第一章
一部
第一話
家に帰ると、一目散に自室に向かった。抱えていた荷物をばさりとベッドに投げ捨て、ノートパソコンを開いた。今日見た景色を忘れないうちにいろいろと調べたかったのだ。
webサイトの検索窓にマウスポインターを合わせ、とにかく思いつくキーワードで検索をかける。『壁 ペンキ 絵』なんと表現すればいいのかわからないままトライアンドエラーを繰り返す。フリー素材やAIでプログラミングされたイラストなど、今は欲しくない情報をかき分けていくうちにようやく目星がついてきた。
どうやら先ほど目の当たりにした作品はウォールアートやグラフィティといった文化にあたるらしかった。歴史は深く、古代からある壁画の派生のようなものでスプレーやフェルトペン、エアブラシなどで描かれるようだ。壁の麓にあった道具もそれらだったのだろう。
康太朗は改めて衝撃を受けた。プログラムで描かれたイラストは何度だって見てきたし、同級生でも描いているヤツもいたが、自分自身の手を動かして何かを描いている者はいなかったし想像もしない世界だった。あの少女と思われる人物が、あそこまで規模の大きな作品を自分で描いていたとしたら…?今まで見てきた世界とは全く異なる現実に言い表せない期待を覚えた。
(俺にも描けるのかな…。)
普段ならタブレットを取り出すところだが、紙とペンであることが重要な気がして家の中から要らなそうな紙切れと、インクが出るのかすら危ういペンをかき集めてきた。何を描くべきか迷いながら先ほど検索で出てきた画像をみながら見様見真似で手を動かす。
だが、康太朗は似たものを描き写すことはおろかちょっとした曲線でさえも揺らいでは思うように描けなかったのだ。それでも夢中に描き続け、気付くと拾ってきた紙はよくわからない図形であふれていた。
今まで勉強してきたことは化学式や数式、公式に当てはまることばかり。何か図形を描く機会があるとしてもグラフだが、それらは美しさではなく、解にたどり着くためのツールに過ぎなかった。康太朗にとって、描きだされたものがよくわからない図形だったとしてもまだ見ぬ世界への大きな一歩であったことには間違いなかった。
その夜は夢中でウォールアートやグラフィティの世界を検索し、高揚感とともに夜を明かした。
◇
翌朝、何時に寝たのか全く覚えていないが気付くと寝ていたようでいつもより少し遅くに目が覚め慌てて支度をして予備校に向かった。予備校ではいつもの見慣れた景色が広がっていたが、どこか普段よりも色あせて見えた。昨日の夜更かしのせいだろうか。
淡々と変わる科目をこなしている間も康太朗の頭の中は昨日見たウォールアートの景色でいっぱいだった。昼休みにはコンビニに赴き、ひっそりとおかれたメモ帳とボールペンを購入した。講義間の休憩時間には思いつくままに幾何図形や直線、曲線を描いてみては楽しんで過ごした。
一日の講義がすべて終わり、思いつくことはまた昨日の絵を見に行くことだった。夜通し調べた知識もあればまた見え方が違うんじゃないかと思ったのだ。教材やメモ帳に筆記用具を鞄に詰め込み足早に予備校を後にした。
昨日行った場所につくためにマップを開き、記憶を頼りに目的地を決定する。少しのローディングを挟んだのちに出来上がった赤いラインにそって目的地へと進む。今日は昨日よりまだ少し明るい。作品がもっと見えるかもしれないという期待を胸にずんずんと道を進む。普段通りの帰り道の途中から逸れる道を進み、路地を曲がり、少し住宅街を抜けたころぱっと開けた場所に出た。ここだ。そのはずだった。
目の前には真っ白に塗られた壁が一面に広がっていた。
「嘘だろ…。」
思わず声が漏れる。
同じ場所のはずだった。街頭の場所も見覚えがあり、壁も昨日見たものと同じ高さなはずだ。壁の麓にはペンキや刷毛に、エアブラシもあったのでここであることは確かなはず。壁の前を右往左往し、壁沿いに歩き回るがどこにも作品はなかった。ただあるのは長く続く真っ白な壁。
「誰かが塗りつぶしたのか…でも誰が…?」
途方にくれて壁の前に立ち尽くしていると聞き覚えのある声がした。
「あれ?昨日居た人?」
振り返るとパーカー姿に塗料で汚れたパンツとスニーカーの人物がパックのコーヒー牛乳を飲みながらこちらの様子をうかがっていた。目深にかぶるキャップは間違いなく昨日の少女だ。
「……あ…昨日の…?」
ふと思い出したかのように康太朗は質問を続けた。
「あ、あの!これ…昨日、絵が描いてあったと思うンすけど……何かあったンですか?」
少女はけたけたと笑いながら応える。
「それあたしが塗りつぶしたんだよ。なんで?もう一回見に来たの?」
「いや…あの……はい…、え、でもどうして?すごかったのに。」
「うーん、すごいかなぁ。気に入らなかったから消したんだよね。なんか違うなーって。思って。」
康太朗からしたら全く意味が分からなかった。
何がそんなに気に入らなかったのだろうか。
「あの作品、写真とか…残ってないスよね…。」
「写真?あーていうよりタイムラプスの動画だったらあるよ、後で見返す勉強のために撮って置いたやつ。あんまり人様に見せるもんじゃないし、日をまたいでるのをつないだやつなんだけどそれでもよかったら…」
「見せてください!」
食い気味についつい答えてしまって少し恥ずかしさはあったが、なかなか目にすることのないものを見れるチャンスを逃したくはなかった。
少女は改めてけたけたと笑ってタブレットに映る動画が一緒に見れるように肩を並べて動画の再生を始めた。
正面には今のような真っ白な壁が映っており、少女が刷毛とペンキ缶をもって壁に向かっているところから動画はスタートする。
最初に刷毛でざっくばらんに、身体を大きく動かしながら次々と壁を彩っていく。刷毛の次はローラーでざかざかと色を載せ、あっという間に壁は色で覆いつくされた。次々と道具を変え、立ち位置を変え、徐々に作品の詳細が描かれていく。先ほどまで単なる色だったものが、どんどん生き物や木々に変化していく。まるで魔法のように。昨晩知ったエアブラシが実際に使われているのも見ることができて、遠い存在が急に身近に感じた。
最初のうちは体を大きく動かしていた少女も、動画が進むにつれ一か所に立ち尽くしたりしゃがみこんだりと静かになり、それにともなって壁に描かれたものに生命が吹き込まれていくかのようだった。
たった数分の動画のうちに真っ白な壁は昨晩みた作品へと変貌した。
「はい!こんな感じ。」
そういってタブレットを自分の方へとひっこめながら彼女は笑った。
「これってどれくらい時間かかるンすか…?」
膨大な情報量が描き上げられるまでどのくらいかかったのか純粋に気になったのだ。
「んーー…適当に休憩しながら描いてたから何とも言えないけど、まぁ十二時間かそれくらいじゃないかな?」
「え?!十二時間?!」
自分が一日に勉強している時間とほぼ同じくらいの時間で出来上がってることに驚いたが、康太朗にはそれが早いのか、普通なのかすらわからなかった。
自分が全く違うことをしてる間にこんなものが出来上がることに、全く違う時間軸を生きている気がして不思議な感覚に陥った。
「なに?美術に興味あるの?珍しいね。みんなだいたいバカにするのに。」
軽やかに笑いながら話す彼女を見ながらふいに言葉が口をついて出た。
「…俺にも描けると思いますか…。」
え?と訊き返すも、彼女は笑いながら答えた。
「キミが描きたいなら描けるようになるし、描いてみなければ描けるようにはならないよ。モノを創るのはね、すごく時間もパワーも必要なことなんだよ。」
当たり前のように返ってきた答えに、単純な質問を投げてしまった自分が少し恥ずかしくなってしまった。
「もし興味があるなら…」
彼女は続ける。
「もし、本当に描きたいと思うなら、美術大学目指すのも悪くないんじゃないかな。大変だけど。」
「え?!ビダイっすか?!でもおれそういう家系じゃないし、なんていうかその…」
くすくすと笑いながらも彼女は言葉を続けた。
「家系とかじゃなくてさ、単純にモノを創りたいか、そうじゃないかの話だよ。今ってAIばっかりでつまんないと思わない?」
「あんま考えたことなかったけど…そう…っすね…。」
へへへと自然と笑みがこぼれながらもまたひとつ疑問が生まれる。
「あの、変なこと訊くンすけど、ビダイセイなんスか?」
「んー…わたしは美大生になりたい人!今は浪人中で予備校通ってるんだよ。なんで?」
美術系の予備校があることに驚く一方で自分と同じ浪人生であることに親近感がわいた。
「ビダイにも予備校あるンすね!自分も浪人してて…なんかその、もしですけど、自分が今からビジュツ系の予備校に行くってなったら、おかしいですかね。」
自分でも何を言っているかわからなかったが、とにかく思いつくままに言葉を紡ぐ。
「おかしくないよ。」
自分の中の迷いをはっきりと言い切る言葉にハッとさせられた。
「ぜんっぜんおかしくない!目指し始めるのは自由なんだよ、誰も否定することはできないでしょ。キミさ、なんていうの?名前。わたしはケイ。」
ケイと名乗る少女は当たり前かのように答えた。
「コウタロウっす。シラタ コウタロウ。」
「シラタくんね!またどこかで会える気がする。」
そういうと、今日はもう帰らなきゃとケイは行ってしまった。
それじゃあ、と別れた後もケイの言った言葉が頭をめぐる。
「ビダイかぁ…。」
ぼやきながらスマホで美術予備校を探し始める。
「…あ、どこの予備校か訊けばよかったな。」
夏の訪れを感じる夜だった。
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