第一章 許仙 其の二、

 第一章 許仙

 

 其の二、


「こんばんはー、まだやってますかー!?」


 何の遠慮もなく元気のいい挨拶をして入ってきたのは、身長は一六〇センチ程度と小柄、歳の頃なら、一四、五歳ぐらいだろうか、おそらく、少年だった。


 身長、年齢だけでなく、性別もはっきりしないのには理由がある。


 およそ、都会の人間らしからぬ格好をしていたからである。


 まるで砂漠の旅人のように土埃に塗れた頭巾を被り、薄汚れたぼろぼろの外套を身に纏い、背中には布製の背嚢まで背負っている。


「『十字坡酒楼のバーには、本物の仙人がいるらしい』と聞いてきたんですけど、こちらのバーは、〈傲来幇〉のお抱え仙鏢師、〝蛇目〟、〝蛇眼金睛〟と呼ばれているお方のお店ですか——って、お取り込み中だったかな?」


 とうに閉店時間を過ぎたバーに、ずかずかと入ってきた挙げ句、裏社会で使われている異名を平然と口にするような輩が、ただのお客の訳がない。


「申し訳ありません。お客様、ちょうど、閉店したところでして」


 仙は相手の質問にははっきりとは答えず、閉店している事だけを告げたが、雷横を抱えた姿を見ても平然としているような、開口一番、〝蛇目〟だの〝蛇眼〟だのと言っている相手だ。


「あー、もう一つ聞きたい事があるんですけど、〈秦王会〉の雷横っていう名前の人が来てませんか?」


 招かれざるお客は、案の定、素直に帰ろうとはせず、頭巾を捲り上げ、別の質問をしてきた。


 雨風にやられぼろ雑巾のようになった頭巾の下から現れたのは、利発そうな少年の顔だった。


 真夜中のバーに足を踏み入れていいような年齢ではなかったが、切れ長の目には挑戦的な光を湛え、大人さえ圧倒するような、何か油断ならない雰囲気を漂わせている。


「失礼ですが、お客様のお名前は?」


 仙は当の雷横を抱えていたが、雷横の事をマネキン人形よろしく壁際に立たせ、素知らぬ顔をして、少年に聞いた。


「こ、こいつは、てめえのついでに本部に連れて行くはずだった、フリーの仙鏢師、確か、名前は——」


 雷横はなんとか視線だけ動かして、ご親切に少年の素性を教えてくれた。


「自己紹介まだだったね。どうも初めまして、僕は中国は陳塘にある、李靖武術道場の門下生が一人、李哪吒りなたっていうんだ! よろしくね!」


 店内には、明らかに不穏な空気が漂っていたが、少年は気にする事なく、元気溌剌、自己紹介をした。


 ただ自己紹介をしただけだったが、たったそれだけで、少年、李哪吒が、怖いもの知らずで、自信家だろう事が窺えた。


「僕を本部に連れて行ってくれるはずだったって事は、そこに立っているのが〈秦王会〉の雷横さんかな? こっちのお兄さんは、もしかして?」


 李哪吒は仙の事を見て、興味津々といった顔をした。


「今回開かれる、記念すべき第一回、『闘仙』優勝候補の一人、〈傲来幇〉のお抱え仙鏢師、〝蛇目〟さん?」


 李哪吒は頭からつま先まで仙の事をじろじろと見て、楽しそうに言う。


「貴方の仰る通り、私は〝蛇目〟だの〝蛇眼〟だのと一部の人達に言われてますが、一つ間違えている事がありますよ」


 仙は不躾な視線に対し気分を害した風もなく、平然とした顔で言った。


「どんな間違いかな?」


 李哪吒は興味深そうに聞き返した。


「私は仙鏢師じゃありません、ただの雇われマスターなんですよ。そういう訳で私は『闘仙』には出ません。ちょうどいい、李哪吒先生は貴方に用事があるみたいだし、ついでに送ってもらったらどうですか?」


 仙は普段と変わらない落ち着いた口調で何度目かの同じ説明をした後、壁際に突っ立っている事しかできない雷横の事を見やり、笑顔で言った。


「何い!?」


 雷横は屈辱のあまり、憤怒の形相になった。


 いくら金縛りに遭って自分一人では帰れないからと言って、大の男が、それも、黒社会の構成員が、子どもに送ってもらったらどうですかと言われて、素直に受け入れられる訳がなかった。


「てめえ、こっちが大人しくしていれば調子に乗りやがって! このまま、ただで済むと思うなよ!!」


「もしかして雷横さん、〝蛇目〟さんの実力を試そうとして、返り討ちに遭ったのかな」


「だったら何だっていうんだ、小僧!?」


「嫌だなー、そんなに怖い顔しないでよ。ほんの少し、様子を見ていてくれると嬉しいんだけどなー」


 李哪吒は背中から背嚢を下ろし、一番近くにあったテーブルの上に置くと、薄汚れた外套を脱ぎ始めた。


「〝蛇目〟さんは『闘仙』に出る気はないんだ。勿体ないなー、噂通りなら相当な腕利きなのに、その力を活かそうとしないなんてさー。『闘仙』に出ればお金は儲かるし箔は付くし、いい事尽くめだけどなー」


 旅装束の下から現れたのは、目が覚めるような若草色を基調とした、大きな蓮の花をあしらった長袍だった。


「〝蛇目〟さんのお話も聞かせてもらった事だし、僕の身の上話もしておこうか。僕が、なぜ、中国は陳塘からはるばるやって来て、地下格闘技に参加しようとしているのか?」


 蓮の花の刺繍が施された若草色の長袍はもちろん、腰に巻かれた赤倫子の帯も素晴らしい出来栄えで、先程までの土埃に塗れた旅人とは全くの別人である。


「そんな御大層な理由がある訳じゃないんだけどね。ただちょっと認めさせたいんだよ、僕がどれぐらい強いのかっていう事をね」


 李哪吒は小綺麗な身なりをしたどこぞのお坊ちゃんのような姿で、仙の様子を窺うようにして少しずつ近付いていく。


「将来の事を考えたらこの辺で名前を売っておかないとねー」


 涼しげに笑い、一歩、また一歩、近付いてきたが、どこか油断ならない様子だった。


「それで、私に何か御用でしょうか? 雷横先生を連れて一緒に帰ってくれる気になったとか?」


 仙は特に警戒心を強める様子もなく、気さくに話しかけた。


「うーん、ついさっきまでは『闘仙』でこつこつ勝ち上がって有名になろうと思っていたんだけど、〝蛇目〟さんの事を目の当たりにしたら、ちょっと気が変わっちゃったんだよねー」


 李哪吒は相変わらず飄々とした調子で言ったが、切れ長の目は鋭い光を宿していた。


「〝蛇目〟さんとこの場でお手合わせ願い、見事、打ち負かして、一気に名前を売るのもいいかなー、なんて?」


 李哪吒は笑顔のまま、ふと立ち止まり、中国拳術の構えを取った。


「これはまた、随分と大きな口をきく小朋友しょうほうゆうですね」


 仙は半ば呆れ、半ば感心したように言った。

「ハッ!」


 李哪吒は一足飛びに距離を縮め、畳み掛けるように攻撃してきた。


「!?」


 仙は雷横などとは比べものにならない素早い身のこなしに押され、あっという間に、防戦一方になる。


 李哪吒は赤綸子の腰帯をさっと解いたかと思えば、七尺ほどのそれを鞭のように操って執拗に急所を狙ってきた。


 これこそ中国に伝わる隠し武器、『暗器』だった——赤綸子の腰帯は予め二本巻かれ、最初から武器として使う為に身につけていたのである。


「……!?」


 仙は赤綸子を使った攻撃の軌道が読めずに、困惑していた。


「あっはっは、〝蛇目〟さんも自分の腰帯を使ってみたら!? まあ、僕と同じように扱えるとは限らないけどねー!」


 李哪吒は赤綸子の腰帯を手足のように操り、徐々に仙の事を追い詰めると、調子に乗って囃し立てた。


 仙鏢師の『気功術』によるものか、赤綸子の腰帯はその時々で形状を変え、時に鞭のようにしなり仙を打ったかと思えば、剣のように鋭利な刃物となり血飛沫を飛び散らし、棍のように硬くなり五臓六腑を痛めつけた。


「これが僕の『気功術』、〝混天綾こんてんりょう〟だ!」


 李哪吒は得意満面、仙の防御を打ち崩し、壁際に押し込んだ。


「僕の〝気〟を通わせた〝混天綾〟は、自由自在、変幻自在! 鞭のようにしなり、剣のように鋭く、棍のように硬くもなる!」


 李哪吒は自画自賛をしている間も、攻撃の手は緩めなかった。


「——その若さで大したものですが、悲しいかな、決め手に欠けますね!」


 仙は壁際まで追い詰められていたものの、まだまだ余裕が見て取れた。


「ふん、減らず口を! だったら、反撃してみたらどうなんだ!」


「いくらご自慢の腰帯を振るおうが、私を倒す事はできませんよ」


「お生憎様、僕の持ち技は〝混天綾〟だけじゃない!」


 李哪吒はふいに赤綸子の腰帯を投げつけた。


「!?」


 仙は一瞬、視界を奪われ、動きが止まった。


「ハッ!」


 李哪吒は大きく息を吸い込むと、仙の胸に軽く触れるように掌底を放った。


「がは! がはっ!!」


 仙は電気ショックを受けたようにかっと両目を見開き、がくんと震えると、血反吐を吐き、苦しげに胸を掻きむしった。


「うっ!?」


 終いには、呼吸困難にでも陥ったように、がっくりと膝をつき、床に倒れ込んだ。


「〝寸勁すんけい〟のお味はどうだったかな!? その様子だとかなり気に入ってもらえたみたいだねー!」


 李哪吒は足元に倒れ伏した仙を見て、ご機嫌な様子で言った。


「何が『私を倒す事はできませんよ』だ! ざまあないね!」


 李哪吒は仙の身体を踏みつけ、軽蔑の眼差しを向けた。


「さてと、雷横さん、僕の実力は見てもらえたかなー?」


 李哪吒は壁際を振り返り、上機嫌で聞いた。


 仙が立ち上がってくる気配はこれっぽっちもなかったし、自信満々なのも当然だった。


「クソ餓鬼が、てめえの実力が何だって?」


 雷横は子どもに調子に乗られては堪らないとでも思ったのか、居丈高に言った。


「またまた、その目でしっかりと見ていたんでしょ。僕はあの〈傲来幇〉のお抱え仙鏢師、〝蛇目〟をこの手で倒したんだよ? もちろん、それなりの待遇で迎えてくれるよねー?」


 李哪吒は何の疑いもなく、色よい返事を期待していた。


「はっ、何を言ってやがる! 田舎から出てきた小僧が、調子に乗るんじゃねえぞ?」


 だが、雷横はすげなくはねつけた。


「大体、てめえみたいなクソ餓鬼にやられるようじゃ、蛇目野郎も、所詮はその程度だったって事よ!」


「へー、いいのかなー、そんな事言っちゃって。僕が見る限り、雷横さんは〝蛇目〟さんにこっぴどくやられたみたいだけど、それ、『点穴術』で金縛りに遭っているんじゃないのかなー?」


 李哪吒は仙と同じく『点穴術』に通じているらしく、自分なら金縛りを解けると言わんばかりである。


「ふん、勘違いするんじゃねえよ。俺は本気でやり合った訳じゃねえし、こんなもの時間が経てばすぐに元通りになるだろうよ!」


 雷横は未だに指先一つ動かせなかったが、鼻息も荒く言った。


「くそ! 奴の実力なんか確かめようとしないで、最初から全力でやっていれば、こんな事にはならなかったんだ! 元に戻ったら、今度こそ手加減なしでぶちのめしてやる!」


 雷横は怒りのあまり、一人でぶつぶつと言っていた。


「ふーん、威勢がいいのは結構だけど、一度突かれた点穴は、解穴しない限り、ずっとそのままだよ?」


 李哪吒は呆れたように言った。


「てめえ、出鱈目言ってんじゃねえぞ!?」


「出鱈目だと思うのは、雷横さんの勝手だけどねー」


「いちいちムカつくクソ餓鬼だ! なんでもいいから、俺のケータイから、さっさと手下に電話しろ! 今すぐ『十字坡酒楼』のバーに、俺の事を迎えに来いってな!」


「僕が? 何で? 相手の顔も名前も知らないのに?」


「ああ、てめえがだ! 顔も名前も知らなくても、電話で話すぐらいできるだろうが!? 間違っても、本部になんか掛けるなよ。俺の手下にも、余計な事はするなって言っておけ!」


 雷横は矢継ぎ早に命令した。


「どうした、それができたら金一封ぐらい包んでやるよ!」


「雷横さんにもプライドがあるのは判るけど、あんまり強がらない方がいいんじゃないかなー」


「何だと!?」


 雷横は李哪吒に『点穴術』の話をされてから、確かに冷や汗を浮かべていた。


 このままでは李哪吒の言う通り、『点穴術』が解けないのではないかという不安が過ぎったのだろう。


 でなければ、時間が経てば元通りになると思っていながら、李哪吒に電話をさせ、迎えを頼もうとはしないはずである。


「ここは素直に、『お願いします。金縛りを解いて下さい』って、言った方がいいんじゃないかなー。〝蛇目〟さんを倒した事を評価してくれるんだったら、今すぐ解穴してあげるからさー」


「てめえ、〈秦王会〉の人間を脅すつもりか?」


「まっさかー、僕はただ自分の強さを認めてもらいたいだけだよ。だから僕が〝蛇目〟さんを倒した事を雷横さんの口から、お偉いさんにちゃんと報告して欲しいんだよねー。そしたら返り討ちにされた事も黙っておいてあげるし、今すぐ、解穴してあげるよ。脅迫するだなんてとんでもない」


「本当に今すぐ金縛りを解けるんだな?」


「本当だってば、疑り深いなー」


「よし、上には話を通してやるから早いところやれ!」


「はいはい、金縛りを解く経穴は、と」


「何をもたもたしてやがる!?」


「えーと、どこだったかなー?」


「クソッタレが! てめえなんぞ『闘仙』に出たところで、ぼろ負けするに決まってらあ!」


「今から助けてあげようっていう人間に対して、そんな言い方は——」


 李哪吒は解穴しようとしたが、


「!?」


 何者かの気配を背後に感じて、驚いたように振り返った。


「いやー、李哪吒先生は、なかなかの功夫を持っているみたいですね」


 そこには先程、確かに倒したはずの仙が、平気な顔をして立っているではないか。


「なっ!?」


 李哪吒は幽霊に出会ったような顔をして、驚きの色を隠せなかった。


「ちぃ、クソ餓鬼なんか信じた俺が莫迦だったぜ!」


 雷横は口惜しそうに言った。


「いつからかこの世に現れた、貴方達仙鏢師を名乗る者は、仙匪、仙賊、妖怪変化、魑魅魍魎を相手にしてきました」


 仙は自分が立ち上がってきた事に対して、彼らが衝撃を受けている事には構わず、淡々と話し始めた。


「そして、仙鏢師は自分の名を広め、より高額の報酬を得る為に、日々、己の技を磨いている」


 見事な刺繍が施されていた長袍はずたぼろ、全身、傷だらけだったが、気にする事なく続けた。


「それがどうした? いきなり、何を言ってやがる!?」


 雷横は不愉快そうに眉根を寄せた。


「雷横さんの言う通りだよ。第一、〝蛇目〟さんは何で、他人事みたいに仙鏢師について語っているのかな?」


 李哪吒は仙が自分達と同じ仙鏢師にも関わらず、まるで他人事のように言っているのが引っ掛かった。


「なぜって、何度も言っているじゃないですか? 私はただの雇われマスターだって」


 仙はお決まりの台詞を口にし悪戯っぽく笑った。李哪吒と雷横の二人は、その言葉を聞き、ますます苛立ちを募らせた。


「この際、雇われマスターだろうと、何だろうと、〝蛇目〟さんを倒せば、この業界で名前が売れるのは間違いないんだ。今後こそ、完膚なきまでに倒してあげるよ」


「……李哪吒先生は筋はいいんですが、基本がなってませんね」


「何だって?」


「基本ですよ、基本。李哪吒先生に限らず、仙鏢師の方は基本がなってませんね。何かにつけて、中途半端で、私に言わせれば、虚仮威しや小手先の技ばかりですよ」


「僕の〝混天綾〟が!?」


「俺の〝虎爪〟が、虚仮威し、小手先の技だと!?」


「仙鏢師というのは自分の名を広めて、より高額の報酬を得る為に、日々、己の技を磨いている訳だし、そうなってしまうのも当然かも知れませんねえ。目的が目的なら、達成手段も即物的になるのでは?」


 仙は澄ました顔で、尚、挑発するような事を言った。


「じゃあ、そう言う〝蛇目〟さんはどうなのかなー?」


 李哪吒は、我慢の限界に来ているようだった。


「…………」


 仙はふと黙り込んで、答えようとしなかった。


「どうした、答える気がないのか!? 〝蛇眼金睛〟!?」


 李哪吒は仙の態度を見て、語気を強めた。


「……私の目的は貴方達とは違いますから、鍛え方も違いますよ」


 仙は何を思ったのか、突然、精神を集中するように瞼を閉じた。


「うん?」


「おいおい、今度は何のつもりだ?」


 李哪吒と雷横は仙の思いがけない行動に呆気に取られた。


 仙は両目を閉じて黙りこくっていたが、その身には何かが起きていた。体内で、目には見えない力が、刻一刻と膨らんでいる。


「だから、こんな術も使えます」


 仙はぼろ雑巾のようになっても、戦意を喪失していないらしく、静かに告げた。


「こ、これは……」


「いったい、何なんだよ!?」


 二人とも嵐の前のような静けさに、何か得体の知れない恐怖を感じた。


「——〝発手群石はっしゅぐんせき〟!」


 仙は目を閉じたまま右手を天に翳し、鋭い声を発した。


 その途端、天に翳した右の手のひらを中心とした半径数メートルの宙空に、大きいものはひき臼大、小さなものは拳大の岩石が、何の前触れもなく、無数に現れたではないか!


「そ、そんな莫迦な!?」


「な、何だ、こいつは!?」


 李哪吒と雷横は、目の前で起きている事が信じられず、唖然とした。それも無理もない、今の今まで何もなかったところから、突然、無数の岩石が出現したのだから。


 仙鏢師は、『桃幇の守り手』、『現代の仙人』などと言われ、『気功術』を使ってその身を鋼のように硬くし、肉体の一部を獣のそれに変化させる事も可能とする。


 己の〝気〟を武器に通わせて、妖怪変化や魑魅魍魎を相手に、互角か、それ以上に渡り合う事もできた。


 だが、これは違う。


 これは——仙がたった今、行った事は、無から有を作り出すような所業である。どこまで行っても、結局はただの人間に過ぎない仙鏢師のなせる業を、遥かに超えている。


 そう、仙鏢師がどんなに『気功術』を磨いたところで、できる事ではない。


 だとすれば、この男は何者なのか?


〈傲来幇〉のお抱え仙鏢師、〝蛇目〟、またの名を、〝蛇眼金睛〟と呼ばれる、この男は、いったい?


「〝蛇目〟!?」


 李哪吒は無数の岩石が宙に浮かんだ光景と、仙に訪れた変化を目の当たりにして、思わず彼のあだ名を口にした。


 仙の黒髪はいつの間にか腰の辺りまで伸び、風など吹いていないというのに逆立つようになびいていた。


 その上、真っ白な長袍の襟元から覗いた首回りは、新雪のように輝く爬虫類の鱗のようなものにびっしりと覆われていた。


「!?」


 李哪吒は見てはいけないものを見てしまったような気がして、背筋に寒気が走った。


 果たして、仙の身に起きた変化は『気功術』によるものなのか——


 いや、李哪吒にはそうは思えなかった。


 仙の体には、何かもっと別の力、何か特別な力が働いているようにしか感じられなかったのである。


 本人が再三、言っているように、本当に、仙鏢師ではないのではないか?


 ならば——、


「…………」


 李哪吒は冷や汗を垂らした。


 ——この人は仙鏢師じゃない……それどころか、人間でさえないんじゃないか?


 だとしたら、何だというのか?


 ——目的が違う? 鍛え方が違う?


 それ故、こんな術が使えるというのなら、


 ——いったい全体、何の為にどうすれば、こんな事ができるようになるっていうんだ!?


 何より驚愕を禁じ得なかったのは、気付いたら開いていた仙の瞳である。


 あたかも蛇のそれのように縦長に変化し、異様に輝いていた。


「この!?」


「畜生っ!」


 李哪吒と雷横はこの世のものとは思えない金色の双眸がこちらを見ていても、悪態を吐くぐらいしかできなかった。


「…………」


 仙は表情一つ変えず天に翳した右手を握り締めると、勢いよく振り下ろした。


 すると、それが合図だったように、無数の岩石が蝗の大群のように、李哪吒と雷横に襲いかかった。


 最初のうちは李哪吒は体術を駆使し石飛礫が急所に直撃するのを避けていたが、悲惨だったのは金縛りに遭って身動きが取れないままだった雷横である。


 雷横は、悲鳴はかき消され、苦痛と苦悶の表情を浮かべ、ただひたすら全身で岩石を受け止めるしかなかった。


 結局は二人とも、最後には、身体中、至る所、皮膚を破られ、筋肉を裂かれ、骨を打ち砕かれていた。


「——まだ、やりますか?」


 仙は石飛礫が止んだ頃には、髪の毛の長さも瞳の色も元に戻っていた。


「ちぃ!?」


 李哪吒は悔しげな顔をして、満身創痍で膝をついた。


 それでも何度か立ち上がろうとしたが、全身に激痛が走って立てない。


 雷横の方は、見るも無残な姿で仰向けに倒れ、すでに気を失っているのか、『点穴術』がまだ解けていないのか、死んだようにぴくりとも動かなかった。


 顔はぐちゃぐちゃに潰れ、派手なスーツは見る影もなくぼろぼろになり、破れた箇所から皮膚がべろりと捲れ、血が滲んだ筋肉が見えた。


「この辺でお開きみたいですね。今度はお客様としていらっしゃるのなら、また歓迎しますよ」


 仙は二人が力尽きたのを確かめると、にこやかな顔をして言った。


「ふっ」


 李哪吒は最後の力を振り絞るように顔を上げ、面白いとばかりに笑った。


 おそらく、仙ともう一度、戦うつもりである。


 そう思わせるに足る不敵な笑みだった。


 そして、気を失った。


「よっこらしょっ、と」


 仙は気を失っている李哪吒を左の小脇に抱え、雷横の巨体を反対側の手で軽々と肩に担いだ。


 そうして、平然とした様子で店内を歩き出し、蝙蝠のドアベルを鳴らし、苦もなく階段を上っていく。


 地上に出ると辺りは白みを帯びていて、すでに夜が明けていた。


 まだ路地に人けはなく、毎朝のごみ捨てのように、李哪吒と雷横をアスファルトの片隅に投げ捨てた。


 彼らが呻き声を上げても、一切、気にする事なく、バーに戻る。


 ウェイトレス達がお出迎えをしてくれているように、中国ランタンの淡い明かりに包まれた入り口の脇に行儀よく整列していた。


「…………」


 仙は深いため息をついた。


 最初は雷横、次に李哪吒を相手に、あれだけの大立ち回りを演じて、お店が無事で済む訳がなかった。


 カウンターの中に入って、コップに水を汲むと、ウェイトレス達が並んでいるところに、特殊な歩き方で近付いていく。


 見る者が見れば、北斗七星の形を踏んでいると気づくだろう。


 日本の陰陽師にも伝わる呪術的な歩法、邪気を祓うと言われる、『禹歩』である。


 仙はウェイトレス達の前までやって来ると、コップの水を口に含んで、彼女達に霧のように吹きかけた。


 その途端、彼女達は大掛かりな手品のように、一枚の紙切れと化して、ひらひらと床に落ちた。


 仙はまた『禹歩』を踏み、今度は自分に水がかかるように、上を向いて水を吹く。


 次の瞬間、仙まで一枚の紙切れになって、木の葉のように舞い落ちた。


 だが、カウンターの前にはいつの間にかもう一人の仙が座っていて、ウィスキーを一杯、楽しんでいた。


 不思議な事に、カウンターに座っている仙には、擦り傷一つなく、長袍も新品そのものだった。


 どうやら仙は紙切れから作り出した自分の分身に、今までずっと雷横や李哪吒の相手をさせていたらしい。


 それにしてもいつからそこに座っていたのか、そしていつからもう一人の自分と入れ替わっていたのか?


 仙がぱちんと指を鳴らすと、お店の奥、小さな舞台の上にちょこんと置かれた木彫りの人形が、瞬く間にブラックラメ・タキシードのバンドマンの姿に変身し、モダン・ジャズの演奏が始まった。


 仙はグラスを呷り、心地よさそうに一息ついた。


 夕方のいざこざの痕跡はあちこちで目についたが、今日という日はもうすぐ終わる。


 あとは心行くまで好きな酒と肴を楽しみ、ジャズの旋律に身を任せればいい。


 ジェリー・マリガンの、『Night Lights』だった。

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