第二章 福岡 三鬼山にて

 第二章 福岡 三鬼山にて


 重太郎は今でこそ、身長優に一八〇センチはある堂々たる偉丈夫だったが、十代の頃は、痩せぎすのひ弱な体質だった。とてもではないが妖怪変化を相手に戦う事などできなかったし、その辺にいる人間と殴り合いの喧嘩もできそうになかったぐらいだ。


 とは言え、これで重太郎も、代々、妖怪退治を生業としてきた岩見家に生まれた男子。


 父親である重左衛門や、兄、重蔵の活躍を見るにつけ、いずれは自分も、妖怪退治で身を立てようと考えていた。


「重太郎はこの世界でやっていくには、少し線が細過ぎるかも知れんな。人には、向き不向きがある。何も私らと同じ道を無理して進む事はないぞ」


 重太郎は、父親である重左衛門に道場で稽古をつけてもらう度、忠告するように言われた。


「そりゃあ、父さんや兄さんに比べたら体格は劣るけどさ」


 重太郎は唇を尖らせた。


 重太郎はこの頃、まだ中学生になったばかりで、大人しく控えめな少年だった。


 だが、将来の夢を諦めろというような事を言われて、黙って引き下がる訳にはいかない。


「僕もこの家に生まれたからには父さんや兄さんのように強くなって、妖怪退治を生業にしたいんだよ」


 重太郎は今も昔も、芯の強さは変わらなかった。


「そうは言ってもな、今のお前じゃ素人を相手にしてもどうなる事か」


 重左衛門は心配そうに言った。


「いくらお前が稽古したところで、逆に身体を壊す事になるかも知れないぞ」


 追い討ちを掛けるように言ったのは、同じく稽古に参加していた、重蔵である。


「僕だっていつか強くなれるよ!」


 重太郎は父親と兄に否定され、むきになって言い返した。


 それからというもの、重太郎は体力作りに励み、学校帰りに箱崎の八幡神宮にお参りに行き、三鬼山に登って身体を鍛えた。


 最初の頃は野山を駆け回っているだけで、半分、遊んでいるようなものだった。


 一ヶ月経ち、二ヶ月が経ち、自分なりに体力作りの方法を考え、大岩を相手に相撲を取ったり、大木を相手に突きを打ち込んだり、小動物の気配を察知して捕まえるなどした。


 その日も三鬼山で修行に打ち込み、昼食は特訓がてら捕まえた狸を捌き、携帯用のアルミ鍋で煮込み、持参のおにぎりと一緒に食べた。


 陽が傾いた頃、帰路に着いたが、道に迷ってしまったようで、いくら山道を下りても、一向に麓の街が見えてこない。


 あっちこっち彷徨っているうちに、急に開けた場所に出た。


 重太郎の目に飛び込んできたのは、今時珍しい瓦葺屋根の山小屋だった。まるで、昔話の世界に迷い込んだような気がした。


 山小屋の縁側に座っているのは、大島紬の着物を身に纏った初老の男性で、夕涼みでもしているのか、小ぢんまりとした庭を眺めていた。


 初老の男性の視線の先、庭で遊んでいるのは、小学校二、三年生、十歳ぐらいだろうか、絣の着物を着た、おかっぱ頭の女の子だった。


 いや——おかっぱ頭の女の子は遊んでいるのではなく、老人から何か、教えを受けている様子だった。


「そこにいるのはどなたかな?」


 重太郎が木立の陰から覗き見していると、老人はいつから気づいていたのか、ふいに声をかけてきた。


「すみません、道に迷ってしまって。街に戻るには、どこに向かって行けばいいんでしょうか?」


 重太郎は素直に木立の陰から姿を現し、帰り道を聞いた。


「どんな用があってこんな山奥まで迷い込んできたのかな? この辺りは私の土地なんだが、最近勝手に山に入って木を傷つけたり、動物を殺しているのは君か?」


 老人はただ確認しているように聞いてきた。


「は、はい、すみません」


 重太郎は知らなかったとは言え、勝手に山に入って荒らしたのは事実だと、謝罪した。


「しかし、悪戯にしては熱心だし、陰湿なものは感じられない。この辺には代々、妖怪退治を生業としている者も多いと聞くし、もしや、何かの修行か?」


 老人は全て見透かしているようだった。


「……僕は、代々、妖怪退治を生業としている、岩見流剣術道場の次男、岩見重太郎と言います」


 重太郎は畏まって言った。


 老人が何者なのか見当も付かなかったが、只者ではない事だけは確かだろう。


「剣術道場の倅にしては、少し線が細いな」


 老人は重太郎が気にしている事をあっさりと口にした。


「実は家族からもお前はこの稼業に向いていないと言われて、それでもこうして山に籠もって自分なりに頑張っているつもりなんですが……」


    重太郎は図星を突かれて、肩を落とした。


「それで、木を傷つけたり、動物を殺しているのか。動かぬ木を相手に血眼になって、小動物を相手に躍起になっても、何の面白みもあるまい。そんな事をするぐらいなら、この子と相撲を取ってみないか。小娘だと思って侮ってかかると、えらい目に遭うぞ」


 老人はかんらかんらと笑った。


「はい?」


 重太郎は戸惑いの色を隠せなかった。


 どう考えても、相手はまだ小さな子どもだったが、おかっぱ頭の少女は、一歩、前に出てきた。


「手加減してやれ」


 老人の言葉を聞き、おかっぱ頭の少女はこくりと頷いた。


「…………」


 重太郎は、内心、カチンときた。


 相手は自分よりも年下、それも女の子なのだから、手加減するのは、こちらの方である。


「はっけよい!」


 重太郎の気持ちを知ってか知らずか、老人は縁側に腰掛けたまま、取り組み開始の声をかけ、相撲が始まった。


「お、重い!?」


 重太郎はがっぷり四つに組み、驚きの声を上げた。


 信じられない事に、おかっぱ頭の少女は、大岩のようにびくともしなかった。


「はっはっは、どうだ、まいったか?」


 老人は大笑いした。


「くそ!」


 重太郎がどんなに力んでも、押し返す事はできなかった。


 それどころか、あっという間に投げ倒され、土を舐めた。


「そ、そんな!?」


 重太郎は自分が負けるなどとは夢にも思っていなかったから、唖然とした。


「こう見えても私には、武芸の心得があってな。この子にも、毎日、手ほどきしてやっているのだよ。勝てなくても当たり前という訳だな」


 老人は悪戯っぽい顔をして言った。


「それじゃ楽しませてもらった事だし、うちの山を荒らした事はなかった事にしてやろう。もう二度と、こんな事はするんじゃないぞ。この子が道案内するから、早いところ家に帰るがいい」


 老人は満足そうに言って、山小屋に引っ込もうとした。


「……武芸の、手ほどき?」


 重太郎は老人の背中を見つめながら、何か考え事をしているように言葉を漏らした。


「貴方のお名前はなんと仰るのですか!? よかったら、またお邪魔させて下さい!」


 我に返ると、まるで弟子入りを懇願するように言った。


「好きにするがいい」


 と、老人は、思いの外、簡単に受け入れた。


「ほ、本当ですか、ありがとうございます! それで、先生のお名前は!?」


 重太郎はもう、老人に弟子入りしたつもりになっていた。

「先生? 私は先生なんて呼ばれるようなもんじゃないが、名前は、そうだな——『流星りゅうせい』、だよ」


 老人は夜空を見上げると、たった今、思いついた名前のように言った。


 重太郎はそれから毎日のように流星の家に通い、その度におかっぱ頭の少女と相撲を取った。


 最初のうちこそ歯が立たなかったが、一年が経つ頃には、三本に一本、勝てるようになってきた。


 重太郎の身長はぐんぐん伸びて一八〇センチ近くになり、体格もがっしりしてきたし、手足は丸太のように太く、一年前とは別人と言ってもいいぐらいである。


「重太郎よ、そろそろ私が稽古をつけてやろう。木刀を持て、三本勝負だ」


 重太郎が相撲を取っている様子をいつものように縁側に座って眺めていた流星が、おもむろに木刀を手にして庭に下りた。


「確か重太郎の家は、妖怪退治を生業としているんだったな」


 重太郎と向き合い、木刀を構えて聞いてきた。


「は、はい」


 重太郎は緊張した面持ちで答えた。


「岩見流、と言ったか。おそらくはその剣、ただの剣ではないのだろう?」


「……はい」


 重太郎は質問の意図が判らず、戸惑ったように返事をした。


「——ならば、それ相応の覚悟はしておけ。今から私が見せるのも、ただの剣術ではないぞ」


 流星は楽しそうに言った。


 瞬間、すぐ近くで、ベキベキと、大木がへし折れるような音が聞こえた。


「!?」


 重太郎は突然の事に狼狽え、狼狽えた隙を突かれて、一本取られた。


 いつまで経っても大木は倒れてこなかった。


「まんまと惑わされたな」


 流星はしてやったりという顔をして、すかさず二本目の勝負を挑んできた。


 重太郎は今度こそ流星に意識を集中しようとしたが、何の前触れもなく足元の小石がふわりと浮かび、瞬く間、嵐のように襲いかかってきたので、応戦せざるを得なかった。


 だが、木刀一本ではなす術もなく、まるで嵐のような石飛礫が止んだ瞬間、体勢を崩しているところを狙われ、またしても一本取られた。


 最後の勝負は、信じられない事に、無数の火の玉が宙空に人魂のように出現し、周囲を囲まれ身動きを牽制されたところを、一本取られて終わった。


「ま、まいりました! しかし、これでは剣術と言うよりも……!?」


 重太郎は喘ぐように言った——これでは剣術と言うよりも、何か超常的な力、神通力の類としか思えない。


「お前が将来、相手にする事になる妖怪変化の類も、今のような力を意のままに操る、異形の者達だぞ。これぐらいの事でへこたれてもらっては困るな」


 流星はからかうように言った。


「は、はい、もう一度、お願いします!」


 重太郎ははっとしたようで、自分がこれから相手にしようとしていたものが何者なのか理解したらしく、再度、稽古を願った。


「うむ、なかなかいい目つきをするじゃないか。気に入ったぞ、今日から本格的に修行をつけてやろう。そうと決まれば、今晩からうちに住むがいい」


 流星は重太郎の返事も聞かずに、山小屋に引っ込んでしまった。

 

 重太郎はおかっぱ頭の少女に夕飯作りに誘われ、そのまま山小屋で夜を迎えた。


「部屋には空きがあるから、今夜からお前の自由に使っていいぞ」


 流星は山の幸を使った夕食をつつきながら、当たり前のように言った。


「でも、家に帰らないと家族が心配しますよ。学校にも行かないと……」


 重太郎は困り顔で言った。


「何だ、修行を受けたくないのか?」


 もちろん、流星のような武芸の達人に修行をつけてもらえるのは嬉しかったが、ここに住み込みしてまでというのは考えてもみなかった。


「いや、そういう訳じゃないですが、話が急すぎて……」


 重太郎は、しどろもどろになった。


「学校にはここから通えばいいし、家族には私の方から話す。たまには家に帰って、元気な顔を見せてやれ」


 流星はこれで問題は解決だと言わんばかりである。


「例えお前の親がお前の事を心配したとしても一時の事に過ぎんよ、なぜならこの世は殺すか殺されるか、食うか食われるかだからな……今のままじゃ、お前は未熟者のままだ」


 重太郎は神妙な面持ちになる。


「半人前が妖怪相手に戦っても、痛い目を見るか、死に至るだけだ。そんな事になるぐらいなら、私のもとで修行して強くなった方が、お前の両親も喜ぶに違いない」


 流星はそれこそ、弟子を諭すように言った。


「この世は力が全てだ! 誰もが皆、強さを望み、己を磨く! だからこそお前も、私の山小屋に迷い込んできたのだろう?」


 重太郎を射抜くように見て言った。


「それともお前は、誰かに一方的に傷つけられて、笑われるだけの人生を望んでいるのか?」


 まるで落伍者を見るような目つきで問いかける。


「わ、判りました」


 重太郎は鬼気迫る迫力に飲まれたように、頷くしかなかった。


 重太郎の実家に、流星がおかっぱ頭の少女を従え挨拶に赴き、重太郎は晴れて山小屋に住み込む事になった。


 重太郎は正式に弟子入りを果たしたのである。


 それから、早三年の月日が経った。


 ある日の夕方、岩見流剣術道場の前に、身長優に一八〇センチ以上ある大男が、洗いざらしのポロシャツにジーンズという気軽な格好で立っていた。


 他の誰でもない、久しぶりに帰省した、重太郎だった。


 重太郎が当たり前のように剣術道場に足を踏み入れると、精悍な顔付きをした老人——父親の重左衛門が道着姿で稽古をしていた。


 いつもなら大勢いるはずの門下生はもう解散したらしく、他に人影はなかった。


「——重太郎か?」


 重左衛門は竹刀を振り被ったところで久しぶりに帰ってきた我が子に気づいた。


「ああ、今さっき帰ってきたところだよ」


 重太郎は顔付きは凛々しく、体格はがっしりとしていて、全くの別人と言ってよかった。


「お前は帰ってくる時、いつもいきなりだな。一息つこうと思っていたところだ。着替えてくるから、待っていてくれ」


 重左衛門は息子の帰りを喜び、いそいそと更衣室に行こうとした。


「ここでいいよ。実は流星先生が突然、姿を消しちゃってさ、それで帰って来たんだよ。初めて先生と出会った時もまるで昔話の世界に迷い込んだみたいだったし、今思えば、本当に化かされていたのかも知れないな」


 重太郎は遠い目をして言った。


「流星殿に、何かあったのか?」


「もしかしたら、お前にはもう、教える事はないっていう、あの人なりのお別れの仕方かも知れない」


 重太郎は初めて会った時から、一癖も二癖もある、師匠の事を思った。


「一度ちゃんと会って、お礼が言いたいものだが」


 重左衛門は突然の事に戸惑いを隠しきれないようだった。


「……親父は昔、俺には妖怪退治は向いてないって、言っていたよな?」


 重太郎は道場の片隅に置きっ放しにされていた、竹刀に手を伸ばした。


「あの頃のお前は、ちょっと頼りないところがあったからな」


 重左衛門は昔を懐かしむようである。


「今はどう思う?」


 重太郎は挑戦的な目つきをしていた。


「お前の成長ぶりには驚かされるばかりだよ。いいお師匠についたな」


 重左衛門は満足そうに言った。


「今の俺なら、岩見流の手ほどきをしてもらえるって事かな? 今でも俺は親父や兄貴のように妖怪退治で身を立てたいと考えているし、その為に流星先生のところで修行に励んで来たんだからな」


 重太郎は口調こそ軽かったが、その目は真剣そのものだった。


「重太郎?」


 重左衛門はそこで初めて違和感を感じたのか、重太郎の事をまじまじと見た。


「手合わせ願いたい」


 重太郎は道場に立ち、重左衛門と向き合うと、竹刀を構えた。


「…………」


 重左衛門は、眉根を寄せて考え込んだ——すなわち、戦うべきか、戦わざるべきか?


 二人の間に、緊張の糸がぴんと張り詰めた。


「重太郎兄さん? 重太郎兄さんなの!?」


 静寂を破ったのは、高校の制服に身を包んだ、一人の少女だった。


「若菜」


 重太郎は命を賭けた真剣勝負を邪魔されたとでも言うように、およそ血を分けた妹に向けるべきではない、冷たい目をした。


 そよ風のように姿を現したのは、重太郎の妹、若菜だった。


「やけに早いじゃないか。今日はもう、部活は終わったのか?」


 重左衛門は緊張を解き、ほっとしたように言った。


「それがね、お父さん! あの人がまた、校門の前で待ち伏せしていたのよ!?」


源助げんすけか? 重蔵が迎えに行ったはずだが、行き違いになったのか」


「ちょうど重蔵兄さんが来てくれたんだけど、私だけ先に帰れって! だからお父さんに早く知らせなきゃって、急いで帰ってきたのよ! ねえ、重蔵兄さん、大丈夫かな!?」


 若菜は気が気でない様子だった。


「あの人?」


 重太郎は訝しげな顔をした。


「〝山刀使いの源助〟という男でな、最近やって来た流れ者だ。今時珍しく、武者修行の旅をしているとかで、うちにも道場破りなんぞしに来おったわ」


 重左衛門は迷惑そうな顔をして言った。


「うちは他流試合は禁止だし、断ったんだろう? なのに、なんでまた若菜の学校にまでやって来て、待ち伏せなんかするんだ?」


 重太郎は首を傾げた。


「もちろん、試合は断ったが、若菜に一目惚れしたらしくてな。毎日のように付き纏い始めたんだよ。若菜も怖い思いをしているし、私と重蔵でしばらく、ボディガードをする事にしたんだが……」


 重左衛門は困り顔である。


「早速、ちょっかいをかけて来たって訳か。重蔵兄さんの事だ、うまい事、収めるんじゃないのかな。もしそいつの顔を見たら、俺もお灸を据えてやろう」


 重太郎は面白そうな顔をして、剣呑な事を言った。


「……お前、少し雰囲気が変わったんじゃないか?」


 重左衛門は息子の言動に些か疑問を感じたようで、呆然としたように言った。


「変わったところがあるとすれば、剣の腕と体付き、力の強さぐらいじゃないかな」


 重太郎はおどけたように言ったが、重左衛門の表情は硬く若菜も様子を窺っていた。


「ここで三人揃って待っているのもなんだし、ちょっと、兄さんの様子を見てくるよ」


 重太郎は本当にそう思ったのか、或いは、居心地の悪さを感じたのか、二人を置いて、道場から出て行こうとした。


「……もしかして、〝山刀使いの源助〟さん?」


 重太郎はいつの間にか何者かが道場の玄関に立っているのに気づいて、楽しそうな顔をして言った。


「だったら何だよ、糞餓鬼が」


 重太郎よりも頭一つ分は背が高い、強面の巨漢である。


「性懲りもなくやって来たか」


 重左衛門がため息混じりに言った。


 いかにも山男のように分厚い毛皮を羽織り、編み上げのブーツを履いた男こそ、〝山刀使いの源助〟だった。


「おいおい、人様の家に勝手に上がり込んで来て、えらい言い草だな」


 重太郎は苦笑いした。


「てめえには用はねえ、さっさと引っ込め」


 源助は表情一つ変える事なく、土足で上がり込んできたが、重太郎が行く手を阻んだ。


「待て待て、お前さんには用はなくても——!?」


 重太郎は言い終える前に、源助に殴り飛ばされた。


「言っただろう、てめえには用はねえってよ」


 源助は倒れ伏した重太郎に唾を吐きかけて、足蹴にした。


「なあ、岩見流のおっさんよ、今仕方、学校近くで会った、てめえの息子も路地裏に誘い込んでぶっ飛ばしちまったんだがよ、それでもまだ、俺とは戦わねえっていうのか?」


 源助は重左衛門と若菜が呆然と立ち尽くしているのを見て、にやにやと笑いながら近づいていった。


「こちとらしばらく仕事がないもんで退屈でなあ、ここらで一つ派手にやりたくて仕方がねえんだよ。そうそう、若菜ちゃんとは後でたっぷり楽しんでやるつもりだからよ。兄貴をおびき出す餌になってくれた事だし、可愛がってやらねえとな?」


 源助がそのまま、重左衛門に掴みかかろうとした時。


「おい、あまり他人の家で好き勝手されちゃ困るな!」


 重太郎が彼の背後に立ち、さっきのお返しとばかりに、足元を掬うように蹴り飛ばした。


「重太郎! 気を付けろ!」


 重左衛門が道場の奥から持ってきた木刀を投げて寄越してきた。


 源助は腰に下げた大鉈を抜いていた。


「……お前、兄貴をどうした?」


 重太郎は何か嫌な予感がして聞いた。


「てめえの兄貴は路地裏に誘い込んでぶっ飛ばした、さっきそう言わなかったか? もっと正確に言えば、大鉈でぶった斬ってやったんだけどな」


 源助は大鉈を弄びながら反応を窺うように言った。


「お前は自分が何をしたのか判っているのか!?」


 重左衛門は、全身、怒りに震えていた。


「重蔵兄さんに、いったい何をしたの!?」


 若菜は今にも、泣きそうになっていた。


「いいねえ、その叫び声! 若菜ちゃんの兄貴も、血飛沫を撒き散らして骨が砕けた時には、そりゃあ、いい声で泣いたもんだあ! また聞かせてくれよ、一家揃って泣き叫ぶ声をな!」


 源助は対照的に、ご機嫌な様子で言った。

 

 道場破りにしては度が過ぎている。


 まさしく、人でなしだった。


「——親父、最近、この家のどこかに、白羽の矢が刺さってなかったか?」


 重太郎は源助を睨み付けたまま、突拍子もない事を聞いた。


「白羽の矢?」


 重左衛門は怪訝そうな顔をした。


「気づいてないのか、周りの気配に」


 重太郎は、目配せをした。


「まさか、妖怪変化の類か!?」


 重左衛門はようやく、大男の正体に気づいた。


「気付くのが遅すぎた」


 重太郎は悔しげに言った。


 ——天井から、壁から、床から、至るところから、いつの間にか、蜥蜴か家守のように、異形の者達が、音もなく忍び寄ってきていた。


 皆、同じ種類の妖怪らしく、猿とよく似た姿形をしていた。


「野郎ども、久しぶりの狩りだ! 全員、やっちまえ! 小娘の肉は、俺様の為にとっておけよ!?」


『源助』という、さっきまで人間に化けていた何者かが、いよいよなりふり構わず、妖怪としての本性を露わにした。


「『狒々ひひ』の親玉かよ」


 重太郎は苦々しそうに言った。


 さっきまで『源助』だったものは、猿のような妖怪、『狒々』の本性を露わにしていた。


『狒々』は、言い伝えによれば、白羽の矢を刺した家に、人身御供として生娘を要求したという、猿とよく似た姿形をした妖怪である。


 人間の肉体など簡単に引き千切る事ができる、怪力だと言われている。


「なぜ、こんな事をする!?」


 重左衛門は若菜を庇いつつ、必死に木刀を振るっていた。


「親父、この世は殺すか殺されるか、食うか食われるかだ。そこで思いついた、ただの暇つぶし、退屈しのぎってやつなんだろうよ!」


 重左衛門の疑問に答えたのは、狒々の群れを懸命に押し返していた、重太郎だった。


「人間のくせに、よく判っているじゃねえか! てめえら、妖怪退治を生業とする剣術家なんだろう? せいぜい、楽しませてくれよ!?」


 源助は重太郎達が手下と戦っている様子を、師範よろしく道場の奥で眺めながら言った。


「親父! 若菜を連れて、道場の外に向かって走れ!」


 重太郎は、重左衛門と若菜に群がる狒々を無理矢理引き剥がし、残っている連中も引きつけた。


「な、何をするつもりだ!?」


「重太郎兄さん!?」


 二人は言われるがまま、道場の外に駆け出し、重太郎が何をしようとしているのか、心配そうに見守る。


「てめえの兄貴は大鉈でズタズタにしてやったもんだが、なかなかどうして、楽しませてくれそうじゃねえか!?」


 狒々の親玉は、唇が捲れるぐらい大笑いした。


「兄貴の敵は、今、ここで討ってやるよ!」


 重太郎は威勢よく言うと、何か呪文のようなものをぶつぶつと唱え始めた。


 直後、道場内に風が吹きすさび、小さな嵐が巻き起こった。


 重太郎が起こした小さな嵐は、襲いかかってきた狒々の群れをあっという間に飲み込んだ。


「こ、これは!?」


「何、これっ!?」


 重左衛門と若菜は、驚愕を禁じ得なかった。


「な、何だこりゃあ!?」


 驚いたのは、高みの見物を決め込んでいた、源助も同じだった。


 小さな嵐に飲み込まれ、運ばれてきた源助の手下達が、源助の頭の上に、次々と覆い被さった。


 手下だと思っていたものは、重太郎が起こした小さな嵐によって細切れにされた、今やただの生温かい肉塊、千切れた臓物だった。


「ひぃ!?」


 源助は血塗れの肉片や内臓が頭から降りかかってきたおかげで、全身、すっかり鮮血に染まり、情けない声を出した。


 辺りには、狒々達の頭蓋が、脳漿が、四肢が飛び散り、ゆらゆらと血煙が揺れていた。


「死ね!」


 重太郎は全身に夥しい量の返り血を浴びながら、平然とした顔で告げた。


「この、化け——!?」


 源助は最後に何か言おうとしたが、最後まで口にする事はできなかった。


 これも、重太郎の超常的な力によるものなのだろう。


 まるで人魂のような火の玉が、宙空にぽつぽつと生じ、無数の火の玉は、親玉である源助もろとも、狒々の死骸を全て焼き尽くして、消し炭と化した。


 剣術道場の一角はボヤでも起きたように真っ黒に煤け、それだけが騒ぎの痕跡としてあるばかりで、あとは何事もなかったように、狒々は一匹残らず退治されたのである。


 重太郎は、見事、兄の仇を取ったのだ。


「親父、若菜!」


 だが、重太郎が振り返ると、待っていたのは、賞賛や、祝福の言葉などではなかった。


「お、お前は……」


 重左衛門の表情は硬かった。


 重太郎に時々感じた違和感の正体、それが何か判った。


 久しぶりに顔を見た息子から感じられる気配は、たった今、自分達が相手にしていた妖怪、狒々が放っているものと同じ——すなわち、妖気だった。


 とは言え、にわかには信じられない、だからまだ、本人に言う事はできなかった。


「…………」


 若菜はと言えば、恐怖のあまり、重左衛門に縋りついていた。


 残念ながらこの時から重左衛門と若菜の心には、重太郎に対して恐怖心や猜疑心といった負の感情が芽生えた。


 いくら血が繋がった家族とは言え、およそ人のものとは思えない不思議な力を意のままに操る重太郎の事を、彼らは到底、受け入れる事はできなかった。


 重太郎はその後、急死した兄の代わりに岩見流剣術を継ぐ事になったが、家族の関係はぎくしゃくし、決して仲がいいとは言えなかった。


 その分、妖怪退治に精を出したが、それがまたやり過ぎる結果を生み、家族と溝を深める原因となった。


 悪循環である、あとは推して知るべしだ。


 結局、流れ流れてここまで来てしまった。


 そう、あの世とこの世の狭間にある異界、怨霊街。


「だから俺はこれから先、何が待っていようと、怨霊街に行かせてもらうよ。もうどこにも居場所なんかないんでね」


 重太郎は、思い詰めたような顔をして言った。


「……そんな事ないと思うよ。怨霊街に行かなくても、きっと、この世のどこかに居場所はあるよ」


 と、晴明狐は確信を持っているように言った。


 そして、身の上話を語り始めた。


 ——この世にまだ妖怪変化が跳梁跋扈していた頃の話だよ。今より夜の闇がずっと深く、暗く淀んでいた頃の話をしよう。

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