第三章 地獄 閻魔王宮にて

 第三章 地獄 閻魔王宮にて


 今から千年の昔、平安時代である。冬が近付き、寒さが厳しくなってきた頃。


 平安京からそれほど離れていない山中を住処とした白っぽい毛並みの仔狐は、見た目は可愛らしかったが雄だった。


 物心ついた時には親の姿はどこにもなく、一人で生きてきたから誰も名前を呼ぶ者はいない。


 名無しの親はどこかに姿を消しただけでまだ生きているのかも知れないし、すでに死んでいるのかも知れない。


 一つだけ判っている事がある。


 ——この世に自分以外に頼れるものはいない。


 それだけは、身に染みていた。


 それにもう一つ、判っている事がある。


 ——この世は殺すか殺されるか、食うか食われるか、だ。


 普段から身の安全を考え、雑木林や岩陰に隠れて過ごしていた。


 が、名無しぐらいの年頃は、いくら身を潜めて外敵の目から逃れたとしても、ろくに狩りをする事ができず、すぐに死んでしまってもおかしくはなかった。


 つまるところ、名無しは普通ではなかったのである。


 ひょっとしたら、大人の狐以上に狩りを得意としていた。


 名無しは、化け狐だったのである。


 化け狐だったからこそ、狩りに失敗する事なく、食べ物には事欠かなかった。


 名無しは自分より大きなものや人間に化ける事はできなかったが、自分と同じぐらいの大きさのものや他の小動物には化ける事ができた。


 鼠や兎といった小動物を狩る時は、相手と同じ姿に化けて近付き、難なく仕留める事ができた。


 だが、どんなにお腹一杯食べたとしても、不思議と満足感はなかったし、いつも何か物足りない感じがした。


 神経もささくれ立って、夜、寝る時も落ち着かない。


 それでも、厳しい冬を乗り越え、季節は春を迎えた。


 動物達は皆、春の息吹を感じる森で、陽射しに輝く草原で、番いを見つけ、楽しそうに過ごしていた。


 ——みんな、幸せそうだな。


 名無しは番いを見るにつけ、羨ましく感じた。


 赤ちゃんも親の胸に抱かれて、安心して寝ている。


 ——自分にも番いがいれば、胸の内に吹きすさぶ木枯らしが止むのだろうか?


 ふと疑問に思った。


 ——もし、番いがいたら、夜、寝る時に、歯を食い縛る事もなくなるのだろうか?


 たまたま目についた雌の狐に近付いたが、この辺りの狐には自分が化け狐だという事が知られているらしく、相手は恐怖に身を震わせて逃げてしまった。


 化け狐故に、普通の狐には相手にしてもらえない。かと言って、自分と同じ化け狐などどこにも見当たらなかった。


 ——今まで通り、一人で過ごそう。


 名無しは番いを見つけようと思った事を後悔した。


 ——この花も名無しかな?


 野原を歩いていたら足元に紫色をした一輪の花が咲いていたので思わず立ち止まったが、答えが判る訳もなかった。


 すると何の前触れもなく、空から何かが襲いかかってきた。


 名無しは咄嗟に牙と爪で反撃し、森の中に逃げた。


 まんまとやられた、前足に血が滲んでいた。

 茂みの中から恐る恐る様子を窺うと、相手は悠々と大空を舞っていた。


 鷹、だ。


 ——忘れていた、この世は殺すか殺されるか、食うか食われるか、だ。


 一瞬の油断が命取りになるのだ。


 名無しは傷ついた身体を休める為にも、今晩の寝床を探した。


 雑木林を歩いていると、ごろごろと雷鳴が鳴り響き、瞬く間に雨が降り出した。


 驚いて駆け出したが、前足の傷が深く、まともに走れなかった。


 だんだん意識も朦朧としてきて、気付いた時には、寝殿造りのお屋敷に迷い込んでいた。


 雷鳴は激しさを増し、雨は強くなる一方、このままでは、いつ気を失うか判らなかった。


 迷っている暇はなかった。


 名無しは今こそ、化け狐の本領を発揮し、野良猫にでも化けて人間を騙し、温かい布団で寝てやろうと考えた。


 屋敷内に足を踏み入れると、暗く静かな廊下に、人けはなかった。全身をぶるぶると震わせ、雨粒を振り払い、一番最初に目についた部屋に忍び込んだ。


 名無しは知る由もなかったが、そこは天蓋付きの御帳台が設置された、姫君の寝室だった。


 姫君は眉目秀麗、書道、和歌、管弦に優れている事で知られていたが、常に笑顔を絶やさない事でも有名だった。


 普段はもちろん、楽しい時も、他人の不幸を見聞きした時も、笑っているらしい。


 実の母親が病気で亡くなった時でさえ、いつもと変わらずに微笑んでいたという。


 だからと言って、他人の不幸や、母親の死を、喜んでいた訳ではない。


 よく言えば明るく、気丈な少女なのである。


 他人の不幸を聞いた際は、不幸に負けじと笑い飛ばそうとした。


 まだ甘えたい盛りの年頃に母親を亡くした時は、努めて明るく振る舞った。


 それ故、姫君の事をよく知る者や、父親の岑守みねもりからは、親愛の情を込めて、『微笑みの君』、と呼ばれていた。


「あら、珍しい事もあるものね」


 微笑みの君は、突然の闖入者である、野良猫に化けた名無しの事を見ても、驚く事なく出迎えた。


「大変、怪我をしているのね!? ちょっとお待ちなさいな!」


 名無しが片足から血を流しているのに気付き、簡単な手当てをした。


「ほら、これでもう大丈夫よ」


 応急処置を済まし、名無しをじっと見つめる。


「よく見ると、狐みたいな顔をしているわね? 決めたわ、貴方の事は、『きつ』と呼びましょう!」


 彼女はいい事を思いついたというように笑顔で言った。


「!?」


 名無しは彼女が笑う度に、なぜか胸を突かれるような思いがした。


 脳裏には、野原にひっそりと咲いた、名も知らぬ一輪の花が揺れていた。


 昼間見た、あの紫色をした綺麗な花である。


「きつ、おいで!」


 帳台の御簾をめくり、名無しの事を手招きした。


「ほら、どうしたの、きつ?」


 名無しは戸惑いの色を隠せなかったが、帳台に潜り込んだ。


「きつ!」


 彼女はにっこりと微笑んだ。


 その瞬間、化け狐だった名無しは、飼い猫のきつになった。


「おはようきつ! 怪我を治す為にも、今日もたくさん食べましょうね!」


 彼女は屋敷の者に頼み、きつの餌となる小動物や昆虫を集めてもらっていた。


「さあ、たんとお食べ!」


 きつは目の前にご馳走を差し出されても、最初のうちはどうしていいか判らなかったが、彼女の一言で食べ始めた。


 しばしのち食べ終わり、お腹一杯になって、げっぷをした。


 きつの人間臭い振る舞いを見て、彼女は思わず吹き出した。


 きつは不思議と初めて満腹になったような気がした。


「今日もご機嫌麗しいみたいだな。喜べ、いい知らせを持ってきたぞ!」


 と、そこに姿を現したのは、微笑みの君の父親である、岑守だった。


「何かしら?」


 微笑みの君は、期待に満ちた顔をした。


「父親の私が言うのもなんだが、お前は容姿端麗、学問、詩歌にも秀でている。だが、漢籍は家庭教師を見つけてやる事ができず残念に思っていたが、お前の家庭教師を務めるには打ってつけの上、漢籍に関してこれほど優れた者はいないという相手を見つけたぞ」


 岑守は自分の事のように嬉しそうに言った。


「まあ、嬉しい! いったい、どなたかしら?」


 微笑みの君は素直に喜びを露わにした。


 岑守の話によれば、家庭教師に選んだのは、微笑みの君の血族だという。彼女の異母兄妹に当たり、その名を、小野篁おのたかむらという。


 篁を抜擢したのは、彼女に詳しい事は話さなかったが、岑守なりの親心がある。


 どこの馬の骨とも知れぬ相手に家庭教師を頼めば、大事な一人娘を傷物にされかねないが、血族ならそんな心配もない、という訳である。


 彼女と篁は別々の場所で育てられ面識こそなかったが、兄妹である事に変わりはなかった。


 二人は血が繋がっている——それこそが、篁を家庭教師に選んだ、一番大きな理由だった。


 無論、大前提として篁には漢籍の才能があって、詩歌をよくする事も加味している。


 先頃、大学寮に受かり、勉学に励み、弓馬にも熱心に取り組んでいるとか。


 単純に、漢籍を習う事だけを考えても、適任だと言える。


 篁に安心して家庭教師を依頼した理由が、もう一つある。


 これに関しては篁も我が子故に言い辛い事ではあったが——、


「初めまして」


 微笑みの君が、簾越し、几帳に隔てられながら耳にしたのは、同じ男でも、父親である岑守とは全く違う、野太く無愛想な声だった。


 きつは簾の脇からひょっこりと顔を出して、声の主を見た。


 微笑みの君に挨拶をしたのは、身長六尺二寸、今で言えば、一八八センチの大男である。弓馬に長けているというだけあって、屈強な体つきをしている。その上、顰めっ面で愛想がないものだから、なんだか怖い。


「この度、姫様の家庭教師の任を仰せつかった、小野篁と言います」


 どう贔屓目に見ても、女性に好かれる質ではない——これが岑守が篁を家庭教師に任じた、もう一つの理由である。


「初めまして、今日からよろしくお願い致します。兄上様」


 だが、彼女は至って普通の反応だった。


 当たり前と言えば当たり前か、簾越し、几帳を境にしていて、篁の見た目や雰囲気など判る訳もない。


 きつはなんとなく感じていた。


 彼女はたぶん、わくわくしている。


 今日が初めての講義であり、初対面の兄が家庭教師だという事と、無関係ではあるまい。


「では早速、始めましょうか」


 篁は愛想もへったくれもなく、すぐに講義を開始した。


 まるで目の前の簾を相手にしているように、ひたすら講義を進めていく。


 さすがに大学寮の試験に合格し、文章生になっただけの事はある。講義自体は懇切丁寧で判りやすい。


 微笑みの君も綿が水を吸い込むように知識を吸収する。


 きつまで彼女の膝の上にちょこんと座って、文机を覗いて一緒になって勉強していた。


 二人と一匹は、皆、熱心だった。


 一同が気づいた時には、すっかり陽が傾いていた。


「——今日は初日ですし、この辺にしておきましょうか。いや、姫様の飲み込みが早いものですから、こちらもつい熱が入ってしまいました」


 篁は感心したように言った。


 彼女はその辺の文章生など比べ物にならないぐらい勉強意欲があり、頭の回転も早かった。今回初めて家庭教師を務めた篁にとっても、教え甲斐がある生徒だった。


「兄上様の教え方がお上手だから、楽しく学ぶ事ができました。ありがとうございます」


 微笑みの君は一日中講義を受けて、疲れているはずだったが、明るく朗らかな顔をして言った。


「…………」


 篁は簾と几帳に視界を隔てられていたが、きっと彼女は愛称通りの表情を浮かべているに違いないと思った。


「そ、そんな、滅相もない! ま、また来週、お会い致しましょう!」


 篁はしどろもどろだった。


 きつは簾の陰から、二人の様子を覗き見していた。篁はいったい、どんな気持ちなのだろうかと思う。


 きつの脳裏に思い浮かんだのは、なぜか、あの名も知らぬ紫色の一輪の花が、長閑な陽射しを受けて、そよ風に揺れる光景だった。


 その後、しばらくは初日と同じように講義が行われていたのだが、いつからか彼らを隔てていた簾も几帳も取り払われ、二人は文机を挟んで向き合っていた。


 簾越し、几帳に隔てられていたのではやり取りがしづらかったし、第一、赤の他人ではないのだからと、全て取り払ったのは、微笑みの君だった。


 では、篁は講義がやりやすくなったのかと言えば、そうではないらしい。


 篁はやけに緊張していた。書物を取り落としたり、内容を勘違いしたりして、そわそわして落ち着かない。


 原因は明らかだった。


 微笑みの君と何にも隔てられずに向かい合って講義をしているからである。


 初めて目にした彼女の素顔は、眩しいぐらいに綺麗だった。


 彼女はいつも微笑みを浮かべていて、勉強中でも楽しそうな顔をしていた。


 見ているこちらの方まで自然と楽しくなってくるが、微笑みの君は半分は他人だとは言っても、もう半分は血を分けた実の妹である。


 ——これ以上は、許されない。


 篁は微笑みの君の事を意識すればするほど、おかしくなるばかりだった。


 彼は強面で気も利かないので、女性とは縁がなかった。


 それどころか、女子が噂話に興じる時、篁は決まってまず外見を敬遠され、中身も面白みがないなどと評されていた。


 当の篁は気が利かないとは言え朴念仁ではないから、自分に向けられた奇異なものを見るような女性の視線は感じていたし、否定的な噂も耳に入ってきた。


 とは言え、持って生まれた容姿や性格は、どうにもならない。


 女性から敬遠され、否定的な言動を聞くうちに、いつしか自分の殻に閉じこもっていた。


 陰口など気にして思い悩むぐらいなら、机に向かって勉学に励むか、詩歌や弓馬に打ち込んでいる方が、よほど有意義に過ごせるというものだ。


 家庭教師の件にしても、父親の頼みでなければ引き受けてはいない。


 初日の講義も、いざ始めるまでは、そこまで真面目に教えるつもりはなかった。


 例え血を分けた実の妹でも、どうせ自分の事を嫌がるに違いないと、通り一遍の講義で済まそうと思っていた。


 それが、今はどうだ?


 毎日のように顔を合わせ、他愛のない会話を交わし、それこそ兄妹らしく、仲睦まじく過ごしているではないか。


「姫様は本当に漢籍がお好きと見える」


 篁は向かい合わせに座っていた彼女に、感心したように言った。


「急にどうしたんですか?」


 微笑みの君は驚いたように言った。


「姫様は講義を受けている時、いつも微笑んでいるものですから、そう思った次第にございます」


 篁は今一度、確かめるように、微笑みの君の事を見て言った。


「なんと言っても、兄上様の教え方がお上手ですからね。それに私は、どんな時も笑顔を忘れないようにしているのですよ」


 微笑みの君は、笑顔を浮かべて言った。


「…………」


 篁はぱっと花が咲いたような気がして、目が釘付けになった。


「例えば自分にとって、どんなに大切なものを失ったとしても、いつまでもそれを悔やんでいても仕方ないでしょう?」


 微笑みの君は、我が子を諭す母親のように言った。


「誰かや何かを恨み、憎しみに身を焦がして、殺意に囚われて生きていたとして、それで幸せだと言えるでしょうか? 私には、そうは思えません。だからこそ私は、いつも笑顔を忘れずに過ごしているのですよ」


 微笑みの君らしい考え方だった。


「そして、しっかりと顔を上げて、日々、立ち止まる事なく歩んでいれば、いつかまた、本当に大切なものに出会えるんじゃないかしら?」


 微笑みの君はまだ見ぬ幸せな未来に心躍らせているようだった。


「私もこの頃、兄上様に感じている事があるのですが」


 と、微笑みの君は篁の様子を窺うように切り出した。


「何でしょう?」


 篁には思い当たる節がなかった。


「兄上様はいつも難しい顔をされていますが、私は、その……不出来な生徒なのでしょうか? それとも兄上様は、私の事がお嫌いなのですか……?」


 微笑みの君は、この時ばかりはさすがに、不安そうな表情をしていた。


「い、いや! そ、そんな事は! 姫様はとても優秀な生徒ですよ!? それに、き、嫌いなどという事は!? む、むしろ、私は、姫様の事が!?」


 篁はそこまで言って、微笑みの君が呆気に取られているのに気付いた。


「し、失礼致しました。安心して下さい、姫様が不出来などという事は、決してございませんよ。私がいつも難しい顔をしているのは、生まれつきですから」


 篁は申し訳なさそうに言った。


「よかった! てっきり私が不出来な為に、兄上様の気分を害しているか、嫌われているとばかり思っていたものですから」


 微笑みの君はほっと胸を撫で下ろした。


「まさか……私こそ女性に好かれるような質ではありませんから、姫様にどんな思いを抱かれているのか、心配しているぐらいですよ」


 篁は自嘲気味に言った。


「——好きですよ」


 微笑みの君は何でもないような顔をして告げた。


「…………」


 篁は唖然とした。


「——好きですよ、私は。兄上様の講義が。今もこうして、兄上様と過ごす時間が楽しくてなりませんし、他の殿方ではきっと、こんな気持ちにはならなかったでしょうね」


 微笑みの君は満足そうに言った。


「姫様は私が怖くないのですか?」


 篁の方が、よほど怯えている。


「怖い?」


「自分で言うのも何ですが、私はこんな容姿ですし、性格も硬いとよく言われます。実際、女性からは怖がられ、避けられていますから」


「たぶん、その方達は知らないのでしょう。私のように兄上様と一緒に学問に打ち込めば、きっと兄上様のいいところに気づくはずですよ」


 微笑みの君はきつを招き寄せると、膝の上に乗せ、優しく撫でながら言った。


「…………」


 篁は何か衝撃を受けたように、呆然としていた。


「さあ兄上様、また漢籍のお勉強を致しましょう」


 篁は彼女の一言で我に返ると、講義を再開した。


 二人の距離はそれから自然に縮まり、気づいた時には和歌をやり取りするようになっていた。


『中にゆく吉野の川はあせななむ妹背の山を越えてみるべく』


 妹山と背山の間を流れる吉野川は干上がって欲しい。そんな風にお互いを隔てるものがなくなれば、私達も結ばれる事だろう。


 と、篁が己の素直な気持ちを書き綴れば、


『妹背山影だに見えてやみぬべく吉野の川は濁れとぞ思ふ』


 私は妹背山の影さえ見えないほど吉野川には濁って欲しいと思います。兄妹の私達が結ばれるだなんてとんでもありません。


 当然の如く、微笑みの君は簡単には受け入れようとしなかったが、


『濁る瀬はしばしばかりぞ水しあらば澄みなむとこそ頼み渡らめ』


 例え吉野川が濁ったとしても、一時の事、水さえ途絶えなければ、いずれは澄み切った流れになり、川を渡る事ができます。それと同じように、貴方の事を想う気持ちがあれば、いつか結ばれると信じています。


 篁は微笑みの君に対して、またしてもこんな歌を贈ったのである。


『淵瀬をばいかに知りて渡らんと心を先に人の言ふらむ』


 昨日、淵だったものが、今日は、瀬となっているかも知れません。私の気持ちも知らずに、どうして川を渡ろうなどと仰るのですか?


 微笑みの君が訊ねれば、


『身のならん淵瀬も知らず妹背川おり立ちぬべき心地のみして』


 確かに淵となるか瀬となるか明日の事も判りませんが、私は貴方と結ばれたいと思っているだけです。


 篁は思いの丈を述べた。


 そうして二人は、少しずつ惹かれ合っていった。


 もちろん、岑守に知られる訳にはいかなかった。どんなに親しい周囲の人間にも秘密であり、普通の恋人同士のような自由はなかった。


 けれども、篁はある晩、激情に突き動かされて、人目を憚り、彼女の元を訪れた。その後、夜が明ける頃、ひっそりと抜け出した。


 二人は逢瀬を重ねたが、二人ともいつも人目が気になって、落ち着いて過ごす事はできなかった。

 

 篁はこれでもう何度目か、昂る気持ちを歌に託して詠んだ。


『うちとけぬものゆゑ夢を見て覚めて飽かぬもの思ふ頃にもあるかな』


 ゆっくり逢う事ができないので、貴方の事ばかり思っては夢にまで見て、毎日、満ち足りない日々を過ごしています。


『いを寝ずは夢にも見えじを逢ふことの歎く歎くも明かし果てしを』


 眠る事ができなければ、夢の中で逢う事もできません。私は貴方と逢えない事を嘆いているうちに、朝になってしまうのです。


 だが、いつまでも二人の関係が隠し通せる訳もなく、偶然、その場に居合わせた者の口から、周囲の人間の知るところとなった。


 当然の如く岑守の耳にも入り、彼は怒り心頭、すぐに厳しい対応を取った。


 まず、真夜中に逢い引きしようとしているところに配下の者と待ち伏せし、まんまと取り押さえた。


「今まで手習いをさせてきたのは、内侍にする為だというのに、まさかこんな事になるとはな! これ以上、お前達が関わる事は許さん!」


 岑守は微笑みの君を溺愛してきたが、いや、だからこそ、怒髪天を衝く勢いだった。


「皆の者、これから篁がやって来ても、絶対に通してはならんぞ!」


 その夜から離れにある古びた木造の蔵に彼女を閉じ込め、鍵穴には粘土を塗り込める徹底ぶりだった。


 まだ若い二人には、どうする事もできなかった。


 篁は己の無力に苛まれながら自宅で鬱々とした日々を過ごし、微笑みの君は狭苦しい古い蔵の中で、食事も喉を通らずに寝込んでいた。


 では、きつは?


 ——微笑みの君の為に、何かできる事はないのか?


 きつは居ても立ってもいられなかったが、いったい、化け狐の自分に、何ができるというのか。これで人間に化ける事ができればまた少し話は違ってくるのだろうが、残念ながらまだまだ未熟な自分は、今は小動物に化けるので精一杯だった。


 ——だからって、このまま何もしないでいるのか?


 きつは一念発起して、彼女が閉じ込められているという離れにある古びた木造の蔵に向かった。


 古びた木造の蔵には鍵が掛けられている上、鍵穴まで粘土で埋められていたが、注意深く見てみると、壁には所々、虫に食われたような小さな穴が空いている。


 きつが手近な穴から中を覗くと、ちょうど微笑みの君が横になっている姿が見えた。


 きつは彼女と過ごすうちに人間の言葉を解すようになっていたが、いざ話しかけようとすると、何を話せばいいのか判らなかった。


 第一、自分の正体を明かせる訳がないし、話しかけたところで、徒らに驚かせ、戸惑わせるのが関の山だ。


 ——どうする?


 きつには、自分が化け狐だという事実を、微笑みの君に明かす勇気はなかった。


    ——どうすればいい?


 ふと思い出したのは、彼女が篁と和歌をやり取りしていた事だった。


 ——本性を表す事ができなくても、文字なら伝えられる事があるんじゃないか?


 思い立ったが吉日とばかりに微笑みの君の居室に舞い戻り、迷う事なく筆を口に咥えて、彼女が漢籍を勉強していた文机で、歌を認めた。


 歌を書き記した紙片を口に咥えて、また古びた木造の蔵を訪れ、無理矢理、穴の中にねじ込んだ。


『数ならばかからましやは世の中にいと悲しきは賤の緒だまき』


 私が一人前の人間なら、こんな惨めな思いをしなくても済んだのに。この世で一番悲しいのは、身分が低いという事です。


 しばらくすると、微笑みの君が歌を返してきた。


『いささめにつけし思ひの煙こそ身を浮雲となりて果てけれ』


 貴方に対する恋心にふと火がついた事でこの身は煙となり浮き雲となり、あてどもなく漂う事になってしまいました。


 きつは、はっとした。


 微笑みの君は、和歌の詠み手を篁だと勘違いしている。


 今更、和歌の詠み手が飼い猫であるなどと、言い出せる訳がなかった。


 ——今更正体を明かしたところで、信じてもらえるかどうか。


 何も言えないままに、時間ばかりが過ぎる。


『誰がためと思ふ命のあらばこそ消ぬべき身をも惜しみとどめめ』


 誰かの為にと思える命ならこの身を惜しみますが、私にはもうそんな人はいないようなので、このまま死ぬしかないでしょう。


 彼女は待っている事に堪えきれなくなったのか、和歌を詠んで返してきた。


 驚いたのはきつである。


 ——どうする?


 微笑みの君が想っている相手は誰だ?


 ——どうすればいい?


 決して、飼い猫の自分などではない。


 ——微笑みの君が必要としているのは誰だ?


 化け猫の自分などではない。


 ——だったら、どうする?


 どうすればいい?


 考えるまでもない。


 きつは自分の主人である微笑みの君が漢籍の講義を受ける度に、すぐそばで嗅いでいた匂いを辿り、ある場所に向かった。


 微笑みの君の兄にして、彼女の想い人である、小野篁の屋敷へ。


 篁は突然、目の前に姿を現した化け狐のきつに対して、当然の如く、驚きを禁じ得なかった。


 が、篁はきつの話を、微笑みの君の命が危ういという話を、信じた。


 篁も、きつも、彼女を救いたいという気持ちは同じだった。


 篁は微笑みの君が閉じ込められているという、古びた木造の蔵に行く事を約束したが、数日後、一人と一匹が人目を掻い潜って訪れた時には、最早、彼女は一切、飲まず食わずで、息も絶え絶えだった。


「どんな具合ですか?」


 篁はこんな時でも本当に気が利かない、朴訥とした調子で質問した。


『消え果てて身こそ灰になり果ての夢の魂君にあひ添へ』


 私の身はこの世から消え果てて灰になってしまうでしょうが、私の魂はきっと夢の中で、貴方に寄り添う事でしょう。


 それが今思えば、微笑みの君の最期の歌だった。


『魂は身をもかすめずほのかにて君まじりなば何にかはせん』


 もし、貴方の魂が私の身を掠めもせず、夢の中に仄かに混じってしまったら、どうしたらいいのですか?


 篁はありったけの想いを歌に込めたが、彼女から返事が返ってくる事はついになかった。


 きつももうなりふり構っている場合ではないと、化け狐である自分の身の上を打ち明け、雷雨の晩に助けもらったお礼を言った。


 ……どうりで狐に似ている訳だわ、貴方、化け狐だったのね。


 きつは、先日、微笑みの君に和歌を詠んだのは自分だったという事も伝え、篁と勘違いさせてしまった事を謝罪した。


 ……大丈夫よ。私はもう、行かなければならないし。


 微笑みの君は、古びた木造の蔵の中に閉じ込められているというのに、どこかへ行こうとしていた。


 篁ときつは必死に呼びかけたが、いくら呼んでも返事はない。


 いや、


 ……どこにいてもしっかりと顔を上げて、立ち止まる事なく歩んでいれば、いつかまた本当に大切なものに出会えるんじゃないかしら?


 ふと、今にも消え入りそうな声が聞こえてきた。


 それが、最後だった。


 篁は辺りがしんと静まり返った事で半狂乱になり、微笑みの君が死にそうだと、大声を上げて騒いだ。


 篁の悲鳴のような声を聞きつけて慌ててやって来た岑守は、古びた木造の蔵の鍵を開け、呆然と立ち尽くした。


 古びた木造の蔵の中は、もぬけの殻だった。


 まるで神隠しにでも遭ったように、彼女はこの世から姿を消した。


『消え果てて身こそ灰になり——』


 私の身はこの世から消え果てて灰になってしまうでしょうが——


 篁ときつの脳裏には、微笑みの君が最期に詠んだ歌がずっと響いていた。


 その後、どうなったのか——。


 篁は微笑みの君を諦める事ができずに、彼女を探して方々に出かけたが、見つける事は叶わなかった。


 きつもまた、彼女が姿を消したその日を境に、忽然と姿を消した。


 京の都に隠れ潜み、稀代の陰陽師、安倍晴明の陰陽道の術を見様見真似で自分のものとして、彼女の姿を探し、辻占いとして諸国を巡っていたのである。


 きつは皆の前から姿を消した微笑みの君を見つける為に、篁と同じようにできるだけの事をしていた。


 そしてきつは千年の後、篁にもう一度、出会う事になる。


 ここは夜の闇よりも深い地の底、閻魔大王の命に従う獄卒が、鬼達が、未来永劫、死者を罰する地下の王国。


 死を司る閻魔大王が支配する、地獄、だ。


 地獄には、彼が鎮座まします、『閻魔王宮』がある。


 歳の頃なら、まだ二十歳にもならないだろう、年端も行かないような子どもが、獄卒に両脇を固められ、閻魔庁の一室に姿を現した。


 どんなに見た目が子どもでも、物々しげな手枷足枷をされている事から、罪人には間違いない。


 だが、何となく微笑んでいるように見える狐のような細い目が印象的な、人好きのする顔をしていた。


 見る者が見れば、立烏帽子に狩衣という格好は、かつて、平安京で活躍した陰陽師のものだと判る。


「ようやく、お縄についたか。どこで覚えたのか知らんが、化け狐が陰陽師の真似事などして、随分と我々の手を煩わせてくれたな」


 と、執務机で書類と睨めっこしていた冥界の役人らしき巨漢が、顔を上げて言った。


 頭に角こそ生えていなかったが、獄卒の鬼と比べても、負けず劣らずの強面である。


「しかしこの数百年、あちこち地獄を彷徨って、行く先々で騒ぎを起こしていた生者が、まさか、お前だったとはな——〝きつ〟」


 巨漢は書類の束を脇に置き、ため息をつくように言った。


「『ようやく、お縄についたか』、だって? 勘違いしてもらっちゃ困るなー」


『きつ』と呼ばれた陰陽師は、ふてぶてしい態度で言った。


 そう、化け狐のきつである。


「もうここには用がないから、最後に貴方の顔を見に来たんだよ、〝野狂やきょう〟さん?」


 きつに『野狂さん』などと馴れ馴れしく呼ばれたせいか、巨漢は——野狂は、怪訝そうな顔をした。


「もうここには用がない?」


 野狂にはきつが何を言わんとしているのか判らなかった。


「あの人はここにはいない」


「あの人?」


「僕も貴方と同じようにあの人の居場所を突き止める為に、わざわざここまでやって来たんだよ。あの時、あの人は本当に死んだのか? それとも、どこかで生きているのか? それを確かめる為に、ここまで探しに来たんだよ。けれど、あの人はどこにもいなかった。浄土にはもちろん、この地獄にもね」


「お前、まさか……彼女の事を探して、今日まで生きたまま、地獄を彷徨っていたというのか!?」


 野狂は半ば呆れ、半ば驚いたように言った。


「そうだよ」


 きつは何をそんなに驚く事がある、とでも言いたげな顔だった。


 きつと野狂の二人は、因縁浅からぬ仲のようである。


「——なあきつ、千年前、あれほど栄華を誇った平安京も、今となってはもう、この世にはない。時は移ろい、物は失われ、人々の記憶も、遠く過ぎ去った……今更、過去にこだわってどうする?」


 野狂は今度こそ、呆れた顔をして言った。


「あはは!」


 きつは、ふいに笑い出した。


「貴様! 何がおかしい!?」


「第三冥官様に失礼だろう!?」


「千年経とうが、平安京がなくなろうが、僕には関係ないよ。貴方は諦めちゃったのかも知れないけどね」


 きつは獄卒の鬼に叱責されても、気にする事なく、皮肉るように言った。


「確かに私は忽然と姿を消した彼女を探して、ここ、地獄までやって来た。そして虱潰しに探したが、彼女はどこにもいなかった。それは私と同じく、この数百年、地獄を巡ってきたお前も判っているはずだ。なのに、まだ諦めないのか?」


「確かに、浄土にはもちろん、閻魔帳にもあの人の名前はなかったよ。何年、何十年、何百年と探し回ったけど、地獄のどこにもあの人はいなかった」


「だとしたらこれ以上、お前は何をするつもりだ? いや、今度はどこに行くつもりなんだ?」


「……異界、『怨霊街』」


 きつは自信ありげに言った。


「怨霊街、だと!? あの世とこの世の狭間、か。なかなかどうして、考えたな」


 野狂が感心したように言った通り、『怨霊街』というのは、あの世とこの世の狭間にある、異界だった。


 その筋の人間や妖怪変化の間で知られる、逢魔時に包まれた街である。


 嘘か真か京都の一条戻り橋から繋がっているという、異界の温泉街だ。


「この際、野狂さんも一緒にどう?」


 きつは手枷足枷を嵌められた罪人の立場にありながら、気軽に誘った。


「あれから千年、それだけの時間が経てば、世の中も人の心も変わるものだ。悪いが遠慮させてもらうよ。第一、生者でありながら地獄を巡って、散々、引っ掻き回してくれたお前の事を、冥府の官吏であるこの私が見逃すと思うか?」


 野狂は脅すように言った。


「生憎、僕は人間じゃないからね。ちょっと時間が経ったからって心変わりなんかしないよ。今日まで地獄を探し回ったように、今度は怨霊街に探しに行くよ」


 きつは野狂に脅されても、どこ吹く風だ。


「逃さんと言っている!」


 野狂の一声で、きつの左右に立つ獄卒の鬼が、獣のように唸り出した。


「——藤原良相ふじわらのよしみ


 きつは素知らぬ顔をして、独り言のように言った。


「貴方は一度、彼の事を助けたんじゃないのかな?」


 きつは口調こそ落ち着いていたが、有無を言わせぬ迫力だった。


「……だから、お前の事も助けろと?」


 野狂は莫迦莫迦しいと言わんばかりだった。


「野狂さん——いや、第三冥官、小野篁が受けた恩義を忘れるはずがない」


 きつはこの千年間、ついぞ呼ぶ事のなかった彼の名を口にした。


『野狂』の『野』は、『小野』の『野』であり、『狂』というのも、本人の立ち居振る舞いから来ている。


 野狂——篁は、微笑みの君を失ってから変わった。


 周囲からどう思われようと、己の信念を曲げずに生きてきた。


 篁は遣唐使に任命された時、藤原常嗣と対立し、唐に行く事を拒否した。


『西道謡』という詩を詠んだ時は、嵯峨天皇の怒りを買って隠岐に流罪となった。


 篁が遣唐使を拒否した時、庇ってくれたのが藤原良相であり、彼は藤原から受けた恩を忘れなかった。


 篁は微笑みの君が姿を消した後、彼女を探して地獄まで赴き、ひょんな事から、二足の草鞋で『第三冥官』という役職に就いた。


 現世の人間に知らせる事なく、閻魔大王の下で働いていたが、ある日、病気で亡くなった藤原良相とあの世で再会し、遣唐使の一件の時に受けた恩義を返す為、藤原の事を甦らせた。


 きつは篁に対して、自分も貸しがあるのだから、藤原良相に恩返ししたように融通をきかせろと言っているのだ。


「最後の夜、貴方があの人と顔を合わせる事ができたのは誰のおかげだったっけ?」


 きつは千年も前の事を、恩着せがましく言った。


「元はと言えばお前が要らぬお節介で歌など詠んだからではないのか……いや、最早、何も言うまい。そもそも私が道ならぬ恋をしたのが、事の始まりだったのだからな」


 野狂は祈るように目を閉じ、首を横に振った。


「しかしなぜ、そこまでする? 危険を顧みず生きながらにして地獄を巡り、今度はあの世とこの世の狭間にさえ赴こうという、お前にそうまでさせるものは、いったい、何なのだ?」


 野狂は本心から聞いていた。


「…………」


 きつはふと真面目な面持ちになり、答えようとしなかった。


「雷雨の晩に傷ついていたところを助けてもらったお礼も言い、思い余って和歌を詠み私と勘違いさせてしまった事も謝った、これ以上、あれに何をする?」


 野狂の言葉が聞こえているのかいないのか、きつは黙りこくっていた。


 きつは思い出していた。


 きつの事情を知った者達は、今の野狂と同じように、皆、疑問を呈してきた。


 なぜ、そこまでする?


 いったい、何の為に?


 どうして?


 たまたま寝床を貸してもらった、たったそれだけの事で?


 それだけの為に、ここまでするのか?


 そもそも、その人を探し出してどうする?


 恩返しでもするつもりか?


 だとしても、どうやって?


「…………」


 きつは答えなかった。


 と言うよりも、答えられなかったのかも知れない。


 いや、


「——言い忘れていたんだけど、僕の名前はもう、『きつ』じゃないよ。今、僕はみんなから、〝晴明狐〟って呼ばれているんだよ!」


 一呼吸置いてから、胸を張って言った。


 まるでその名前を名乗る事が、今も彼女を探している事の答えだとでもいうように。


「——そして、僕は今こうして、重太郎の兄さんと話をしているっていう訳だ」


 晴明狐は怨霊街へと向かう道すがら、感慨深そうに言った。


「……お前さんがなぜ、人間の俺にこんなに親切にしてくれるのか、やっと判ったような気がするよ」


 重太郎はしみじみとした顔で言った。


「下らん」


 いつの間にか二人のそばを歩いていた草取が、何が気に食わないのか、不機嫌そうに言った。


 やがて一行が辿り着いたのは、楽園のような場所だった。


 怨霊街は立派な造りをした八脚門に守られ、周囲の山々は瑠璃の如し、地は水精の砂を撒いたような美しさ、まるで時の流れなど存在しないかのように、春に彩られ色彩豊かな草花が咲き誇る森、夏らしく緑が輝く草原、秋の紅葉に染まる林、真冬のように、一面、雪景色の通り道と、四季折々の光景が広がっていた。


 怨霊街の門をくぐると、どこまでも石段が続いていた。石段の両側にはそれぞれ、米や山菜、肉や魚、お酒や果物を売る店が軒を連ね、店主は皆、鬼の姿をしていた。


 お客には人間もいれば妖怪もおり、どの店も大変な賑わいを見せていた。


 一行は案内人の茨木童子を先頭にして石段を登り切り、喧騒から離れて、細い路地をどんどん進む。


 行く先に、立派な佇まいをした旅館が、ぽつんと一軒、見えてきた。


 平安時代を生きた鬼、酒呑童子が治める怨霊街にありながら、豪華絢爛な桃山式の建築物であるお宿には、達筆な筆文字で、『怨霊の宿 鬼ヶ城旅館』の屋号が掲げられていた。


「こちらが皆様のお部屋になります。湯治は一巡り一週間と言いますから、七日間、ごゆるりと温泉を堪能して下さいませ」


 茨木童子は小さな御殿のような作りをした十畳ほどの和室に、重太郎達を引き入れ、畳の上で三つ指をつき、深々と頭を下げた。


「お夕飯まで大分時間もありますし、早速、お湯に浸かってみてはいかがですか。うちの温泉は、いつでも入れますから」


 茨木童子は艶然と微笑み、重太郎達を残して、居室を後にした。


 重太郎と晴明狐は顔を見合わせ、草取は子どものようにはしゃいで座椅子に座り、広縁の窓から珍しそうに外を眺めた。


「あれよあれよと言う間にこんなところまで連れてこられちまったが」


 重太郎は口ではそう言いながら、困った風はなかった。


「せっかく来たんだし、お言葉に甘えて、ひと風呂浴びに行こうよ?」


 晴明狐も浮かれた様子で、浴衣に着替え始めた。


「待て待てお前ら、一番風呂は儂のもんだぞ!?」


 草取は三人一緒の部屋だというのに文句一つ言わず、むしろ楽しそうである。


 贅沢な内装に満足したのか、道中をともにした事で絆されたのか、裸の付き合いにも抵抗はないらしい。


 重太郎達は旅館を出て大蛇のようにうねうねとした石畳の細道を行くと、鬱蒼と茂る森に入っていった。


 だんだんと辺りの空気が生温くなってきて、なんだか独特の匂いがしてきた。


 やがて豊かな森の中でふいに彼らが目にしたのは、野趣溢れる広々とした岩風呂だった。


 まさしく鬼ヶ城といった趣のごつごつとした岩でできた露天風呂は、怨霊の湯を漫々と湛え、湯煙が立っていた。


 いかにも身体の芯まで温めてくれそうな熱そうな湯、出入り口の石碑には、『一度濯げば形容端正、再び浴むれば万病悉く除く』、と刻まれていた。


 湯治の入浴回数は一日一回から始めて、日に二、三回までとされ、安全の為に、食事の直前、食事の直後、飲酒後の入浴は避け、十回ほど入浴したところで出現する湯当たりにも注意が必要だった。


 温泉に入る前に、足、腰、肩、胸と、心臓から遠い順に掛け湯を行い、入浴時間は額が汗ばむ程度、出る時は急に立ち上がったりせず、湯冷めをしないように、三十分ぐらい休憩を取るのがいいと言われている。


 重太郎達は湯治の習わしに従って、掛け湯をしてから温泉に入る。すると、怨霊の湯は美しく透き通り、風呂の底が見えるほどだった。


 噂に違わぬ、名湯のようである。


「それにしても、なんだか不思議なところだよな」


 重太郎は肩までお湯に浸かって気持ちよさそうな顔をして言った。


「うん、僕達以外にはお客さんが見当たらないね」

 ここまで歩いてきた時も、他の宿泊客はおろか、従業員とすれ違う事もなかった。


「ああ。あの茨木童子という案内役の女も浮世離れした別嬪さんだったよな。第一、怨霊街が鬼の街だったなんて思いもしなかったよ」


「辿り着くまでがちょっと大変だったけど、いざ着いてみると噂通りの極楽浄土みたいなところだね。なんだか怖いぐらいだ」


「はは、何も怖がる事はないさ、怨霊街の顔役が本当にあの酒呑童子だというのなら何の心配も要らんよ」


「酒呑童子が顔役だと、そんなに安心できる保証があるんですか?」


「何しろ、『鬼に横道はない』からな。奴らは人間様のように、騙し討ちするような真似はしないんだよ」


 草取は、当の人間である重太郎に構わず、はっきりと言った。


 確かに、源頼光に騙し討ちされた酒呑童子は、『鬼に横道はない』、つまり、鬼に嘘はないと言っている。


「ふーん……草取さん自身、人間にえらい目に遭わせられた事があるような言い方だねー」


「大きなお世話だよ。ところで小僧、そんなに悠長に構えていていいのか? 怨霊街には誰か人を探しに来たんじゃないのか?」


「大丈夫だよ。何をするにしても、この街に詳しくなってからにしようと思ってさ」


 晴明狐はこれでちゃんと、色々と考えているようである。


「闇雲に探すよりは効率がいいな。散歩がてら、協力してやろうか?」


 重太郎は快く言った。


「本当? ありがとう! 草取のおじさんも、この辺で人間の女の子を見かけたら教えてよ?」


 晴明狐は気軽に頼んだが、草取は不機嫌そうな顔をした。


「どうしたの、草取のおじさん?」


「悪いが小僧の人探しには付き合わんよ。人間の女とは、関わり合いになりたくないんでな」


「……やっぱり何か恨みでもあるの?」


「いや、何も恨みなんかないさ。何も恨みはないが、人間の女と関わり合いになるぐらいなら、いつものように、殺すか、殺されるか、食うか、食われるか、そういう世界に生きていた方が、気が楽だってだけだよ」


 草取は疲れたように言って、気分を変えるように温泉の水を掬い、顔を洗った。


「ふん、何を今更」


 と、どこかから、ふいに非難するような声がしたが、声の主は、重太郎でも晴明狐でもなかった。

「誰とどこにいようと、この世は殺すか殺されるか、食うか食われるかだろうよ」


 ぶっきらぼうな口調で会話に入ってきたのは、月代を剃り髷を結った、江戸時代の武士を思わせる、一人の若者だった。


「何だ、あんたは?」


 草取は湯煙に視界を遮られていたとは言え、今の今まで全く気配を感じさせなかった謎めいた相手に、警戒心を露わにした。


「〝黒龍こくりゅう〟——人は拙者の事を、〝黒龍〟と呼ぶ。拙者の名前など、どうでもよかろう。それより、今の話の方が大事よ」


 黒龍は、初対面の上、突然、割って入ってきたにも関わらず、言い切った。


「今の話っていうのは?」


 重太郎も草取と同じく、警戒するように聞いた。


「人間の女の話だ。お主と同じ人間の女の話だよ」


 黒龍は仏頂面で答えた。


「人間の女を探しているという坊主よ。拙者はお主の事は知らんが、そこにいる狒々猿、草取の事なら知っているぞ? 坊主は知らぬのか? その昔、人間の女のところに婿入りしたという、狒々猿の話を——『猿の婿入り』を」


 黒龍に聞かれた晴明狐は、黙って首を横に振った。


「拙者の目が節穴でなければ、お主は人間のところに婿入りしたという狒々猿、草取に相違ないな? そのお主が、人間の女の事が判らんなどとは言わせんぞ?」


 黒龍は問い詰めるように言った。


「待て待て、俺の事を知っているというお前さんは、いったい、どこの誰なんだ? それになんでまた、俺の事なんか知っているんだ?」


 草取は戸惑いを覚えた。


「拙者は今日、初めてお主に会ったが、この世には、昔話というものが伝わっている。それさえ知っていれば、ちょっと考えれば、すぐにどこの誰なのか思い当たるだろうよ」


 黒龍は何でもない事のように言った。


「第一、ここに来る者はみんな多かれ少なかれ、〝傷〟を負っている。同じ穴の貉というやつさ、大体のところは察しがつくというものだ」


 黒龍は鼻で笑った。


「同じ穴の狢?」


 晴明狐が鸚鵡返しに言った。


「ああ、そうだ」


 黒龍はお前もそうだろうと言わんばかりに、晴明狐の事を見やる。


「草取のおじさんも同じ穴の狢なの?」


 晴明狐は、本人にか黒龍にか、問いかけた。


「狒々猿、お主の口から語るか? それとも、拙者の口から語るか?」


 黒龍は楽しげだ。


「ほう、お前が儂の何を知っているのか確かめてやろうじゃないか。儂にも、聞きたい事があるしな」


 草取は面接官のように腕組みをして、黒龍が話し出すのを待った。


「いいだろう——昔々、あるところに、一人の百姓がいた」


 黒龍は、滔々と語り始めた。


 百姓は、毎日、朝から晩まで田んぼの草取りをしていたが、一向に終わる気配がなかった。


『……誰か田んぼの草取りを終わらせてくれたら、うちの娘を嫁にやってもいいんだがなあ』


 百姓は草取りをしながら、独り言を言った。


 その時、茂みに隠れていた何者かが、百姓の独り言を耳にした。


『どれ、儂が草取りをしてやろう』


 百姓の前に突然、姿を現したのは、猿とよく似た妖怪、狒々猿だった。


 狒々猿はあっという間に、草取りを終わらせた。


『それじゃ今度、お前の娘を、嫁にもらいに行くからな』


 狒々猿は現れた時と同じように、忽然といなくなった。


 百姓はこれは大変な約束をしてしまったと、とぼとぼと家路についた。


『お前、狒々猿のところに、嫁に行ってくれんか?』


 百姓はまず最初に、長女に事情を話し、嫁入りを勧めた。


『嫌よ! 誰が好き好んで猿のところに嫁になんか行くもんか!』


 長女は狒々猿を嫌がり、嫁入りを拒否した。


『お前、狒々猿のところに、嫁に行ってくれんか?』


 百姓は次に次女に事情を話し、嫁入りを勧めた。


『嫌よ! 誰が好き好んで猿のところに嫁になんか行くもんか!』


 次女も狒々猿を嫌がり、嫁入りを拒否した。


『お前、狒々猿のところに、嫁に行ってくれんか?』


 百姓は最後に、三女に事情を話し、嫁入りを勧めた。


『ええよ! おら、狒々猿のところに、嫁に行く!』


 驚いた事に、三女は嫌な顔一つせず、本当に狒々猿の元に嫁いだ。


 狒々猿は自分の妻となった三女が不自由な思いをしないようにと、できる事は何でもしてやった。


 一年が経ち、狒々猿と三女は、里帰りする事にした。


 狒々猿は三女に言われ、里帰りの手土産に、木臼で餅をつこうとしたが、


『おっとうが木臼でついた餅には木の匂いが染みつくって言うから、石臼でついてくれ』


 三女の言う通り、石臼で餅をついて、重箱に入れようとしたが、


『おっとうが重箱に入れた餅には重箱の匂いが染みつくって言うから、そのまま背負って行ってくれ』


 狒々猿は石臼を背負って、山道を歩く事にした。


 その途中に深い谷川があって、崖には桜の花が咲いていた。


『花をつけた桜の枝を、一本取ってくれねえか?』


 三女は桜の花を見て言った。


 狒々猿は背中に担いでいた石臼を地面に下ろし、三女の願いを叶えようとした。


『おっとうが石臼を地面に下ろすと地面の匂いが染みつくって言うから、そのまま背負って行ってくれ』


 狒々猿は石臼を背負ったまま、谷底にせり出した桜の木を登っていく。


『この枝か?』


『もっと先だ』


 狒々猿は桜の木の枝を伝って、更に先に向かう。


『この枝か?』


『もっと先だ』


 狒々猿は桜の木の枝を伝って、更に先に向かう。


『この枝か?』


『もっと先だ』


 桜の木の枝が、狒々猿と石臼の重みでぎしぎし軋んだ。


 案の定、ぽっきりと折れ、狒々猿は谷底を流れる川に、真っ逆さまに落ちた。


 石臼を背負っていたせいで、ろくに泳ぐ事もできずに、なす術もなく、川底に沈んだ。


 こうして、三女は一人で里帰りし、姉妹の中でも一番、幸せになったという。


「めでたし、めでたし」


 黒龍は崖から落ちて川底に沈んだ、当の狒々猿だろう、草取に向かって、皮肉たっぷりに言った。


「それで、その狒々猿はどうなったんだ?」


 草取は平然とした顔で、他人事のように質問した。


「ここに、拙者の目の前にいるだろうが?」


 黒龍はつまらなそうに言った。


「いくら自分を誤魔化そうとしたところで、人間にやられた見えない力によってできた〝傷〟が癒える事はない。それを見る度に思い出す、〝傷〟が痛む度に思い出す、絶対に忘れる事はできないはずだ」


 黒龍は断言した。


「確かに忘れたくても忘れられんよ。なにせ、あの冷たい川に落ちて、流れ流れて、こんなところまで辿り着いてもまだ、儂の時間は止まったままなんだからな」


 草取は深々とため息をついた。


「……その気持ち、判りますよ」


 意外にも、同意を示したのは、人間である、重太郎だった。


「こっちはよかれと思ってやったのに散々な仕打ちだもんな」


 もしかしたら重太郎は家族に受け入れてもらえなかった自分自身の過去を、草取のそれと重ね合わせていたのかも知れない。


「その上、人間は時間が経つと、何もかも、自分の犯した罪さえも、忘れてしまう!」


 黒龍は怒りに火がついたのか、感情的になった。


「あれも、儂の事も、儂にした事も、すぐに忘れてしまっただろうな。だが、儂は今でも、ふと考えてしまう事があるんだよ。儂があれにやってきた事は、果たして、間違っていたのだろうか、とな」


 草取は黒龍の答えを待っているかのように、じっと見つめた。


「あんたがそこまで儂の事を知っているのなら、そして同じ穴の狢だというのなら、一つ聞いてみたい事があるんだよ——儂があれの為にやって来た事は、全て間違いだったのか?」


 草取は思い詰めたような顔をして聞いた。


「その子の名前は、なんて言うの?」


 晴明狐はふと疑問に思い、訊ねた。


「知らんよ」


 草取は素っ気なく答えた。


「お嫁さんの名前を、知らない?」


 晴明狐は戸惑いの色を隠し切れなかった。


「ああ、それがどうかしたのか? あれは儂の嫁だぞ? それだけ判っていれば、充分だろうが。人間の世界じゃ嫁は三食飯を作って夜伽の相手をする、その代わり旦那の儂は持ち前の怪力を活かして一生懸命働くんだ。夫婦っていうのは、そういうもんだろうが」


 草取は悪びれた様子もなく言った。


「草取殿は本当に相手の事が好きだったんですか?」


 重太郎も先程とは打って変わって、呆れた様子だった。


「当たり前だろう! あれは、儂の嫁だったんだぞ!?」


 草取は気分を害したようで、鼻息も荒く言った。


「ふーん」


 晴明狐は訝しげな顔をした。


「何だ、小僧、その顔は!? お前こそ、なぜ、千年もの間、人間の女なんか探しているんだ? 一夜の恩返しにしては、度が過ぎているんじゃないのか? 第一、人間の寿命は短い。今更、見つけ出したところで、何をするつもりだ? まさか、墓参りでもするつもりじゃないだろうな?」


 草取はお返しとばかりに、莫迦にしたように言った。


「お生憎様。あの人はたぶん、まだ死んじゃいないよ。だからこそ、僕はここ、怨霊街までやって来たんだからね」


 晴明狐は涼しい顔をして言った。


「おめでたい事だ」


 黒龍は彼らの話を聞き、哀れむように笑った。


「おめでたい?」


 晴明狐は、初対面の黒龍にまで笑われる筋合いはないと、むっとした。


「お主達は何も判っちゃいないんだな」


 黒龍は鼻で笑った。


「いいか、言わずもがな、怨霊街は、異界の温泉街だ。温泉街だから、宿がある」


「当たり前の話だな」

「そうだね」


「それで?」


 重太郎と晴明狐が頷き、草取が先を促した。


「宿に泊まれば、宿泊代を要求される」


「そいつも当たり前の事だな」


「うんうん」


「続けろ?」


「では、あの世とこの世の狭間にある異界、怨霊街の宿に泊まった時、お客は代金として、何を支払うのだと思う?」


 黒龍は焦らすようにして答えを待ったが、誰も、何も答えなかった。


「これだけでは難しいか。ならば、怨霊街を治めているのは、誰だ?」


「酒呑童子だ」


「酒呑童子?」


「酒呑童子だろう?」


「その『酒呑童子』というのは、いったい、何者だ?」


「鬼だ」


「鬼の王様、かな?」


「鬼神、か?」


「どれも正解だ。酒呑童子というのは、そういった大いなる存在だ。伝説通りなら金銀財宝は腐るほど持っているし、一生かけたって飲みきれないほどの名酒もあれば、美女も五万といる事だろう」


「そうかも知れないな」


「うんうん」


「で、何だというのだ?」


「だとすれば、酒呑童子は異界に湯治場を開き、宿を営んで、宿泊客から何をもらうつもりなのだ? 今更、現世で流通しているような金銭を受け取ったところで、何の利がある?」


 重太郎も、晴明狐も、草取も、すぐには答える事ができなかった。


「判らぬのなら、教えてやろう。拙者は今日で、ちょうど一週間、ここに滞在した事になる。連中は、今晩、何か仕掛けてくるに違いない。そこでお主達を、拙者の夕餉に招待してやろうではないか」


 黒龍に言われるがまま、重太郎達は風呂から上がった。


 黒龍が、今晩の夕食を、重太郎達と一緒に摂る旨を伝えると、茨木童子は快く応じた。


 重太郎達が黒龍の居室で寛いでいると、茨木童子が別室に酒宴の準備ができたと知らせに来た。


「ふふふ、いよいよ怨霊街のお代が何か、判る時が来たかも知れんぞ。この街にはお主達の思っているようなものなど何もなければ、誰もいないという事を、思い知る事になるだろうよ」


 黒龍は窓辺の籐椅子に座し、視線を外に向けたまま、暗い笑みを浮かべて言った。


 窓の向こうには、ひどい時化に見舞われた大海原が、宵闇に染まった荒れ狂う海が、どこまでも遠く、果てしなく広がっていた。

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