幕間の一、

 幕間の一、


 あれも昔、これも昔、それもまた、昔々の事である。

 

 人里離れた山中に、荒々しく流れ落ちる滝があった。


 いかにも曰くありげな雰囲気漂う、見事な水煙が立った滝である。


 実際、滝の主に関して、恐ろしい言い伝えがあるのだが、今となっては、覚えている者もいなければ、語る者もいない。


 近くにある寂れた寺と同じように、人々から忘れ去られている。いつからか、寺から住職の姿は消え、今も人けはない。


 ただ、寺には一匹の蜘蛛が巣食っている。


 妖怪変化の類で、その名を『絡新婦じょろうぐも』という。


 絡新婦は、人間に化ける時は、絣の着物を着た若い女の姿になり、『お滝』と名乗った。


 お滝はその日、誰かが山中に入り込んできた気配を感じ、羆のように大きな蜘蛛の姿を、滝壺の岩陰に隠した。


 お滝は臀部から音もなくするすると伸ばした蜘蛛の糸を、気付かれないように相手の足に巻きつけ、やはり気付かれないように少しずつ操り、自分の元へと誘い込んだ。


 そうしてまんまと人間を滝壺まで連れ出して、滝に落として殺すつもりなのだ。


 滝の主は絡新婦のお滝であり、お滝は山中に迷い込んできた人間を滝壺に落として殺す、それこそが滝の主に関する恐ろしい言い伝えの内容だった。


 お滝は、それと気付かずに、蜘蛛の糸に操られるままに、相手が滝壺の近くまでやって来たのを感じた。


 こんな山奥に、どこの誰が、何の為にやって来たのか知らないが、あともう少しで、自ら滝壺に身を投げて、命を落とす事になる。


 ようやく自分の意志に反して両足が動いている事に気付いたらしい相手が、なんとか崖っぷちで踏ん張ろうとしているがもう遅い。


 一瞬にして、水煙の向こうに姿を消し、地獄の底に落ちた。


「今のは?」


 お滝は岩陰から様子を見ていて、滝壺に落ちたものに対して、何となく違和感を覚えた。


「どうした? あれはただの切り株だぞ?」


 お滝の前に何の前触れもなく姿を現し、滝壺に落ちたものが何だったのか告げたのは、天狗のお面を被った、山伏だった。


「あ、あんた、何者だい!?」


 お滝は天狗のお面を被った山伏に、警戒心を露わにした。いったい、いつから切り株と入れ替わっていたのか、どうやって、突然、目の前に現れたのか?


「そういうお前はなんだ、絡新婦か? 普段は『お滝』と名乗って、人間に化けているそうだな?」


 天狗のお面を被った山伏は、お面の下からくぐもった声を発した——その正体、人間か、妖怪か?


 男女の区別もはっきりしないし、得体が知れない、油断できない。


「何だ、何を黙っている? 千年生きて、まともに言葉を解す事もできないのか?」


 天狗のお面を被った山伏は、挑発するように言って、一歩、前に出てきた。


「!?」


 お滝は一歩、後退り、しまったと思った。今まで我が身を隠していた岩に背中がぶつかり、退路を絶たれてしまう。


「言い伝えによれば、お前は山中に迷い込んだ人間を、自慢の蜘蛛の糸で滝壺までおびき寄せ、身投げさせて、溺れ死にさせているそうだな?」


 天狗のお面を被った山伏は、逃げ場を失い、焦りを覚えているお滝に確かめた。


「なにゆえ、そのような事をしているのだ?」


 咎める風はなく、純粋に興味があるようである。


「そ、それが、あんたと何の関係があるのよ!?」


 お滝は天狗の言い知れぬ迫力に気圧されながら、気丈に訊ねた。


「質問しているのはこの私だ! 答えろ!!」


 天狗のお面を被った山伏は、鋭い声で言った。


「……わ、判ったよ。判ったから、大きな声を出さないでおくれよ!」


 お滝は格の違いを見せつけられたような気がして一瞬で震え上がった。


「私には番いもいないし、他にやる事もないし、ある日、迷い込んできた人間に思いつきでやり始めた、ただのお遊びだよ。こんな人里離れた山中に暮らしていると、毎日、退屈だからさ」


 お滝は観念したように答えた。


「この世は、殺すか殺されるか、食うか食われるかだからね。私の蜘蛛の糸に絡め取られるまま滝壺に落ちていけば、私の勝ち。どうにかして糸を切るなり、抜け出すなりして、滝に飲み込まれずに済めば、人間の勝ちっていう訳さ」


 お滝が自嘲気味に言うと、天狗のお面を被った山伏は鼻で笑った。


「な、何がおかしいのさ?」


 お滝は癇に障ったようで、興奮気味に言った。


「下らん……いかにも動物や昆虫から妖怪に変化した者が、退屈しのぎに思いつきそうな事だ。だが、それだけに、純粋ではある」


 天狗のお面を被った山伏は、歯に絹着せぬ物言いだった。


「どうだ? この私について来れば、もっと楽しい遊びをさせてやろうではないか? もっと血腥くて、もっと楽しい遊びだ。相手は人間だけではないぞ? お前の番いとしての役目を果たそうとしなかった妖怪どもにも、復讐させてやろう! そう、そうだとも! こんな山奥で、いつ訪れるとも知れぬ獲物を待っているよりも、きっと、いい暇つぶしになるぞ? 少なくとも、毎日、やる事はある!」


 天狗のお面を被った山伏は、自信満々に誘ってきた。


「な、なんだって?」


 お滝は思わず、聞き返していた。


「確かにお前の言う通り、この世は殺すか殺されるか、食うか食われるかだ。だが、騙すか騙されるかというのもある。相手をまんまと騙す事ができれば、簡単に殺せるし、食う事ができる! これから、お前と私でやるのだ!」


 天狗のお面を被った山伏は、熱っぽく語り出した。


「故あって、私は湯治に詳しく、温泉の目利きができる。そこでだ——恨み、つらみ、憎しみ、呪いによって傷ついた人間ども、霊能力、神通力、加持祈祷によって傷ついた妖怪達、そういう者達を誘い出し、囲い込む為の場所として、湯治場を作り、一人残らず、一匹残らず、我らの手で、奴らの命を弄び、最後には、血祭りにあげてやろうではないか!?」


 天狗のお面を被った山伏の熱意は本物だった。


「あ、あんたは、いったい?」


 お滝は千年生きた蜘蛛の妖怪にも関わらず、天狗のお面を被った山伏の迫力にたじろいた。


「私はたった今から、『酒呑童子』を名乗り、姿形も変えよう。そして、あの世とこの世の狭間に鬼の街を作り、その街が、傷ついた人間や妖怪を癒す、極楽浄土だという噂を巷に流すのだ!」


 宣言するように言うと、あっという間に、伝説の鬼神、酒呑童子に姿を変えた。


 威風堂々、立っていたのは、赤い髪は伸ばし放題、大柄な体格に、赤銅色の肌、花柄の着物を身に纏った、爛々とした目付きの鬼神だった。


「かつて騙し討ちしてきた源頼光に向かって、『鬼に横道はない』と言った、酒呑童子の街だ。噂話にも、多少は信憑性が出るだろうよ」


『横道はない』——道に外れた事はしない、嘘はつかない、卑怯な振る舞いはしないという事である。


「私はどうすればいいのですか?」


 お滝は従順な態度を示して言った。


「お前も鬼に姿を変え、私と一緒に仲間を探しに行くのだ。お前と同じように、番いのいない妖怪をな! そして、自分の事を嘲笑った者や、傷つけた者達に対して、私とともに、復讐するのだ!」


 酒呑童子は北叟笑んだ。


「そうすれば、きっと……」


 酒呑童子は遠くを見つめ、呟くように言った。


「そうすればきっと、私はあの日、傷つけられた己の尊厳と、失った存在意義を、取り戻す事ができるであろう!」


 それから幾歳月が経ち、ある種の人間や妖怪達の間で、こんな噂が、まことしやかに語られる事になる。


 そう——あの世とこの世の狭間にある異界の地から湧き出る温泉に浸かれば、どんな病も傷も治る、と。

 

 いつからか、誰が呼んだか、その湯治場の名前こそ……。

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