第二章 白素貞 其の四、

 第二章 白素貞


 其の四、


 黄龍達が〈秦王会〉の本社ビルで『闘仙』について話し合っていた日の夜、〈傲来幇〉の本拠地とも言える、ホテル『二竜山大酒店』。


 夜の帳が下りた今、ホテル『二竜山大酒店』は、正面玄関に続く竹林に囲まれた一本道を照明に彩られ、優雅な雰囲気を漂わせていた。


 利用客からは、豪華で過ごしやすい居室と心遣いが行き届いたサービスで好評を得ていたが、やはり有名なのは、ホテル別館、『花果山京劇団かかざんきょうげきだん大ホール』で上演されている、京劇だ。


 ホテルと、ホテル別館の大ホールを結ぶ渡り廊下には、『三国志演義』、『水滸伝』、『覇王別姫』、演目のポスターが所狭しと貼られ、被写体である役者の躍動感溢れる様や、京劇特有の白塗りの化粧と隈取り、豪華絢爛な衣装が、お客の目を楽しませていた。


 劇団の関係者だけが立ち入る事を許された関係者通路を行けば、稽古場や、美術部、衣装部の作業場がある。


 定期的に行われている『花果山京劇団』の見学ツアーに当選すれば、本番さながらの練習風景、実際に使用された衣装を見る事もできた。


 今晩は衣装部の一室に女性スタッフが何人か残っており、カーテン付きの衝立に覆われた大きな姿見を囲み、何やらはしゃいでいた。


「颯颯東風細雨來♪」


 大きな姿見の前に立ち、歌を口ずさんでいるのは、歳の頃なら、十九歳ぐらいだろうか、柔らかそうな栗色の髪を細い腰まで垂らした、凛とした顔つきの少女だった。


 身長は一七〇センチぐらいあるのではないか、ファッションモデルのようにすらりとした細身の少女は、薄い耳朶に煌めく、両端が金で縁取られた、紅い棒状の耳飾りが印象的だった。


「芙蓉塘外有輕雷♪」


 彼女こそ、ホテル『二竜山大酒店』お抱えの『花果山京劇団』主演女優、孫美猴そんびこうだった。


 孫美猴は黄金色の髪飾ティアラりをちょこんと頭に載せて、まるで舞い踊るように、何着も旗袍を試着していた。


「金蟾鏁扼燒香入♪」


 ご機嫌な彼女の事を囲み、女性スタッフ達は、あれ取って、これ取ってと大騒ぎして、上質な生地を使った旗袍、細かな刺繍がなされた下着、色とりどりのお化粧道具が辺りを舞っていた。


「玉虎牽絲汲井回♪」


 けれど、すでに今日の公演は終了していたし、明日の打ち合わせも済んでいるというのに、彼女達は、いったい、何をしているのか?


 新しい公演の舞台挨拶に使う衣装合わせか、はたまた、公演とは別の催し物に必要な衣装でも選んでいるのか?


「賈氏窺簾韓掾少♪」


 孫美猴は自分が満足いくまで着替えを続けるつもりらしく、黄金色の髪飾りから、金色のシニヨン・カバーに付け替えたかと思えば、今度は純真無垢を思わせる、まるで雪のように白い旗袍に、その身を包んだ。


「宓妃留枕魏王才♪」


 次に黄金色の髪飾りを再び頭に付け、真っ赤に輝くスパンコール生地に妖艶な花柄が映える、かなり丈が短い旗袍に食指を伸ばす。


「春心莫共花爭發♪」


 更には、大胆にも胸元が半円に開き、深いスリットが括れた腰まで届いた、扇情的な黒い旗袍に装いを改め、これから誰かと出かける予定でもあるかのように、鏡の前でうきうきしていたのだが、


「あーあ」


 孫美猴は女性スタッフに何事か耳元で囁かれ、嘆くように言った。


「〈傲来幇〉の副幇主、張大哥ちょうたいかともあろうお人が、女性の着替えを覗きに来るなんて」


 予期せぬ来客のようで、ご機嫌斜めといった風である。


「おいおい、人聞きの悪い事を言うなよ? 私は、大事な話があって来たんだぞ!」


『張』と呼ばれた男は、すでにカーテン付きの衝立の向こうにいるらしく、抗議するように言った。


「相変わらず頭が固いんだから、冗談よ、冗談! そんなんじゃいつか誰かに、姉さんを盗られちゃうわよ」


「ば、莫迦な事を言うな! あれがそんな真似をするはずが——い、いやいや、今日はそんな話をする為にやって来たんじゃないぞ!?」


 張という男はからかい甲斐があるらしく、面白いように動揺した。


「私もそんなつもりはないですよ——ただ、姉夫婦の将来について心配しているだけで」


「これでも副幇主なんだぞ、あまりからかわないでくれ」


「はいはい! それにしても、珍しい事もあるものね? いつもはお忙しい副幇主様が、こんなところまでやって来るなんて。これからみんなで『十字坡酒楼』のバーに打ち上げに行くところなんだけど、たまには張大哥も一緒にどう?」


「待て待て、お前に大事な話があると言っただろう?」


「もちろん、その話が終わってからよ! もう、本当に頭が固いわね!」


「残念だが、今晩はバーに行くのは諦めた方がいいな。人払いしてくれないか?」


「何よ、バーで、ううん、許師父に何かあったっていうの!?」


 孫美猴はバーの話を聞くなり、カーテンから飛び出してきた。


「な、何だ!? 孫美猴、その格好は!?」


 張は些か露出が目立つ黒い旗袍を見て驚き、素っ頓狂な声を上げた。


「それより『十字坡酒楼』に、許師父の身に何かあったっていうの!?」


 孫美猴は『十字坡酒楼』のバーが、いや、バーの主人である仙が心配で仕方ないのか、張に詰め寄った。


「少しは落ち着け、孫美猴」


 張は宥めるように言い、女性スタッフ達に退室するように視線を送った。


「そ、そうね……いくらここが仙人街だからって、あの許師父をどうにかできる人なんているはずないし、万が一、天災や事故に見舞われたとしても、許師父なら大丈夫よね!」


 頭の中が仙の事で一杯のようで、自分を納得させるように言った。


 中国語で『師父』と言えば日本語の『師匠』に当たる。


 彼女と仙の関係は、仙本人は否定するかも知れないが、仙鏢師か、中国武術の師弟関係といった辺りだろう。


「ああ、バーの方はともかく、許老板は、擦り傷一つ負っていない。無事だよ」


 張は彼女を安心させようと、仙の無事を伝えた。


「よかった!」


 彼女の表情は劇団で主演女優を任されるだけあって、目まぐるしく、ころころと変わった。


「でも、『バーの方はともかく』という事は、やっぱり、許師父の身に何かあったのね!?」


 仙の身を案じ、すぐに心配そうな顔になる。


「あまり時間がない、手短に話そう——仙人街に本社を置く〈秦王会〉の事は知っているな」


「日本有数の大企業で、黒社会としても有名なところね」


「最近、その〈秦王会〉から使いがやって来てな。彼らは世界中から仙鏢師を集めて、地下格闘技賭博、『闘仙』を開くと言うんだ。すでに世界各地で大会予選を開き、各界の重要人物を招いて大盛況だと。ついては〈傲来幇〉のお抱え仙鏢師、〝蛇目〟の参加を承諾し、運営にも協力を願いたいなどと言ってきた」


「昔から、黄、毒、賭なんて言われているけれど、最近じゃ、そこまで大規模なのは珍しいわね」


「向こうは本大会の目玉の一つとして許老板を引っ張り出したいみたいだったが、うちの幇主がいい顔をしなくてね」


「その時の幇主の顔が目に浮かぶわ」


「同席していた私は、肝が冷えたよ。何しろ、幇主ときたら、ぴしゃりと相手の申し出を断ったからな。『せっかくのお話ですが、お断りさせて頂きます。私達は相互扶助を目的とした幇であって、マフィアではありませんから』、とね」


「そう来なくっちゃ! 姉さんらしいわ!」


「だが、連中の申し出を断ればどうなるのか、お前も知らない訳じゃあるまい?」


「それじゃ、〈秦王会〉の申し出を受けた方がよかったって言うの? 逆に、一度でも彼らの言いなりになればどうなるのかも、知らない訳じゃないでしょう?」


「もちろん、幇主の考えは正しい。だが、連中は必ず、報復しに来るぞ……いや、もう報復紛いの事はしに来たんだからな」


「〈秦王会〉が、『十字坡酒楼』を、許師父の事を襲撃しに来たって訳ね」


「その通り。許老板から連絡があった。昨日の夜、『十字坡酒楼』のバーに、〈秦王会〉のスカウトマンを名乗る仙鏢師がやって来たらしい。その男は力尽くで出場を取り付けにきたらしいが、見事、返り討ちにしてやったそうだよ」


「さすがは許師父! それしかない! やるしかないのよ! 東勝神洲とうしょうしんしゅうで名が知れた〈傲来幇〉が、たかがチャイニーズ・マフィアの言いなりになっていたんじゃ、伝説の神仙に連なる〈桃幇〉なんか名乗れやしないでしょう?」


「確かにうちにも面子というものがあるが、ここからが本題だ。ついさっき、許老板から新しい知らせが来た。それともう一つ、幇主から指示が出ている。どちらから先に聞きたい?」


「そうね、ここは順番に、許師父の新しい知らせっていうのを聞かせてもらえるかしら?」


「許老板の〝千里眼〟によれば、ここ、『二竜山大酒店』に向かって、今しがた、〈秦王会〉の連中がこぞって出発したらしい。その数、ざっと十数人、どう見ても、穏やかに話し合いに来るような雰囲気じゃないと」


「幇主から出ている指示というのは?」


「幇主の言う通り、〈傲来幇〉はマフィアじゃない。それ故、『闘仙』に関する協力は、一切、断る事。だが、幇は自衛集団でもある。もし、脅迫や暴力行為があった場合は、全力でこれを迎え討てとの事だ」


「全力でね、うふふ、望むところよ——そうと決まれば早速、お出迎えする準備をしなくちゃいけないわね」


「許老板もバーは代わりの人間に任せてすぐに駆け付けてくれるつもりらしいが、おそらく〈秦王会〉の方が先に着くだろう」


「『十字坡酒楼』のバーは〈桃幇〉の社交場よ、こんな事でマスターが店を空ける必要はないわ。この件は私に任せて下さいって許師父に伝えてもらえるかしら?」


「おいおい、まさか、たった一人で〈秦王会〉を相手にするつもりか?」


「大丈夫よ! 恥をかかせるような真似はしないから!」


「うーん……お前の事だ、どうせ言い出したらきかないんだろうな……」


「決まりね! ところで、どこで連中を迎え撃つつもり? 十中八九、大立ち回りを演じる事になると思うけど?」


「この辺りで、人目にはつかず、建物の広さ、強度ともに申し分がない場所となると、ここ、『花果山京劇団大ホール』の稽古場しかないだろうな」


「上等よ!  他にご注文は!?」


「いつもと同じ——一、〈傲来幇〉の信頼を損なうな。一、誇りを忘れるな。一、一般人を巻き込むな」


「一、周辺施設に被害を与えるな?」


「最後にもう一つ、〈秦王会〉の連中に、我々に、二度と手を出す気を起こさせるな、以上だ!」


「遵命!」


 孫美猴は中国語で『畏まりました』と答え、カーテンを閉めると、再び、楽しそうにおめかしを始めた。


「相思一寸灰♪」


 彼女が口ずさんでいるのは、晩唐期の詩人、李商隠りしょういんの、『無題』とされる詩の一つだった。


 内容は、『花と競ってまで恋をするものではない』という、ちょっと湿っぽいもので、中国の漢詩にしては珍しい、恋愛の詩である。


 彼女もこれで、普段、いくら明るく勝ち気な性格に見えても、年相応に恋愛関係の悩みを抱えているのかも知れない。


「そろそろ行きましょうか」


 最後にもう一度、今宵の装いを確かめるように、鏡の前で、くるりと一回転した。


 散々、試着した末に選んだのは、黄金色の髪飾りと、鮮やかな赤い生地に金糸で大きな睡蓮花があしらわれた、踝まである旗袍だった。


「これが終わったら、許師父と一緒に楽しい時間を過ごしましょう!」


 彼女はさっきまで口ずさんでいた詩の内容とは裏腹に、元気溌剌といった感じで、両端に金色の細工が施された、紅い棒状の耳飾りを薄い耳朶に煌めかせて、颯爽と衣装室を後にした。

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