最終話

 どちゃり、という重々しくも耳に響く金属音を立てて、膨らんだ麻袋が卓上に乗せられた。


「——この金をやる。だからよう琦琦ききの墓を桑畑に作らせてくれ」


 きくは卓を挟んで向かい側に立つの良い老婆——琦琦が務めていた養蚕農家の女主人へそう持ちかけた。


 ここは養蚕小屋の離れにある小屋だ。菊は昼にこの養蚕場を訪れ、この婆を呼びつけた。


 ——死んだ琦琦は、機織り師になるのが夢だった。だから、機織りの「始まり」であるこの地に埋めてやりたかった。


 だが、婆はいつものでかい声で、横柄に言った。


「ふん! いきなりいなくなっておいてどの面下げて出てきたのかと思えば、そんな話かい? とっとと消えな、和人! こちとら山賊どもに働き手を何人か殺されちまって商売あがったりなんだよ。そんなに構ってなんか——」


 菊は雷雲が瞬くような速さで抜刀し、婆の首筋に刃を突きつけた。


「——金は払うって言ってんだろ、糞婆くそばばあ


 底冷えした声でそう告げる菊。


 さすがの婆も、光り物の前ではいつもの気丈さを保てないようで、たじろいだ表情と声で、


「な……なんのつもりだい? ぶ、武人を呼ぶよっ?」


「呼べよ。少ねー防衛力がさらに減るだけだからよ。そもそもあたしは大陸の人間じゃねーんだ。正派とか邪派とか知ったことか。あんたの素っ首落としたところで痛くも痒くもねーよ」

 

 低く、淡々と続ける菊。


「いいか。確かにあんたにとっちゃ些事かもしれねーよ。だが、あたしにとって琦琦の死は大事だ。まぁそれは仕方がない。人の命の優先順位は、どうしても平等になり得ねーからな。——だが、あたしはと言っている。今、あんた方が一番気にしてるのは、これから生きてくための金だろ? それをあたしが叶えてやるって言ってんだよ。あんたが喉から手が出るほど欲しい代物を景気良く差し出してくれる相手には黙って従えよ」


「……あんた、なんでそこまで」


 狼狽える老婆の首筋にさらに刃を近づけ、変わらぬ低まった声で告げた。


「欲しい答えは「はい」だ。……あたしは今、猛烈に苛ついてんだ。あんま怒らせんなよ。——もっかい言うぞ。この金やるから、琦琦の墓を桑畑に作らせろ。こんだけありゃ、しばらくはなんとか食いつなげんだろ?」


 いくらかの沈黙の後、婆は頷いた。


 菊は納得し、納刀した。


 へなへなとその巨体を座り込ませる婆を尻目に、菊はもうこの世にはいない、琦琦へ向けて念じた。


 ——やったな、琦琦。













 『唐家楼』を包み込んだ騒乱から、すでに三日経っていた。


 それらを引き起こした邪派は、『傖龍派そうりゅうは』から離散し、邪派に堕ちた集団だった。


 残党を捕まえて搾り出した情報によると、邪派の目的は雪英せつえいが読んでいた通り、『唐氏』の保管している毒に関する伝書の類だった。……それらを奪い取り、自分達の戦力強化のために利用することが目的であることは論をたない。


 もしも『唐氏』の毒の全容が漏れれば、武林だけでなく、とりあえずは大乱なく安寧を保っている大陸の現体制を揺るがす事態にもなりかねない。


 街の防衛力である『唐家楼』の武人達も、策略によってほとんどが謀殺された。丸裸同然となった『唐家楼』は、ただ喰われて死ぬのを待つだけの手負いの獣であった。


 そんな危機的状況だったが、菊や昀昀いんいんの決死の奮闘により、街と『唐氏』の陥落は免れることができた。


 しかし——それでも、邪派が街に残した爪痕は深く、大きかった。


 確かに邪派の軍勢は退けたが、それでも、『唐家楼』は自分を守る能力の大半を失ってしまったのだ。


 もしも、『唐家楼』の弱体化を聞きつけた他の邪派が大群を率いて攻めてきたら——今度こそ陥落は免れない。


 目端が利く住人はそれを先読みして、すでに移住の支度をし始めていた。……戦火から逃れるというのは、言うほど容易くはない。十全な事前準備が必要だ。「事」が起こってから慌てて逃げ出そうとしてももう遅い。運良く逃れられたとしても、移住先が明確に決まっていなければ途中で餓死する可能性が極めて高い。


 勝ったとしても、危機が残る。戦争とはそういうものだ。


 ゆえに古の兵法家は「兵は国の大事なり」と説いたのだ。


 けれど、座して死を待つことは論外。敵の善意を当てにすることはさらに論外。


 だからこそ、『唐氏』も考えた。


 この『唐家楼』が、この先どういう道を歩むべきであるのかを。


 考えて、彼らが出した結論は——







……?」


 『唐氏』の屋敷の客間。円卓の一箇所に座った昀昀が信じがたいとばかりに発した言葉に、この屋敷の主である女当主は重く頷いた。


「ええ……それが今、私達にとることのできる、最善の手だと思っているわ」


 そこで一度言葉を区切り、雪英は語り始めた。


「今の『唐家楼』の防衛力では、この街の住人だけでなく、『唐氏』の秘法を守り切れる可能性も低い。だからこそ手放して、。この秘法を守ることが出来て、かつ、秘法を託すに値する信頼性を持った門派に」


「んなトコがあんのか?」


 円卓で頬杖をつきながら、菊が訝しむ顔で問うた。 


 一方、昀昀はというと、思い当たるところがあったようで、ハッと目を見開く。


「唐夫人……まさか」


「ええ。そのまさかよ。——『黄林寺こうりんじ』に託すわ」


 『黄林寺』。菊も聞いたことがある単語だ。


 武林における四つの大門派『四大派』の一つにして、全ての武功の原型を作り出した寺院。


「『黄林寺』は武功の母にして、現在の武林正派の領袖りょうしゅう。精神的にも、戦力的にも、ここ以上に信頼できる門派は存在しないわ。……私達『唐氏』は、この『黄林寺』に秘法を託し、力の足りなくなった私達の代わりに守ってもらうことに決定したわ」


「『黄林寺』の坊さん共はここにはいねーだろ。本人らの了解無しに、厄介事押し付けちまっていいのか?」


「大丈夫よ。『黄林寺』は私達以上に秘法を抱えているから、邪派に狙われることには慣れているもの。秘法の一つや二つが増えたところで気にしないはずよ。何より……私達の秘法が邪派にもし漏れれば、その方が『黄林寺』にとっては恐ろしいはず。彼らは、私達の依頼を引き受けるわ。いいえ、


 雪英の語り口は、真剣さを崩さない。


「これは、秘法を守るためだけでなく、この『唐家楼』を守るためにも繋がるわ。今回、邪派どもがこの街へ攻めてきたのは、『唐氏』の秘法が目当てだった。その目当てのモノが無くなれば、この街に攻める価値がかなり減るわ。たとえ攻められて、抵抗虚しく陥落したとしても……犠牲になるのは。武林全体にとっては、痛くも痒くもない犠牲よ」


 それを聞いて、菊は心胆が冷えるのを感じた。


 自分達がたとえ死んでも、武林全体にとって最小限の痛手であるなら、それもやむなしと。


 その覚悟の決まりぶりに、畏怖やら敬意やら、いろんな気持ちを抱いた。


「でも、問題はここからよ。それは、どうやって『黄林寺』まで秘法の伝書を届けるのか。まぁ、空を飛ぶ方法なんて無いから、地上を歩いて『黄林寺』まで向かう必要があるわけだけど……その途中で奪われてしまっては全てが台無し。私の名代みょうだい兼運び役として、炎勝えんしょうを行かせようと思っているけれど……炎勝を侮っているわけではないけど、あの子一人では心許ないわ」

 

 雪英は円卓に身を乗り出し、次のように告げてきた。


「そこで提案なのだけど…………菊、昀昀、。この『唐家楼』を救ってくれた英雄である、貴方達二人に」


 菊と昀昀は、二人揃って驚く。


「どう? 頼めるかしら? 私は貴方達二人の実力を、とても高く評価しているわ。人格的にも、信頼に足ると判断している。あとは貴方達二人が了承するか否か。……どうかしら? やってくれる? 報酬は出すし、道中にかかる費用も私達が全て負担するわ」


「……仮に、わたし達が頷かなかった場合は?」


「その時は仕方がないわね。私と夫が護衛役として炎勝につくわ。他の子供達にはまだ実力的に荷が重いもの。結果的にこの『唐家楼』の防衛力が落ちることになるけれど、仕方がないわね。秘法が邪派に奪われるよりはマシだもの」


「ずるい言い方ですね」


 昀昀はため息混じりにそう言った。


 自分達は今、


 『唐家楼』よりも、秘法の方が大事である——もしも昀昀と菊が頼みを断れば、そんな天秤通りに動かなければならないと、脅し文句を言っている。


 二人が依頼を引き受けることこそが、『唐家楼』も秘法も両方守れる可能性が一番高い、最良の選択であると暗に伝えている。


 何より——菊も昀昀も、それを断ることなど決して出来ないと分かっている。


 本当にしたたかな女だ。


 二人揃ってどでかいため息をついてから、二人同時に言った。


「——いいですよ」「——心得た」


 雪英はその返事に「よかった」と笑った。


「ありがとう。これで私も夫も、この街の防衛に全力を注げるわ」


「ちっ、女狐めぎつね


世家せいかの当主に対しては褒め言葉ね」


 菊の悪態を涼しく躱す雪英。


「……でもよ、まじな話さ、あんたらがいりゃこの街の防衛は万全……ってわけじゃねーんだろ? あんたも、あんたの旦那も、かなり強えってことは知ってる。だが……戦争ってのは、一人二人強いだけじゃ意味がねーだろ。一騎当千の強者だけじゃ、国は成り立たねーよ」


「正直に言うと……厳しいわね。でも、それでも戦わないといけない。勝ち目が無いからって戦いすら放棄するなんて、根無し草のすることだわ」


 雪英はどこか諦念じみたものを感じさせる微笑を浮かべ、言った。


「私達はこの街で生まれ、この街で育ったんだもの。潰えるのも、この街でがいいわ」









 そんな依頼をされてからさらに一日が経ち、侵攻から四日目の昼。


「おーい、糞婆。くれぐれも墓暴いたりすんじゃねーぞ。琦琦と約束したから、あたしはもう一度この街に来る。そのときに墓がなくなってたら、てめーの首と胴体は泣き別れだ」


 遠くに立つ大柄な婆に駄目押しとばかりに再度そう告げてから、菊は桑畑を後にした。


 先ほど琦琦の墓作りを強引に了承させた後、この畑で一番大きな桑の樹の根元に琦琦の遺体を埋め、墓を作った。土を山盛りにしただけの簡単な墓だが、目印が何も無いよりずっと良い。


 あの小さな土山の下に眠る琦琦も、いずれ土に還り、大樹の栄養になる。それとともに、あの桑の樹は、琦琦の魂の宿った神木となるだろう——


 都合が良い考えかな、と自嘲する菊の隣へ、白い少女が並んで歩く。


「……お友達、だったのよね」


 昀昀の静かな問いに、菊も「ああ」と静かに応じた。


「あいつさ……機織りになるのが夢だったんだ。あの糞婆が牛耳る桑畑で見習いから始めて、そこから機織りをさせてもらって、腕を磨いて、お上に召し抱えられるくらいの職人になりたかったんだってさ。……いつか、あたしの羽織りを織ってくれるって、約束してたんだよ」


「そうなんだ……」


「うん。でも……結局叶わなかった。だからせめて、この街の機織り志望が見習いとして最初に働き始めるあの桑の樹に宿って、未来の機織り達を見守り続けるんだ」


 菊のその言葉は、昀昀に説明するためというより、自分自身に言い聞かせるような口調だった。


 事実、そう言い聞かせていた。


 だって、こういう考え方でもしないと、あまりにも琦琦が報われないから。


 そんな菊の心情を察した昀昀は、その手をそっと握った。


「……いつか、またここへ来ましょう。絶対に」


「……うん」


 昀昀を体温を感じた瞬間、目元が熱くなった。


 ……思えば琦琦は、この大陸に来て二番目に出来た友達だった。


 さらに、この大陸で最初の、友達との死別だった。


 目頭が熱くならないわけがなかった。


 それでも菊は涙をこらえた。


 再び桑畑の方を振り返り、微笑し、呟いた。


「——さよなら、琦琦」









 


 そのままの流れで、二人は『唐氏』の屋敷の敷地へと戻った。


「遅いぞ! いつまで待たせる気だ!?」


 威勢よくそう苦情を投げてきたのは、『唐氏』の嫡男である唐炎勝とうえんしょうだった。


 その片手には、鎖が固く巻かれた、大きななめし皮の包みを持っていた。——あの中に、『唐氏』の秘法の記された伝書の全てがある。


 彼の隣には一匹の馬。大人しそうだが体付きがしっかりとした馬である。『唐氏』の飼っている中で一番の駿馬しゅんばだ。……何かあった時、この駿馬に炎勝を乗せて伝書ごと逃すという算段だ。


「うるせーなぁ。分かってるっての」


 菊は悪態をつきながら、桑畑からずっと繋いでいる昀昀の手を引いた。


 ——今握っているのは、この大陸で最初に出来た友達の手。


 この体温だけは、奪われてなるものか。


 無論、「毒」に体を蝕まれた昀昀の命は残り少ない。それは知っている。


 彼女の「寿命」を覆す力も知識も財力も、自分には無い。


 だからせめて、その「寿命」が訪れるまでは、絶対に死なせない。


 そのために、この左腰にいた、を振ろう。


 この薄命の美女を、運命の日が訪れるその時まで守る——


 それが、剣豪となるための、最初の試練なのだ。


「昀昀、行こうぜ?」


 振り返り、繋いだ手を強く握って菊は呼びかける。


 昀昀も、その手を強く握り返し、見惚れそうになる笑顔で言った。


「——ええ! 行きましょうっ!」


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