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『嘘ぉ? お兄さん、ここに来るの初めてなの?』

『そもそもナイトクラブはほとんど経験ないかな』

『えー? じゃあ、いつもはどんな音楽聞いてるの?』

『クラシックとか――ロックも聞くかな。EDMをまともに聞くのは初めてだね』

『初めて聞いてみて、どう?』

『そうだな……一時的情動に身を委ねるものも悪くないと思わされるね』

『どういう意味?』

『ふふふ……テンションが上がる、ってこと』

『もう、最初からそうやって言えばいいじゃん!』

 俺よりも何歳も年下であろう女の笑い声が耳裏のスピーカーを通して脳を揺さぶる。そのやりとりに辟易しながらVIP席からダンスフロアを睨みつけていた。隣には先程まで素人の女が座っていたが、それも既にどこかへ行った後だった。

「おい。ナンパするならせめて回線をミュートにしろ、このバカ警察が」

 本来なら手首のデバイスに向かって怒鳴りつけたいところであったが、この回線は俺と東雲だけの単独通信ではない。衝動を堪えながらデバイスに囁きかけると、唸り声のようになってしまった。

 東雲はとっくにその女をあしらったらしく、笑いながら応答する。

『君だって楽しめばいいのに。VIP席ならスタッフが女の子をつけてくれただろう』

「うるせえ。もうとっくに追い払ったわ」

『お前といると俺が霞む、とか君が言うから僕はフロア巡回に出ているのに。それだと意味がないだろう』

「余計なお世話だ。ここへ何しに来たかわかっているのか、お前は」

『本分を忘れちゃいないよ。今のところこちらは異常なしさ。そちらはどうだい?』

 俺の座る位置よりも更に奥まった場所では警護対象の田原瑛麻とその恋人・清水大雅、そして何人かの友人がシャンパンボトルを開けて音楽を楽しんでいる。その中でも真理愛は田原瑛麻の隣の位置を他の人物に譲らず、しかし自然に酒宴を楽しんでいるように振る舞っていた。真理愛はやはりなかなかの仕事人だと思わされる。

「……こちらも特に異常はない。清水にも動きはなさそうだ」

『だろうね』

 男の声色は「まったく期待していない」と物語るように落ち着きを払っているものだった。

 清水大雅の奇妙な言動をひとつ確認しているため、俺はその男から警戒を解くことはできなかった。それにも関わらず、東雲が清水を被疑者から外してもいいというような確信を得ているようだった。俺にはその理由がまったくわからなかった。

「明らかに怪しいのにか?」

『……臭わないんだよ、彼からは』

「人の良さに騙されているんじゃないのか?」

『――かもしれないね。だから君は警戒をそのまま続けてくれ』


 時は遡り、二十一時三十五分。東雲がタバコを買いにコンビニへ立ち寄った直後、例の死角に搬入業者らしき男ふたりと清水大雅の姿が出現したのを小型カメラが捉えた。搬入された機材自体もいわゆる舞台演出装置で妙なところは見当たらず、機材搬入にしてはギリギリの時間だとは思ったものの、清水が男たちとやりとりをしたことを特に気に留めなかった。

 二十一時四十分頃、クラブの表通りには長々と入場待機列が形成されており、その中に千葉恵吾の姿を確認することができた。取り澄ました顔で女と話しながら開場を待っている。千葉がこちらを見つけたらしく、目が合うとウインクで返されて虫唾が走った。そういう所作が似合うのがムカつくんだよ。隣の男も片目を瞑ってソイツに挨拶を返したのを目撃してしまい、二重で悪寒が走る。気障ったらしいったらない。

 待機列を通り過ぎてクラブの受付でVIPパスとデバイスから身分証明書(捜査用に正式に偽装しているもの)を提示する。一通りの身体検査をセキュリティから受けていると、真理愛と田原瑛麻そしてもうひとり女が俺たちを迎え入れるためにクラブの中から出てきた。

「ショウさん! 今回はイベントへお越しくださりありがとうございます」

 今夜の主宰である田原瑛麻が率先して挨拶をする。

「こちらこそお招きいただきありがとう。そちらの方は?」

 セキュリティから解放された東雲が田原の隣にいる女に顔を向けながら微笑みかける。その女は心なしか頬を赤く染めて、しかし目に鋭さを宿しながら東雲に駆け寄って微笑みを返す。遊び慣れている振る舞いに、金に近いロングの茶髪の女。その顔の隣には『伊藤ひまり』という名前と田原市議と同派閥議員の娘という情報が表示されていた。

「伊藤ひまりと申します。瑛麻の大学時代からの友達で、今回協賛のNPO・aroundで活動してます」

「初めまして。僕はショウ。真理愛ちゃんの兄みたいなものだと思っていただければ。こちらは僕の友人のツナ。彼は機材オタクでね……一度はこのクラブの見学に来てみたいということで特別に招待を頂きました」

「ショウさん、敬語じゃなくていいですよ。瑛麻には砕けた話し方しているんでしょう?」

「じゃあ、お言葉に甘えてタメ口でいこうかな」

 伊藤ひまりは明らかに女の目つきをしている。東雲と「あわよくば」を狙っているらしい。俺のことなど眼中に入っていないかもしれない。

「ツナさん、こんばんは。今回はお越しくださりありがとうございます。今夜はよろしくお願いします」

 田原瑛麻は友人の様子を苦笑いで流して、俺に向かって手を差し出してきた。彼女とは初対面だったが、こちら側の資料は渡っているため俺たちの顔は把握できているようだった。意味ありげな挨拶に俺も短く「よろしく」とだけ返し、軽く握手する。

「本当は紹介したい人がもうひとりいるんですけど……」

 田原瑛麻がキョロキョロと辺りを見渡しながら残念そうな表情を浮かべていると建物の中からひとりの男が小走りに近づいてくる。黒髪短髪の爽やかな若い男――清水大雅だ。田原はその男を見つけるとホッと胸を撫で下ろし、しかし次の瞬間には可愛らしい怒り顔を作って清水に詰め寄った。

「ちょっと大雅、どこに行ってたの? 今夜初めて会うゲストがいるから紹介するって言ってたのに」

「ごめんごめん、ボトルの追加をスタッフさんに頼んでた」

「それ今すること?」

「それより紹介してよ、真理愛ちゃんのお知り合いなんだろ?」

 田原は膨れっ面で清水をひと睨みした後、溜め息をひとつ漏らす。

「もう……ショウさん、ツナさん、こちらは私の恋人の清水大雅です。大雅、真理愛ちゃんのご親戚のショウさんと、ショウさんのお友達のツナさん」

「初めまして、ショウです」

 大柄で綺麗なツラを携えてきた東雲を見上げて少し圧倒されている様子の清水だったが生来持ち合わせているだろう明るさで満面の笑みを浮かべて東雲の手をがっしりと握った。

「初めまして、ショウさん。清水です。ツナさんも今晩はよろしくお願いします」

 続いて俺の手を握って太陽のような笑顔をこちらに向けてくる。資料を見た時の、クラブ遊びが似合わない男という印象は変わらない。

「……よろしく」

 挨拶を交わしながら、男の発言に対する猛烈な違和感を無視することができなかった。

 一通りの挨拶を済ませると建物内へ戻っていく四人に俺と東雲もついていく。その四人に気取られぬようにデバイスを操作し、先程撮影された搬入業者と清水の映像を東雲へ共有した。

 清水は田原にボトルの追加を頼んでいたと言っていたが、実際は搬入業者と何やらやりとりをしていた。ただ機材搬入を指示していただけなら嘘をつく必要のない事柄なのに、わざわざその事実を隠している。

 映像を確認しただろう東雲は眉をぴくりとも動かさず、四人と談笑を続けている。

 そのうちにVIP席に案内され、それぞれソファに腰をかけスタッフからドリンクを何にするか尋ねられた時。

「僕はテキーラで。瑛麻さん、真理愛ちゃん、少しだけ席を外すね」

「じゃあ、ショウさんが戻ってこられたら乾杯を……」

「待たせるのも申し訳ないから、僕のことは気にせずに先に飲んでおいて」

 気遣う田原を東雲の灰色の瞳が捉えたかと思いきや一瞬にしてVIP席を見回したのがわかった。真理愛を除いた既に酒の入っている三人はその視線に気づくことすらないだろうと思えるほど一瞬だ。

「すぐに戻るよ」

 その目にきらめいた紅の光に東雲の行動の意図をなんとなくだが察することができた。

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