侵食

 ————さかのぼること、十数分前。






 『唐家楼』の武功門派の練功は、早朝と夜、一日に二回行われる。


 これは『唐家楼』だけでなく、他の門派でもよくやられている習慣だ。


 夜明け前の早朝は「陽」の時。最も気力体力が充実した時間。——この時間には、外功などの動的な練功を行う。


 日没もしくは夜は「陰」の時。昼間に働いたりして疲れた時間。——この時間には、内功などの静的な練功を行う。 




 肉体の陰陽に則った鍛錬。合理的な意味と、思想的な意味が同居している武林の習慣。


 そして現在、日没して間もない時間帯。


 『唐家楼』の各武功門派は、静功——静的な鍛錬のこと——をほとんど全ての門派が行なっていた。


 ただし、『唐家楼』の門派の静功には、他の街とは違い、一つだけ「おまけ」がついてくる。


 内功鍛錬に役立つ「香」だ。


 それを焚きながら内功を練ると、健康効果が増幅される。なおかつ、疲れにくくなり、内功を少し長く練っていられる。


 配布するのは『唐氏』。その薬学の知識を活かして調合した、彼らにしか作れない「香」だ。


 その「香」は、一週間に一度、『唐氏』の使いの者が各門派に配って回る予定となっているのだが、


「……遅いな」


 今日がその配布日なのに、いまだに「香」が届いていない——徐進哲じょしんてつはそんな不満を内包した一言をため息のようにもらした。


 すでに徐の兄弟弟子達は武館に勢揃いしており、それぞれ内功を練っている最中だった。門弟の中で一番の古株である徐は、椅子に座った師父の隣に起立をしながら練功の様子を見ていた。


 十歳の頃からすでに三十年を超える付き合いである老いた師父は、その長い顎鬚をさすりながら、愛弟子のぼやきに同意した。


「確かに。わしはもう長いことこの『唐家楼』で過ごしているが、『唐氏』の使いの方が時間を破ったことはほとんど無い。あったとしても、それは「香」の材料である薬草の類が不作な時期に限られた」


「今年は不作だったのでしょうか?」


「いや、むしろ今年は豊作だったそうだ。それなのに、これほど遅いとは……」


「俺が不服を訴えましょうか? 『唐家楼』を守る我々をぞんざいに扱うとは何事か、と」


「それはやめなさい。我々が『唐氏』から受けている恩恵は「香」の無償配布だけではないことは、お前も知っているだろう」


「……はい」


「このようなことが常態化した場合は、少し言えばいい。あまり短気なのは良くないよ。この間だって、イカサマだと疑ってかかった挙句、小さな娘さんに投げ飛ばされたそうじゃないか」


 痛い所を突かれて、徐は押し黙った。


 あの叩けばへし折れそうなほどの小娘に、まるで激流に流されたように軽々背負われ、地面に叩きつけられた事実は、一日経った今なお直前のことのように鮮明に覚えている。恥として。


 一方で、一度も見たことの無かった和國の武術をこの身で体感できたことは、得難い経験でもあった。今の和國は鎖国をしているらしく、渡航してくる和人はほとんどいない。


 とはいえ、やはり相手は和人だ。


 百年前、巨大邪派と手を組み、近海で海賊として百鬼夜行の限りを繰り返したという、あの。


 屈辱が蘇り、手が我知らず拳を作った。


「釘をさしておくけど、仕返しをしようなどと考えてはいけないよ」


「でも、今回やられたことは、我が門の沽券に関わるのでは」


「娘さんに一回投げられたくらいで墜落するほど、わしの門派の沽券は低いものだったのかな?」


「い、いえ、そのようなことは」


 徐が慌ててかぶりを振ったのと、閉じられていた両開き門を外側から叩く音が聞こえてきたのは、同時だった。


 弟子達が揃って練功をやめ、その門の方を向く。……練功を人に見せぬようにするためだ。


「何用か?」


 徐が門の向こうの尋ね人へそう投げかけると、おずおずとした男の声が返ってきた。


「『唐氏』の使いの者です。「香」を届けに参りました。遅れてしまったこと、平にご容赦を」


 ようやく来たか。徐はため息を一度吐き、その門へと向かって駆け出した。







 一週間分の「香」を受け取ると、『唐氏』の使いを名乗るその中年ほどの男は一礼ののち、すたすたと去っていった。


「見たことの無い顔だな……それに、をしている」


 徐はふと思ったことをひとりごちた。


 『唐氏』は武功を重んじる世家だが、そこに仕えている下男下女まで武功使いであるというわけではない。むしろ、そうでない者の方が多かったはずだ。


 しかし、今の下男は間違いなく武功を心得ている。そんな体だった。


 それに今までで見ない顔だった。


 新しく入った下男か?


「徐師兄、早く焚いてくれませんかねぇ」


 弟弟子からの呼びかけに、徐は考察の海から引き戻された。


 今は練功の時間だ。早くこの「香」を焚いて、内功を練らなければ。


 徐は戻って、卓上の香炉に「香」を挿して——線香の形をしている——そこに灯りの蝋燭の火を移した。「香」が燃え始める。


 しばらく大きく燃えてから、やがて火が消え、煙が焚かれ始める。


 内功を練っている門弟達と、それを見ている師父と徐に、「香」の香りが行き届く——


(……ん? ?)


 徐が違和感に気づいた、その時だった。


「————かっ」


 体の内側に、じわじわと痺れるような感覚を覚えた。


 ——体が動かない。


 胴体も、四肢も、まるで全ての関節が凍ったように動かなくなる。


 自分の体を支える筋肉すら動かず、徐は棒のように横倒しとなった。


 徐だけではない。


 師父も、他の弟子達も、一人残らず倒れた。


 この状況で、同じように倒れたということは、彼らも自分と同じような症状……全身の麻痺を感じているに違いない。


「な……なんだ、これは…………!?」


 口は動く。しかし、その口も、今の状況に対する当惑で動きが鈍い。


 どうなっている。一体、なぜ……こうなった…………


 いや、考えられる理由はある。一つだけ。


 しかし徐には、「それ」を認めることができなかった。


 だって、無意味ではないか。こんな事をしても。


 街を守る役目を持った武芸者を、「」によって役立たずに変えるなど——




「————クヒャヒャヒャハハハハハハ!! 飼い主様の言いつけをきちんと守るお利口ないぬっころで安心したぜぇ!!」




 その時、とびきり下卑た笑声が、武館全体に響き渡った。


 声の主は、いつの間にか開け放たれていた門の前にいる一人の人影。


「貴様はっ……!」


 そう。誰あろう、先ほど「香」を渡した下男だった。


 自分はその「香」を毒香であるとも知らずに焚いて、結果、この体たらくというわけだ。


「何者だっ、貴様…………何が目的だ……!?」


「おいおい、この状況でもまだ分かんねぇのかよぉ? を気取ってらっしゃる皆様は、どいつもこいつも頭の出来は悪いのか?」


 その揶揄するような、蔑むような口調から、徐はこの男の正体を悟った。


「貴様っ……だな……!!」


「その通り、と言ってやりてぇところだがよ、その「邪派」とかいう呼び方嫌いなんだわ。君子気取りのご立派様どもが、自分のご立派な主張にそぐわねぇ奴を勝手に「邪派」とか呼んで蔑んでるだけじゃねぇかよ。何様だてめぇら? この世の土の輪廻を支配する地母神様かぁ?」


 嫌悪の語気でそう言い募ってから、せせら笑いを浮かべる男。


「……そ。俺らはてめぇら「正派」が勝手に「邪派」とか呼んでらっしゃる屑どもの一匹だよ。——『傖龍派そうりゅうは』になる事を良しとせずに離散した、な」


 徐は目を見開く。


 ——『傖龍派』とは、武林最大規模の四門派『四大派』の一つだ。


 大陸北方にある寒村『傖龍』を拠点としている大派。


 塩を含んでいる土地であるため農業は駄目、文盲が九割を占めているので学問も駄目、いい加減で大雑把な住民性なので工業も駄目……そんな何もかもが痩せた土地で成り上がる手段は、武功以外に存在しなかった。ゆえに『傖龍』は、昔から武功が盛んで、尚武の気風が強い土地柄だった。


 常に小規模門派がひしめき合っており、それらは常にどこかの門派と抗争を繰り広げていて、いくつもの門派が興っては消え、興っては消えを繰り返している。まさしく武林の魔窟ともいえる場所だ。


 だがそんな魔窟も、近年の邪派勢力の急拡大によって、一致団結の必要性を迫られることになった。


 勇猛果敢な猛者揃いだが協調性に欠ける『傖龍』をひとまとめに束ねたのが、『傖龍派』の現在の掌門しょうもんである。——つまり『傖龍派』とは、『玄洞派』のような昔から続く由緒正しい門派ではなく、急ごしらえの寄り合い所帯のような門派なのだ。


 そして、その『傖龍派』という枠組みに収まりたがらない、我の強い門派もそれなりの数存在した。そういう門派は『傖龍』を離れ、多くは邪派に堕ちた。


 ——この目の前の男も、そういった『傖龍』の一人だ。


「おのれぇっ……『傖龍狠子そうりゅうこんし』めがぁっ…………!!」


 徐が憎々しげに呻く。


 男は鼻で一笑した。


「それもよく言われるよ。内功が薄くて外功ばっかり大好きな俺たち『傖龍』の門派を馬鹿にした呼び方だろ? もう陰口叩かれ過ぎて腹も立たねぇよ。お前ら頭だけじゃなくて語彙も乏しいのな。それになぁ……」


 男は武館の中まで入ると、一番最初に足元に来た門弟の一人を見下ろす。


 腰から短刀を抜き放った。


「だがなぁ、そんな馬鹿にし腐ってた『傖龍狠子』の群れに、てめぇらは殺られんだよ。——この『唐家楼』もろともになぁ」


 男は一気にしゃがみ込むと同時に、その短刀を仰向けに倒れている門弟の胸へとひと突き。


 確実に心の臓を貫いた。


 それから立ち上がり、再び門弟を一人見繕うと、また同じように短刀で胸を貫いて絶命させた。


「この武館だけじゃねぇ。他の門派全てにこうやって毒香を焚かせて動けなくし、こうやって流れ作業で殺してる」


 もう一人、また一人と、命を淡々と奪っていく。


「てめぇらはな、何もできずに死ぬんだよ。飼い主様から与えられた「『唐家楼』を守る」っていう使命も全うできねぇまま、武人らしく戦うこともできねぇまま、犬死にしていくんだよ」


 まるで、邪魔な雑草を引き抜いていくような、億劫さと気軽さで。


「てめぇらが全員死ねば、この『唐家楼』を守れる奴らはいなくなる。そうすりゃ後はしめたものだ。てめぇらの背後に隠れてのうのうと暮らしてる豚どもなんざ、鼻ほじりながらでも殺せる。そして最終的に『唐氏』の奴らもぶち殺して、この『唐家楼』を乗っ取る」


 門弟を一人一人刺し殺しながら近づいてくる男。


「目的は『唐氏』の隠し持ってる毒の情報だが……あそこの家は良い女ばっかりだからなぁ、お駄賃としてのも悪くねぇ。特に現当主様なんか最高にそそるぜぇ。相当に良い女だ。顔も体も極上。特にあの乳がたまらねぇ……あの取り澄ました態度が雌餓鬼みてぇに泣いて許しを乞う姿に変わるのを想像しただけで勃ってきちまうよぉ。あれは手足ぶった斬って閉じ込めて長く可愛がってやるよ。んで、今度は旦那のじゃなくて、俺らのたねで犬のように餓鬼を産ませてやる」


 徐は割れんばかりに切歯する。


「…………この……『傖龍狠子』がぁっ!!」


「だから聞き飽きたっつってんだろ間抜け」


 男は徐の呪詛を軽く流し、やがて最後の門弟を殺した。


 その足は——師父の元まで達する。


「や、やめろっ!! やめてくれぇっ!!」


 徐の懇願に、男は歪に破顔した。


「やだね。この爺は殺す。だが……。敬愛する師が目の前で無抵抗に殺される様をてめぇは心に刻み込み、老い果てるまで生き続けるんだ。ま、ある意味死ぬよか辛ぇかもだけどなぁ? クヒャヒャハハハハハハ!!」


 狂ったように笑いながら、男は師の胸に短刀を突き刺した。

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