『仙鏢師 蛇目—白蛇伝異聞—』 

ワカレノハジメ

 第一章 許仙 其の一、

 第一章 許仙きょせん


 其の一、


 神奈川県横浜市と言えば、日本三大中華街の一つ、横浜中華街がある、国際都市である。


 だが、美食と貿易に彩られ、近未来的な高層建築群と異国情緒溢れる街並みを見る事ができるこの街には、もう一ヶ所、中国人街チャイナタウンが存在する。


 嘘か真か、〈桃源郷〉の出身者が集まってできたという、『横浜仙人街よこはませんにんがい』である。


 仙人街に観光に行けば、地域住民やお店の人達は皆、


 ——ようこそ、横浜仙人街へ! この街は、私達、〈桃幇とうぱん〉が作った、仙人の街です! 私達の先祖は、〈桃源郷〉の出身です!


 と、満面に笑みを浮かべて、迎えてくれる事だろう。


『幇』というのは、出身地や職業ごとに相互扶助を目的として集まり、異国の地で、衣食住を助け合う、組織・団体・集団の事である。


〈桃幇〉の場合は、桃源郷の出身者で構成された幇、という事になる。


『桃源郷』——中国の詩人、陶淵明とうえんめいの作品、『桃花源記 ならびに序』に出てくる、理想郷の事だった。


 まるで時の流れが止まったようにいつでも桃の花が咲き乱れ、人々が平和で豊かな生活を送っている場所。


 ——なんで私達がわざわざ〈桃源郷〉を後にして、はるばる日本までやって来て、横浜にこんな街を作ったかって?


 更に話が弾めば、彼らは愛想よく語ってくれる事だろう。


 いかに常春の地、〈桃源郷〉と言えども、戦争の影響を受けて故郷を失った者、時代の荒波、革命の余波を受けて出奔した者、はたまた、純粋に広い世界を夢見て旅に出た者、そうした者が寄り集まってできたのが、この街なのだと。


 ご先祖様は故郷で培った神仙術を用いて地の利を見定め、ここに街を成す事に決めたのだという者もいる。


 あれもこれも仙人街を観光地として盛り上げる為に街ぐるみで企画した事なのだろう、一口食べれば不老長寿になるという神仙料理に、よく当たると評判の占いで、仙人街は今日も賑わっていた。


 だが、眉唾物なのは、街の成り立ちだけではなかった。


 この街に住む住民に関してもまた、不可思議な噂がまことしやかに語られる事がある。


 いったい、いつから、誰が言い始めたのか、『十字坡酒楼じゅうじはしゅろうのバーには、本物の仙人がいるらしい』、と。


 その男の名は、許仙きょせんという。


 彼は普段、チャイニーズレストラン&バー、『十字坡酒楼』で、マスター兼バーテンダーとして働いている。


『十字坡酒楼』、と金縁の看板に力強く流麗な筆文字で大書されたレストランは二階建てで、いかにも高級中華料理店といった豪華絢爛な店構えをしていた。


 同名のバーは、レストランの脇にある細い階段を下りたその先、ひっそりとした雰囲気の地下にある。


 営業は夕方から明け方まで、〈桃幇〉限定の会員制。


 店内は中国格子が施された木目調で、天井から無数の真っ赤なランタンがぶら下がり、玄妙な雰囲気に包まれている。


 この界隈では使い勝手のいい店として知られ、仙が作るカクテルにも定評がある。


 だが、仙人街の華僑・華人社会に詳しい者なら、彼の事をこう呼ぶ。


傲来幇ごうらいぱん〉のお抱え仙鏢師せんびょうし蛇目へびめ〟、或いは、〝蛇眼金睛じゃがんきんせい〟、と。


 なぜ、蛇の目に纏わる異名を二つも頂戴しているのか?


『仙鏢師』とは、いかなる職業か?


 仙は樫の木で作られた立派なカウンターに立ち、いつものように愛想のいい笑顔でお客を迎えていた。


 身長は一七五センチぐらい、歳の頃なら、二十四、五歳ぐらいだろうか、飲食業に勤める者らしく、黒髪は短めで、細い目をしているが、蛇のそれを思わせるほどきつくはない。


 むしろ、客商売をしているだけあって、優しく穏やかな眼差しだったし、物腰も柔らかかった。


 バーの主人を務めるにはまだ若い気がするが、清潔感がある綿麻生地で設えた真っ白な長袍チャンパオを、すらりとした体躯に身に纏い、様になっている。


 細かな刺繍が一つ一つ丁寧に施された見事な長袍である。煌びやかな金糸で縫い取られているのは、漢方の材料に使われる色々な草花だった。


 仙は、仕事振りも実に手馴れたもので、深いスリットが入った旗袍チャイナドレスにその身を包んだ見目麗しいウェイトレス達が店内のあちこちで愛想を振りまき、次々に注文を取ってきても、慌てる事なくさばいていた。


 だが、言ってしまえばそれぐらいだった。


 やれ、〝蛇目〟だの〝蛇眼〟だのと、随分、大袈裟なあだ名が付いているが、他に特筆すべきところはない。


 先程からカウンターに陣取っているプロレスラーのような大男にしても、どんなに長袍の刺繍の出来がよかったとしても、別に興味はないらしい。


「…………」


 大男はネコ科の獣を思わせる吊り上がった目で、仙の事を値踏みするように見ていた。


 かと言って、長袍の刺繍に関心を示している訳ではなく、バーに足を踏み入れた時から、なぜか仙に対して、含みのある視線を向けていた。


 仙より幾つか歳上だろう、到底、堅気には見えない派手なスーツを着た大男は、新宿歌舞伎町で飲んでいる方が、余程お似合いである。


 地上階のレストランはとうに店仕舞いし、バーもそろそろ閉店しようかという時刻だったが、大男はうまそうに酒を煽っていた。


 時々、乾き物に手を伸ばす。


 カウンターに座る大男を除けば、店内には二、三組お客が残っているばかりで、店の奥にある小じんまりとした舞台では、バンドマンが、ブラックラメ・タキシード姿で、モダン・ジャズを演奏していた。


 辺りにゆっくりと流れているのは、テンポが緩く哀愁と深みが増した、モダン・ジャズの定番、ディヴ・ブルーベックの、『Take Five』だった。


「もう一杯、いいかな」


 大男は何がそんなに面白いのか、にやにや笑って、空になったグラスを差し出してきた。

「次は何に致しましょうか?」


 いつものように愛想よく答えた。


「何がいいか、迷っちまうなあ」


 大男はメニューを手に取ると、さも悩んでいるような顔をした。


「最近は日本でも色々な中国酒を飲めるようになりましたからね」


 にこやかに言う。


「あんたのお勧めを教えてくれるか?」


 大男は期待に満ちた顔をして言った。


「最後の一杯は、『薬酒ヤオチュウ』などいかがですか?」


 仙は少し考えてから答えた。

「『薬酒』?」


 大男は酒に詳しくないのか、怪訝そうな顔になる。


「はい、不老長寿の妙薬ですよ」


 仙は仙人街の人間という事を意識してか、冗談めかして言った。


『薬酒』は、漢方の生薬を漬け込んだお酒の事で、有名なところでは、中国後漢の名医、華陀かだが考案した、屠蘇酒とそしゅがある。


 古くは唐の時代から、正月に一家の健康を祝って飲まれ、いつしか日本にも伝わり、やはり、年始に飲まれていた。


 何の事はない、おとその事である。


「ふーん、不老長寿の妙薬ねえ……それじゃ聞くが、この店に『桂酒けいしゅ』は置いてあるのかな?」


 大男は試すように聞いた。


桂花陳酒けいかちんしゅの事ですか?」


 仙は不思議そうに聞いた。


 桂花陳酒——どちらかと言えば、男性よりも女性に人気がある、果実酒の一種だった。


 金木犀の花を白葡萄酒に漬けて造る、甘みが強くて香りが高いお酒である。


「いいや」


 大男は芝居がかった仕草で首を横に振った。


「するとお客さまが言う、『桂酒』というのは?」


 仙は生憎、心当たりがなかった。


「——月世界に生えている、桂で造られた酒だよ」


『てめえは仙人街のバーのマスターのくせに、そんな事も知らねえのか』、とでも言いたげな顔だった。


「『桂酒』がねえんだったら『流霞酒りゅうかしゅ』はどうなんだ? あるのか、ねえのか!?」


 大男は口調が荒くなってきたが、月世界に生えた桂で造られた酒とは、また随分、現実離れしている。


「おいおい! この店には、『桂酒』も『流霞酒』も、仙人酒は一つも置いてねえっていうのか!?」


 いよいよ声を荒げたが、彼が他のお客の迷惑も顧みず大声を出して欲しがっているのは、普通の銘柄ではない。


 それどころか、そもそもこの世には存在しない、想像上のものだった。


『桂酒』は、中国の月の女神、嫦娥じょうがが住む、月世界に生えた桂を原料としたお酒であり、『流霞酒』もまた、仙人が飲んでいるとされるお酒の事だった。


 いくらこの街が観光客目当てに『ご先祖様は〈桃源郷〉の出身です』などと宣伝していても、いや、だからこそ、逆に、そんな夢物語に出てくるような、仙人酒が置いてある訳がなかった。


 どう考えても無理な注文である。


「『十字坡酒楼』と言えば古くからある〈桃幇〉の一つ、〈傲来幇〉の店だと聞いて来てみれば、大した事はねえ、期待外れもいいところだな!」


 大男は言いたい放題だったが、帰る気はないらしく、メニューを開いた。


「申し訳ございません。よろしければ、他のお酒ならご用意できますので」


 仙は素直に頭を下げ、謝罪の言葉を口にした。


 いつの間にか、他のお客はみんないなくなり、モダン・ジャズの音色も止み、バンドマンは舞台の上から消えていた。


 彼らが立っていた場所には、バンドマンと同じ外見、同じ楽器を携えた、手のひら大の木彫りの人形が、ちょこんと置かれていた。


 ウェイトレス達は仙と大男のやり取りを知ってか知らずか、箒で床を履いたり、テーブルを拭いたり、黙々と店仕舞いをしていた。


「誰が、いつ、てめえに謝って欲しいなんて言ったんだよ? 俺が今日、この店に来たのは、そんな事をしてもらう為じゃねえよ」


 自分以外のお客がいなくなったのをいい事に、いよいよ絡んできた。


「おい、なんとか言えよ! 聞いてんのかよ! 『十字坡酒楼』のマスターさんよ!?」


 煙草に火をつけ、カウンターに足を投げ出して、偉そうに踏ん反り返った。


「——そろそろ、悪ふざけはやめておくか」


 ふいに灰皿の上で煙草の火をねじり消し、居住まいを正した。


「別に俺は本気で『仙人酒』を飲みたかった訳じゃねえ。仙人街で、『〈桃幇〉の守り手』、『現代の仙人』とまで言われる仙鏢師の中でも、あんたの実力は折り紙付きだ。『十字坡酒楼のバーには、本物の仙人がいるらしい』、なんて噂されるぐらいだしな。そんな人間がマスターなら、仙人酒の一つぐらい置いているかも知れねえと、頼んでみたのよ。なあ、〈傲来幇〉のお抱え仙鏢師、〝蛇目〟さんよ?」


 常連客でも知る者が少ない仙のあだ名を、薄ら笑いを浮かべて口にした。


「それとも、〝蛇眼金睛〟と呼ばせてもらおうか?」


 更に別のあだ名まで知っている。


 仙も相当な人物のようだったが、大男も只者ではないようである。


 いくら〈桃幇〉の一員だったとしても、表社会で生きている者は、『十字坡酒楼のバーには、本物の仙人がいるらしい』、程度の噂話しか知らないのだ。


 そう、〈傲来幇〉のお抱え仙鏢師、〝蛇目〟、〝蛇眼金睛〟の名を知る者はいない。


 仙人街の華僑・華人社会に通じる、裏社会に生きている者でなければ。


「私はただの雇われマスターですよ」


 仙は穏やかな顔で、大男の言う事を否定した。


「ここまで来てとぼけるなよ。俺は、〈秦王会しんのうかい〉の、雷横らいおうってもんだ」

 大男、雷横は、自分が演じた茶番は棚に上げ、つまらない冗談はやめてくれという風に言った。


〈秦王会〉と言えば、飲食業・裁縫業・理髪業を主軸とした、いわゆる、『三把刀さんばとう』のチェーン店を全国各地に抱え、ここ、横浜に本社を置く、日本でも有数の大企業グループである。


 ある種の人間が特定の場所で然るべき相手にその名を口にすれば、〈秦王会〉という名は、たちまち、〈桃幇〉の一個の組織・団体を意味する事になる。


「仙人街の、それも〈桃幇〉限定の会員制バーで、あんたに対して〈秦王会〉と言っているんだ、それが何を意味するのかは判るよな?」


 雷横は手にしたグラスの中で氷を鳴らし、持って回った言い方をした。


「〈桃幇〉の中でも、〈秦王会〉は特別だ。観光客相手にでっち上げた、安っぽい見世物なんかじゃねえ。あんたのところと同じ、正真正銘、伝説の神仙に連なる者の集まりって訳だ」


 自分が、〈桃幇〉、〈秦王会〉の人間であり、正真正銘、伝説の神仙に連なる者だという事を明かすと、満足そうに酒を煽った。


「だからこそ、あんたの事もよく知っている。数え上げりゃきりがねえ、〈芒碭幇ぼうとうぱん〉との抗争に、〝混世魔王こんせいまおう〟との対決と、同じ業界にいりゃあ、いやでもあんたの噂は耳に入ってくるからな。仙人街の裏社会であんたの事を知らない奴がいるとしたら、そいつは間違いなくモグリだぜ」


 雷横はこの辺りでは有名らしい、仙と出会えた事が嬉しいのか、いい加減、酔いが回ってきたのか、饒舌になっていた。


「街の裏側に顔を突っ込んでいれば、いずれ必ず、知る事になる——仙鏢師〝蛇目〟、あんたの事をな」


 雷横はもう一度、仙のあだ名を口にした。


「……私はただの雇われマスターですよ」


 仙は謙遜するように微笑んで、手元にあるグラスを拭き始めた。


「へえ、そうかい。だけどな、〈桃源郷〉から出てきたご先祖様が作ったこの街じゃ、仙匪せんぴ仙賊せんぞく、おまけに、何かの拍子に陰の気が凝れば、妖怪変化、魑魅魍魎も悪さをする。そんな時、中国武術を修め、武芸十八般に優れ、気功術に秀でた、三拍子揃った仙鏢師様の出番って訳だ。なあ、今更隠したって、何の意味もないぜ。あんただってそのうちの一人だろう、〝蛇目〟さんよ?」


 雷横は胸の内ポケットから、面倒臭そうに煙草を取り出した。


「ほう?」


 仙は俯きがちにグラスを磨いていたが、感心したような声を漏らした。


「こう見えても俺もあんたと同じ、〈秦王会〉の仙鏢師なんだけどな?」


 雷横は仙がなかなか本性を現そうとしない事に、呆れたように言った。


「その〈秦王会〉さんが、雇われマスターの私に、何の御用で?」


 仙は一個目のグラスを磨き終えると、次のグラスを手に取った。


「うちがただの企業や幇じゃない事はあんたも知っているだろう」


 雷横はいやらしく笑い、マッチで煙草に火をつけた。


 確かに大企業としての〈秦王会〉も、〈桃幇〉としての〈秦王会〉も、この雷横という男には、似つかわしくない感じがする。


〈秦王会〉は、ただの企業でも幇でもない、もう一つの顔を持っている。


「……『黒社会』」


 仙はグラスを磨いていた手を止めて、独り言のように呟いた。


『黒社会』——チャイニーズ・マフィアである。


「そう、近々うちで新しいビジネスを始める予定なんだ。その話をする為に、ここまで足を運んできてやったんだぜ」 

   

 雷横はようやく仙が話に乗ってきたと思ったのか、うまそうに煙草を吹かした。


「新しいビジネス、ですか?」


「その名も、『闘仙とうせん』——地下格闘技大会ってやつさ」


「もしかして、賭博を?」


「黒社会の資金源と言えば、昔から、黄(売春)・賭(賭博)・毒(麻薬)って決まっているからな。俺やあんたみたいな人間が選手として見た事もないような戦いを繰り広げ、観客を楽しませる。見事、優勝した暁には、高額の優勝賞金と、最強の仙鏢師の栄誉が与えられるって寸法さ!」


「それはまた結構な話ですね」


「すでに予選は世界各地で開催中だ。毎晩、賭け試合が行われ、億単位の金が動いている。たった今、この瞬間も、野心溢れるフリーの仙鏢師から、名が知れた各幇お抱えの仙鏢師まで、続々と選手登録を済ませているところだ。ここまで言えば、もう判るよな?」


 雷横は得意そうな顔をして吸いかけの煙草を灰皿に置き、立ち上がった。


「〈桃幇〉の中でも一大勢力を誇る、〈傲来幇〉のお抱え仙鏢師、〝蛇目〟さんよ。あんたに『闘仙』に参加してもらえれば、こんなに嬉しい事はねえ」


 雷横は仙の肩を掴んで強引に引き寄せると、耳元で思わせぶりに言った。


「あんたぐらいの大物なら、最初からシード選手として招待してやってもいい。勝っても負けても高額の報酬、選手登録するだけでも結構な契約金、その上、高級ホテル並のサービスも受けられる。こんな場末の酒場で酔っ払い相手にぺこぺこしているよりも、『闘仙』に参加した方がよっぽどいい思いできるってもんだ。なあ、参加したくなってきただろう?」


 雷横は仙の耳元で、悪魔のように囁いた。


「どんな用かと思えばそういう事でしたか」


 仙は鼻で笑うように言った。


「何がおかしい?」


 雷横は仙から離れ、じろりと睨みつけた。


「何度も言いますが、私はただの雇われマスターなんですよ。まずは雇い主である孫幇主に話を通してもらわない事にはね」


 仙は根気強く、雷横に説明した。


「幇主に話を通してくれっていう事は、てめえが仙鏢師だって事は認めるんだよな?」


 雷横はため息混じりに言って、カウンターの椅子に座った。


「…………」


 仙は耳がなくなったように、グラスを磨き続けるばかりで、答えようとしなかった。


「ちっ、面倒臭い野郎だな! 〈傲来幇〉の幇主には話しに行ったが、断られちまったんだよ! あのアマ、てめえの『闘仙』参加を認めて運営にも力を貸せばそれ相応の礼はすると言っているのに、全然、首を縦に振りやがらねえ! おかげで——!?」


「だったら尚更、お帰り下さい」


 仙は最後まで話を聞こうとしなかった。


「な……!?」


 雷横は唖然とした。


「もう閉店のお時間ですし、お引き取り下さい」


 仙はますます、神経を逆撫でするような事を言った。


「悪いがそういう訳にはいかねえんだ、お偉いさんからてめえの実力を確かめてこいって言われているんでな。ちょっと付き合ってもらうぞ」


 雷横は獲物を狙う獣のように、つり目に危険な光を宿した。


「それはそれは、こちらもそれなりの対応をさせて頂きましょうか」


 仙はまたしても穏やかな調子で、火に油を注ぐような事を言った。


「それなりの対応だと!?」


 雷横は面白いと言わんばかりに笑った。


「ええ、そうです」


 仙はしかし、電話で警察を呼ぶ訳でも、防犯ブザーを鳴らす訳でもなかった。


「望むところだ。思いっきりやってやろうじゃねえか、なあ、〝蛇目〟さんよ!?」


 雷横は仙の意図を察して豪快に笑ったが、本当に仙はこんな大男の相手をしようというのか?


「私はただの雇われマスターなんですけどね」


「ああ、そうかよ! ただの雇われマスターかどうか、確かめさせてもらおうじゃねえか!?」


 雷横はネクタイを緩め、シャツの第一ボタンを外し、席を立った。


「貴方が何をどう確かめようが、私は『闘仙』なんて大会には出ませんよ」


 仙は自分よりも頭一つ分は背が高い、身長優に一八〇センチはある雷横を前にしても、落ち着き払っていた。


「今更、何を言ってやがる! 〈秦王会〉が仙鏢師にして〝挿翅虎そうしこ〟と呼ばれる雷横様が、てめえの実力を直々に評価してやるって言ってんだよ!?」


 雷横は全身から、暴力の匂いを発した。


「よっぽど、自分の功夫コンフーに自信があるみたいですね」


 仙は他人事のようだった。


「お高くとまっていられるのも今のうちだ!」


 雷横は言うが早いか、仙の首根っこを掴み、カウンターの中から、無理矢理、引きずり出した。 


「!?」


 仙は玩具箱から乱暴に引っ張り出された人形のように、カウンターの上を四つん這いで引きずられ、綺麗に並んだお酒のボトルや空のグラスを道連れにして床に放り出された。


「寝るにはまだ早い!」


 雷横は間髪入れずプロレスのボディスラムの要領で仙を抱え、今度は背中から床に叩きつける。


「どうした、さっさと立ち上がってこねえか!?」


 仰向けに寝ている仙を力任せに立ち上がらせて、容赦なく蹴りを入れた。

「!?」


 仙は堪らずたたらを踏んで、そばにあったテーブルに頭から倒れ込んだ。


 その拍子に食べ残しのお皿や飲み残しのグラス、呼び鈴や灰皿、椅子が弾け飛び、一瞬、辺りがしんとなる。


 ウェイトレス達はまだ店内に残っていたが、仙が乱暴されているのを見ても、表情一つ変える事なく、誰一人、助けを呼びに行こうともしなかった。


 彼女達の陶器のように白い顔がまるでマネキン人形のそれのように、無数のランタンの明かりに浮かび上がっていた。


 なんだか本当の人形のように、身じろぎ一つせずに突っ立っているのである。


「最近はその辺にいるチンピラのような輩を仙鏢師と言うんですか?」


 仙は自分の手のひらや衣服についた、煙草の灰や食べ物をはたき落としながら、軽口を叩いた。


「そう来なくっちゃつまらねえ、この程度で眠ってもらっちゃ、肩透かしもいいところだからな」


 雷横は仙が体勢を立て直したのを見ると、おもむろに中国拳術と思しき特徴的な構えを取った。


 広東省、五大名拳に数えられる、『洪家拳こうかけん』の高級な型、五形拳の一つ、〝虎の構え〟、だ。


「その構え、『洪家拳』ですか」


 仙は門派を察し、同じく中国拳術の構えを取った。


「そう言うてめえは近接短打を得意とする、『八極拳はっきょくけん』か。生憎だったな、俺が〝挿翅虎〟と呼ばれる所以は、早技と身のこなしにある。間合いを取っちまえば、この勝負、俺のもんだ!」


 雷横は自分に分があると見て笑った。


 確かに仙の使う『八極拳』は、『崩撼突撃』——「山をも崩し、揺るがすような突発的な攻撃」、と言われ、どんなに固い防御だろうと、接近戦で強烈な一撃を放ち、打ち崩す戦法を得意としている。


 だが、逆に言えば、相手に一定の距離を保たれると、不利だという事である。


「何事もやってみなければ判らないものですよ」


 仙は相性の悪い相手から弱点を指摘されても、冷静だった。


「今すぐ、証明してやろうじゃねえか!」


 雷横は〝挿翅虎〟の名に恥じない、翅が生えたような軽い身のこなしで、絶妙な間合いを保ったまま、〝虎爪こそう〟を繰り出した。


〝虎爪〟——己の指先を曲げ、虎の爪を模して、相手の急所を引き裂く技である。


「食らえ!」


 雷横は畳み掛けるように攻撃し、一見すると優勢に見えたが、なんとなく様子がおかしかった。


 最初のうちは自慢の身のこなしで仙との間に一定の距離を保っていたが、徐々に思うようにいかなくなっていた。


 実際、雷横の顔には焦りの色が浮かんでいた。


 なぜなら仙に向かって拳を突き出すと、足で蹴りを入れようとすると、その度にすり寄ってきては、綺麗に受け止められてしまうからである。


「間合いを取れば簡単に勝てるんじゃなかったんですか!?」


 仙は皮肉っぽく言った。


「調子に乗るんじゃねえ!」


 雷横の顔には、今やはっきりと焦燥の色が浮かんでいた。


「貴方の言う通り『八極拳』は間合いに弱いかも知れないが、それを補う技もある!」


『八極拳』は一般的に間合いに弱いと言われ、弱点を補う為に、『劈掛拳ひかけん』や、『蟷螂拳とうろうけん』を学ぶ。


 仙はしかし、『劈掛拳』も、『蟷螂拳』も使わなかった。

   

 ただ攻撃を掻き分けるように近付き、押し合いへし合いするように凭れ、隙あらば、体当たりしようとした。


 元々、『八極拳』に伝わる、相手にしつこく張り付いて隙を誘い、体当たりする事で姿勢を崩す、あいほうこう、という技だった。


「この野郎!?」


 雷横は鬱陶しそうに言った。


 次の瞬間——、


 仙が力強く足を踏み鳴らし、石畳の床に、まるで蜘蛛の巣のように亀裂が走った。


 と同時、雷横の胸板に片肘を打ち込んだ!


 これぞ『八極拳』特有の地面を砕くほどの踏み込み——〝震脚しんきゃく〟を利用した一撃必殺の肘打ち、すなわち、〝裡門頂肘りもんちょうちゅう〟である。

 だが、


「くっくっく、驚け、蛇目野郎。結構な功夫だが、俺には通じねえ」


 雷横は余裕綽々だった。


 普通の人間なら、肋骨の二、三本は折れているはずだ。


 激痛のあまり、悶え苦しんでいてもおかしくなかった。


「……〝硬気功こうきこう〟、ですか」


 仙は感心するように言った。


〝硬気功〟——特殊な訓練を行う事で体内にある〝気〟を練り上げて、己の肉体を鉄のように硬くする。


少林七十二芸しょうりんななじゅうにげい』の一つ、〝鉄砂掌てっさしょう〟なる錬功法を行えば、鍛え上げた拳は、高く積み上げた煉瓦さえ、一撃で打ち砕けるようになるという。


 他にも〝鉄布衫てっぷさん〟なる錬功法を積めば、刀槍をはね返す肉体を得られるという。


 雷横という男、さすがに単身、乗り込んでくるだけあって、その実力、推して知るべしである。


「やっぱり噂には尾ひれがつきものだな、拳術の腕前は正直、驚くには値しねえ、せいぜい及第点ってところだ」


 雷横は仙に背中を見せて歩き出し、距離を取ったところで、振り返った。


「お次は、武芸十八般と行きたいところだが、生憎、ここには武器がねえ」


 辺りを見回し、残念そうに言った。


「ここは予定を変更して最終試験といこうじゃねえか。伝説の神仙に連なる『桃幇の守り手』、『現代の仙人』とまで言われる、仙鏢師が真髄、『気功術』を使ってな」


 雷横が仙に向かって両手を大きく開き、見せつけた直後、両手の爪は見る見るうちに獣のそれのように、長く、鋭く、伸びていくではないか。


「それが仙鏢師が真髄? 『気功術』ですか? 見たところ、〝硬気功〟を応用したものみたいですが?」


 仙は驚く事なく、どちらかと言えば、冷めた様子だった。


「こいつは俺が〝挿翅虎〟と言われる、もう一つの所以だ」


 雷横がカウンターに爪を立てて軽く引っ搔くと、頑丈な樫の木で作られているはずのそれは、豆腐のように削り取られた。


「仙鏢師が中国武術を修め武芸十八般に優れ、『気功術』に秀でているというのは本当みたいですね」


 仙はいかにも感心しているように言ったが、本当のところ全く興味はなさそうだった。


「ただそうなると、やっぱり私は貴方方とは違うと、仙鏢師ではないと言わざるを得ませんね」


 仙はさも飽き飽きとした調子で言い、明らかに雷横の事を挑発していた。


「だったらてめえは、何だっていうんだ!?」


 雷横は野獣のように牙を剥き、襲いかかってきた。


「おっと!」


 仙は慌てる事なく、ひらりとかわした。


「この野郎、ちょこまかと動きやがって!」


 雷横は仙の事をずたずたに引き裂こうと、虎の爪を振り上げ、追いかけ回した。


 仙はそれこそ草食動物のように、ぴょんぴょんと飛び跳ねて逃げ回った。


 雷横が虎の爪を振り下ろす度にテーブルや椅子を盾代わりにする。


 だが、まるで薄紙のように次々と引き裂かれてしまう。


「いい加減、終わりにしましょう!」


 仙は何を思ったのか、突然、雷横に背中を向け、壁に向かって全速力で走り出した。


「気でも狂ったか!?」


 雷横は嘲り笑ったが、すぐに何かに気付いたようにはっとした。


「——〝軽身功けいしんこう〝!? 〝飛櫓走壁ひたんそうへき〟か!?」


 雷横が叫んだ時には、もう遅かった。


 仙は壁を駆け上がり、くるりと宙を舞っていた。

「ちぃっ!?」


 雷横は慌てて振り返ったが、仙が背後に着地する方が早かった。


「遅い!」


 仙はどんな攻撃を仕掛けるのかと思いきや、雷横の背中を指先で、ちょんと突っついただけだった。


「てめえ、何しやがった!? 畜生、何だこりゃあ!?」


 雷横は一瞬、きょとんとし、恐怖に顔を引きつらせた。


 なぜなら、突然、金縛りにでも遭ったように、指一本、動かす事ができなくなっていたからである。


「うおお!?」


 雷横は顔以外、動かす事ができず、恐怖と混乱のあまり、大声で叫んでいた。


「これじゃご自慢の虎の爪もお飾りと変わりありませんね。こんなに簡単に引っ掛かるなんて張り合いがない」


「おかしな技を使いやがって!?」


 雷横は歯軋りをした。


「〈秦王会〉の仙鏢師、〝挿翅虎〟の雷横さんともあろうお人が、まだ何をされたのか判らないとは。貴方に施したそれは、『点穴術てんけつじゅつ』と言うんですよ」


 仙は皮肉を交えながら、惜しげもなく手の内を披露した。


『点穴術』——人間の全身にある、いわゆるツボ、すなわち、経穴を刺激し、様々な生理的反応を引き起こす術、である。


 特定の経穴を突く事により、経脈を遮断、五感を奪い、死に至らしめる事もできる。


 仙が雷横にしたように、金縛りにする事も可能だった。


「まだ、私の実力とやらを試しますか? 今の貴方にはお喋りぐらいしかできる事はないでしょうけどね」


 仙は雷横の鼻先で、からかうように言った。


「今夜はこの辺で終わりにしましょう。貴方もお偉いさんに私の事を報告しなければならないでしょう、〈傲来幇〉の許仙は少しばかり中国武術に詳しいだけの雇われマスターで、『闘仙』に出る気はない、とね」


 仙は念を押すように言った。


「そうそう、一時の名声や報酬に目が眩んで、毎日、肉体の鍛錬ばかりしていると、『屍守鬼ししゅき』になってしまいますよ。気を付けて下さいね」


 仙はお姫様抱っこをして、雷横の巨体を軽々と抱え、出口に歩き出した。


「おい、待て、てめえ、何をする気だ!?」


 雷横は最早、声を荒げるだけで精一杯で、抵抗一つできなかった。


「表にタクシーをお呼びしますよ。行き先は、〈秦王会〉の本社ビルでよろしいですか?」

 仙は返事も待たずに歩いていく。


「ありがとうございました、またのお越しをお待ちしております!」


 今まで黙って見守っていたウェイトレス達は、皆、満面に笑みを浮かべて頭を下げた。


「ちくしょう、今度会ったら全員、ぶっ殺してやるからな!?」


 雷横が茹で蛸のように顔を真っ赤にした。


 ちょうどその時、魔除けの象徴とされる蝙蝠を象ったドアベルを鳴り響かせながら、仙が雷横を抱えて連れて行こうとしたドアが開いた。

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