね! 大方、遊んでもらっているのに気付かないで許師父を倒したって勘違いしたんじゃないの、だとしたら笑っちゃうわねえ」
孫美猴は今にも吹き出しそうな顔をした。
「〝蛇目〟さんもあんたも仙鏢師じゃないっていうのなら、いったい、何なんだよ?」
李哪吒は苛立ちを抑えて聞いた。
「あらあら、もしかして気に触っちゃったのかしら?」
孫美猴は明らかに少年の事をからかっている。
「貴様ら、いい加減にしないか!」
鄒潤は自分を無視してやり取りする二人に、怒りを露わにした。
「いいか、これが最後だ。本当に幇主に取り継ぐ気はないんだな」
「しつこいと、女の子に嫌われるわよ」
孫美猴はうんざりしたように言った。
「大体、大の男が物騒なものまで持ち出して、わざわざ、こんなところまでやって来たっていうのに、いつまでお喋りしているつもり?」
孫美猴は鄒潤に睨み付けられても、どこ吹く風だった。
「これだけの人数を相手に、たった一人で戦う気か?」
鄒潤の言葉が合図だったように、後ろに控えた仙鏢師達が得物を片手に、彼女をぐるりと取り囲んだ。
「…………」
李哪吒は静かに様子を窺っている。
「貴方達の方こそ、たったそれだけの人数で、この私を相手にするつもり?」
彼女は余裕の笑みを浮かべていた。
「最初に言っておくが、女だからと言って手加減はしない。覚悟しておけよ」
「早速、お手並み拝見といこうかしら」
「本当に口が減らないな。いいだろう、お仕置きの時間だ」
鄒潤は表情こそ変わらなかったが、青龍偃月刀の柄を力強く握り締めた途端、巨体から暴力的な気配が立ち上がる。
「やれるものならやってみなさい!」
彼女はいつの間にか右手に紅い棍を携え、真っ向から受けて立った。
その時、さっきまで両耳で揺れていたはずの紅い耳飾りが、片方、失くなっている事に、いったい、誰が気が付いただろうか?
「いい度胸だ!」
鄒潤は巨体の割には、素早い身のこなしで距離を縮めると、勢いよく青龍偃月刀を振り下ろした。
「!?」
鄒潤の体格からして、そこまで機敏に動けるとは思っていなかったのか、完全に虚を突かれ、咄嗟に紅い棍を両手で頭の上に掲げ持ち、青龍偃月刀を受け止めるので精一杯だった。
だが、彼女の白くか細い腕と、鄒潤の丸太のように太い腕とでは、最初から勝負は目に見えていた。
「…………」
孫美猴のきゅっと引き結ばれた唇の端から、真っ赤な血が、一筋、伝っていく。
紅い棍は半ばからポッキリと折れてしまい、彼女の身体は右肩から腹部にかけて無残に斬り裂かれていた。
青龍偃月刀はお世辞にも切れ味がいいとは言えないが、刀身の重量で叩き斬る分には、十分、威力を発揮する。
「くっくっく、さぞや痛かろう!」
鄒潤は青龍偃月刀を無造作に引き抜き、満足そうに一振りし、刀身にべっとりと付いた鮮血を払った。
彼女は黙って立ち尽くしていたが、床にはじわじわと血の海が広がっていた。
がしかし、
「あーあ! これじゃ、お気に入りの旗袍が台無しじゃない!」
孫美猴の命は風前の灯火かと思われたが、驚くべき事に、袈裟懸けに斬られた深紅の旗袍の事を嘆いた。
「気でも狂ったのか?」
鄒潤は眉を顰めた。
それも無理もない、彼女は口の端から血を滴らせ、ばっさりと身体を斬り裂かれているにも関わらず、お気に入りの旗袍が、などと言っているのだ。
これは気が狂ったと思われても、仕方ないだろう。
「失礼ね、そっちこそどうかしているんじゃないの? これが『現代の仙人』だっていう、仙鏢師様の実力なの? これぐらいの事、普通の人間にだってできるんじゃない?」
孫美猴は顔色一つ変えず、彼女らしい歯に絹着せぬ物言いだったが、どう考えても、そんな事を言っている場合ではないのは明らかだった。
普通なら、すでに死んでいてもおかしくはない。
「き、貴様!?」
鄒潤は何か言い返そうとした矢先、更に驚くべき光景を目にして唖然とし、他の仙鏢師達も困惑した。
彼女がまるで煙のように、忽然と姿を消したのである。
この場に今の今までいた痕跡として、栗色の髪の毛が、一本、はらりと床に落ちた。
「あの小娘、どこに消えた!? がはっ!?」
鄒潤が辺りを見回した瞬間、消えたはずの彼女がすぐそばに姿を現し、脇腹に蹴りを入れてきた。
思わず、うっと呻いて武器を取り落とし、そのまま転びそうになるが、両膝に手をつきなんとか身体を支えようとする。
が、俯いたところを蹴り上げられ、後頭部から綺麗に倒れ込んだ。
「まずは一人、お次は誰!?」
彼女は先程まで瀕死の状態だったというのに、不思議な事に、傷口は塞がり、衣服も元通りになり、何事もなかったように言った。
「ふーん……やっぱり、〝蛇目〟さんの弟子っていうだけあって、なんとなく、通じるものがあるな」
李哪吒は感心したように言った。
昨日の仙と同様、孫美猴もまた、どんな手傷を負ったとしても、不死身の肉体を持っているかのように、平然と振る舞っている。
仙と異なるのは、衣服も傷も元通りになる事、突然、姿を消したかと思えば、どこからともなく再び現れる事か。
とは言え、鄒潤もしぶとさでは負けてはいなかった。
「まだまだ!」
孫美猴が残りの仙鏢師と睨み合っていたところに割って入ってきた。
「見た目通り、頑丈ね」
彼女には驚いた風はなかった。
「君の方こそ、面白い事をしてくれるじゃないか。君達には私が武器を振るった後、何が起きたように見えた?」
鄒潤は配下の仙鏢師達に問いかけた。
鄒潤は自分の一撃に手応えを感じていたし、彼女には小細工する暇もそんな素振りもなかったはずだ。
「僕には鄒潤さんが、〝斉天大聖〟の姐さんの事を間違いなく、青龍偃月刀で叩き斬ったように見えたけどね」
鄒潤の質問に答えたのは、李哪吒だった。
「あらあら! 『現代の仙人』様、〝独角龍〟の鄒潤さんにも判らない事があるのね!」
孫美猴はからかうように言った。
「……なぜ、〝独角龍〟と呼ばれているのか、君には判るか?」
鄒潤は挑発には乗らずに、自分のあだ名について質問をした。
「その突き出た額を指して、〝独角龍〟って言っているんじゃないの?」
大して興味がなさそうに答えた。
「ふむ、いいところを突いているが、半分しか当たってないな」
鄒潤は勿体ぶった言い方をした。
「もう半分は?」
「その答えは今から、君自身で確かめるがいいさ」
「あら、そう。じゃ、お言葉に甘えて試させてもらいましょうか!?」
彼女は言うや否や、紅い棍を構え、鄒潤と激しく打ち合った。
何度目か打ち合った末、鄒潤が振り下ろしてきた青龍偃月刀を紅い棍で薙ぎ払ったが、彼は返す刀で、深紅の旗袍から覗いた生白い足を叩き斬ろうとした。
彼女は自分の足に紅い棍をぴったりと沿わせる事で青龍偃月刀を受け流したが、鄒潤は斜めに振り切り、彼女の首から上を吹き飛ばそうとした。
だが、首を大きく反らし、そのまま後方に宙返りして、鄒潤と再び、睨み合う。
次の瞬間、一足飛びで間合いを詰め、紅い棍を巧みに操り、青龍偃月刀をあらぬ方向に弾き飛ばしたかと思えば、間髪入れず、がら空きとなった巨体に紅い棍を突き入れ、肋骨が砕け散ったような嫌な音がした。
「——体術、兵器の扱い、どちらも私の方が上みたいね」
孫美猴は鄒潤の見上げるような巨体と再び間合いを取り、にやりと笑った。
「だからと言って、君に勝ち目はないぞ」
当の鄒潤はと言えば、愛用の得物を失い、急所である鳩尾に強烈な一撃を受けても尚、思わせぶりな事を言った。
「…………?」
彼女は鄒潤の巨体が、なんとなく一回り、いや、二回りは大きくなっているような気がした。
その上、大分、筋肉質になっているような……。
「まさか!?」
孫美猴ははっとして、鄒潤の肉体に、紅い棍を、二、三度、叩き込んだ。
その度、まるで鉄と鉄がぶつかり合うような異様な音が響いたが、むしろ、紅い棍の方が弾かれていた。
「やっと判ってもらえたみたいだね! 私にはどんな攻撃も効かないという事が!」
鄒潤は嬉々とした様子で言った。
「そう、私は『気功術』によって、我が身を鋼鉄と化す事ができるのだ。いや、その硬さは伝説の龍の鱗にも勝るとも劣らないだろう! それ故、〝独角龍〟のあだ名を頂戴しているという訳だ!」
鄒潤は、あだ名の由来と手の内を、自信満々に明かした。
「得意技はさしずめ、ご自慢の石頭を利用した頭突きってところかしら? あっはっは、笑わせないでよ、その程度で『現代の仙人』を名乗るなんて、おこがましいにもほどがあるわ!」
彼女は全く怯む様子がなかった。
「どんな攻撃も効かないですって? お生憎様、私の〈
孫美猴は、両端に金縁がついた紅い棍、〈如意金箍棒〉を片手に、鄒潤に立ち向かっていった。
「全く、聞き分けのない!」
鄒潤は当たり前のように、〈如意金箍棒〉と素手で打ち合った。
彼女の攻撃は確実に急所を突いていた。
だが、効いている節がなかった。
鄒潤の丸太のように太く逞しい腕からは、青龍偃月刀と同じか、それよりも、ずっしりと重たい攻撃が繰り出され、少しずつだったが、防戦一方になっていく。
今はまだ紅い棍と軽やかな身のこなしとで直撃は免れているが、いずれ体力が尽き、動けなくなってきた時、どうなる事か。
案の定——、
「どうした、どうした! さっきまでの威勢はどこに行ったんだ!?」
鄒潤は孫美猴の動きが鈍くなってきた事に気付き、肉食獣が、獲物が弱った瞬間を見逃さぬように、迷わず突進する。
「はっはっは! いくら〝蛇目〟の弟子でも、私に敵うはずがない!」
鄒潤は硬く握り締めた拳で紅い棍を難なく打ち払い、彼女を徐々に追い詰めていく。
『花果山京劇団大ホール』の稽古場を使えば、無関係の人間を巻き込まずに済むとは言え、数で勝る敵を閉鎖空間に誘い込んだのは、得策とは言えなかった。
もちろん、孫美猴には一人で相手にするだけの自信があったからこそそうしたのだが、今となってはどう思っているのか。
彼女は、いよいよ鄒潤の攻撃を捌き切れなくなり、自分の足に躓いて転んだ。
鄒潤はその隙を見逃してくれるような相手ではなかった。
彼女がなんとか起き上がろうとした時、脳天に目掛けて岩のような握り拳を振り下ろしてきた。
孫美猴は間一髪のところでごろごろと転がるように避けたが、今度は馬乗りにならんばかりの勢いで襲いかかってきた。
鄒潤が拳を振り下ろしてくる度に床を転がる羽目になったが、相手が一息ついた瞬間、紅い棍を軸に棒高跳びの要領で跳躍し、ようやく距離を取った。
「なかなかいい運動になったわ、貴方もこの辺で少し休んだら?」
孫美猴は軽口を叩いた。
「減らず口はもう聞き飽きたよ。この辺で終わりにするとしよう」
鄒潤は冷め切った口調だったが、その目には殺意が漲っていた。
「そうね、貴方の鋼の体っていうのもどの程度のものか判ったし、私もそろそろ、本気を出そうかな」
孫美猴は自信に満ちた顔で言った。
「……本当に口が減らない娘だな」
鄒潤はさすがに呆れたようである。
「貴方さっき、私の事を〝斉天大聖〟って言ったわよね。確かに私は〝斉天大聖〟の孫美猴って呼ばれているわ、それじゃ〝斉天大聖〟の〈
「ぱお……? 何だって?」
「あらあら、『現代の仙人』ともあろうお人が、〈宝貝〉も知らないなんて、おかしな話ね。言わなかったかしら、私の〈宝貝〉はこれ、〈如意金箍棒〉よ」
「その棒切れがなんだって言うんだ?」
「貴方達みたいな仙鏢師からしたら、ただの棒切れでしょうけどね。これは普通の武器とは違って私にしか使えないし、私が使えばとんでもない力を発揮するのよ」
「この期に及んで、何を言い出すのかと思えば、今更、法螺吹きか?」
「例えば、持ち主の意のままに重さを変える事ができるんだけど、〈如意金箍棒〉の重量は最大で一万三千五百斤——簡単に言えば、八トンよ」
「それで何か時間稼ぎでもしているつもりか!」
「あらあら、随分ねえ。でも、いくら『気功術』で肉体を鋼鉄のように硬くしていても、八トンの〈如意金箍棒〉を突き入れられたらどうなっちゃうのかしら? さすがの〝独角龍〟さんでもただじゃ済まないでしょうね。だから命までは奪わないようにと、ちょうどいい重量を探っていたのよ」
「莫迦莫迦しい! いつまでも下らん事をぐちゃぐちゃと!」
鄒潤は口汚く罵ったものの、目の前の少女にはどこか底知れないところがあり、内心、計り兼ねていた。
何しろ、これだけの人数に囲まれていながら狼狽えるという事がないし、致命傷を負わせたはずが、今も平気な顔をして立っている。
ただ単にハッタリを言っているだけか、或いは何か思いもよらない策を隠しているのか、それとも、まさか、本当に?
「嘘だと思うのなら、掛かってきなさいな!」
孫美猴は涼しげに笑い、鄒潤の事を挑発した。
「…………」
鄒潤は疑わしげに目を細めた。
——あの女の言っている事が本当だとしたら、今、紅い棍は、何トンある?
こうして見ているだけでは確かめようもないが、何トンもの重量があるのなら、なぜ、あの女の細腕で持っていられる?
そもそも、何の変哲もない棒切れにしか見えないあれは、他でもない、自分が青龍偃月刀を使って、真っ二つにしたのではなかったか?
だったら、何を恐れる事がある?
「死ね!」
先に仕掛けたのは、鄒潤であり、相撲のぶつかり稽古よろしく、巨体を活かして、突っ込んでいった。
「ヤァ!」
孫美猴は大型トラックが正面から突っ込んできたようなものだったが、待ってましたとばかりに、〝独角龍〟鄒潤の額に、紅い棍を突き入れた。
次の瞬間、まるで西瓜が割れたかのようなぐしゃりという音とともに、後方に吹き飛んでいたのは、『気功術』で己の肉体を鋼と化していたはずの鄒潤だった。
「ぐ!?」
鄒潤は、一瞬、自分の身に何が起きたのか判らなかった。
いや、信じられなかった。
にわかには、仙鏢師の『気功術』で鋼鉄と化したはずの額を割られ、床に這いつくばっているという現実を受け入れる事ができなかった。
「こ、このアマ、ふざけやがって! 絶対に逃がすな、全員でかかれ!」
鄒潤は彼女の勝ち誇った視線に気付き、顔を真っ赤にして、人が変わったように命令した。
彼女の周囲に仙鏢師達が鬨の声を上げて群がり、あっという間に乱闘になった。
孫美猴に狙いを定め、ありとあらゆる方向から、剣が、槍が、棍が、拳が放たれるが、彼女は京劇の舞台役者らしく、見事に立ち回った。
彼女は紅い棍をくるくると巧みに操り、相手の攻撃を舞い踊るように避け、一人、また一人と、着実に倒していく。
やがて、包帯塗れの少年、李哪吒が立ちはだかった。
「また貴方なの、お名前は?」
孫美猴は街中で迷子に出会ったように優しく聞いた。
「中国は陳塘にある、李靖武術道場が門下生の一人、李哪吒だよ」
李哪吒はいつものように明るく自己紹介をしたが、虚実、真贋を見極めんとする、武術家の眼差しで、孫美猴の一挙一動を見逃すまいとしていた。
「あらそ、聞いた事のない道場ね。ところで許師父がお世話になったみたいだけど、覚悟はできているんでしょうね?」
孫美猴は周囲を取り囲んだ連中に気を配りながら、徐々に距離を縮めていく。
「そりゃもう! なにせ僕は自分の強さをみんなに認めさせる為に、はるばる海を越えてこの国にやって来たんだからねー!」
「言われてみればなかなかいい目をしているわね。でも、自分の強さをみんなに認めさせるというのは、仙鏢師として名を上げてお金儲けをするつもり? 富と名声を手に入れる事ができれば、一生、幸せ、それで満足という事?」
「なーんか引っ掛かる言い方だな、それの何がいけないっていうの?」
李哪吒は珍しく苛立ちを覚えた。
脳裏には、いつか見た不吉な暗雲が立ち込める大陸の夜空が、まるで天変地異の前触れを思わせる、稲妻に引き裂かれた故郷の夜空が甦った。
「私はただ、貴方が何をしようとしているのか確かめたかっただけなんだけど、気を悪くしちゃった?」
「〝斉天大聖〟の姐さんも〝蛇目〟さんの弟子っていうだけあって、自分は他人とは違うとでも言いたいのかなー」
——……私の目的は貴方達とは違いますから、鍛え方も違いますよ。
「別にそんなつもりはないわよ」
「ならいいけどねー」
「弟子が師父と同じ高みを目指すのは当たり前の事じゃないかしら?」
「〝蛇目〟さんも、〝斉天大聖〟の姐さんも、いったいどんな高みを、何を目指しているっていうんだよ?」
李哪吒は腹立たしそうに言った。
「……今の貴方には何を言っても無駄かもね」
確かに、李哪吒は、親の仇のように彼女の事を睨みつけ、聞く耳を持っているようには見えなかった。
「それならそれでいいさ、面倒臭い話は抜きにして、単純に拳を交えるだけだからね」
李哪吒はにやりと笑い、赤綸子の腰帯をするすると解き、丹田で練り上げた〝気〟を通わせる。
「悪いけど、全力でやらせてもらうよ。今度は、負けない、絶対に負けるはずがない!」
李哪吒は仙を苦しめた〈混天綾〉で、今度は、彼の弟子、〝斉天大聖〟の孫美猴を叩きのめすつもりだった。
「みんな口だけは達者なのよね!」
孫美猴は肩慣らしをするように、紅い棍をくるりと回し、先制攻撃を仕掛けた。
すると、最初はただの赤い帯だと思われた〈混天綾〉は、一瞬で棒状に変化し、激しい打ち合いとなる。
「!?」
孫美猴は何度か打ち合った後、更に意表を突かれた。
少年が手にした〈混天綾〉の形状が、棍から剣へと変わり、彼女の旗袍をすっぱりと切り裂いたのだ。
「口ばかり達者なのはどっちかな!? こうなると、あの男が僕に勝ったのも、偶然に違いないねー!」
李哪吒は自分が優勢なのをいい事に、調子に乗って言った。
昨日の晩、仙と戦ったばかりだというのに、少年の兵器術、体術に陰りは見られず、攻撃は加速度的に激しさを増していく。
「僕の〝気〟を通わせた〈混天綾〉は、自由自在、変幻自在! 鞭のようにしなり、剣のように鋭く、棍のように硬くもなる!」
李哪吒が豪語したように赤倫子の腰帯は多種多様な連続攻撃を生み出し、彼女は徐々に防戦一方となる。
「!?」
彼女は鞭のような形をした〈混天綾〉に、紅い棍を絡め取られ、裸同然となった。
「これで終いだ!」
李哪吒はここぞとばかりに〈混天綾〉の洗礼を浴びせ、一瞬の隙を突き、彼女の胸元に掌底を放った。
「ぐは!?」
彼女はがくんと前屈みになり、激しくむせ込み、血反吐を吐いた。
これこそ、仙に一度は膝をつかせた、ほんの僅かな動作で打突による衝撃を相手の体内に浸透させる、〝寸勁〟だった。
「やったか!?」
李哪吒は思わず、声を上げた。
「ゴホ、ゴホ!」
孫美猴は吐血し、膝をついた。
いくら無傷のように見えても、内臓はズタズタに破壊されている。
「……肝心なのは、ここからだ」
李哪吒は自分に言い聞かせるように呟き、彼女が呻き苦しむ姿を観察するように見た。
ここまでは仙の時と同じ展開。
肝心なのは、ここからだ。
「!?」
李哪吒の目の前で、やはりというか、驚くべき事にというか、彼女の姿は煙のように消えた。
「……やるじゃない、普通の人間にしては、ね」
決して、油断していた訳ではなかったが、彼女の妖しいまでの囁きは、耳元で聞こえた。
「い、いつの間に!?」
李哪吒は震えた声で言った。振り返る事すらできない。
なぜなら今しがた致命傷を負わせたはずの孫美猴によって、背後から紅い棍でがっちりと喉元を押さえ付けられ、羽交い締めにされていたからである。
「何なんだ!? どんなに〝治癒気功〟に長けていたとしても、あんな大怪我を、こんな短時間で治せる訳がない!」
李哪吒は動揺を隠しきれなかった。
彼女はついさっきまで、目の前でもがき苦しんでいたはずだ。
いくら〝軽身功〟が得意だったとしても、これだけ大勢の人間がいる中で、幽霊のようにぱっと消えて、また現れるなんて事、できる訳がない。
鄒潤が引き連れてきた仙鏢師達の中には、恐怖を覚え、身が竦んでいる者までいる始末だった。
「……♪」
当の本人はご機嫌な様子で、してやったりと言わんばかりだった。
この時点で彼女は、少なくとも、二回は死んでいる。
一回目は鄒潤の操る青龍偃月刀によって、紅い棍ごと袈裟懸けに斬られた時、二回目は李哪吒の鞭のような〈混天綾〉で、紅い棍を絡め取られた直後、〝寸勁〟を胸に叩き込まれ、血反吐を吐いた時——
いずれも、確実に死んでいるはずだった。
がしかし、突然、煙のように消えたか思えば、痛くも痒くもないといった風に、すぐに姿を現した。
それもすっかり傷は治り、半ばからぽっきり折れてしまった紅い棍も、ばっさり斬り裂かれた衣服も、全て元通りになって。
あたかも不死身のような振る舞いは、師父譲りだと言える。
正しく、神出鬼没というに相応しい。
「うふふ、ちょっとかわいそうになって来たから教えてあげましょうか。許師父の〝それ〟と、私の〝これ〟は、〝もの〟が違うわ」
「〝蛇目〟さんとは違う?」
「ええ、もう一つだけ教えてあげましょう。私の〝これ〟は貴方達仙鏢師が操るような、飛んだり跳ねたりする〝軽身功〟じゃないわよ」
李哪吒は耳元で勝ち誇ったように言われたものの、結局のところ、はっきりしない。
「はっ、何だっていいさ!」
何が何だか訳が判らないまま莫迦にされて、逆に吹っ切れたのか、吐き捨てるように言った。
「要はあんた達が、何度、平然と立ち上がってこようが、こっちもその度に何度でも叩きのめしてやればいいんだろう?」
李哪吒は不敵に笑い、喉元に食い込んだ紅い棍を掴み、反撃に転じようとした。
だが、殺気を感じて、動きが止まった。
「ちょうどいい、貴様ら二人とも一緒に死ぬがいいわ!」
なんとしぶとい事か、床に倒れていたはずの鄒潤が、青龍偃月刀を手に斬りかかってきた。
「ちぃっ!?」
李哪吒は舌打ちした。
このままでは孫美猴と一緒に一刀両断される事は判りきっていたが、当の彼女に身動きを封じられていてはどうする事もできなかった。
「くそ!」
彼女に羽交い締めにされたまま、観念したように目を瞑った。
「——本当にしつこい男ね。ちょっと優しくしすぎたかしら?」
と、彼女の不機嫌そうな声が聞こえたと思った瞬間、誰かに突き飛ばされた。
「……?」
李哪吒は自分の身に何が起きたのか察し、恐る恐る瞼を開いた。
「何でこんな事を!?」
すると、案の定、少年の目に映ったのは、自分と立ち位置を入れ替わり、向き合うようにして立った孫美猴の、苦痛に歪んだ顔だった。
彼女の背中は、確かめるまでもなく、青龍偃月刀によって、無残に斬り裂かれている事だろう。
彼女は質問には答えず、ただ痛みを堪えるように、歯を食い縛っていた。
「……李哪吒、貴方はなぜ、ここにいるのかしら?」
彼女は李哪吒が声をかけようとしたのを手で制し、最後の力を振り絞るようにして、鄒潤に向き直り、鮮血に濡れた背中を少年に向けたまま、問いかけた。
彼女はこんな状態になっても、まだ戦う気なのだ。
「こんな時に、いったい、何を?」
李哪吒が戸惑っている間にも、深紅の旗袍は背中から溢れる鮮血で、見る見るうちに鮮やかに染まっていく。
「第一、聞いているのは——」
「いいから、答えて!」
「だ、だから、言っているじゃないか!? 僕はみんなに自分の強さを認めさせる為に、この国にやって来たんだよ!」
「本当にそうかしら?」
「嘘なんかついてどうするんだよ!?」
「確かに、貴方は自分の実力を周囲に認めさせようとして、血気に逸っている感がある。でも、私は、それだけじゃないと思う」
「それだけじゃないって、何が?」
「貴方のその目を見ているとね、なんだか答えを探しているような、自分が進むべき本当の道を探しているような、そんな気がしてならないのよ」
——孔徳の
と、その時、少年の脳裏に木霊したのは、遠い故郷で聞き慣れた、誰かの声音だった。
「ねえ、小李。何か悩み事があるのなら、許師父に話を聞いてもらったらどうかしら?」
彼女は青龍偃月刀を巧みに避けながら、まるで癇癪を起こした弟に話しかけるように、優しく言った。
「〝蛇目さん〟に?」
李哪吒は思わず、聞き返していた。
「その為にはまず、この場を切り抜けなくちゃいけないわね!」
孫美猴は意を決したように、鄒潤に果敢に立ち向かっていく。
「調子に乗るなよ、小娘が! 今だ、やれ!」
鄒順は青龍偃月刀で畳み掛けるように攻撃して彼女を足止めすると、配下の仙鏢師達に号令を発した。
「危ない!?」
李哪吒があっと思った時にはもう遅かった。
彼女は青龍偃月刀で動きを止められたところに、仙鏢師達の剣や槍によって串刺しにされ、呆気なく、見るも無残な姿となる。
「ひゃっはっは、ざまあみろ! 今すぐその首を刎ねて、今度こそとどめを刺してやる!」
鄒順はあらゆる方向から串刺しにされ固まっている彼女に狙い定め、青龍偃月刀を大きく振りかぶった。
「…………」
李哪吒は呆然と立ち尽くしていた。
(どうする?)
——……李哪吒。もう一度、聞かせてもらうわよ。貴方はなぜ、ここにいるのかしら?
(どうすればいい?)
——貴方のその目を見ているとね、なんだか答えを探しているような、自分が進むべき本当の道を探しているような、そんな気がしてならないのよ。
「ちぃっ!」
李哪吒は面倒臭そうに舌打ちし、何を思ったのか、彼女に群がる仙鏢師達の只中に飛び込んでいった。
「き、貴様、何のつもりだ!? 〈秦王会〉に逆らうつもりか!?」
驚いたのは、鄒潤である。
李哪吒は彼女を串刺しにした連中を〈混天綾〉を使って次々と弾き飛ばし、今度は鄒潤に牙を剥いた。
「最初に裏切ったのは〝独角龍〟さんの方だし、おあいこって事で!」
李哪吒は青龍偃月刀と打ち合いながら、普段と同じ飄々とした調子で言った。
「このまま無事に済むと思うなよ!?」
「どうぞどうぞ、僕は自分の実力を周りに証明できればそれでいいんだから!」
「これだけの人数相手に何ができる! すぐに後悔する事になるぞ!」
「そんな事ないと思うけどなー、あんた達と一緒にいても、名前が上がるどころか、下がる一方だし!」
「何ぃ!?」
「女一人に寄ってたかって襲いかかっているようじゃね! あんた達と別れて清々する事はあっても、後悔する事はないよ!」
李哪吒は先程までと打って変わって晴れやかな顔をして鄒潤と打ち合い、今度は自分の番だとばかりに孫美猴の事を庇っていた。
「お前達、いつまで休んでいるのだ! 手を貸せ!」
鄒潤の言葉を聞き、先刻、〈混天綾〉の洗礼を受けた仙鏢師達が、一斉に襲いかかってきた。
「くっ!」
李哪吒は雪崩の如く襲いかかってくる彼らをなんとか押し返そうとしたが、正直、いつまで保つかは判らなかった。
やはり、数の差は如何ともし難く、いくら頑張ったところで、少しずつ、囲いを狭められてしまう。
だんだんと動きが鈍くなってきて、肩で大きく息をし、足が止まりがちになっていた。
元々、昨夜、仙と戦って深傷を負っている上に、今さっき、孫美猴と一戦交えたばかりで、本調子には程遠い。
「くそ!」
李哪吒の動きが、ついに止まった。
その隙を見逃す連中ではなかったが——
「あーあ、この件は私に任せて下さいってお願いしたのになあ。私達の出番は、ここまでみたいね!」
と、ため息混じりに言ったのは、紅い棍を支えにして、なんとか立っていた、孫美猴だった。
李哪吒はいつの間にか見覚えがある人影が、彼女の視線の先に立っている事に気付いた——。
「すみません、ちょっと来るのが遅かったみたいですね」
いつの間にか稽古場の分厚い防音扉を背に立っていたのは、見事な草花の刺繍が施された純白の長袍を身に纏った、一人の青年だった。
他の誰でもない、『十字坡酒楼』のバーの雇われマスターにして、黒社会で、仙鏢師〝蛇目〟、或いは〝蛇眼金睛〟と呼ばれている、許仙だった。
「許師父!」
孫美猴は仙の姿を目にした途端、大怪我をしているというのに、飛び上がって喜んだ。
「小孫、また随分、ひどい目に遭ったみたいですね」
仙は口では心配しているようだったが、普段と同じにこやかな顔をしていた。
「ううん、これぐらい全然平気ですよ!」
孫美猴は紅い棍をぐるぐると振り回し、元気な子どものように言った。
「貴方をそんな目に遭わせたのは、どこのどなたですか?」
仙は辺りを見回して言った。
「ほら、あそこに立っている大男、〈秦王会〉の仙鏢師で、〝独角龍〟の鄒潤って言ってました。鄒潤が引き連れているのは 、『闘仙』の参加者から選ばれたフリーの仙鏢師達です」
「ふむ」
「もう、許師父ったら、私一人でも充分なのに! 許師父がわざわざ来る必要ないって張大哥から聞きませんでしたか?」
「ええ、ちゃんと連絡をもらいましたよ。とは言え、彼らの狙いは私みたいですからね」
「自称、『現代の仙人』なのに、私の術を見破る事すらできない連中ですよ! 許師父が相手にする事ないですよ!」
「小孫の気持ちは嬉しいですけど、当事者の私が何もしない訳にはいかないでしょう。ところで、そちらの少年は?」
仙は孫美猴の傍らに立っていた、包帯塗れの少年について聞いた。
「昨日の夜、『十字坡酒楼』のバーで、許師父と手合わせしたって——李哪吒、中国からやって来た男の子ですよ」
「何でまた、小孫の隣に?」
「この子、迷子になっちゃったみたいで、ちょうど許師父なら道を知っているかも知れないって、話していたところだったんです」
孫美猴は冗談めかして言ったが、当の李哪吒は眉根を寄せていた。
「許師父、この子のお話、聞いてもらえませんか?」
仙は孫美猴の申し出に、さて、どうするべきかという風に、考え込むように少年の事を見やる。
「その前に、彼らをなんとかしましょうかね」
仙は少年の自分に向けられた突き刺すような視線に気づいているのかいないのか、鄒潤達の方に向き直った。
「初めまして。私は〈傲来幇〉にお世話になっている、雇われマスターの許仙と言います。貴方が〈秦王会〉の仙鏢師、〝独角龍〟の鄒潤先生ですか?」
仙は取り引き先と挨拶を交わす会社員のように、満面の笑みで言った。
「そちらこそ巷で噂の仙鏢師〝蛇目〟、またの名を〝蛇眼金睛〟——だとしたら、お会いできて光栄だ。先日はうちの〝挿翅虎〟をいいようにあしらってくれたそうじゃないか?」
「仙鏢師だなんてとんでもない。ただの雇われマスターですよ」
仙は笑顔を絶やさぬまま、言葉を訂正した。
「そして、『闘仙』にも参加はしない、と?」
鄒潤は往生際が悪い奴だとでも思ったのか、苛立ちを含んだ声で言った。
「話が早いですね、その通りです」
仙は火に油を注ぐように言った。
「悪いが力尽くでも、こちらの要求に従ってもらうぞ。今回はスカウト目的だった〝挿翅虎〟の時とは違って、手加減は一切なし、だ!」
鄒潤は仙の弟子である孫美猴にすら、自分の身体を鋼鉄と化す『気功術』を破られているというのに、師父の仙に対して、覚悟しろと言わんばかりだった。
実際、彼女に紅い棍を突き入れられ額こそかち割られたものの、そこから青龍偃月刀で深手を負わせている。
もしかしたら鄒潤は、自分が彼女に負けたとは思っていないのかも知れない。
「見たところ、全身を〝気〟で鋼のように硬くしているみたいですね。それも、生半可なものではない。こうなると雷横さんに使った〈発手群石〉は、足止めぐらいにしかならないかも知れませんね」
仙は感心したように言った。
「さすがは〝蛇目〟、一目見ただけでよく判ったな。だが、判ったところでどうしようもない。貴様の弟子のように、一度や二度、私の身体を傷付ける事ができたとしても、その程度でどうにかなるようなやわな身体ではないのでね」
鄒潤は周囲を囲む配下の仙鏢師達に目配せをし、青龍偃月刀を構えた。
「それに、二人が三人になったところで、貴様らに勝ち目などないわ!」
配下の仙鏢師達とともに、じりじりと間合いを詰める。
「いやいや、相手の事が判っていれば、打つ手はいくらでもありますよ」
仙は瞼を閉じると両手で素早く印を結び、何かぶつぶつと念じ始めた。
臨・兵・闘・者・皆・陣・列・前・行
仙が呟いているのは、古代中国で煉丹術に取り組み、晩年は羅浮山(らふさん)に入り、仙人になったという、葛洪の著書、『
「?」
李哪吒は辺りの空気が一変し、まるで嵐の前のような静けさが訪れた事に戸惑いを覚えた。
今にも目には見えない何かが爆発する寸前のよう、空気はピンと張り詰めていた。
何か膨大なエネルギーが一点に集中しているかのような奇妙な感覚がした。
「な、何だ!?」
鄒潤は驚きを禁じ得なかった。
仙の黒髪はいつの間にか腰の辺りまで伸びていて、風など吹いていないのに逆立つようになびいていた。
その上、真っ白な長袍の襟元から覗いた首回りは、新雪のように輝く爬虫類の鱗のようなものにびっしりと覆われていた。
「…………」
仙は深い眠りから醒めたように、ゆっくりと目を開けた。
あたかも蛇のそれのように縦長に変化した瞳孔は異様な輝きを放ち、およそこの世のものとは思えない、化生の如き迫力を備えた金色の双眸が、李哪吒と鄒潤の事をじっと見つめていた。
「ええい、下らん虚仮威しを!」
鄒潤はなんとか自分を鼓舞し、青龍偃月刀を大きく振り上げた。
その瞬間、
「——〈
仙は金色の双眸を一際輝かせて、鋭い声を発した。
すると、仙と鄒潤の間にある宙空に閃光が走ったかと思えば、まるで巨大な風船が破裂したかのような轟音が鳴り響いた。
室内にも関わらず、雷が発生したのだ。
「…………」
李哪吒は光と音が止んだ後、信じ難い光景を目にした。
「いくら鋼と化した肉体だとは言っても、電撃には耐えられなかったみたいですね」
仙はすでに目も髪も元通り、澄ました顔で言った——が、目の前に広がっている光景は、人智を超えた力による、恐ろしいものだった。
足元には鄒潤をはじめとした仙鏢師達が一人残らず火事に巻き込まれたように大火傷を負い、無様に這いつくばっていた。
仙が生み出した稲妻に、脳天から全身を貫かれ、息も絶え絶えといった様子である。
いかに鋼鉄の肉体を誇る〝独角龍〟の鄒潤と言えども、電圧一億ボルトの落雷を受けてはひとたまりもなかっただろう。
他の仙鏢師達も落雷の影響で意識を失い、全身にシダの葉のような電紋が刻まれ、誰一人、立ち上がってくる事はできなかった。
「あとの事は〈傲来幇〉の担当者にお任せするとして、傷の手当てをしましょうか」
仙は一息ついて、孫美猴と李哪吒に向き直った。
「許師父、私は大丈夫なので、小李を医務室に連れて行きましょう」
孫美猴は自分の事よりも李哪吒の事を心配した。
実際、彼女の衣服は、なぜか元に戻っていたし、身体にも傷一つ残っていなかった。
「嫌だなー、二人ともそんな心配そうな顔をして。これぐらい、なんて事ないですよ」
李哪吒は軽い調子を装っていたが、顔は青ざめ、こうして立って話しているだけでも辛そうに見えた。
「本当にこれぐらい、なんとも……」
だが、とうとう体力の限界を迎えたのか、ぐらりと傾いた。
少年はふっと意識が遠のいた瞬間、誰かの手に優しく受け止められたような気がした。
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