幕間の四、

 幕間の四、


 ——きつ。


 と、晴明狐の暗く澱んだ意識の底まで、誰かが鈴を転がしたような声で、その名を呼ぶ声が届いた。


 ——きつ。


 また、だ。


 ——きつ、起きて。


 彼女の鈴を転がしたような声には、聞き覚えがある。


 ——お願い、きつ。


 その名で呼ぶ人間は、二人だけだ。


 一人は男、地獄にいる。


 もう一人は女、どこにいる?


 ——早く来て! 私はここにいます!


 やはり、ここにいたのか——あの世とこの世の狭間にある異界、怨霊街に。


「……!?」


 晴明狐は岩場に倒れ込み、しばらく気を失っていたが、目を瞬かせた。


 今より一千年の昔、平安の頃から今日まで探し求めてきた、あの人の声に間違いなかった。


「声が近い、ここにいるんだ!?」


 驚いたように目を覚まし、辺りを見回した。


 激しい時化に見舞われた大海原にぽつんと浮かぶのは、流刑地を思わせる孤島だった。横殴りの雨は一向に止む気配はなく、潮風が吹きすさんでいる。孤島の岩場には洞穴がぽっかりと口を開け、波濤が打ち付けていた。


「姫様!」


 晴明狐は濡れた地面で足が滑らないように気を付けながら、微笑みの君の姿を探し求めた。


「姫様!?」


 いくら声を張り上げても答える者はいなかったし、岩場は狭く、すぐに回り切ってしまう。


「姫様!?」


 誰かが洞穴の暗がりに立っている気配を感じてふと立ち止まったが、果たして、荒れ狂う津波が岩場に当たって、水飛沫が飛び散った事で見えた幻か?


 いや——恐る恐る近付くほどに、疑いの気持ちが確信へと変わっていく。


 目を凝らせば暗闇にぼんやりと浮かび上がったのは、古びた友禅の着物を着た痩せ細った女の姿だった。


 緑の黒髪に、透き通るように白い肌、口元を飾るのは、上品な微笑み——。


「姫様、今までずっと探していたんですよ! 覚えていますか、きつです!」


 晴明狐はついに微笑みの君を見つけたと、喜びのあまり気づいていなかった。


 彼女の足元に、無数の髑髏が野晒しになっている事に。


「……よくここまでやって来たわね、きつ」


 彼女はなぜか、洞穴から出てこようとはせずに、暗がりに隠れたまま言った。


「はい、姫様!」


 晴明狐は素直に返事をした。


「さあ、こっちにいらっしゃいな。私も貴方と再会できて嬉しいわ」


 晴明狐は相手が微笑みの君だと露ほども疑っていなかった、信じ切っていた。


 そして、彼女に会いたい一心で暗闇に向かって飛び込んだ。


 その瞬間、まるで獰猛な肉食獣のような咆哮とともに洞穴から飛び出してきた巨大な何かが、生臭い顎門を大きく開き、晴明狐を丸飲みにした!


 ——まんまと騙されたね!


 洞穴の暗がりから姿を現したのは、微笑みの君とは似ても似つかぬ、しかし、美しい女だった。


 雨に濡れた豊かな黒髪を腰まで垂らし、水晶のように透き通った瞳を持つ、妙齢の美女だった。


 彼女が飼い犬のように従えているのは、〝牛御前〟とよく似た妖怪、牛の頭に蜘蛛の胴体を有した、『牛鬼ぎゅうき』である。


 ——さあ、愛しい我が子よ、たんとお食べ! 何しろ、久しぶりのご飯だからねえ!


 薄汚れた着物の女はしなだれかかるように牛鬼に寄り添い、喜悦に満ちた声を出した。


 先程までの鈴を転がしたような声ではなかった。


 はっきり言って、下品な声音だった。


「——残念だけど、僕はそこまで莫迦じゃないよ」


 と、言ったのは、今し方、牛鬼の臓腑にすっかり収まったはずの、晴明狐だった。


 ——お前、なんで!?


 薄汚れた着物の女は、心の底から驚いていた。


「君は、『磯女』——ううん、『濡れ女』かな」


 晴明狐は何食わぬ顔をして、薄汚れた着物の女の前に立ち、彼女の正体を訊ねた。


『磯女』、『濡れ女』——いずれも、水妖、海妖の類である。


 ——いつから!? いったい、いつから気付いていた!?


 彼女は微笑みの君に成り済ましていた事を見破られていたらしいと知り、驚きの色を隠せなかった。


 ——い、いや、第一、お前はたった今、我が子の餌食になったはずではないか!?


 彼女の言う通りである。


「残念、僕はみんなから、『晴明狐』って呼ばれているぐらいでね。君の息子さんに食べられたのは、陰陽道の術で作り上げた、もう一人の僕だよ」


 平安時代に活躍したという、稀代の陰陽師、安倍晴明の名を借りた化け狐は、涼しげな顔をして言った。


 ——ふざけた真似を!


 薄汚れた着物の女は牛鬼の口の中に白い手を突っ込み、引っこ抜くと、唾液に塗れた小さな拳を開いた。


 彼女の手の中で、涎塗れの人形ひとがたらしき紙片が、くしゃくしゃになっていた。


 晴明狐の身代わりとなった人形だが、牛鬼はよほど血の巡りが悪いのか、自分が口にしたものがただの紙切れだという事に気づいた様子はなかった。


 それどころか、未だに咀嚼を繰り返し、口の端から涎を垂れ流しているところを見ると、たった今、紙片を取り出された事も、判っていないらしい。


「君が微笑みの君のふりをして僕を騙そうとしていた事も、僕の意識に初めて君の声が聞こえた時から気づいていたよ!」


 晴明狐は岩礁に砕け散る波濤に、負けじと大きな声を出したが、その顔は悲しげだった。


 ——騙されたふりをして、ここまでやって来ただと!?


 薄汚れた着物の女は、信じられないという顔をしていた。


「そう、最初っから微笑みの君じゃないと判っていたから、ここに来るのは後回しにしたんだよ。もしかしたら、怨霊街のどこかに、本物の微笑みの君がいるんじゃないかと思ってね」


 晴明狐の言葉を聞き、彼女の肩はわなわなと震えていた。


 ——ふん、口から出まかせを! 最初から気づいていたのなら、なぜここまでわざわざやって来たのだ!?


「それは……」


 晴明狐は答えようとしたが、


 ——私がお前の事を誘い込んだからだよ!? そうとも、あんたを殺すのも、食らうのも、騙すのも、私と、この子なんだからね!


 彼女は自分で質問しておきながら、晴明狐の答えを全く聞こうとしなかった。


「僕は君に聞きたい事があったから、ここまでやって来たんだよ……君は誰なの? 微笑みの君と何か関係があるの? なぜ、微笑みの君の事を知っているの? どんなに小さな手がかりでもいい、知っている事があるのなら教えてよ?」


 晴明狐は藁にもすがるような思いで言った。


 ——私が、お前を誘い込んだんだよ!?


 だが、薄汚れた着物の女は、頑なに、いや、ほとんど狂ったように叫んだ。


 ——あの世とこの世の狭間にあるこの海は、人の心と、意識と、記憶の海だ! 偶然、あんたの心を覗き、意識と記憶を垣間見た私は、そっくりそのまま、真似したんだよ! 気付くはずがない! バレるはずがないんだ!


「実を言えば、最後の最後まで迷ったよ。でも、やっぱり判るんだ。僕にとってそれだけあの人は大切な人なんだよ……君のそれは、本当の笑顔じゃない」


 ——デタラメだ! 今日まであんたみたいな奴を、何度もこんな風に誘い込んで来たんだからね! あんたみたいに空を飛んで、岩場まで来られる連中の心の隙に付け込んで、この子と海の檻で生き残る為にね!


「…………」


 ——私はもう二度と、殺される側に、食われる側に、騙される側になるのは御免だよ!


「……酒呑童子に、あの天狗に、君は何をされたの?」


 晴明狐は痛々しそうな顔で聞いた。


 ——それがあんたと、何の関係があるっていうのさ!?


「……あんな奴と、あんな連中とまともに向き合っても何もならないよ。だったら、僕と一緒に、ここじゃないどこかに行こうよ?」


 晴明狐は労わるように手を差し伸べた。


 ——お為ごかしを言うんじゃないよ! 言ったはずだよ、私は二度と騙されないってね!


「そ、そんな」


 晴明狐はそんなつもりなどなかったから、二の句が継げなかった。


 ただ、薄汚れた着物の女と牛鬼が、岩場に囚われの身だと言うのなら、本当になんとかして助けたいと思っただけだ。


 ——あんたの力なんか借りなくたって、私は、私達は、出ようと思えば、いつでもここから出られるのさ!


「!?」


 ——今回は見逃してやるけど、せいぜい気をつける事だね! 私はこれからもこの子の為に、あんたみたいな獲物を狙い続けるからね!? うふふ、食い物にしてやるんだ! あーはっはっは!!


「……この世は殺すか殺されるか、食うか食われるか、騙すか騙されるか。それで、何がどうなるっていうんだ?」


 晴明狐は一瞬にして大津波に攫われ、目の前から消えてしまった薄汚れた着物の女と牛鬼に思いを馳せ、心底、虚しそうに言った。


 ここににはもう誰もいない。


 まるで最初から誰もいなかったように、寄せては返す、波の音だけが響いていた。

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