祖母の小説
梁山 菫(はりやま すみれ)
第1話
久しぶりの横浜市関内駅に降り立ったのは午後二時過ぎのことだった。駅から伸びる商店街を抜けていくと、大きな通りに出る。横浜スタジアムのすぐ側にある交差点だ。そこを渡って左に進むと、道沿いに葬儀場がある。
葬儀場の入口では喪服を着た女性が受付をしていた。伯父の奥さんで名前は美沙子といったはずだ。彼女は私を見ると、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑顔を浮かべて迎えてくれた。
「あら、紗弥ちゃんじゃない。久しぶりね。元気にしてたかしら?」
「ええ、まあ……」
私は曖昧に答えた。すると、美沙子は目を細めて笑った。
「ごめんなさいね。急に来てもらって」
「いえ、大丈夫ですよ」
私は首を横に振って言った。それから、美沙子に案内されて通された部屋に入った。そこには伯父がいた。伯父の顔を見て懐かしくなった。最後に会ったのは何年前になるだろうか。
「よう、紗弥」
「どうも」
私は頭を下げた。
「相変わらず仏頂面してんなあ」
伯父は苦笑いしながら言った。
「そんなことないですけどね」
私もつられて笑う。
「ほら、やっぱり変わってねえ」
「そういう伯父さんだって変わらないじゃないですか」
「俺は昔からこんな顔だよ」
「冗談ばっかり」
私たちは声を上げて笑った。美沙子がお茶を持ってきてくれて、しばらく談笑した。
「それにしても、もうお前がアラサーかよ。信じられんわ」
「そうですか? これでも一応、仕事してるんですけど」
「ああ、知ってるよ。でも、まだ二十代なんだろ。若いわ」
「若くはないと思いますよ」
「いや、俺らから見たら十分若いわ」
「そうですか」
「ああ」
「……」
「……」
そこで会話が途切れてしまった。私は何を話せばいいのか分からなくなってしまったのだ。しかし、沈黙を破ったのは伯父の方だった。
「本当に来てくれるとは思わなかったよ」
「どういう意味ですか?」
「いや、別に深い意味があるわけじゃなくてさ。ばあさん、お前に対して厳しかっただろ。それに、あんまり連絡取ってなかったみたいだし」
「そうですね」
「だから、来るのを渋ると思ってたんだ」
「どうして?」
「なんとなくだけどな」
「私、そこまで薄情者じゃないですよ」
「ああ、そうだよな」
「そうです」
「うん」
「はい」
再び沈黙が訪れた。今度は私がそれを破った。
「あの、お線香をあげてもいいでしょうか」
「もちろんだ」
「ありがとうございます」
私は立ち上がると、祭壇の前に行った。祖母の写真が飾られていた。その写真の中の祖母は満面の笑みを浮かべていた。私は胸が苦しくなるのを感じた。祖母のこんな表情を見るのは初めてだった。いつも背筋を伸ばして、眉間に皺を寄せているところしか見たことがなかった。
私は手を合わせた。祖母のことを思いながら祈った。どうか安らかに眠ってほしいと願った。しばらくして目を開けると、伯父夫婦が私のことをじっと見つめていることに気づいた。
「そんなに見ないでくださいよ」
私は恥ずかしくなって言った。
「いや、なんか大人になったなあって思ってさ」
伯父がしみじみとした口調で言う。
「そんなに変わったように見えますかね」
「見えるさ。昔はあんなに怖がっていたのに、今は全然平気みたいだしな」
伯父が顎髭を撫でながら言う。
「まあ、慣れましたからね」
「そんなもんなのか?」
「そんなもんですよ」
「ふーん。そんなものか」
伯父は感慨深げに呟いた。その後、葬儀は滞りなく行われた。伯父は祖母の生前から色々と準備していたらしく、特に問題もなく進んだ。私はというと、親族席に座ってただ眺めているだけだった。
葬儀が終わると、美沙子と二人で祖母の家に行くことになった。祖母の家は関内の駅から歩いて十五分ほどのところにある、アパートの一室である。私も中学生まではここで暮らしていた。
「何年ぶりかしらね。ここに来たのは」
歩きながら美沙子が言った。
「十年くらい前じゃないですか」
「そうよね。もうそんなになるのかしら」
「ええ」
「あの時は紗弥ちゃんもまだ中学生だったのにね」
「もう立派な社会人です」
「本当ね。時が経つのは早いわ」
「……」
「今日はゆっくり休んでね。疲れてるでしょうし」
美沙子は微笑んだ。
「はい。ありがとうございます」
私は礼を言って頭を軽く下げた。美沙子を見送ると鍵を使って中に入る。居間に入ると、懐かしさが込み上げてきた。私はソファーに腰掛けた。懐かしい匂いに包まれる。
1人でしばらくボーッとしていると、突然窓を叩く音が聞こえた。驚いてそちらを見ると、そこにはオレンジ色のミミズクがいた。
「久しぶりだね」
私は立ち上がり、カーテンを開けた。すると、ミミズクは窓ガラスの向こう側からこちら側に入ってきた。そして、羽ばたいてテーブルの上に止まる。
「元気にしてたか?」
ミミズクは慣れた様子で話しかけてくる。
「まあまあだよ」
「そっか」
「うん」
「美鶴が亡くなったんだってな」
「知ってるの?」
「ああ、昨日美沙子に聞いた」
「そうか」
「お前がここに来ることも聞いていた」
私は黙ってうなずいた。
それからしばらく沈黙が続いた。やがて、ミミズクーーブッコローが口を開いた。
「悲しいよ」
「私もだよ」
「あいつが死ぬなんて信じられない」
「本当にそうだよ」
「あんなに強い女だったのにさ」
「そうだね」
「悔しいな」
「うん」
「もっと一緒に過ごしたかった」
「……」
「もっと早く会いに来いよ。バカヤローが」
私は唇を強く噛むと、今まで出でこなかった涙が溢れ出てきた。私は声を押し殺しながら泣いた。
伯父も伯母も私に対して怒らなかった。就職して以来会いに来ない、薄情な孫娘だというのに彼らは優しかった。それがどうも居心地が悪かった。この少し口の悪いミミズクに私は甘えたくなったのだ。
私は泣き続けた。泣いて、泣いて、泣きまくった。ミミズクは何も言わずに私の肩に乗ってきた。その温もりを感じながら、さらに涙を流した。
どれくらい時間が経っただろうか。ようやく気持ちが落ち着いてくると、ミミズクは私の肩から飛び立った。
私は立ち上がって大きく伸びをした。空はすっかり暗くなっていた。電気をつけて時計を確認する。午後七時半過ぎになっていた。
***
散歩でもしようと思い、外に出た。夜の街を歩くのは久しぶりだった。街灯の明かりを頼りに進んでいく。大通りに出ると、車が行き交っているのが見える。その脇には歩道があって多くの人が歩いている。しかし、その数は昼間よりも少ない気がした。
駅前まで来ると、賑やかな喧騒が聞こえてきた。人通りも多くなり、店の照明が眩しく感じる。私はベンチに座ってぼんやりと辺りの様子を眺めていた。
しばらくして立ち上がると、また当てもなく歩き始めた。どこかに行きたいわけではなかった。ただ、じっとしていられなかっただけだ。
十分ほど歩いたところで見覚えのある書店を見つけた。そこは私がまだ小学生の頃、祖母によく連れて来られた覚えがあった。私は引き寄せられるように店に入っていった。
店内は明るく、広々としていた。私はぶらぶらと見て回った。雑誌のコーナーを通り抜けて、二階に上がる。そこには小説や漫画などが置かれていた。私は適当なものを手に取ってパラパラとめくっていく。そして、元の場所に戻すということを何度も繰り返していた。
祖母も私もは本を読むのが好きだった。暇さえあれば書斎に入り浸っていた。だから、本屋に来るのも好きだった。私はよく祖母に連れられて、この本屋にやってきたものだ。
ふと、ある本が目に留まった。それは祖母が読んでいた小説だった。私はそれを手に取ると、表紙を見た。著者の名前は知らないものだった。
私はレジに行って会計を済ませると、祖母の家に帰ることにした。家に帰ると、ミミズクが出迎えてくれた。
私は居間のソファーに腰掛ける。ミミズクは私の膝の上に乗ると、丸くなって寝てしまった。私はしばらくの間、ミミズクの背中を撫でながら、本を読んでいた。そして、読み終わるとそれを閉じた。
私は祖母の書斎に向かった。部屋の扉を開けると、中は真っ暗だった。手探りでスイッチを探してオンにする。部屋全体が明るくなった。
机の引き出しの中を漁ると、古いノートが出てきた。表紙には『小説』と書かれている。私はそれに手を伸ばした。そして、ページを開く。
そこに書かれていたものは拙い小説だった。私が小学生の時に書いたものだ。物語に登場する人物の名前も性別も年齢もバラバラだ。
私は笑いそうになった。なぜこんなものを大事に保管しているのか理解できなかったからだ。それでも最後まで読むことにした。
物語の結末はこうだ。主人公は好きなことをして生きることに決めた。彼は旅に出て色々な国を見て回る。そこで様々な人と出会って、別れを経験していく。そして、最後には愛する女性を見つけて結ばれるというハッピーエンドである。
「何これ」
私は思わず呟いていた。あまりにも幼稚な内容に恥ずかしくなる。きっと、途中で投げ出したに違いない。私はそう思った。でも同時に羨ましいとも感じた。私はそんな風に生きたいと強く願った。
祖母の読んでいた小説も似たような内容だった。祖母もそう願っていたのだろうか。
しばらくするとミミズクは目を覚ました。起き上がったミミズクは首を左右に動かした後、こちらを見てきた。私は笑って、ミミズクの頭を指先で優しく撫でた。
「ブッコローの言うとおりだよ」
私は言った。ミミズクは小さく鳴くと、再び丸まって眠りについた。
祖母の小説 梁山 菫(はりやま すみれ) @ririririgr27
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