二人の「競争」

 風呂から出て予備の服に着替えた後は、『唐氏とうし』の用意してくれた夕食を馳走になった。


 「来客を想定していなかったから、こんな質素なものでごめんなさいね」と言う雪英せつえいだったが、用意された食事は地味な見た目に反してなかなかに美味しかった。こんな食事を毎日食べられるのだから、やはり『唐氏』というのは恵まれた一族なのだと再確認した。


 しかし、きくは食事を「美味」とは思っても、心は満たされなかった。


 満足な食事とは無縁である旅人の身ゆえ、こういったきちんとした食事は嬉しいものであるはずなのに。


 理由はひとえに、浴場で雪英せつえいから聞いた話だった。


 昀昀いんいんの寿命。


 二十歳になる前に、体に巣食った「毒」によって殺されると。


 ——あんまりな話だと思った。


 武林という武芸者の世界は、いつどこでどういう形で命を落とすのか分からない、厳しい世界だ。


 なので、昀昀いんいんが殺されることも、自分が殺されることも、きくは覚悟していた。そうなってもおかしくないのだと。


 だからこそ、きくも、昀昀いんいんも、その他大勢の武芸者も、己の武を磨くのだ。少しでも負けて殺される可能性を潰すために。


 だが——昀昀いんいんの「毒」は、をもたらすものではない。


 どれほど武を磨こうと、絶対に敵わない敵。


 殺されるという結末が約束されている敵。


 昀昀いんいんの中に宿っている「毒」は、そういう敵なのだ。


 しかも、それは昀昀いんいんの失態で取り込んでしまったものではない。


 なのだ。


 戦う前から、昀昀いんいんの死に方はそのように宿命づけられたのだ。


 ——そんなの、武人としてあんまりではないか。


 何度も言うが、自分の未熟のせいではなく、親のせいなのだ。


 復讐なんて愚かなことをやらかした親に足を引っ張られて、娘が呪われる。


 こんな理不尽なことがあるだろうか。


 自分だったら、とうの昔に割腹しているかもしれない。


 ——昀昀いんいんは、いったい、どういう気持ちでこの事実を受け入れているのだろう?


 いや、そもそも受け入れているのだろうか?


 自分に残酷な運命を強いた母親を恨んでいるのではないだろうか?


 ——きくの中の落胆は、だんだんと昀昀いんいんに対する好奇心へと変わっていく。


 昀昀いんいんは、触れてほしくないかもしれない。


 自分も、訊くのが少し怖かった。


 あの常に落ち着きと柔和さを崩さない麗人が、母親に対する憎悪で燃え上がるところを、自分は見たいとは思わない。


 でも、訊いてみたい。


 だから、きくは訊こうと思った。







 『唐氏』は今日と明日、ここに泊めてくれるらしい。


 なので、今夜、共に寝る時に訊こうと思った。


 来客用の寝室へ案内され、きく昀昀いんいんはそこで就寝することになった。


 自然の地や草を寝具代わりにしてきた旅人の身である二人にとって、あてがわれた寝台は夢のような寝心地だった。あっという間に重い眠気が襲ってきた。


 しかし、きくはそれをこらえ、隣の寝台に横になっている昀昀いんいんへ声をかけた。


「…………あんた、なんで黙ってたんだよ」


 「毒」のことを、という文脈を省いた問いであることを昀昀いんいんはちゃんと理解した上で、答えた。


「……言ったところで、治るものではないもの」


「だからってさ…………いや、いい。確かにあんたの言うとおりだ」


 きくはひとまず強引に自分を納得させてから、その上で次に訊いた。


「あんたはさ——どういう気持ちで毎日を生きてるんだ?」


 自分は生まれてから今に至るまで、病気とは無縁の子供だった。


 周りの大人達が手を焼くほどの、元気者だった。


 だからこそ、昀昀いんいんのように、この若さで死に至る病を抱えている者の気持ちが想像できなかった。まして、母親のせいで抱える羽目になった病を持つ身に対して。


 昀昀いんいんは何も喋らない。


 しかし、いくばくかしてから、ようやく口を開いた。


「……強いて言うなら、「焦り」を覚えた、といったところかしら」


「焦り?」


 こくん、と頷く昀昀いんいん


「わたしの命は、人よりずっと短い。だからこそ、そんな短い人生の中で、出来るだけたくさんの事を感じておきたい。世界にある色々なものを見て、聞いて、嗅いで、触れて、味わい、この魂に刻み込みたい。そして、この心身を土の輪廻に還したい…………だからこそ、わたしは常に焦っている。そして——これから訪れることの全てが、楽しみで仕方がないの」


 その発言に、きくは聞き覚えがあった。


 それは、昀昀いんいんと初めて会い、そして武を交えた後に彼女が語った言葉。


 ——この世界は、とっても広いわ。その広大無辺こうだいむへんさたるや、人一人の生涯では把握しきれないほど。わたしではなおのこと足りない。


 ——それでも、わたしは命の続く限り、この世界を知りたい。目で、舌で、鼻で、耳で、肌で、この魂で、世界を味わいたい。だって、この世界には面白いもの、素敵なものが数えきれないほどたくさんあるから。


 今にして思えば、これらの言葉が片鱗だったのだ。


 さらに昀昀いんいんは言っていた。「旅をすることそのものが、旅の目的」と。


 そんな奇妙な旅の理由も、今となっては納得がいった。


 自分の命が長くないことを悟り、それでもなお、そんな救いの無い運命を自分らしく生きていこうという……誇り高くも悲しき決意である。


「母親を……恨んでないのか?」


 きくがおそるおそる訊くと、昀昀いんいんはもぞもぞと布団を鳴らしてかぶりを振った。


「お母さんがいなかったら、そもそもわたしは生まれていないわ。非常に短いとはいえ、人生をわたしにくれた。どうして恨まないといけないの?」


「……そうか」


 きくは、それ以上の追求をやめることにした。


 彼女は、そう遠くないうちに訪れる自分の最期にきちんと向き合い、その上でどう生きるかをしっかり決めていた。


 ——自分は、どうだろうか。


 自分には昀昀いんいんの気持ちが分からない。いまだに病気とは無縁の人生を送ってきたからだ。


 けれど、自分にだって、生き方や目標くらいちゃんとある。


 大剣豪になる——そんな目標が。


 だからこそ、こんな広大な大陸まで密航し、死と隣り合わせの武者修行の旅をしているのだ。


 ——そんな自分が、昀昀いんいんと何が違おうか。


 寿命の長短の違いがあるだけで、命を賭けられる、確固たる生き方を持っているのは同じだ。


 貴賤はない。があるのみ。


 そこに憐れみを差し挟むのは無粋と思った。


「じゃあさ、昀昀いんいん……」


 けれど、やはり少しと思った。


 だって、昀昀いんいんの目的は、ある意味すでに叶っていると言えるだろう。


 旅をして、その道中でいろんなものを見れているのだから。それを楽しめているのだから。


 のだから。


 しかし、きくはまだ己の目的を達成できていない。


 達成するよりも早く、昀昀いんいんは死んでしまうかもしれない。


 大剣豪となった自分の姿を、昀昀いんいんに見せられないかもしれない。


 だからこそ——


「——あたしとさ、?」


 きくは、そんなことを言った。


 呆気にとられたように昀昀いんいんは目を見開く。


「あたしの目的は、大剣豪になることだ。そんなあたしが大剣豪になるのが先か、あんたが「毒」でくたばるのが先か…………そんな競争だよ」


 しばし昀昀いんいんは押し黙る。


 かと思えば、可笑しそうに笑い出した。


「うふふふ、もうっ、なにそれっ? きくってば面白い事言うわねっ。ふふふ、うふふふふっ」


「だろっ? あたしは少しでも早く大剣豪になるよう努力する。だからあんたもさ、少しでも寿命が延びるように努力してくれよ。だから「競争」なんだよ」


「いやいや、きく、それ競争になってないわ」


「え、そうお?」


「そうよ。ふふっ、うふふふふふ」


 なおも可笑しげに笑い続ける昀昀いんいんに、きくはだんたん怒りを覚えてきた。


「……ああもうっ! やっぱ今の忘れろ! ったく……」


 きくは身を乱暴に転がし、昀昀いんいんに背中を向けた。……せっかく元気づけてやったのに、茶化しやがって。


 だが、そんなきくの寝台にもう一人分の重みが加わる。もちろん、昀昀いんいん以外にいない。


 昀昀いんいんきくの体に腕を回し、背中に寄り添うように体を預けた。


 ふわり、と芳しい匂いが鼻腔に漂った。


「——きく、ありがとうね」


 耳のすぐ近くで発せられた優しい囁きに、きくの中の憤りがすっと消えた。


 かと思えば、頬が自然と熱を持った。


「……おう」


 なんだかが悪くなり、うろたえ気味な声になった。


 意味が分からない。なんでこんなに恥ずかしい気分になってんだ、あたし。


 昀昀いんいんにくっつかれたから? いやいや、あたしはじゃない……と思う。




 だが、自分でも意味不明な葛藤はすぐに、意識そのものとともにまどろみの中へと沈んでいった——

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