薬草風呂

 雪英せつえいに誘われるまま、いかにも豪華ですよとばかりの玄関をくぐる。


 下男下女は入ってきた雪英せつえいを見るやうやうやしく帰宅の挨拶を告げ、雪英せつえいがそれを笑みで流す。……きくも実家ではお嬢様お嬢様と呼ばれていたが、呼んでいた連中はこのような小綺麗な身なりの男女ではなく、むさ苦しい男ばかりだった。


 雪英せつえいが「客人が来たわ。急にで悪いけど、もてなす準備をしてちょうだい」と頼むと、下男下女は頷いててきぱきと動き始めた。


 さらに玄関前の大広間に、二人の男性が出てきた。


 一人は体格が良い中年。

 顔つきは厳ついが、目元に見える光は穏やかさがある。優しそうな印象だった。

 しかしその立ち振る舞いには、濃厚な「武」の匂いがある。


 もう一人は、長身の若い美男子。

 鼻筋が通った端正な容貌は、鋭さ七割柔らかさ三割といった感じを覚える。

 一瞬女に見間違えそうになるが、太めな首周りで、男であるとかろうじて分かる。……そして、目元がどことなく雪英せつえいに似ているような。


 中年の方はきょとんとした顔で、美青年の方はやや警戒の混じった表情。……二人の視線はいずれもきくに向いていた。


 雪英せつえいはそんな二人を紹介した。


「紹介するわね。——このごつい感じの男は、私の夫のとう錦慈きんじ。そしてこの私に似て綺麗な男の子は、私が一番初めに産んだ長子のとう炎勝えんしょうよ」


「……母上、「男の子」というのはおやめください。俺はもう二十ですよ」


 美青年——炎勝えんしょうがやや不服げにそう言った。そのぶすっとした顔すらも美しくて絵になる。さぞ女にもてることだろう。


(ま、あたしは微塵も興味が湧かねーけどな。それよりも……)


 きくはもう一人のの良い中年——錦慈きんじへ眼を向けた。


 錦慈きんじきくと目が合うと、ややおどおどした感じの笑みを浮かべて一礼した。


(なんか……この一筋縄じゃいかなそうな女の旦那には見えねーよな。普通のおっさんみてーだ)


 そんな、やや無礼かもしれない思考を巡らせていたきくへ、隣の昀昀いんいんが耳打ちした。


とう夫君ふくんは、もともと違う世家の出身なの。その家は『唐氏』とは因縁があって、二人はそんな家柄同士の因縁の中での大恋愛の末に結ばれたらしいわ。……ちなみに、ああ見えてかなりの使い手よ。唐夫人と同じくらい……いえ、もしかするとそれ以上かも」


 きくはなるほどと頷いた。——このおばはんより強いのか。機会があれば立ち合ってみてーもんだ。


 こそこそ話をする二人へ詰め寄るような雰囲気を発し、炎勝えんしょうはかつっと一歩前へ出た。


「『白龍姫はくりゅうきかく昀昀いんいんどのの顔はすでに既知だ。未知であったとしても、「龍」という文字の付属した異名は、武林における最大の名誉。その腕前と義気は信ずるに値する。しかし——は一体何ですか、母上?」


 炎勝えんしょうの物言いは、きくを指したものだった。


 「それ」呼ばわりか——きくは眉をピクリと動かすが、昀昀いんいんに肩をポンと掴まれたのでそれ以上は何も言わなかった。


 雪英せつえいはふふっと一笑して、きくを手で示した。


「この子は川島かわしまきく和國わのくにから密航してきた子よ」


和國わのくに……つまり和人わじんですか……?」


 炎勝えんしょうの秀麗たる眉が、苦々しげにひそめられた。


 先ほどよりも強い隔意かくいを感じるのは気のせいか。


 ——なんだ。和人わじんってのは、結構憎まれているものなのか?


炎勝えんしょう。この子は百年前に近海を荒らした海賊ではないわ。それに……この子は毒無しとはいえ、私と伯仲するほどの刀術の使い手よ」


「な…………母上と、伯仲ですって!?」


 炎勝えんしょうは驚愕する。


 なんだか少し勝った気分になり、きくはしたり顔で平たい胸を張る。


 それに対し、炎勝えんしょうは食ってかかった。


「おい和人わじん! 貴様、母上に何かしたんじゃないのか!?」


「はぁ? 「何か」って、あたしが何したってんだよ? 言ってみろよ坊ちゃん」


「そ、それは……分からんが、母上がお前などに遅れを取るわけがない!」


「あたしにイカサマだなんだと突っかかってきた野郎どもと同じようなこと言ってんじゃねーっての。なんならいっぺん試して——ひゃわぁっ!?」


 ふと、きくの声がうわずった。胸に突如ひんやりとした感触を覚えたからだ。


 見ると、昀昀いんいんが襟元から胸の中へ手を入れていた。


 膨らみのほとんど無い胸に、ぺったりと触れていた。


「な、ななななななにすんだよ、このすけべ!?」


 きくは真っ赤になって後ずさる。


「きーく。便、ね?」


 昀昀いんいんが妙に圧のある笑顔でそう返してきた。


 自分の過激な行動の出端を折ってくれたのだと確信し、きくは顔の赤みを引っ込めて冷静になった。


「うちの子がごめんなさいね」


 雪英せつえいは可笑さ半分、申し訳無さ半分といった感情を帯びた笑みとともに謝罪した。


 それから炎勝えんしょうへ向き、甘露な声で甘くたしなめた。

 

「——炎勝えんしょう、先入観を持ち過ぎては駄目よ。貴方も毒を司る『唐氏』の嫡男なら分かるでしょう? 世の中にはちっぽけな見た目に反して、人を十人以上殺せる毒を秘めた生き物もいるのよ。この女の子はこんな小さな見た目に反して、この私と互角に渡り合えるだけの能力があるのよ」

 

「はい。申し訳ありませんでした」


「良い子」


 雪英せつえいは爪先立ちして大きく手を伸ばし、息子の頭を撫でた。


 それから再びきく昀昀いんいんへ振り向き、両手を広げて告げた。


「さて、それではこれからお風呂でもどうかしら? 『唐氏』の薬草風呂はいいわよ。旅の疲れが面白いくらい取れるわ」


 









「あのちっさい体からあんなたくさん産まれるとか……人体の神秘だよなぁ」


 きくは浴場の巨大な木の湯船の端に顎を乗せ、湯のぬくい熱気に気持ちを委ねながらしみじみ呟いた。


 あの後、さらに雪英せつえいと出会った。


 『唐氏』は基本的に女ばかり産まれる一族であるそうで、きくと揉めかけた炎勝えんしょうは唯一の男児であった。そのためか、当主になる者の性別には頓着しないらしい。


 だがそれよりも、きくはその九人の娘の存在に圧倒された。


 みんな母親似で眉目秀麗であったこともそうだが、その数に。


 産みすぎだろ、ときくは思った。


 和國わのくにの農村部では基本的に子沢山だ。けれどそれは、貧しいゆえの生存戦略だ。子供が多い方が誰かが死んだとしても子孫が残りやすいのだ。少なくとも、それなりに恵まれた地位や家庭で十人も子供を産むような例を、きくはあまり知らない。


 雪英せつえいは「ちなみにもう一人産もうか検討中」と言いながら、艶っぽい流し目で夫の錦慈きんじを見た。錦慈きんじはその岩のような顔立ちを恥ずかしそうに赤くした。……いい歳してお盛んなことである。


 そんな『唐氏』の子沢山ぶりに圧倒されてから、浴場に案内された。


 一糸まとわぬ姿になってそこへ入った二人は、湯気にこもった芳醇ほうじゅんな香りに心身を緩めた。薬草の香りだ。


 湯に浸かると、その香りはさらに強まった。


 気持ちだけではない。自覚無く体に蓄積させていた重みのような疲労感が、背中から剥がれていくような感じがする。


 きく昀昀いんいんはすぐに眠りそうなほどの安らぎに包まれた。


「それにしても……まじで気持ちいいわぁ。体が湯に溶けちまいそう……」


「そうねぇー…………」


 隣の昀昀いんいんが、普段の落ち着いた声とは違う弛緩しきった声で同意した。

 

 緑がかった透明の湯に浸った昀昀いんいんの肌は恐ろしく白くきめ細やかで、同性のきくでも見惚れてしまいそうな美しさだったが、今はそれよりも湯の心地良さが勝っていた。


「——お気に召したかしら?」


 夢見心地な二人に、不意に浴場の入口の方から声が投じられた。


 二人も武人である。いきなり聞こえた声にはすかさず反応して瞬時に夢見心地から脱したが、声の主が雪英せつえいであると知るや、警戒を解いた。


「でっっっっっっっ」


 きくは驚愕を覚えた。


 風呂桶へ歩み寄ってくる雪英せつえいの裸体は、それはもう凶悪なほどの豊満さと、それを最大限に引き立てる細さとしなやかさを兼備していた。


 特に、その豊満な釣鐘型の乳房。


 幼さの残る可憐な顔立ちとは不釣り合いなその凶暴な肢体が、背徳感のようなものを感じさせ、きくは思わず唾を飲む。


「私もさっきの立ち合いで一汗かいたから、流したいと思ってね」


 言ってから、体を流し、風呂桶に浸かった。


「ふぅっ……やっぱり我が一族の薬草風呂は何度入っても飽きないわねぇ……」


 甘露な声色でなんとも年寄り臭い物言いをする雪英せつえい


 ……その豊満で形の良い乳房が湯に浮かんでいるのを、きくは呆気にとられた眼差しで凝視していた。


 それから、自分の胸に触れてみる。


 ぺたん。


 父の胸板みたいな感触だった。


(……発育悪いのを気にしたことねーのに…………なんだ、この妙な敗北感)


 雪英せつえいは見透かしたように微笑した。


「大丈夫よ。世の中は広いわ。貴女のような平たい胸の女性を好む男性もいるわ」


 その励ましに同調するように、隣の昀昀いんいんが、きくの肩の素肌をちょんと指でつついて言った。


「そうね。きくは自分で思っているよりずっと魅力的よ。肌も結構綺麗だし、体全体に無駄なお肉が付いてないし。あと、顔も可愛いし」


「な……何言ってんだよ」


「あ。もしかして照れてる?」


「湯気のせいだろっ」


 言って、きくは鼻まで湯に浸かった。ぶくぶくぶく、と泡を立てる。


 雪英せつえいは嫣然と口端を吊り上げた。


「大切なのは、見た目だけではないわ。床上手とこじょうずであるか否かも重要よ」


 ぼごっ!!


 きくは特大の泡を立ててから、顔を勢いよく上げた。湯気のせいであることを含めても真っ赤な顔だった。


「と、とこ、床上手、って……!」


「ふふ……この胸ね、前はもう少し小さかったの。が夜、何回も何回も揉んだり顔埋めたりするものだから、こんなに大きくなってしまったのかもしれないわね。子供もたくさんできちゃったし」


 きくはもはや少し黒っぽく見えるくらいに顔の赤みを深める。昀昀いんいんでさえも「それはそれは……」と口元を押さえてほんのり頬を染めていた。


(——え。あ、なんだ……頭がぼうっとしてきた…………)


 湯の熱と羞恥の熱によって、きくの意識はほんわかとした闇の中へと吸い込まれた。

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