斬合道中《終》

 と、嬰虎えいこの体を彩る刃の数々が、絶え間なく、あらゆる軌道でぶつかり合う。


「はっはぁ! やっぱりやるなぁ! 大した刀術だぜ! そら、もっと力入れっかぁ!」


 嬰虎えいこの楽しげな気迫とともに、その刃の駆け巡る勢いと速度がさらに高まった。


(くそっ! まだ速くなんのかよ……!!)


 きくはそれも危なげなくいなし続けているが、それでも苦々しい感情を禁じ得なかった。


 この男は強い。


 刀剣術も巧みだが、それをさらに補っているのが、持っている武器の数だ。


 武器が多い分、手数も攻撃手段も多い。


 それぞれの武器のそれぞれの強みを最大限に生かし、変則的な斬撃を踊るように繰り出してくる。


 間断を作らず殺到し続ける数多の刃を、きくは刀一本のみで防いでいるのだ。 


 「見切り」に優れていなかったら、きくは今頃この世にいないだろう。


 さらに——


「おっとっ!」


 手の届く間合いにとどまった瞬間、嬰虎えいこの髪束の一房が、蛇のごとく走った。その先端に取り付けてある小型の匕首の尖端がきくの眼球の迫るが、後退して紙一重で躱す。


 かと思えば、遠ざかったきくを追う形で、嬰虎えいこの左手の直剣のひと突きが迫った。


「ちっ……」


 刀との摩擦で方向をずらし、受け流すきく


 だがその「受け流し」と拍子をほぼ同じくして、嬰虎えいこの右手が刀を薙いできた。


 斬られる——


 川島派かわしまは至刀流しとうりゅう・五ヶ条『朧舞おぼろまい』。特殊な歩法を用いた瞬時の離脱。

 本来ならばそのまま敵の死角へ入って一太刀浴びせるのだが、きくから見て右側には直剣があり、左からは外から内へ円弧に迫る刀。

 左右の退路が無いゆえに「後退」する他無かった。


 さらにそれは、同じ刀剣使いである嬰虎えいこも分かっていた。


 嬰虎えいこは、なんと右手の刀を手裏剣のごとく投げ込んできた。


 驚いたのは一瞬よりもさらに半分の間のみ。きく嬰虎えいこの姿勢とわずかな動きから、すぐにその狙いを


 ——あたしがあの刀を避けたり防いだりした瞬間、そのわずかな隙を埋める形で斬りかかってくるはずだ。まだあいつにはもう一本直剣が残っている。


 どうすべきかの「答え」は、体が勝手に導き出した。


 幼少期から今に至るまで剣技を骨髄まで染み込ませた、きくの五体が。


 ——川島派かわしまは至刀流しとうりゅう・二ヶ条『旋風蚕つむじがいこ』。


「ふぅぅっ……!!」


 風のうなりにも似た気合を発し、きく


 踊るような足さばきと体さばき、さらに巧妙なの操作によって、全身に糸を巻きつけるように刀を振るったのだ。


 その太刀筋は体全体を密に覆い、飛んできた刀を弾き、その次の拍子に迫った嬰虎えいこの刃の数々をことごとく跳ね返した。


 攻撃を弾かれたことで後退した嬰虎えいこへ、きくはその「太刀筋の旋風つむじ」をまとったまま近づく。


「はっはぁ!!」


 嬰虎えいこはそんなきくと、嬉々として剣戟に応じた。


 嵐のように殺到する嬰虎えいこの刃の数々を、きくは『旋風蚕』で次々と弾く。


 全身に刃の衣をまとう攻防一体の型。

 その太刀筋は、入ってきたあらゆる物を防ぎ、柔らかな物であれば切り裂く。

 まさに矛と盾の両立。


 ひとしきり刃をぶつけ合っていると、横合いから人影が——嬰虎えいこの手下の一人がものすごい勢いで飛んできたので、双方は反射的にお互いの身を後方へ退かせた。


 手下は二人の間を高速で通過し、勢いを保ったまま木の幹に激突。


 ぺぐしゃぁ、という折れる音を体から奏でさせてから、木の幹にくっついたまま滑り落ちる。……死んでいた。


 それをやったのは、無論、今なお多数のならず者と戦っている昀昀いんいんだ。


 縦横無尽に森の中を駆け巡り、風圧を纏う掌で周囲の敵を蹴散らし、きくに何としても近付かせまいとしている。


 たった一人で、決して少なくない群れを圧倒し、なおかつ決めた領域への接近も防いでいる。


「やるなぁ、お前さんの恋人。大した腕前だぜ」


 嬰虎えいこの感嘆の言葉に、半分は同意し、もう半分には反論した。


「おいこら。恋人ってなんだおい。あたしら女同士だぞ」


「え? 違うのかい? 『玄洞派げんどうは』ってのは門派だって聞いたんだが……なら体限定の関係?」


「ぶっ殺すぞ!?」


 怒りと羞恥で顔を赤らめたきくが吠える。


「まあいいさ。あの白い子はでも。俺の目的は、あくまでお前さんのその刀だ。……いいなぁ、それよぉ。俺が今まで刃物の中で、間違いなく随一の業物になるわぁ」


「もう奪った気になってんじゃねーぞ阿呆。この刀の一太刀なら、その首にくれてやっても構わねーけどよ」


 煽るように言いながら、きくは周囲へ素早く視線を走らせた。


 ……よし。火縄銃を持っている奴はまだいない。だけど引き続き警戒が必要だな。


火槍かそうを使ってる奴がいねぇか、って警戒してるのかい?」


 嬰虎えいこが図星を突いてくる。内心で驚くが、きくはおくびにも出さない。


「安心していいぜ? 火槍は俺がこの世で一等嫌いな武器だ。この世で最も素晴らしい武器はただ一つ、「刃物」だ」


 深緑の薄暗さの中、わずかな木漏れ日を受けて燻し銀に輝くを、嬰虎えいこは舐めるように見つめる。


「刃物はいい……その輝きも、その斬れ味も、斬った時の感触も、全てが。そしてそれは良い刃物ほど素晴らしいものだ。だから俺は刃物を集めるのさ。その中で一番物を見つけるまで、俺は何度でも刃物狩りを続ける。理想の女を探すのと同義だなぁ。……んで、お前のその刀が、その刃物狩りに終わりを迎えさせてくれるような、そんな気がするんだよ」


 まだ大陸の共通語が上手とはいえないきくでも、その口ぶりから、嘘ではないということがなんとなく分かった。


 この男は、本当に刃物を愛し、火槍を嫌っているのだ。


 刀狩りの山賊などに身を堕としていなかったら、気が合ったかも分からない。


 少し残念に思いながら、きくは敵対の言葉を返した。


「そうかい…………だが残念だな。あんたは失恋だよ。この刀とも、


「くくく……そうかそうか。じゃあ————予定通り「略奪愛」といくかねぇ!!」


 嬰虎えいこが疾駆した。


 あっという間に彼我の距離が埋まったかと思えば、片方の直剣で斬りかかってくる。

 

 きくはそれを防ぐが、それからほとんど間を作らずに蹴りがやってくる。爪状の刃を伴ったその蹴上げを前もって見切っていたきくは後退して回避。


 かと思えば、今度は左太腿から逆手に抜いた短刀で頭を斜め上から刺さんとしてくる。

 きくは小柄な体をさらに縮めてその一突きの下をくぐった。

 だがすぐに横合いからもう一本の短刀のきっさきが迫ったため、横へ転がってそれを避ける。


 受け身をとって体勢を整える。

 だがすぐに手裏剣のように投げつけられた一対の短刀と目が合ったので、それらを刀で弾く。虚空を舞う一対の短刀。


 その投擲からほぼ間断を作らず、嬰虎えいこが接近し、一対の直剣による刺突を次々と仕掛ける。

 きくはそれらを避け、時に防ぐが、短刀が自由落下して目と鼻の高さに達した瞬間、直剣はきくの顔面へ真っ直ぐ飛ばした。


「ちっ……」


 きくはそれを横へずれて躱すが、その躱すために移動した方向から、待ち構えていたように直剣の横薙ぎが迫る。


「こんのっ……!?」


 直剣の刃が首の柔肌に達する寸前に、どうにか刀を差し挟んで防いだきく。そのまま敵の白刃を摩擦で受け流す。


 それ以降も、二人の斬り合いは続く。


 ——嬰虎えいこの技は、非常に風変わりで、変則的で、凶悪なものだった。


 

 だから空中で手玉のように刃を取り替えたり、足で蹴っ飛ばしたり手で弾いたりしながら、一対しか無い腕でありながらまるで二対三対も腕があるかのような連撃をしかけてくる。


 これこそが、数多の武芸者を山中で葬り、『百刃千死』の悪名を頂戴した、りく嬰虎えいこの外功。


 ……さらに、そこに『内功ないこう』が加わると、付け入る隙がさらに減る。


「もらった!」


 蹴り上げられた鉄爪を後退して避けつつ、その足へ向かって刀を走らせるきく。足を斬り落とすつもりである。


 だが、刀が嬰虎えいこの足に達する寸前、その足が


 いや、嬰虎えいこがものすごい勢いで後方へ跳ねたのだ。


 互いの距離が、あっという間に五丈(約15メートル)ほども遠ざかった。


 どう考えても片足一本で出せる勢いではない。つまり。


(内功、ってやつか……!)


 内力ないりょくによる肉体の一時的強化——武功の権能けんのうを見せつけられ、きくは唇の下で歯噛みする。


 嬰虎えいこを追いかけて、森を出る。

 深緑の薄闇から白日の明るさに急変して、一瞬目が痛くなる。


 後方の森の中から聞こえる戦いの音は、すでに弱まっている。昀昀いんいんがもうすぐ蹴散らすか、もしくは敵側が撤退するだろう。


「そろそろ手下どもの数が減ってきたなぁ……このままだと二対一になっちまう。というわけで——


 断崖を背にした嬰虎えいこはやや疲れたように言うと、構えた。


「——」


 きくは、うなじがざわつくのを実感した。


 今までとは違う「感じ」がする。


 構えの重みが違う。

 呼吸が違う。

 細く鋭い瞳から覗く気迫が違う。


 ——


「————ァァァァッ!!」


 空気が渦を巻いた。


 嬰虎えいこが、鉄色の竜巻と化し、きくへと迫る。


 きくの動体視力をもってしても目視できないほどの速さで、渦巻くように振られている刃の数々。


 その太刀筋は、きくの使う『旋風蚕』より、はるかに密。どこへ手を入れてもズタズタになるだろう。


 明らかに常人の身体能力では体が壊れる、めちゃくちゃな動きだ。


 であれば、内功を併用した動き。


 ——『纏龍剣法てんりゅうけんぽう』。嬰虎えいこが保有している「絶招ぜっしょう」……すなわち「奥義」だ。


 内功を併用していても無茶苦茶な回転を用い、太刀筋を密に纏い、触れた相手を確実に斬り刻む技。体への負担は大きいが、それでもきくの『旋風蚕』よりも太刀筋の密度が高く、刃を刺し入れる隙が皆無に等しい。


 これを見せたということは、嬰虎えいこがその相手を「脅威」と認めた証。


 同時に、その相手に確実に「死」をもたらすという宣告。


(くそが、内功内功って……!)

 

 少なからずの劣等感を覚え、きくは歯噛みした。


 ——きくの基礎体力は、武林の者に比べ、かなり劣る。


 和國わのくにの武術は言うなれば「職人芸」。

 理にかなった効果的な動きを何度も反復練習し、その「理」を肉体に刻み込み、意識せずとも扱える水準にまで達させるもの。

 極めた者の動きは一挙手一投足すべてが「技」。わずかながらの力で、最大限の実戦性を生みなす、まさしく「職人芸」だ。

 さらに和國わのくにの剣術で用いる刀は、優れた工芸技術によって生み出された代物だ。その斬れ味の凶悪さは武林においても知れ渡っている。和國わのくにの剣術はこの刀の持ち味を最大限に活かす形で技術が構成されている。この刀の存在も、和國わのくにの武術の強さの秘密であった。


 対して、武林の武功は「肉体改造」。

 「気」の操作によって肉体の構造そのものに働きかけることで、根本から強くする。

 熟達すれば、女の細指であっても男の胸板を貫くほどの威力を発揮できる。まさしく体格差という常識を塗り替える「肉体改造」。

 大陸の武器に対する考え方は「どうせ武器など壊れるのだからそこそこの物をたくさん作れればいい」という淡白なもの。しかし、代わりに肉体そのものを変質させる。その変質のさせ方はさまざまで、門派によって多様な技能が存在する。


 戦術思想としては、この二つに「優劣」は無い。

 「相違」があるのみ。

 だがやはり「相違」というのは、「力の入れどころ」が違うという意味だ。

 

 

 きくは、肉体の頑強さでは、どうしようもなく嬰虎えいこに負けていた。


 仕方のないこととはいえ、それがきくには屈辱だった。


 しかし、勝っている部分もある。


 それもまた劣等感とともに承知していたきくは——迫りくる刃の竜巻に向かって、


 認めよう。

 自分は貧弱だ。

 単純な力比べなどしようものなら、ひとたまりもない。

 だけど、今、この手に握っている刀の使い方だけは、武林にいる誰にだって負けはしない。


 それに、いくら体技が優れていたとしても。


 

 

 刃の竜巻が、一足一刀の間合いを侵す。


 その間合いは、きくという「剣客」にとっての版図はんと


 版図に入った侵寇者しんこうしゃを必ず斬り伏せるのが、この剣の役目。


 かくして、きくは放つ。






 ————川島派かわしまは至刀流しとうりゅう・一ヶ条『瀑布ばくふ』。






 風が轟然と唸る。


 まばゆい陽光を浴びて燻し銀に輝くが、銀の雷霆らいていと化した。


 砕ける音。


 花びらのように虚空に舞うのは、


 それと、真紅の血滴けってき


「な、にぃ……!?」


 嬰虎えいこは刃の竜巻であることをやめ、驚愕の表情で虚空を仰いでいた。

 ……両手の直剣はいずれも半ばで折れており、両靴の鉤爪も欠けていた。

 浅いながら斬り傷を負った胸からは、わずかな血が噴き出ていた。


 見開かれた細目には、刀を大地まで深々と振り下ろし終えた姿勢の、きくの姿。


 それを見て、悟る。


 ——その業物と、それを最大限に活かす刀術の熟練に、己の「絶招」は破られたのだと。


 『瀑布』は、川島派かわしまはで最初に学ぶ型だ。

 刀を上段から思い切り振り下ろす、単純な型。

 しかし単純な分、強力で、なおかつ奥が深い。

 何より『瀑布』は、きくが最もたくさん練習した、十八番おはこの型であった。

 

 さらに、きくは止まらない。


 すぐに次の構えをとった。


 刺突の構え。


 そこからほんのわずかな間を作ってから、きく川島派かわしまは至刀流しとうりゅう・六ヶ条『鎧透よろいすかし』で突きかかった。


「っ……!」


 嬰虎えいこも、それを黙って見ているわけではなかった。


 構えから刺突が走るまでのわずかな間を使い、刺突の来るであろう部位を予測し、なおかつそこへ折れた直剣の柄で塞ぐ。


 きくの愛刀が直線状に閃く。


 その鋒が、嬰虎えいこの構えた直剣の鍔の表面に刺さる。

 

 金属で出来た鍔を容易く貫き、『鎧透』は嬰虎えいこの左胸へ迫り、肋骨に刺さり——


 肋骨の一本が傷つきはしたものの、心の臓を貫かれることはなかった。


 だが、『鎧透』に込められた勢いで、嬰虎えいこの五体が後方へ押し流される。


 そして——断崖絶壁の向こうへと投げ出された。


「……おぉ?」


 呆けたような声を漏らし、一瞬だけ虚空にとどまる嬰虎えいこ


 しかし、次の一瞬には、下降した。


 空を仰ぎ見るような体勢で、はるか下の川へ向かって落下していった。


「…………や、やったぞ……」


 きくは刺突を終えた構えのまま、嬰虎えいこが消えた断崖絶壁を今なお見つめていた。


 いくら頑強な肉体を持つ武林の武芸者でも、あの高さから落ちれば死はまぬがれない。


 首を斬るのではなく、突き落とすという殺し方は剣客として少々しゃくであったが、それでも。


 この勝負、あたしの勝ちだ——きくはそう確信した。


「殺したぞぉぉぉぉっ!! 昀昀いんいんっ!!」


 森の奥へ向かって、力強く叫んだ。


 それは、昀昀いんいんへの報告であると同時に、残党への警告だった。


 案の定、「頭」を失ったならず者の集団は、一人、また一人と、足音を遠ざからせていき、やがて無音となった。


 しばらく待っていると、


「……ご苦労様」


 昀昀いんいんが、深緑の薄闇から音も無く姿を現した。


 その白装束には、少しの汚れも見られなかった。相手が手も足も出ずに圧倒されていたことは想像に難くない。


「そっちこそ、お疲れさん」


 きくはそう労いの言葉をかけると、血振りをし、愛刀を左腰の鞘へ納めた。


 昀昀いんいんはそんなきくへすっと近寄ると、少し案ずるような目を向けてきた。


「怪我は無い?」


「ああ、大丈夫だよ。少し危なかったけどな」


 きくのその言葉を聞くと、昀昀いんいんは柔らかく微笑んだ。


「……正直に言ってしまうと、あなた一人に『百刃千死』を押し付けたのは重荷ではないかと思っていたわ。相手はそれなりに名の知れた緑林だもの。奴の手下を全員殺してからわたしも加勢するつもりだったけれど…………どうやらわたし、まだきくのこと、みくびっていたのかも」


「あたしはむしろ感謝してるぜ? 確かにあいつ、強かったからな。良い修行になったよ」


「ふふっ。そういえば、それが目的だったわね」


 二人して笑い合ってから、同時に同じ方向を向いた。


「んじゃ、そろそろ行こうぜ」


「ええ」


 頷き合い、北へ続く山道を、再び歩き出した。


 まるで、散歩の途中で石につまづいて転んだ後のような、そんな軽い歩調で。


















「…………はは、ははははっ」


 さあさあと川が流れる音に、男の乾いた笑声が混じる。


 声の主であるりく嬰虎えいこは、ゆるく流れる川の中に仰向けに浸かっていた。


 さんさんと輝く太陽が、不思議と先ほどよりも強く輝いているように見える。


 浅くながら斬りつけられた胸の痛みも、気にならない。


 それくらい——心踊っていた。


「ははははっ………はははは」


 自然と、笑いが高まってくる。


 ——生きている。自分はまだ。


 確かに自分は崖から落ちた。


 しかし落ちている最中、崖から細い木が生えているのを俯瞰ふかんした嬰虎えいこは、腰の帯に仕込んであった暗器「腰帯剣ようたいけん」を抜き、その木へと引っ掛けた。薄い絹帯のような柔らかく長い剣身はその梢に引っかかり、嬰虎えいこの落下をわずかな時間ながら止めてくれた。


 その木が重みで折れる前に、嬰虎えいこは腰帯剣を捨て、内力を振り絞って崖を蹴った。


 身が大きく崖から離れ、深い川の真上へ達する。


 そのまま川に落ちた。


 ——こうして、嬰虎えいこは転落死をまぬがれたのだ。


「くっくっくっくっ…………!」


 だが、そんな奇跡さえも、些事に思える。


 笑いを噛み殺しきれない。口から否応無く漏れ出てくる。




 ——


 


 あの見事な和刀わとうに、だけではない。


 自分を見事に打ち破ってみせた、あの和人の女に。


「はっはっはっ…………ははははははっ」


 ああ、斬られて負けたというのに、なんと心が踊るのだろう。


 素晴らしい剣に出会った時の感動すら超える喜び。


 彼女に付けられた胸の傷さえも愛おしい。


 ——欲しい。


 和刀わとうだけでなく、あの女も。


 あの女ともっと斬り結びたい。


 今まで数えきれないくらいに人を殺してきたが、あの女の屍だけは大切にとっておきたい。


 斬り合いの末に殺されるとしても、あの女にならば一向に構わない。


 惚れていた。完全に。あの和刀わとうの女に。


 嬰虎えいこは勢いよく水から上がった。


 まずは、この傷を治す。失った武器を新しく埋め合わせる。


 それから、あの女を追いかけるのだ。


 緑林の情報網は広い。やろうと思えば、簡単に見つかるはずだ。


 ——待ってろよ。


 嬰虎えいこはこれからの行動方針を明確に固めた。






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 また書き溜めてから連投いたします。



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