第一章 京都 一条戻り橋にて

 第一章 京都 一条戻り橋にて


 今も平安時代の景観をあちこちに残した、千年の都、京都——すっかり陽が落ちた黄昏時の上京区、閑静な住宅街である。


 いくら古都とは言え、今時珍しい着流しに下駄履きの男が、雨など降り出しそうもないのに、番傘を携え、人けのない路地を歩いていた。


 このまま行けば、源四天王の一人、渡辺綱と、酒呑童子の配下、茨木童子が戦った、一条戻り橋へと辿り着く。


 着流しの男は、歳の頃なら二十代前半ぐらいだろうか。


 身長は優に一八〇センチ以上あり、がっしりとした体格で、何か武道の心得がありそうな雰囲気だった。


 着流しの男の前にも、やはり古めかしい装いに身を包んだ、小柄な少年が歩いていた。


 なぜか立烏帽子に狩衣という、平安時代の貴族のような身なりで、小柄な身体から立ち上る、ある種の気配は——


「あの、ガキ」


 着流しの男は、楽しそうに笑った。


 ——こいつは少し、面白そうだな。


 男の名は、岩見重太郎いわみじゅうたろうという。生まれも育ちも、福岡である。


 重太郎の実家は古くから剣術道場を営み、次男坊である彼もまた、『岩見流剣術道場』の門下生だった。


 だが、『岩見流剣術道場』というのは表の看板であって、裏では、代々、妖怪退治を生業としていた。


 重太郎も妖怪退治で食い扶持を稼ぐ身、だからこそ小柄な少年の正体にすぐに気づいた。


 妖怪変化の類、だ。


(しかし、人間に化けている理由が判らんな。それに、なんでまたあんな派手な格好をしているんだ?)


 重太郎は自分が今時珍しい、着流し姿である事は棚に上げ、小柄な少年の古風な装いについて、疑問に思った。


(ここに来て、ここまで来て、人間に化ける必要があるか?)


 すでに辺りには夕闇が迫り、不気味な雰囲気が漂っていた。


 いわゆる、逢魔時だ。


 いつの世においても京の闇は深く、人間にとっては未知の領域だった。


 例え、現代でも、いや、だからこそ、暗闇の奥に何があるのか、何が隠れ潜んでいるのか、知る者は少ない。


 ついさっきまで一軒家やマンションが建ち並んでいた一条戻り橋の向こうに、突如として巨大な隧道が完成したかのように、どこまで続くような真っ暗闇が口を開けていた。


 一条戻り橋の橋の袂だけが黒い霧に包まれているように、橋の彼岸に一寸先も見えない暗黒が広がっている。


 なぜ、突然、この辺りが、黒い霧に、暗黒に包まれたのか?


 黒い霧の向こうに、暗黒の向こうに、いったい、何があるのか?


 重太郎が歩いている所にも黒い霧は迫ってきた。


 まるで現実が誰かの悪夢に浸食されていくように、さっきまでそこにあったはずの一軒家やマンションが黒い霧に覆われ、暗黒に飲まれて消えた。


 だが、重太郎は落ち着き払った様子だった。先を行く小柄な少年も、平然としている。二人とも立ち止まる事なく、歩いていく。


 どうやら、重太郎と小柄な少年の行く先は、一条戻り橋の真っ暗闇の向こう側らしい。


 一条戻り橋の暗闇の果てまで次々と提灯が灯るように、無数の青白い光がぽつぽつと生まれ、揺らめいた。

 

 まるで人魂のような青白い光は、見る者をここではないどこかへと誘う、不知火、鬼火、狐火の類だ。


「——ねえ、お兄さん、僕の後をついて来ているみたいだけど、何か御用ですか?」


 小柄な少年はふと立ち止まり、振り返ると、重太郎に向かって聞いた。どこか狐を思わせる、愛嬌がある顔をしていた。


「たまたま行く先が同じなんでね」


 重太郎は愛想笑いをするように言った。


「行く先が同じ?」


 小柄な少年は少し驚いたように言った。


「俺はこの先に用があるんだよ」


 重太郎は小柄な少年を追い抜き、先を急いだ。内心、小柄な少年がどう出るのか、楽しみだった。


「ちょっと待って! 悪い事は言わないからさ、この先には行かない方がいいよ!」


 小柄な少年は、案の定、重太郎の事を追いかけてきたかと思えば、忠告するように言った。


「なあ、あんた、こんなところでそんな格好をして、人間に化けた妖怪なんじゃないのか?」


 重太郎は単刀直入に聞いた。


「僕が妖怪だって気付いていたのか」


 小柄な少年は驚いたように言った。


「俺達の目的地は同じなんじゃないのか? あの世とこの世の狭間にある異界、『怨霊街おんりょうがい』、違うか?」


 重太郎は楽しげに言った。


 あの世とこの世の狭間にある異界、怨霊街——妖怪退治を生業とする人間や、妖怪達の間で噂されている、嘘か真か、京都の一条戻り橋から行く事ができるという、逢魔時に包まれた街である。


「まさか、怨霊街の事まで知っているなんて、お兄さん、只者じゃないね」


 小柄な少年は目を丸くした。


 重太郎は妖怪退治を生業としているだけに、怨霊街と呼ばれる街が、どんな場所か知っていた。


 この世には、本人が自覚しているか否かは別として、他人から受けた、恨み、つらみ、憎しみ、呪いによってできた、〝傷〟を負っている者がいる。


 妖怪変化の類にも、霊能力や神通力、加持祈祷といったものによってできた、〝傷〟を持っている者がいる。


 人間であれ、妖怪であれ、一生、〝傷〟を抱えて苦しむ事になる者もいれば、〝傷〟によって命を落とす者もいる。


 そして、〝傷〟を持つ者達の間には、こんな噂が広がっていた——あの世とこの世の狭間にある、異界の温泉に浸かれば、どんな病も傷も治る、と。


 いつからか、誰が呼んだか、その湯治場の名前こそ、異界、怨霊街。


「まあ、自分で言うのもなんだが、俺はただの人間じゃないかも知れないな」


 重太郎は自画自賛するように言ったが、なぜか沈んだ顔をしていた。


 これから異界の湯治場である怨霊街に行こうというのだから、当たり前と言えば当たり前かも知れない。


 重太郎も傍目には呑気そうに見えても、脛に傷を持つ身なのだろう。


「やっぱりねー。たぶん、拝み屋とか祓い屋って呼ばれる人なんだろうけど、この先には行かない方がいいよ? まだ若いんだし、死にたくないでしょう?」


 小柄な少年は知った風な口をきいたが、怨霊街には傷を治す為に行くというのに、死ぬかも知れないというのは、いったい、どういう事なのだろうか。


「それで化かしているつもりか? それとも本当に忠告しているのか? お前さんこそ、俺にはただの妖怪には見えないんだけどな」


 重太郎は面白そうな顔をした。


「へえ、例えば?」


 小柄な少年は感心したように聞いた。


「第一に、ここは逢魔時の境界線だぞ? そんなところでなぜ、人間の姿に化ける必要がある? それも平安貴族みたいな派手な格好をして。百歩譲って俺の事を化かすつもりなら、怨霊街がどんなところか知っている人間に対して、行かない方がいいとか、死ぬかも知れないなんて脅したところで、いったい、何になるよ? お前さんの狙いは何だ? なあ、いったい、何者なんだよ?」


 どうやらこの重太郎という男、相手が妖怪だと判っていても、自分の身の安全よりも、好奇心の方が優先されるらしく、興味津々といった様子だった。


「ご覧の通り、僕は平安の昔から陰陽師に化けている、化け狐さ」


 小柄な少年は得意そうな顔をして、着ている衣服を見せつけ、正体を明かした。


「平安時代からって言ったら、ざっと千年は生きている事になるんじゃないか?」


 重太郎はいかにも驚いたように言ったが、その辺は聞くまでもない。


 人間に化ける妖怪と言えば、千年狐裡精の類と相場は決まっている。


 現に、江戸時代から幕末にかけて、茶人の千宗旦に化け、人間と良好な関係を築いた、『宗旦狐そうたんぎつね』、という妖怪もいる。


 そう考えると、平安の昔から陰陽師に化けていたという小柄な少年が、誰を真似て、なんと呼ばれていたのか、察しがつくというものである。


 無論、宗旦狐のような善良な妖怪だという保障はどこにもなかったが、小柄な少年から悪意や殺気というものが、微塵も感じられないのもまた事実だった。


「ぱっと見には派手に見えるかも知れないけど、なんだかんだで便利なんでね、平安時代からずっと、辻占で通しているのさ。おかげで付いた名前が、〝晴明狐せいめいぎつね〟、ってね」


 かつて、平安の都、京で活躍したという、稀代の陰陽師、安倍晴明から取った名前なのだろう、重太郎の予想は当たっていた。


「お前さんが陰陽師の格好をしている理由は判ったよ。でもな、その晴明狐さんが、なんでまたこの俺に、怨霊街には行かない方がいいなんて言うんだ?」


「お兄さんは、安倍晴明が何か悪事を働いたなんて話、聞いた事ある? ないでしょう? いつだって安倍晴明は、世の為、人の為に働いてきたんだよ。それはこの僕、晴明狐も同じさ」


 晴明狐は胸を張って言った。


「うーん、からかわれている気しかしないなあ」


 重太郎は訝しげな顔をした。


「とんでもない! このまま怨霊街に行けば、お兄さんみたいな妖怪退治を生業としている人間でも、ただじゃ済まないと思うよ」


 晴明狐は本当に重太郎の身を案じているようである。


「怨霊街は異界の湯治場だって聞いていたんだけどな。お客は、人間、妖怪を問わないって」


 重太郎は首を傾げた。


「僕も怨霊街に行くのは初めてだけど、人間の事も妖怪の事もお客さんとして迎えてくれるのは本当の事らしいよ。でも、あの街に行くまではどうかな? ここで僕と出会ったように、また妖怪と出くわす事もあるだろうし、そうなったら湯治場に行こうとしている妖怪だもの、お兄さんみたいな人と戦い争って傷付いた者もいるんじゃないのかな。傷を負っているからこそ面倒ごとは避けようとするかも知れないけど、逆に恨みを抱いて牙を剥いてくる輩もいるかも知れない。それに温泉に浸かって傷が癒えたとしたら、妖怪は帰り道には本性を現して人間に襲いかかってくるかもね」


 晴明狐は重太郎の反応を窺うように言った。


「言われてみれば、その通りかも知れないな」


 重太郎は改めて考えてみた。


 晴明狐が言うように、湯治場である怨霊街に行くまでの道程は、現世と変わらないのではないか。


 まさか、人間と妖怪が仲よくお手手を繋いで、観光旅行という訳にもいくまい。

 

 こんな風に親身になって話してくれる、晴明狐が変わり者なのだ。


 これが他の妖怪なら、今頃、どうなっていた事か、きっと化かされているか、切った張ったの大立ち回りを演じていたに違いない。


「我ながら何を勘違いしていたのか、異界の湯治場に観光気分で行こうとしていたみたいだ」


 重太郎は自分が浅はかだった事に気付いた。


「やっと判ってもらえたみたいだね。怨霊街は極楽浄土じゃないっていう事が」


 晴明狐はほっと胸を撫で下ろしたように言った。


「お前さんのおかげでよく判ったよ。こいつは観光旅行じゃない、冒険旅行だ」


 重太郎は納得したように言ったが、何食わぬ顔をして一条戻り橋を渡り始めた。


「ちょ、ちょっと、お兄さん、僕の話、ちゃんと聞いてた!?」


 晴明狐は驚きの声を上げた。


「この先には妖怪が待ち受けていて危険なんだろう? 俺にとっちゃ望むところだよ。『岩見流剣術』、存分に披露させてもらおうじゃないか」


 重太郎は番傘を刀に見立て、一条戻り橋の暗闇に向かって、意気揚々と歩いていく。


 晴明狐が慌てて追いかけてきても振り返りもせず、一条戻り橋を渡り切り、まるで巨大な隧道のような暗黒の空間を、どんどん進んでいく。


 周囲は真っ暗闇だが、暗闇の両側には無数の人魂を思わせる青白い光がぼんやりと輝き、どこまでも続いているような道筋を浮かび上がらせていた。


 青白い光に照らされた闇の中を歩いていると、突然、視界が開けた。


 目の前に広がっているのは、鬱蒼と茂った森だった。緑の天蓋から覗く遠くには、険しい山脈が見えた。

 

 どこか近くに温泉があるのか、空気は生暖かったし、独特の匂いがした。見上げた空は分厚い灰色の雲に覆われ、今が昼なのか夜なのかも判らない。


「こいつは少し、面白そうだな」


 重太郎は嬉しそうに舌なめずりすると、番傘片手に歩いていく。


「重太郎の兄さん、待ってよ、本当に危ないんだよ!?」


 重太郎は晴明狐を意に介さず、どんどん歩いていった。


 不気味な獣道の先に何が待ち受けているのか楽しみで仕方ないらしいが、何者かの気配を察したのか、ふと足を止める。


「…………」

 重太郎は番傘を握る手に力を込め、相手が姿を現わすのをじっと待った。


 するとどうだろう、傍らの茂みをかき分け、のっそりと姿を現したのは、猿とよく似ているが、小山のように大きな化け物だった。


「お猿さんか?」


 重太郎は面白そうに言ったが、そんな可愛らしい一言で済ませられるような、大きさや見た目ではない。


「そいつは、『狒々ひひ』だよ! 狒々は怪力無双の妖怪! 組み合ったら身体を真っ二つにされちゃうよ!?」


 晴明狐は追いつくや否や、忠告するように言った。


「何だ、いきなり!? 失礼な小僧だな!? いかにも、儂は狒々の妖怪、人呼んで、〝草取くさとり〟という! お前達は、何者だ!?」


 草取は見世物のように扱われ、不機嫌そうに言った。


「連れが失礼な事を言ってすみません、俺達は怨霊街を目指して旅してまして」


 重太郎は助け舟を出すように言った。


「匂う、匂うぞ! 小僧、お前は人間の姿をしているが、妖怪だろう? だが、こやつは人間だな!? なぜ、人間と仲よく一緒にいるんだ!?」


 草取は野良犬のようにくんくんと匂いを嗅ぎ、晴明狐を問い質した。


「僕は晴明狐っていうんだ、よろしく。こっちは剣術家をやっている、重太郎の兄さん。さっき知り合ったばかりなんたけど、妖怪と人間の違いはあっても、目的地は一緒。それも行く先は、異界の湯治場、怨霊街ときた。旅は道連れ世は情けって言うし、怨霊街まで一緒に行くところなんだよ」


 晴明狐はこの場を争いに発展させまいとしてか、殊更、明るい調子で言った。


「お互い、温泉に浸かって疲れを癒そうっていうんだ。いくら道中で出くわしたからって、何も好き好んで争う必要はないだろうよ」


 草取は意外にも、理解を示すように言った。見かけほど凶暴ではないらしい。


 現世でも温泉で肉食動物と草食動物が混浴する事があるが、草取もその辺は心得ているらしく、湯治場で争うつもりはないようである。


「草取殿も一緒にどうですか?」


 重太郎は旅の道連れは多い方がいいとばかりに、誘いの声をかけた。


「草取のおじさんも、温泉に浸かりに来たの?」


 晴明狐も同じ妖怪だけあって、親しみやすさを感じたのか、笑顔で話しかけた。


 草取の巨体は、分厚い毛皮と筋肉に覆われていたが、よく見れば、所々、毛は剥げ落ち、肉がごっそり、刮ぎ取られていた。


 やはり何か訳ありで、怨霊街に行こうとしているのだろう。


「儂はここまで一人でやって来たし、これから先も一人で行かせてもらうよ」


 草取は煩わしそうに言うと、重太郎達を置いて歩き出した。


「またまたー、どうせ目的地は一緒なんだからさ、少しは仲よく話そうよ?」


 晴明狐は平安時代から生きていても、中身は見た通りの子どもなのか、 馴れ馴れしく言った。


「お前達は、何しに怨霊街に行くんだ?」


 草取は後をついてきた晴明狐の顔を見ようともしなかったが、少しぐらい興味はあるらしい。


「俺は単なる旅行のつもりだったんですよ。でもそこにいる晴明狐に、怨霊街は観光で行くような場所じゃないって言われましてね。ついさっき、冒険旅行に気持ちを切り替えたところで」


「ふん、その割には余裕がありそうじゃないか?」


 草取は重太郎の事を一瞥し、値踏みするように言った。


「向こうの世界じゃ退屈を持て余していたんでね」


 重太郎は見るもの全てが初めての異界を見回し、機嫌がよさそうに言った。


 本当に異界に来て楽しそうにしているが、観光目的でやって来たというのは信じ難い。


 病気や怪我、〝傷〟が理由ではないにしても、何かしら、他人に言えない事情があるのではないか。


「人間にしては肝が据わっているみたいだな。小僧の方はどうなんだ?」


 草取は晴明狐に水を向けた。


「僕は昔から、色んなところを旅して回っているんだよ。今回はここ、怨霊街にやって来たって訳さ」


 晴明狐はそれこそ観光気分のように、楽しげに言った。


「おいおい、人間には観光気分で行くところじゃないなんて言っておきながら、本人は観光気分そのものじゃないか?」


 草取は呆れたように言った。


「これでも人探しなんかしたりして、結構、大変なんだよ」


 晴明狐は唇を尖らせた。


「あん? 本当に『人探し』を、人間を探しているのか?」


「うん! 昔、お世話になった女の人をね」


「お前の言う『お世話になった』というのは、皮肉で言っているのか? それとも文字通り、生活や身の回りの世話をしてもらったのか?」


「文字通りの意味だよ。一晩、寝床を貸してもらって、怪我の手当てまでしてもらったんだよ。恩返しする為に探しているのさ」


「人間の、それも女なんか探して、わざわざ怨霊街にやって来るなんて、物好きな奴だな」


「草取のおじさんこそ、なんでまた怨霊街に行く事にしたのさ?」


「儂の身体をよく見てみろ。傷を癒しに行くんだよ」


「俺達は初めて怨霊街に行くんですけど、正直言って、右も左も判らなくて、草取殿は、怨霊街について詳しいんですか?」


「儂も怨霊街に行くのは初めてだし、別に詳しいという訳じゃないが、怨霊街はどんな病も傷も治す湯治場だというのは、間違いないだろう」


 重太郎はもちろん、晴明狐も、怨霊街に関して詳しい事は知らなかったが、草取はどうだろうか。


「あとは?」


 晴明狐は興味津々といった風である。


「怨霊街の名物と言えば、温泉街には付き物の、地獄蒸しというのがあるな」


 草取は『地獄蒸し』などという恐ろしげな言葉を口にした割には、表情は緩んでいた。


「こりゃまた、随分、ご大層な名前ですね」


「地獄蒸し?」


「何だお前ら、地獄蒸しも知らんのか? 世間知らずな奴らだな」


 草取は呆れた顔をして、重太郎達の事を見た。


「いやあ、長い間、何もない山奥で暮らしていたもので」


「うーん、僕も温泉街に泊まった事なんかないからなー」


 重太郎と晴明狐は、お互いの顔を困ったように見やる。


「地獄蒸しっていうのはだな、温泉の蒸気を使って、肉や野菜を一気に蒸し上げる料理で、蒸気によって、素材の旨みがぎゅっと凝縮される訳だ。怨霊街の地獄蒸しは、そりゃもう、絶品だそうだぞ」


 草取はおいしいものに目がないらしく、にこにこしながら言った。


「そいつは是非とも食べてみたいなあ」


「うんうん、異界の名湯に、名物料理、本当に楽しみだね」


 重太郎も晴明狐も、怨霊街の温泉と食べ物の事で、頭の中は一杯だった。


「お前達、やけに楽しそうだが、もう忘れたのか? 油断していると足元を掬われるぞ。旅には危険は付き物、病気や怪我はもちろん、追剥ぎ、雲助、護摩の灰、枕探し……噂をすれば、ほれ」


 草取は足を止めて、遠くを見やる。


 周囲は依然として黒い森に囲まれていたが、落ち葉ばかりの獣道はなくなり、砂利道が伸びていた。


 草取が見据えた砂利道の先には、街の明かりが滲んでいる。

 

 おそらく、あの明かりが怨霊街なのだろうが、草取の視線が捉えているのは、別のものらしい。


「うん?」


「どうかしたの?」


 重太郎と晴明狐は草取と同じように、自分達の行く先を見た。

 

 雲行きは怪しく雷鳴が唸っていたが、一向に雨が降ってくる気配はなかった。


「…………」


 重太郎は天を仰ぎ、折り重なった枝葉を見つめた。


 どこか樹の上から、薄気味の悪い鳥の鳴き声が聞こえてきたが、見れば、鳴き声の主は鳥ではなかった。


 縦横に伸びた太い枝の一つには、見た事もないような大型の動物が寝そべっていた。


 頭が猿、胴体は狸、手足は虎、尾は蛇、鳴き声に至っては、虎鶫のような声だった。


『平家物語』で、源頼政に弓で射抜かれ、退治されたという妖怪、鵺だった。


「何かこっちにやって来るみたいだな」


 重太郎は不吉を告げる事でも知られる妖怪、鵺を見たというのに、面白いと言わんばかりだった。


「どこかの誰かが歓迎してくれるみたいだね」


 晴明狐はこの後、何が起きるのか、見当がついているらしい。


「草取殿は旅には危険が付き物だって言ってましたよね」


「ああ、言った」


「追い剥ぎやら、雲助が出るとも」


「それがどうかしたか?」


「となると、今からこっちにやって来る連中は、何者なんですかね」


「元々、この辺に巣食う追い剥ぎ連中か、俺達と同じように、怨霊街を目指して旅をしている流れ者か。温泉に浸かった帰り道に、気持ちよくなって、調子に乗った莫迦かも知れんな」


「だとしたら、怨霊街は噂ほど極楽浄土じゃないって事ですね」


 重太郎は楽しそうに言った。


 彼らが見つめる砂利道の果てに、小さな黒い点のようなものが見えた。


 何かの群れがこちらに向かって、地響きを立てながら、突進してきた。


「この様子だと大歓迎してくれるみたいだ」


 晴明狐は少しも慌てるような素振りはなかった。


「歓迎してくれるのは嬉しいが、話が通じそうな相手じゃないな」


 重太郎も重太郎で、うきうきとしている。


「…………」


 草取は真っ直ぐ前を見つめたまま、力士の立ち会いのように、ぐっと腰を落とした。

 

 遠くに見えた黒い点は、だんだん大きくなってきた。


「何だ、あれは?」


 重太郎は思わず、声を上げた。


 どう見ても、追い剥ぎではないし、温泉客でもない。


 大地震の前触れのように地面を揺るがし、砂埃を巻き上げ、突き進んでくるのは、野犬の群れのようだった。


 いや、あれは野犬の群れのように見えて、何かが決定的に違った。


 そもそもここは、あの世とこの世の狭間、である。


 あれがただの野犬の群れであるはずがない。


 皆、一様に血走った目付きで、真っ黒な身体は傷だらけ、気でも狂ったように頭を左右に振り、威嚇するように吠え立て、一直線に疾走してくる。


 つんのめりそうなほど前のめりになって地面を蹴り上げ、牙を剥き出しにし、涎を垂れ流し、全身の至る所から真っ黒な血飛沫を吹き出し、臓物を撒き散らし、撒き散らした臓物を自らの足で踏み潰し、怒涛の勢いで駆けてくる、あれは——、


「あれは、野犬の群れか?」


 重太郎は疑わしげな顔をして言った。


 ——おんおん!


「違うね」


 晴明狐は目を凝らした。


 ——おんおん!


 よく見れば野犬も何匹か混じっていたが、群れを成しているのは、犬ばかりではなかった。


 ——おんおん!


 犬だけでなく、猫もいるし、鼠や狸も混じっていた。


 もしかしたら、人間も混じっているかも知れないが、それより何より、みんな、腐っている。


 あの群れは野犬の群れではなく、腐った獣の群れだ。


「あれは野犬の群れなんかじゃなさそうだな」


 重太郎は嬉しそうに言った。


 ——怨、怨、怨!


 野犬の群れではないと思うと、鳴き声すら怨嗟の声に聞こえてきた。


「この間まで現世に生きる人間か動物だったんだろうが、怨霊街に行く途中で野垂れ死にしたんだろうな。どいつもこいつも可哀想に、今となっては異界を彷徨う腐った獣の群れか」


 草取は可哀想にと言いつつ、笑っていた。


 次の瞬間、草取は、大型トラックのように突き進み、腐った獣の群れに向かって、体当たりをした。


 草取の巨体と正面衝突した腐った獣の群れは、木っ端微塵に吹き飛んだ。


 草取は腐った獣を手当たり次第に、千切っては投げ、千切っては投げ、周囲は血煙に覆われ、肉片や骨が飛び散った。


「容赦ないな」


 重太郎は凄惨な光景を目の当たりにしても、動じる様子がなかった。


「重太郎の兄さん、ぼっーと突っ立っていると足元を掬われちゃうよ!」


 晴明狐は重太郎が他人事のように見物しているのを見て注意を促した。


 当の晴明狐はと言えば、腐った獣が繰り出す鋭い爪や牙を、舞い踊るように避けていた。陰陽道の歩法、悪鬼や猛獣を避ける、『禹歩(うほ)』だ。


「戦い争うのは好きじゃないけど、降りかかる火の粉は払わせてもらうよ!」


 晴明狐は胸元から、護符を取り出した。


急々如律令きゅうきゅうにょりつりょう!」


 晴明狐が呪文を唱えると、腐った獣の群れは、目に見えない力によって、弾かれたように吹き飛んだ。


「見た目は子どもみたいだがやるじゃないか——おっと!?」


 重太郎は感心したように言ったが、気付いた時には腐った獣の群れに囲まれていた。


 が、落ち着き払った様子で番傘の柄を抜き取り、腐った獣の群れを一閃する。


 重太郎が肌身離さず持っていた番傘はただの番傘ではなく、仕込み刀だった。


 元々の剣の腕もさる事ながら、仕込み刀は相当、手に馴染んでいるようで、腐った獣の群れは、次々と細切れにされた。


 重太郎が仕込み刀を振るう度に、辺りに血の雨が降り注ぐ。


 遥か頭上で、鵺が一声鳴いた。


「新手か!?」


 草取は血塗れの顔で、嬉しそうに言った。


「お次は何だ?」


 重太郎も同じく、嬉々とした表情である。


「…………」


 晴明狐は二人の様子を見つめ、何か言いたげな顔をしていた。


 二人ともまるで自ら戦いに身を投じ、退屈しのぎの刺激を求めているような、死に急いでいるような節がある。


 もし、そうだとすれば——


「ふむ」


 草取は、耳を澄ました。


 どこか遠くから、がしゃがしゃと、奇妙な音が聞こえてきた。


 巨大な何かが少しずつ移動してきているように、黒い森がざわざわと揺れ動き、一斉に怪鳥が飛び立った。


「何の音だ?」


 重太郎は辺りを窺った。


「今時、賦役ふえきで命を落とす人間がいる訳ないが、さっきみたいな化け物に襲われ、怨霊街に辿り着く前に、力尽きて野晒しになるのはありそうな話だ」


 草取は只ならぬ様子に、わくわくしているように言った。


『賦役』とは、奈良時代や平安時代に、労働として支払われた、地代の事である。


「儂の想像が正しければ——」


「いったい、何が来るのかな」


 重太郎はうきうきしていた。


「『がしゃどくろ』、だよ」


 草取が頭上を仰ぎ見て言い、重太郎と晴明狐もまた、頭の上に何かが覆い被さってくるような気配を感じ、空を見上げた。


「これは!?」 


「お、大きい!?」


 重太郎達が目の当たりにしたのは、巨大な髑髏だった。彼らがいるところまで、赤子のように這ってきたのだろう、一片の肉も皮もない骸骨の巨人は、木々を押し潰し、這いつくばっている。


「こ、これが、がしゃどくろ!?」


 重太郎は巨人の異様に、冷や汗をかいた。


『がしゃどくろ』という妖怪は、賦役に苦しみ、亡くなった人間の骸骨が、怨念とともに集まり、生まれたと言われている。


 野原や山奥で野垂れ死にした者の悪霊とも言われ、通りかかった人間を驚かすだけでなく、絞め殺す事もあるという。


 重太郎も草取も、がしゃどくろの山脈のような巨体を前にしては小人と変わらなかった。


 がしゃどくろが這うごとに、骨と骨がぶつかるがしゃがしゃという不気味な音が、辺りに響いた。

 

 がしゃどくろはゆっくりと立ち上がり、天を衝くような巨体を晒した。


「相手にとって不足なし、だ」


 草取は臆する事なく、走り出し、脇に回り込んだ。


「食らえ!」


 がしゃどくろの踝に、岩のような拳を叩き込んだ。


 その途端、がしゃどくろの踝は粉々に砕け散った。


「見かけ倒しだな!」


 草取は勝ち誇ったように笑ったが、草取の腕力が凄まじいのであって、がしゃどくろが脆いのではない。


 がしゃくどくろは負けじと拳を振るってきた。


「何の!」


 草取は額の前で両腕をがっしりと組み合わせ、難なく受け止めた。


「この勝負、もらったぞ!」


 草取は両腕を開きがしゃどくろの拳を弾くと、そのままがしゃどくろの腕をよじ登り頭の上まで駆け上がった。


「覚悟しろ!」


 草取はがしゃどくろの頭頂部に一気に登り詰め、両の拳を何度も掘削機のように叩き込んだ。


 がしゃどくろは頭蓋骨に蜘蛛の巣のようなひびが入り、断末魔の悲鳴を上げ、地割れが起きたように、音を立てて崩れ落ちた。


 がしゃどくろの巨体は、伐採された大木のように斜めに倒れ、みるみるうちに砂のように崩れ去った。


 鵺は樹上で寛いでいたが、がしゃどくろの巨体が骨の一片に至るまで砂に還ると、勝敗を告げるように不気味に鳴いた。


 次の瞬間、黒い煙に身を隠すようにして何処かへと消え去った。


「これが日常茶飯事なら、とんでもない温泉街だな」


 重太郎はため息混じりに言ったが、その割には嬉しそうだった。


「こうなって来ると、いったい誰がこんな物騒な街を取り仕切っているのか、気になるね」


 晴明狐が疑問を口にしたが、重太郎はもちろん、草取も、誰が街を取り仕切っているのか知らないらしく、答える者はいなかった。


 いや、


「……皆様、あの世とこの世の狭間にある異界、怨霊街に、ようこそおいで下さいました」


 彼らの前に、突然、姿を現したのは、先程の戦いをどこかで見物していたのか、血の雨に濡れた唐傘をさし、煌びやかな着物に身を包んだ、美しい女だった。


「貴方は?」


 重太郎はよく見れば地獄絵があしらわれていると判る艶やかだが不気味な着物にも驚く事なく、落ち着いた様子で聞いた。


 晴明狐と、草取も、もう何が起きても驚かないと言わんばかりに、何でもないような顔をして、二人のやり取りを見ている。


「私の名は、茨木童子いばらきどうじと申します。千年の昔、平安の時代から、怨霊街を治める、酒呑童子しゅてんどうじの遣いの者です。貴方方の腕前、しかとこの目で確かめさせて頂きました。酒呑童子様も、きっとお喜びになる事でしょう」


『茨木童子』と名乗った美女は、鮮血に塗れた唐傘を閉じ、満足そうに微笑んだ。


 頭巾を被っているせいで見えないが、『茨木童子』などという名前からして、角が隠れているに違いない。


 まるで菩薩のように美しいが、ただ美しいだけの女ではあるまい。


 おそらく、菩薩のような顔の下には、きっと、夜叉の本性を隠している。


「酒呑童子が治める街という事は、怨霊街は鬼の街という事になるのかな?」


 重太郎が感心したように聞くと、茨木童子はこくりと頷いた。


「怨霊街は、鬼王、酒呑童子が、一切を取り仕切る、異界の湯治場です。この地から湧き出る温泉は、どんな病も傷も治します。宿には酒も肴もたっぷりとご用意していますし、花街もございますよ」


 至れり尽くせりといった具合である。


「でもなんでまた、僕達の腕っ節が強いと、酒呑童子様がお喜びになるのかな?」


 晴明狐は、先程、茨木童子に言われた事を疑問に思い、ふと聞いた。


「それは怨霊街に着いてからのお楽しみにございます」


 茨木童子は艶然と微笑み、思わせぶりに言った。


「お姉さんもまたいい顔をして焦らすねえ!」


 重太郎は囃し立てるように言った。


「そういう事なら、さっさと怨霊街に行ってみようじゃないか!」


 草取は一刻も早く怨霊街に行きたいようで、うずうずしている。


「皆様、怨霊街は初めてのようでしたので、お迎えに上がりました。準備はよろしいですか。ここから先は、私めがご案内させて頂きます」


 茨木童子がしゃなりしゃなりと歩き出し、一向は再び、怨霊街を目指して出発した。


「なあ、晴明狐よ」


 重太郎は物見遊山をしているようにのんびりと歩いていた様子だったが、隣を行く晴明狐にふと話しかけた。


「お前さんも俺の事を気にかけてくれるのはありがたいが、そろそろこの旅を楽しんだらどうだ。こうして向こうから、案内人までやって来てくれた事だし」


 重太郎の視線の先、先頭を歩くのは、怨霊街の案内人、茨木童子である。


 茨木童子のすぐ後ろについているのは、草取だった。


「でもさっきみたいな奴らが、また現れないとも限らないからね」


 晴明狐はこの先もまだ何が起こるか判らないと、不安が拭えないらしい。


「今日出会ったばかりの俺の事をそこまで心配してくれるのはありがたいが、俺の剣の腕は見てもらった通りだしなあ。これからどんな強敵が現れたとしても、そう簡単にはやられないから安心してくれよ」


 重太郎は笑って言った。


「うーん」


 晴明狐はそれでも納得できないようである。


「それにあっちの世界にいても、面白い事なんか何もないしな……いや、正確には居場所がないと言うべきか」


 重太郎は自嘲気味に言った。


「居場所?」


 晴明狐は鸚鵡返しに言った。


「ああ、怨霊街に着くまでの暇潰しだ。聞きたければ、聞くがいいさ」


 重太郎は晴明狐の人のよさにほだされたのか、狐目の少年にだけ聞こえる小さな声で身の上話を語り始めた。

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