第二話
五月の末ごろ、康太朗はケイに言われたことをきっかけに真剣に美術予備校に行くか悩み始めていた。両親にはその旨はまだ相談できていない。というよりも、ただでさえ予備校に行かせてもらっているにもかかわらず、将来に確証をもてない美術大学に進学したいなんて相談できるはずがなかった。最近はもっぱら家から通える範囲の予備校を調べ、片っ端からホームページを見漁って過ごすことが多くなっていた。
現時点でいうならば渋谷か新宿にある予備校がよさそうだが、予備校の学費に悩んだ。自分のアルバイトで賄おうと思うにもなかなか気軽に決意できる額面ではなかったし予備校ごとにまちまちでどこがいいのかわからなかった。
もう六月に入ってしまう。美術予備校に通わずに今まで通り化学専攻を目指すために勉強するにしても夏は受験生にとって重要な時期に入ってくる。いい加減決意しなければならなかった。
迷い悩んでいるのも進展がないので思い切って面接に向かうことにした。予備校を休み、新宿のとある小さな予備校に面接の予約をした。もちろん両親には相談できず、どこか罪悪感をもったまま新宿へと足を運ぶ。
電車を乗り継ぎ、人ごみと駅の複雑さに圧倒されながらもマップを開き予備校の位置へとナビを開始する。駅から十五分ほどだろうか。梅雨を予感させるじめじめとした気候の中じわりと汗をかきながら大通りから横道に入り、さらに入り組んだ道を進むと『桜田美術学院』という小さな建物が見えた。入り口には外の花壇に水やりをする三十代くらいの女性がいた。
おずおずと建物の前で入っていいものか迷っているとその女性に声をかけられる。
「うちに御用の方ですか?」
水やりの手を止めてからこちらに向き直す女性に面談の予約をしていた旨を伝えると、すぐにわかったようだった。
「あぁ、今日面談の!どうぞ中にお入りください。」
案内にそって中に入ると小綺麗な受付と脇には多少の歓談ができるようなイスとテーブルのあるスペースがあった。少し奧には絵が立てかけてあり、前に見たグラフィティとはまた違った柔らかく、繊細な色味の作品が並んでいた。
「こちらへどうぞ。」
普段通う予備校とは全く異なった雰囲気にのまれていると先ほどの女性に受付から声をかけられ我に返った。
「白田 康太朗さんですね。入塾のご相談ですか?」
「あ…いえ、ちょっと話聞きに来たっていうか…その、あんまりまだ決めてなくて……すみません。」
朗らかに笑う女性の首からは「須田」と書かれた職員証が下げられており、事務職員であることが見受けられた。
「大丈夫ですよ。今空いている講師が居るかみてきますので、そちらの席でお待ちください。」
そう言い残して須田は建物の奥の方に足早に消えていった。
待つように言われた康太朗は鞄を抱えて言われたとおりに入口横の席について待っていた。周りを見渡すと、壁一面にガラス扉の棚が並んでおり、中には見覚えのない大学名の赤本や背表紙に読めない文字で書かれた分厚い本が敷き詰められていた。
少しすると、建物の奥から一人の男性が小走りで向かってきた。
「お待たせしました。講師の八幡です。」
「あ…白田です。よろしくお願いしまス。」
八幡と名乗るその男性は飄々とした装いでどこかつかみどころのない雰囲気だった。無造作に少し伸びたくせっ毛の黒髪にどちらかといえば白い肌。清潔感のある真っ白なスタンドカラーシャツ、無難なデニムパンツに黒のショートブーツという、予備校講師とは思えない格好に康太朗は少し驚く。
「ここだと資料もないので、ちょっと上に行きましょうか。」
そういうと八幡が来た方向へと案内された。
階段を2階分上ると狭い廊下の脇にある数人座れるようなスペースに誘導される。反対側にはいくつかドアが並び、中からは誰かが話す声が聞こえてきた。
「ちょっと狭いんだけど、ここでもいいかな。」
言われるがままに着席すると、ちょっと待ってね、といい残して少しその場を外した。まもなくいくつかの冊子を持って帰ってくると、康太朗の前にさっと置いた。
「…それで…今どんな感じで考えてますか?どこか美術予備校行ってたりしてます?というか、現役生かな。」
落ち着いた様子でぺらぺらと冊子をめくりながら八幡は問う。
「いや、一浪目です。実は今フツウのっていうか、予備校では理系の勉強してて、で、まぁ、ちょっときっかけがあって美大に興味持ったっていうか…。」
「へぇ!普通科の大学目指してるの?!またどうして
言葉に詰まらせてると、まぁ、追々ね、と冊子をこちらに寄こしながら八幡は笑う。
「じゃあまずね。ここはみんなモノづくりに関心がある人が集まるとこなんですよ。」
慣れた様子で説明を始める。手元に広げたページを指さしながら続ける。
「それでね。ざっくり見せた方がわかりやすいと思うんだけど、こんな作品をここの学生は制作してます。」
そう見せられたページには今までに見たことのないような作品で埋め尽くされていた。
いろんな人物の顔や体が白い画面に白黒で映し出されているものや、そうかと思えば文字や瓶などがカラフルに配されているもの、写真のように貝殻や瓶が映っているもの。見慣れないものに言葉は出なかった。
「今ってさ、AIがすごい発達してるじゃない?そうすると、ヒトの手で創る必要って本当はないんですよ。でもね、そのAIの基盤って、人間が創ったりメンテナンスしたりする必要があるんですよ。例えば設計とかね。そうするためにはどこかでゼロからイチを作り出せる人材って必要なんですよ。美術大学ってそういった人材をはぐくむ側面もあるんですよね。」
正直意外だった。高校では将来的な職がないからと美大は推奨されず、志望者は殆どいなかった。まぁ、単純に絵が描きたいって子ももちろんいるけど、と八幡は笑う。
「その美大に行くためにはこんな作品を作らなきゃいけなくて、それを指導するのが我々講師って訳なんです。」
「それっ…て、ホントに俺絵を描いたことないんですけど大丈夫なんですか。こんな写真みたいなの…描ける気がしないっていうか…。」
ははは、と笑ってから八幡は答える。
「みんな最初は描いたことも作ったこともないんだよ。特に最近じゃAIでイラストも描けるってんだからなおさらだからねぇ。ここには最終的に合格してった学生の作品が載ってるだけだから、みんな最初は右も左もわからないんですよ。」
話を聞けば聞くほど、自分でももしかすると、という希望を持てる反面自信のなさも大きく膨らんだ。
「もしよかったらさ、一日体験とかでもしに来てみる?」
そう言って八幡は無料体験会と書かれたチラシを差し出した。
紙面には学生が鉛筆を持って何かを描いている様子が載っており、興味を酷くそそられるものがあった。
じっとチラシを読んでいると、ガラガラッと隣の部屋のドアが開いた。ふと目をやると部屋の中にはずらりと色とりどりの絵が並んでおり、学生ががやがやと道具を片付けていた。
「お。講義が丁度終わったみたいだね。」
自分の知っている講義とは全く違っていて不思議な感覚だった。学生と思われる人々はエプロンをつけていたり、手先が汚れていたりと様々で普段見かけるようなノートやタブレットを抱える学生は一切見かけなかった。
ぼんやりと部屋の中を眺めていると、またしても聞き覚えのある声がした。
「シラタくん?!」
その声はまさしくケイのものだった。
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