『晴明狐 巡り合い奇譚—神隠しの姫—』

ワカレノハジメ

『晴明狐 巡り合い奇譚—神隠しの姫—』

『晴明狐 巡り合い奇譚—神隠しの姫—』

 

 序


 激しい時化に見舞われた大海原にぽつんと浮かぶのは、流刑地を思わせる孤島だった。横殴りの雨は一向に止む気配はなく、潮風が吹きすさんでいる。


 孤島の岩場には洞穴がぽっかりと口を開け、波濤が打ち付けていた。


 ふいに洞穴の中から芋虫のようにずるずると這って出てきたのは、薄汚れた着物を身に纏った、骸骨のように痩せ細った女だった。


 長い髪が雨風に乱れ、薄汚れた着物の女の顔は判らない。着物はあちこち破れ、痛んでいるが、元は高価な友禅だろう。


 薄汚れた着物の女は風に飛ばされまいとしてか、近くにある岩に凭れかかった。


(きつ)


 岩の上に肘をつき、膝立ちになり、天に祈りを捧げるように、両手を合わせる。


 ——薄汚れた着物の女に、岩場に生えた松の木、日本海を思わせる荒波、誰もがここは日本だと思うかも知れない。


 だが、ここは日本とよく似てはいるが、全く別の場所、あの世とこの世の狭間だった。


(きつ)


 薄汚れた着物の女は、海の向こうに何があるのか知らなかった。


 いや、水平線の一角に海岸が見えるのだが、そこに小さな街が、温泉街があるのは知っている。


 だが、温泉街とは別の方角である水平線の向こうに、いったい、何があるのかは知らなかった。


 孤島の周りは常に大渦に見舞われている為、例え魚でも水平線の向こうに泳いでいくのは不可能だろう。


 無論、船もなく、筏もない。


 どんなに気合いを入れて泳ぎ切ろうとしても、渦に阻まれ、飲み込まれるだけだった。


 だが、渦に飲まれて溺れたとしても、なぜかまた、岩場に打ち上げられる。


 不思議な事に命まで落とす事はなかった。


 では、渦に飲まれ溺れた者は、どんな光景を見る事になるのか?


 あの世に繋がっているのかと言えば、違う。


 この世に繋がっているのかと言えば、それも違う。


 何度か試してみて、判った事がある。


 この海はあらゆる者の心に、意識に、記憶に繋がっている。


(私はここよ、きつ)


 薄汚れた着物の女は岩場の端から滑り落ちるように、何の躊躇いもなく時化の海に身を投げた。


(早く私を見つけて!)


 薄汚れた着物の女は、『きつ』という名を持つ者の、心に、意識に、記憶に触れられるように祈り、渦巻きに飲み込まれた。


   薄汚れた着物の女は渦に巻かれながら、はっきりと目にした。


 渦巻く海水に、蜃気楼のように映った、どこかの山奥の景色を——。


『あ、あんた、何者だい!?』


 二人の男女が、昼なお暗い森で、緊迫した様子で話していた。


『なにゆえ、そのような事をしているのだ?』


 あれも昔、これも昔、それもまた、昔々の事である。


 人里離れた山中に、荒々しく流れ落ちる滝があった。


 薄汚れた着物の女が見ている、海流に映るこの心は、意識は、記憶は、誰のものか。


 温泉街の顔役であるあの男か、あの男に今も仕えている蜘蛛のものか、果たして?

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