「毒」

きくって……少し初心うぶ過ぎじゃないかしら」


「うるせー」


 風呂桶の端に寄りかかりながら、きく昀昀いんいんの呆れた言葉にぞんざいに返した。


 のぼせた体の熱はだいぶ引いて、気持ちも冷めてきていた。


 思考が明瞭に働くようになったため、ずっと気になっていた事が頭に浮かび、それを問う気になった。


「……雪英せつえい、だっけか。あんた、前から昀昀いんいんと知り合いだったのか?」


「知り合いどころではないわ」


 雪英せつえいはそれから一瞬間を置いてから、その甘露な声に若干の重みを込めて告げた。






「だって————その子にのは、この私だもの」






「…………え」


 一瞬、何を言われたのか、分からなかった。


 いや、分かっている。


 きくの大陸標準語の聞き取りは、初めて来た時と比べて格段に上達している。


 ただ……その言葉の意味を理解することを、きくの魂が拒んだ。


 ——余命。


 誰の?


 昀昀いんいんの。


「……昀昀いんいん、あんた」


 おそるおそる、昀昀いんいんの方を向く。


 昀昀いんいんは、否定しなかった。


 どことなく、寂しそうに、しかし己の宿命を拒絶なく受け入れているような、そんな微笑を見せた。


 それを見て、きくは強い切なさを覚えた。


 黙りこくった二人を見て、雪英せつえいがびっくりしたように大きな瞳を見開いていた。


「……もしかして、昀昀いんいん、言っていなかったのかしら?」


 昀昀いんいんは黙って頷く。


 いよいよたまらなくなり、きくは声を荒げた。


「ど、どういうことだよ!? 何だ、余命って!? こいつ、なんかの病気なのか!?」


 雪英せつえい昀昀いんいんへ視線を向ける。


 昀昀いんいんの無言の首肯を確認すると、雪英せつえいきくへ再び視線を移し、重みのある口調で語り始めた。


昀昀いんいんが言いにくそうだから、私の口から話してあげるわ。貴女、昀昀いんいんの大切な人みたいだしね。——その子ね、生まれながらに「毒」を宿しているの」


「「毒」……?」


 なおも戸惑いの続くきくに、雪英せつえいは説明した。


「話が変わるけれど……きく、貴女は女の胎内にいる胎児が、どうやって栄養を得て大きくなるか知ってる?」


「え? えっと……へそだろ。医術書で読んだ」


「そうよ。母体と繋がった臍の緒が、母体の栄養を胎児に送り、それを養う。けれど、それは母体の栄養補給の質に依存している。もしも母体が毒物を摂れば、その毒素もまた臍の緒から胎児へ送られ、胎児の生育に影響を及ぼす」


「つまり……昀昀いんいんの「毒」は、はらの中にいた頃に母親から貰ったものだってのか?」


「そうよ」


 雪英せつえいはため息をつくように続けた。


「——武林には『毒手どくしゅ』っていう功法こうほうが存在する。特定の種類の毒草や毒虫、鉱物をすり潰して混ぜた砂の中に何度も手を突っ込むことで、短期間でその砂の中の毒を自分の手に擦り込む功法。その『毒手』は触れただけで、どんな武功達者にも毒をもたらし、必ず殺す。非常に強力な功法よ」


「そんなえぐいもんがあるのか……武林には」


「ええ。けれど強力な分、危険も大きい。『毒手』を身につけたとしても、自分自身がその毒に冒されて死ぬ可能性もある。普通はやらないし、武林でも「邪道」と唾棄されるわ。……が、それでも『毒手』に手を染める人間は存在する。主に「仇討ち」のためにね」


 「仇討ち」という血生臭い単語に、きくは思わず息を呑み、独り言のように言った。


昀昀いんいんのお袋が……「仇討ち」を?」


「そう。その子の母親は、自分の父をある武芸者との試合で失った。双方、合意の上での戦いだったけれど、だからといって感情がそれを割り切れるわけではない。だからその母親は『毒手』を身につけて、その武芸者を触って毒死させたのよ。何年も武功を練るより、『毒手』の方がはるかに早期に身に付くからね。……それから母親はある官吏の男と結ばれ、昀昀いんいんを胎に宿した。けれど、そこにきて『毒手』に手を染めた因果が回ってきた。母親は己の「毒」に急激に冒されていき、昀昀いんいんを出産すると同時に息絶えたわ」


 きく昀昀いんいんを一瞥する。

 

 無表情。まるでもう聞き飽きた話を聞くともなく聞いているような顔。


 それが、なんだか悲しかった。


「命と引き換えに産んだ昀昀いんいんも、母親の「毒」を受け継いでいて、幼い頃から立ち居が困難なほど病弱だった。だから昀昀いんいんの父親は、大金を積んで娘を『玄洞派』に託した。……『玄洞派』の内功は、女性の体に高い健康効果を与えてくれる。その内功に「毒」を消す可能性を賭けたのね。昀昀いんいんは『玄洞派』で頑張って修行したわ」


 だが、それが報われなかったことは、今ここでこの話を聞いている時点で明らかだ。


昀昀いんいんは十代半ばに入る頃には『玄洞派』の門弟の中で指折りの実力を手に入れ、『白龍姫』という尊称まで頂戴するに至った。——けれど、この子の中の「毒」は消えなかった。『玄洞派』の内功は「毒」をすることはできても、完全に毒を消すことはついに叶わなかった」


 なんという悲惨な因果であろうか。


 これはもはや「呪い」だ。


 「復讐」という目的のために邪道に手を出し、その報いを本人だけでなく、その子孫さえも受けている。


 昀昀いんいんは何もしていないのに、復讐者の娘というだけで、たった一度きりの人生を冒されてしまっている。


 これが「呪い」でなくて、なんだというのか。


 雪英せつえいはこれまでで最も重々しいため息ののち、残酷な宣告をした。


「断言するわ。——この子は二十歳に達する前に、


 きくはその事実を受け入れがたく思い、ほとんど反射的に言い返した。


「で、でもさ! あんたら『唐氏』は、毒が専門なんだろ!? だったらこいつの「毒」を治すことくらい——」


「無理ね」


「なっ——」


 断言され、出かかっていた反駁はんばくが喉の奥に引っ込んだ。


「私達『唐氏』は、この世のあらゆる毒を知り、同時にその対処法を知っているわ。けれど、対処できるのは、毒が外部から体に入って、その人間の中を巡って冒している場合のみ。……けれど、この子の「毒」は違う。「毒」が。こうなってしまったら、もはや私達ではどうすることもできないわ」


「…………そんな」


 きくはひどい落胆を覚えた。


 この大陸に来て以来、一番の落胆だ。


 まるで、自分の体の半分が、どろりと泥のようにこそげ落ちたような気分であった。


 まだ出会ってひと月にも満たないが、それでも昀昀いんいんという少女の存在は、この大陸での武者修行の旅において心身ともに重要な存在であった。それを裏付ける落胆である。


「治す方法は……無いのかよ」


「あるわ。一つだけ」


 きく雪英せつえいの意外な返答に勢いよく振り向くが、その顔に浮かんでいるのは厳しい表情。


 それが「方法はあって無きがごとし」という証左としてきくの目に映った。


霊薬れいやくを使うの。それも、凄まじい量の「気」を服用者にもたらしてくれる、非常に強い特級の霊薬を。一度の内功鍛錬では取り入れられないほどの莫大な「気」を一度に取り入れ、それによって体の中の「毒」を強引に焼き殺し、なおかつその「気」を制御して自分のものにする。…………けれど、これは博打よ。、ね。そういう特級の霊薬が含む「気」は、きまって御しきれないほどの量。制御ができない「気」はそのままその人間の体内を食い荒らす「毒」と化し、早々に死に至らしめるでしょうね。もともと自分の「気」ではないのだもの。実際、特級の霊薬で手っ取り早く百年分の内功を身につけようとした武芸者もいるけれど、それに成功した例はあまりにも少ない。ほぼ自殺に等しい方法だわ。——そもそも、そういう霊薬は、一国が傾くほどの非常に高価なものばかり。欲しいと思っておいそれと手に入れられるものではないわ。薬というよりもはや宝石扱いだもの」


 希望的情報があまりにも少ないその言葉の列挙に、きくは再び気落ちした。


 昀昀いんいんを見る。……寂しくも、どこか悟った感じの笑みを見せてきた。


(なんで、そんな顔してられんだよ、あんた……)


 これではまるで、悲しいと思っている自分が馬鹿みたいではないか。きくは理不尽だという自覚を持ちつつも、そんな昀昀いんいんに腹が立った。


 雪英せつえいは、叱るような、同情するような、そんな語気で告げた。

 

「諦めなさい。この子の夭折ようせつは、もはや不可逆に等しいわ。だから…………少しでも長く一緒にいたいなら、せめて、守って」


「……何をだよ」


「この子に、決して「内傷ないしょう」を与えては駄目」


「内傷……?」


 雪英せつえいは頷く。


昀昀いんいんと旅をしてきたのなら、貴女もこの子の「戦い方」は知っているでしょう? 高い内力と洗練された掌法を用いた、……あれは私が知る限りでは、『玄洞派』の本来の戦い方ではないわ。この子がそういう戦い方をするようになった理由は一つ——。内力のこもった拳法や掌法の一撃は、当たればその人間の肉体表面だけでなく、体内にも響く。それによって内臓が傷付いたり、「気」の流れが乱されたりする。これが「内傷」」


 きくはそこまで聞いて、ようやく合点がいった。


「「毒」のが早くなるからか……!」


「その通りよ。この子の中に根付いた「毒」は、この子の持ち味である強力な内功の高さによってどうにか進行が遅れている状態。もしもこの子の「気」が少しでも乱されてしまえば、「毒」は一気に体を蝕み、


 そこまで言ってから、雪英せつえいきくに「使命」を言い渡した。


「彼女の堅牢な防御は、いかなる敵も寄せつけない。けれど武林は広い。彼女を超える武芸者がいつ敵として現れるかわからない。その時は——


 頷きたかった。


 昀昀いんいんは自分が守る、と言いたかった。


 昀昀いんいんを害そうとする武芸者は片端から斬り捨てる、と宣言したかった。


 しかし……きくは、曖昧に頷くことしか出来なかった。


 ——この子の夭折は、もはや不可逆に等しいわ。


 その冷厳な言葉を、いまだに受けとめきれずにいたからだ。

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