第五話
晴れて家族からも進学志望先の変更を受け入れてもらえてからいくつかの手続きこなす。今まで通っていた予備校を辞め、学科教材の整理をしていた。予備校の講師からはどこに変更するのかを執拗に訊かれたが返答の言葉は目に見えていたので適当に返していた。
受験のことでいえば学科試験も必要だそうなので明らかに必要ないもののみ処分して美術関係のことも収納できるように準備し始めていた。
(美術とはいえ学科もいるんだな…。)
漠然とそう思いながらも新しい生活への不安と期待を胸にしていた。
家族との相談の結果、まずは無料体験は行ってみていいんじゃないかと話が運び、六月の半ばにある体験講座に向かうことになった。資料の通りに予約し、いくつかの手続きを踏んだ。
八幡にもらったチラシには当日の持ち物が書かれてあったが、どれも見覚えのないものばかりでわかるのは鉛筆とカッター、ティッシュもしくはガーゼという項目のみだった。
何に使うのかさえもよくわからず、講義の際のメモ書きかなと解釈し持ち物に書かれた通りできる範囲で準備した。
◇
当日、緊張しながらも朝の九時半に桜田美術学院に到着した。十時から開始だそうなので少し余裕はある。全く右も左もわからないまま訪問ということは依然として変わらないが、今回は『美術予備校生になる』という事実をもっていることで少し自信をもって門をくぐることができた。
中に入ると、先日にも顔を合わせた須田が受付にいた。
「…あの、すみません。今日、体験会で来たンですけど…。」
変わらず柔らかな表情で迎え入れるように須田は答える。
「おはようございます。体験会ですね、アトリエは二階の二〇二号室ですのでそちらで講師の誘導に沿ってくださいね。」
「ア、アトリエって、教室ですか?上がればいいんですね?」
そうですそうです、とにこやかに返す須田に頭を軽く下げ、聞きなれないアトリエと呼ばれた教室に足を運ぶ。
二〇二号室まで来ると、中には数人の学生らしい人がぽつぽつと座っていた。
「あ!おはようございます!この間の…白田君、かな?」
声のする方を向くと八幡の姿があった。
「あ…こないだは、ありがとうございました…。これって…中入って大丈夫なんですかね?」
軽く会釈をしてからおどおどと目を泳がせながらも八幡に訊く。
「予約名簿みて僕もうれしくなっちゃったよ。今日はたのしんでってね。」
そういいながら八幡は康太朗を中へと誘導する。
『たのしんでってね』という言葉に違和感を覚えながらも誘導に沿って荷物を置いた。
(勉強なのに楽しんでいくって、なんか不思議だな…。)
そう思っていると八幡に質問を投げられた。
「白田君、
「せっこう…?」
これこれ、と八幡は真っ白なヒトの頭部が形とられている像のようなものを指さす。その像は八幡の頭と同じほどの大きさで、康太朗の胸部より低いくらいの白い台の上に置かれていた。台の周りには四十センチほどの高さの椅子に座る学生が何人か囲むように配置されており、まるで石膏と呼ばれたその像を崇拝するかのように康太朗には見えた。ふと周りを見渡すと康太朗の前にあるのと同じようなセットが部屋の間反対にももう一対あった。
「いや…描いたりするのは初めてで…。」
恥ずかしさを感じながらも八幡に返すとオッケーじゃあ簡単な場所にしようね、と康太朗の席を準備してくれた。
座ったことのないほど低い椅子に座ると、康太朗の目の前には先ほどの石膏像を真横から見上げる世界が広がっていた。
真っ白で名前もわからない誰かのその横顔は、不思議と生きているように感じ、どこか圧倒されるようだった。
「白田君さ、今日鉛筆とか持ってきてる?」
周りを見ると年の近そうな学生たちが大量の鉛筆を手元に置き、箱型のティッシュやガーゼとともに準備しているようだった。
「…いえ…あの、そんな沢山は持ってきてなくて、メモ用だと思ったので大したものなくて…。」
顔から火が出そうなほど恥ずかしかったが、八幡はそっかじゃあおいで、と何事もなかったかのように康太朗をアトリエの外に呼び出した。
ついていくと、そのまま八幡は軽やかに階段を降り、入口側へと進んだ。
「こっちおいで、画材を選びましょう。」
そういうと、入口横の少しくぼんだ場所へとするりと入っていった。
前回来たときは全く気が付かなかったが、テーブルや椅子の向かいには小さな売店のような場所があった。
売店に入ると、鉛筆の木の匂いや油のような匂いが混ざったような空間で見慣れないものばかりが並ぶ場所だった。
八幡は『はじめてだからなぁ~』と鉛筆売り場の前で悩んでおり、一緒になって覗くと今まで見たことのない種類の鉛筆がひしめき合っていた。康太朗には何がどう違うのかわからず、八幡が悩むその姿を呆然と眺めることしかできなかった。
「白田君、今お金いくらかある?」
腕を組みながら体ごと康太朗に傾け八幡は訊く。
「えと、はい、五千円くらいなら…。」
「ああ、十分十分。よかった、前回来てくれた時にお金持ってきてねって言い忘れちゃったから。」
ははは、と笑いながらもささっと鉛筆を五本ほどと、箱ティッシュ、見慣れない白い塊に透明なアクリルかプラスチック製の板、カッターを手に取り売店のカウンターまで運んだ。
レジに打ち出された金額を支払うと、鉛筆らを両手いっぱいに持ち上げる。
「もてる?」
とにやにや見守る八幡にダイジョブっす、と返しながら手元を整理した。
今買ってもらったものは向こうで少し説明しますね、と声を掛けられ、手から道具がこぼれそうになりながらもまたアトリエに戻った。
部屋にもどりすぐ、もう何人かの講師と思われる人物がアトリエに入ってきて挨拶が行われた。
「おはようございます。今日の体験会担当します、佐々木です。何か怪我したり、困ったことあったら僕に声かけてください。他にもこのアトリエには四人の先生方がいますので、制作していてわからないことあったら何でも聞いてくださいね。それではよろしくお願いいたします。」
そう佐々木と名乗る人物が全体に声をかけると、学生たちは軽く思い思いに会釈した。
「白田君、お待たせ~。」
と八幡が廊下から何やら大きなものをもってやってきた。
「さっきの道具類も含めて教えますね。」
そういうと康太朗の目の前に木製のスタンドのようなものを立てかける。
「これがイーゼルね。舟板とピンを使って…こうやってあげるとここにパネルを置けてね。ここに紙を抑えて描くんです。」
そういって周りの学生の前にあるようなセットができあがった。目の前にする真っ白な紙に期待と緊張感が漂った。
「鉛筆なんだけど。硬さがあってね。これが2B、B、H、2H、3Hの順番で芯が硬くなって色味も薄くなります。まぁ描いていけば覚えるよ。僕のおすすめは最初は2Bで描きだして、細かいところを硬い鉛筆で描く感じかな。」
淡々と進む説明になんとかついていきながら話を聞く。
「鉛筆の削り方なんだけど…最初はこうやって木軸の部分の角を落としていって…芯が見えてきたら尖るようにちょっとずつ削っていってあげてください。あまり力入れると折れやすいので気を付けてね、やってみて。」
渡されたカッターと鉛筆を八幡がやったように見様見真似で削ってみる。
ぎこちない手つきで軸を削り、芯を削る。
『パキっ』
「あ…。」
初めて削った鉛筆は見事に芯が折れてしまった。
けたけたと笑う八幡はよくあるよ、何度かチャレンジしてみてくださいね。と言って他の説明を続けた。
「このアクリル板は、デスケールって言って、絵を描く際の構図決めに使います。今回はあの石膏像、ラボルトの
「……なんとかやってみます…!」
一気に流れ込む情報量を巡らせながら答える。
「まぁ、わからないことあったらすぐに訊いてください。佐々木先生はじめ、首にタグを下げてる人はみんな先生だから大丈夫だよ。」
ひとしきり説明を終えた八幡は頑張ってみてね、と告げてその場を立ち去った。
慣れない手つきでひとしきりの鉛筆を削ってからいよいよ画面に鉛筆を置いた。
らしさ コウゾウ @kohzoh_soshiki
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