剣客と白い少女《三》

 いぶし銀の輝きを誇る刀身が、斬れ味を宿した疾風と化す。


 躊躇ちゅうちょ無く昀昀いんいんの首を狙ったきくの一太刀は、昀昀いんいんが前の掌を上へ翻した途端、ひとりでに上へ逸れた。


「うおっ……?」


 突風か? しかし自分の体には風は感じなかった。刀だけが勝手に動いた——

 きくは一瞬のうちに、眼前で起こった現象を情報としてまとめた。


 さらに刀が上へ流れてガラ空きとなった胴体めがけて、昀昀いんいんの掌が押し迫る。

 柔和で滑らかそうで、なまっちろい女の手。

 しかしその見た目とは不釣り合いな強烈な威力を、先ほど見たばかりだ。


「おっと!」


 きくは兎のごとくその場から身を逃した。


 掌が宙を推す。

 そこから生まれた風圧で、斜め後方へ飛び退いたきくの前髪がぶわりと踊った。


 遠くまで届く掌圧に驚きながらも、きくはすでに次の一手の準備を終えていた。


 ——川島派至刀流かわしまはしとうりゅう・六ヶ条『鎧透よろいすかし』。


しっ!」


 銀の残像を置き去りにして疾駆する剣尖。

 熟練者ならば、そのかたの名の通り鎧すら貫き通す一突きである。


 過程がすっ飛ばされて見えるほどの速度で昀昀いんいんに迫ったその突きは——しかし昀昀いんいんが少し手を近づけただけで横へ逸れた。


(くそっ、まただ! 刀が逸れやがる! 風みてーなもんに逸らされちまう!)


 彼女の操る掌の周りに渦巻く、謎の風圧。

 

 一定の距離まで刀が近づくと、その風圧が太刀筋を歪めてしまうのだ。


 再び昀昀いんいんの攻め手。

 ふわりと柔らかく、しかし素早く距離を詰めた。

 踊るような美しい挙動とともに幾度も繰り出される、岩をも砕く掌打の数々。

 確実にきくの骨を粉にして釣りが来るほどの威力を持ったその攻撃を、きく和國わのくにの剣技の持ち味である俊敏な足さばきと体さばきで避ける。


 ときどき隙を見つけ、斬りかかるも、やはり掌の風圧によって刃を流されて失敗に終わる。


(意味が分からん。こいつ……天狗か何かか?)


 きくは平静を装い、胸中で驚愕していた。


 ——天狗にあらず。昀昀いんいんきくと同じ、人の女のはらから生まれた人の子だ。


 今、目の前で見せている技も、神通力でも何でもない。


 『武功ぶこう』という体術の一技法に過ぎない。


 武功とは、『外功がいこう』と『内功ないこう』を一つにまとめた呼称。


 徒手や武器を用いた武技『外功』、

 体内を巡る「気」を用いた技術『内功』、

 これら二つを併修へいしゅうして、初めてその者の技は『武功』と呼べるのである。どちらが欠けても『武功』足り得ない。


 昀昀いんいんが用いている掌法——すなわち『外功』の名は、『水龍連環掌すいりゅうれんかんしょう』。


 「水」は雨として地に満ち、そこから蒸気となって再び天へ昇り、雲と化して雨と雷を降らす。その様は、まさしく天地をのごとく廻り続ける水龍のごとし——


 優しき姿と厳しき姿を併せ持った「水」のごとく、柔と剛を高度に備えた掌法である。


 『玄洞派げんどうは』における外功の、基本中の基本。この掌法ができなければ他の外功全てが身につかないといっていい。


 さらに、そんな昀昀いんいんの掌の動きに合わせて渦巻いている重厚な気流。

 きくの刃の接触をいっさい許さぬ鉄壁の防壁。


 ——そう。これは紛れもなく、昀昀いんいんの掌法が生み出した風圧。


 『内功』だ。


 体内を巡る「気」を練り、『内力ないりょく』という力を生み出し、その内力によって掌法を行うことで凄まじい怪力を生み、その怪力をもって空気をかき混ぜ、気流の衣をまとっているのである。


 和國わのくにには存在しなかった摩訶不思議な技術に、きくは刀と足を動かしつつ、内心驚かされっぱなしだった。


 ……しかし、そんな神通力じみた芸当も、完璧ではない。


 きくは理屈を解してはいなくとも、「見抜いて」はいた。


 ——あの風圧は、


 ならば話は簡単だ。


 掌が動くよりも先に斬ればいい。


 相手の反応より速く動くか、相手の反応を見当違いの場所に誘って隙を突けばいい。


 勝利への糸口を少しでも見つけたのなら、あとはそれを追い求めるのみ。


 きくはさらに攻めを強めた。









(——やっぱりこの子、すごく強い)


 涼しい顔を少しも変えぬまま、あらゆる方向から殺到するきくの太刀筋をいなし続ける昀昀いんいん


 しかしその心の中では、きくの戦いぶりに圧倒されていた。


 正確には——彼女の「はやさ」に。

 

 猿のごとく俊敏で、なおかつ水のごとく変化に富んだ歩法。

 雷光じみた速さで繰り出される和刀わとう

 それらによってこちらの掌を容易く避け、なおかつ斬れ味鋭い反撃をしかけてくる。


 しかし、それよりも驚嘆すべきは、彼女の「見切り」の正確さ。


 相手の次の動きを正確に読み、その上で対応することで、きくは相対的に昀昀いんいんよりも「疾い」動きをすることが可能なのだ。

 

 昀昀いんいんも動きの中に「虚実」を含ませることで、刀が空を斬るように誘導している。


 しかし、それでもぎりぎりで避けられる程度。

 少しでも誤れば肌に切れ目がつくだろう。


(これが……和國わのくにの刀術)


 百年ほど前、大陸近海では和人わじんの海賊が暴れ回っていたという。

 なんでも、当時戦乱期だった和國わのくににて主を失った落人おちうどが食うに困って海賊になったそうだ。

 

 海に囲まれた島国だけあって和人わじんの海上戦術はかなりのものだったが、朝廷軍に心の傷を植え付けたのは、その恐るべき刀術であった。


 素早い動きと、非常に斬れ味鋭い和刀わとう

 それによって多くの兵が反撃する間も無く斬り殺された。

 和人わじんを殺すには火槍かそう——火薬の力で小さな鉄の弾を撃ち出す飛び道具——を使うしかない、と言われたほどだ。


 どうにか海賊を撃退することには成功したが、和刀わとうの斬れ味とそれを操る刀術は、今なお朝廷軍にとっては恐怖の対象であるという。


(確かに、これは怖いわね……! 少しでも気持ちをたゆませたら危ない——)


 武林では、外功ばかり追い求めて内功をおろそかにする者を「外華内貧がいかないひん」と揶揄する風潮が強い。


 内外を併修することが最も尊く、そして確実に強くなれる道であるという考え方が根強いのだ。

 昀昀いんいんにも少しそういう気持ちがあった。


 しかし、目の前の圧倒的現実たるやどうだろう。


 これを「外華内貧」と嘲笑しようものなら、その瞬間に首から上が転がり落ちる——!


(けど……彼女自身は、)


 内功とは、攻撃のためだけの技術ではない。


 体内を巡る「気」を練ることで、体内器官を練り、内面を打たれ強く鍛えるためのものでもある。


 内面を鍛えれば、体は壮健になるし、普通の人間が即死するような衝撃にも耐えることが可能となる。


 そして、きくはやはり「外華内貧」。


 刀術……すなわち『外功』は達者でも、『内功』は全く練っていない。


 無防備。鎧を身につけていない、裸同然のありさま。


 であれば、内力を込めた掌でひと撫でするだけでも、きくにとってはかなり痛手となるはず。


 きくのあの石火のごとき素早さならば容易にかわしてしまうだろうが、それにもいずれ限界が来る。


 自分と彼女とでは、が違う。


 内功を練ると、体力も上がる。


 門派に入門してから内功を徹底的に練ってきた昀昀いんいんの持久力は、確実にきくよりも上。


 きくの素早い動きにも、いつか疲れで衰えが見える。


 そこが狙い時だ。


 昀昀いんいんは異国の剣客が強いる綱渡りの攻防をこなしながら、草むらに潜む蛇のように「その時」を待った。









 中天にあった太陽が、西へ少し傾きを見せていた。


 互いが各々の苦悩と駆け引きを抱きながら続く立ち合いは、やがて終わろうとしていた。


 その「終わり」を作っていたのは、きくであった。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」


 今なお目まぐるしく昀昀いんいんとの攻防を巡らせるきくの息は、もはや絶え絶えだった。

 額にもびっしり汗の滴が浮かんでいる。


 昀昀いんいんが心中で抱いた予知通りの状況になっていた。


 持久力の差。


 内功を修めている昀昀いんいんに比べ、きくの体力は明らかに劣っていた。


 並の武芸者ならば、息が上がる前にその首を落として終わらせていただろう。


 しかし昀昀いんいんは「並」ではない。


 内功の水準も高く、それと同じくらいに外功武技の腕前も達者だ。


 きくが今まで出会った中で、最強の武芸者であると言っていい。


 ゆえに、きくは苦痛ではなく、笑みを顔に浮かばせた。


 ああ。


 命懸けの密航をしてでも、ここへ来た甲斐があった。


 やはり自分は、武林ここへ来て正解だったのだ!


 疲労に足を引っ張られ、下半身の体勢が崩れるきく


 そのせいで昀昀いんいんの掌打を回避し切れず、それがまとう重厚な風圧を浴びて吹っ飛んだ。


「うわっ……!?」


 颶風ぐふうにあおられた紙屑のごとく遠くまで飛ばされるきくだが、受け身を取って立ち上がり、体勢をすぐに立て直す。


 だが、昀昀いんいんはすでに目前まで迫っていた。


 真っ直ぐ掌を打ち出す——きくはすでにそう「見切り」をつけていた。


 いや、「見切り」をする前から、そう来るであろうと予測していた。

 ……「勝利の瞬間が、最も危険な瞬間である」。どこかの国の軍師がそう言っていた気がする。


 勝機を感じた時、人は否が応でも単調な動きを取りやすい。


 そう読んでいたからこそ、きくは立ち上がった拍子にすでに、


 喉を向いていた剣尖を、昀昀いんいんは小さく首を動かしてかわす。


 しかし、その刃は動き、昀昀いんいんの首筋に添えられる。


 同じ時機、雄渾な内力を秘めた昀昀いんいんの掌底も、きくの胴体へ肉薄する。




 そして——




 お互い、「寸止め」である。


 もしも昀昀いんいんの掌がきくにぶつかれば、確実に全身の骨を粉砕できる。

 しかし、その勢いに押されて後方へ吹っ飛んだ拍子に、昀昀いんいんの首筋に添えている刃も引かれてその柔肌を裂き、骨をも断ち、首を落とすだろう。

 良い和刀わとうの斬れ味はそれを容易く実現し得る。


 昀昀いんいんが攻撃をやめた場合、きくは瞬時に刀を引き、刃の摩擦で昀昀いんいんの首を斬る。


 双方とも、そんな自分達の状態の意味を察していた。


 ゆえに、同じ結論を口にした。


「「——引き分け、だな」」

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